映画感想:シング・ストリート 未来へのうた
恒例の手短な感想から、
なんで、こんな微妙な出来になったんだ…
といったところでしょうか。
あんまり公開館数の少ない映画なのですが、内容を見ると「まあ、公開館数が少ないのも仕方ないのかな」と頷ける映画でした。本作、シングストリートは一言で言ってしまえば「うわー。どっかで見たことあるー」という映画です。新作の映画で、本国であるアイルランドでも、今年公開された映画であるにも関わらず、この映画はどういうわけだか、既視感の塊なのです。
どこかで見たことある、だけならば、まだ映画として評価できる向きもあると思いますが、その上、この映画は「どこかで見たことあるもの」を、まったく活かしきれていません。
イジメが横行し、荒れに荒れている上に、校則は厳しく、極めて男性主義的な学校。
そこに家庭の事情で転校せざるを得なかった、元はお坊ちゃん育ちの主人公。
学校の向かいにいるモデル志望の児童養護施設に入れられている美人。
主人公が彼女の気を引くため、学校の音楽好きな、はみ出し者と組んだロックバンド「シングストリート」。
これだけの設定があれば、さぞかし、面白い映画ができることだと思うことでしょう。それがまったく違うのです。この映画、はっきり言って上記の設定・シチュエーションを、扱いきれていないのです。むしろ、持て余してしまっています。
例えば、イジメが横行し、荒れている上に男性主義的で校則も厳しい学校に転入してきた主人公が、なにか――例えば、同級生たちから酷い仕打ちを受けたり、教師たちからうんざりするような目に合わされるかというと、そうでもないのです。
確かに、作中、一回か二回はそんな場面もあるのですが……あるといっても、内容としては、同級生から学食で買ったチョコバーを奪い取られて殴られるとか、デヴィッド・ボウイ風の化粧をしてきたので、無理やり校長に洗面器に顔を突っ込まされて化粧落とされるとか、思わず「え、それだけ?」と言いたくなってしまうもので、それ以外の具体的なイジメ描写や学校の描写はまったく、ありません。そもそも、学校の様子自体がよく分からないのです。
とにかく、「ただ、なんとなく荒れている学校」という”設定”として存在しているだけです。
なおかつ、児童養護施設に入れられているヒロインもヒロインで、なにか、そんな設定が強く活かされた苦労や、彼女の、他の人達よりも更に不遇な立場・視点から見えるなにかが描写されたり、あるいは、正反対に不遇な立場でも普通の人と変わらないのだという訴えがあったり等の主張があったりするかというと、これもまったくありません。
とにかく、「なんとなく、かわいそうな夢を追う少女」という”設定”として存在しているだけなのです。
それでは、「シングストリート」という、主人公たちが組んだロックバンドについて、この映画は非常に力を注いでいるのかというと……それが……。いえ、力は注がれているのです。確かに、映画内で作られている楽曲はよく出来ています。
非常に良く出来ています。全曲、どっかで聞いたことあるような楽曲でしたが。劇中でも挙げている、80年代ロックバンドのあれやこれやから、パクってきたような楽曲ばかりでしたが。
しかし、楽曲を良い出来にしたからといって、物語上の「シングストリート」が素晴らしいバンドに見えるかというと、全く別です。むしろ、初めからそれなりに形になっている楽曲を、初顔合わせで平然と作り出している彼らには、違和感しかありません。
最初はダメダメなのだけど、努力や経験からだんだんといいバンドになっていって……とか、そういうことがないのです。挙句の果てに周囲も、やたらと「あなたたちのバンド、いい音楽ね」とか褒めまくる始末。
確かに一応、最初、彼らは演奏技術が拙く、終盤はだいぶ演奏技術が上がっている、という描写もあることはあるのです。しかし、周囲から「お前、演奏下手くそすぎだろ」とか貶されることもなければ、嘲笑されることもありません。
むしろ、演奏技術の拙さに対して、楽曲のクオリティが噛み合っておらず「少年たちではない、誰かが作ってあげたような感じ」が演奏に漂ってしまっています。
そして、この映画のなにが一番おざなりかといえば、ラストでしょう。僕は思わず「BUMP OF CHICKENか!」というツッコミを入れたのは言うまでもありません。そして、史実を言ってしまえば、彼らがやっている80年代的な音楽は、もう舞台の85年辺りからは既に廃れ始めているわけです。
そうです。彼らの未来は、おそらく沈没することが確定しているのです。そこあたりを、もっと仄めかすことはできなかったのでしょうか。例えば、「卒業(1967)」のように。
大嵐に向かっていくことで十分、描写されている、という向きもあるかもしれません。
しかし、彼らの未来は「上手くいくか分からない」のではないのです。ほぼ、確実に「上手くいかない」のです。それでも、未来を信じて突き進むべきなんだ、ということをテーマにしていれば、もう少しは評価できたのになぁ、と歯痒い気持ちです。
映画感想:五日物語 ~3つの王国と3人の女~
恒例の手短な感想から
寓話好きにはたまらないぞ、これ!
といったところでしょうか。
五日物語ーー知らない人も多いでしょうが、この物語は、とてつもなく寓話やメルヘンの歴史にとって重要な一冊の一つです。なにせ、グリム兄弟がこれを参考にして、グリム童話を作り上げたと言われているほどですから。
事実、この本には読んでみると「あれ?この話は、幼い時にどこかで聞いたことがあるぞ」と思ってしまうような話がたくさん入っています。ですからこそ、寓話などのジャンルが好きな人にとっては、堪らない本にもなっているのです。
その五日物語から3つの、比較的有名な話を抜き出して再構築した上で映像化する、と聞けば、それなりに寓話等を愛好している自分も、見逃すわけにはいきません。……首都圏でも、本作はたった数館しか上映されないため、少々遠出をする羽目になりましたが。
本作は果たして、わざわざ遠出をしてまで見に行くほどの映画だったのか。
結論から言ってしまうと「価値はあった」と断言できます。久しく見なかった素晴らしく作り込まれたファンタジー映画がそこにはありました。
欠点がないわけではないのです。まず、最初に言ってしまうと、この映画は「中途半端に有名な寓話」のみで、話を作り上げすぎです。最初の数分こそは「どのように話が展開するのだろう」というワクワクがあっても、しばらくすると「これ、あの話じゃないか」とふと気づいてしまって、落胆を覚えてしまいます。
しかも、有名な寓話3つをわざわざ、錯綜させて作ったのも映画として、あるいは物語として斬新な効果があったかというと……。まあ、辛うじて、三つの話ともに「女性の持つ願望」という共通点があり、そこをテーマにしていることは読み取れます。なので、この構成は完全に無駄だとも思いません。
が、しかし、それにしても、もう少し工夫が必要だった気がします。
映画的には、このように話の構成上に散見される欠点がある代物なのです。
ただ、あえて言いますが、これらの欠点はこの映画にとっては、ある意味どうでもいいものです。この映画の価値は「テーマ」や「構成」にあるわけではないからです。この映画の素晴らしさはそこにはないのです。
この映画の素晴らしさは、「描写」と「美術」にあります。
まずなによりも、ファンシーな、いかにもファンタジーめいた、ふわふわとしたカワイイものなどが、この映画には一切登場しません。そして、その代わりに、寓話や童話などにあった、残酷な描写や過酷な描写などを、限りなくファンタジーさを保ちながらもリアルに感じられるよう、表現を置き換えているのです。
例えば、「怪物の心臓を取り出す場面」では、曖昧にごまかしたハート型の何かではなく、鼓動しているリアルな血管のついた心臓を取り出していたり……そういったように、寓話・童話の「文章や、あるいはデフォルメ化されたイラストによって、ぼかされていた表現」を「実際ならば、こうなるんだ」と暴いていっているのです。
だからこそ、とても素晴らしいのです。大人が見ても、まるで「そういう話が、本当に、この世界に現実として、史実としてあったのではないか」と少しだけでも思わせてしまうようなリアリティがあるのです。そして、リアリティがあるからこそ、寓話の時点では「ただの教訓話」でしかなかったはずの物語に、感慨が生まれてくるのです。
単純な善悪ではない、寓話に含まれている「複雑な人間模様」をより強く感じ取ることができるのです。おそらく、この映画を鑑賞した人の大半は「何が良いことで何が悪いことなのか」をよく理解できなかったはずだと思います。
単純に「こいつが良い」「こいつが悪い」と決めてスッキリしたいのだけれど、無理だったはずです。スッキリしようとしても「しかし、こいつのここは、果たして良いことなのか?」「この人は、本当に悪い人なのか?」という疑問が拭えなかったはずです。
それほどに深い味わいのある映画になっている、ということなのです。
この味わいが、映画の作り込まれた美術や映像や描写から生まれていることは明白です。おそらく、CGもマペット等の小道具・大道具も両方を駆使しているであろうこの映画の美術ですが、出来栄えは素晴らしいです。ギレルモ・デル・トロはもちろんのこと、ジム・ヘンソンなどと比べても劣るようなものではありません。
美術だけを目当てに見に行っても、お釣りが十分に来るレベルです。画面を見ているだけでも、触っている感触がするかのようです。この感触こそ、ファンタジー映画に求められているものでしょう。
本当に素晴らしい映画でした。
映画感想:この世界の片隅に
恒例の手短な感想から
素晴らしい!でも、巷の評価は行き過ぎ…。
といったところでしょうか。
個人的に前作「マイマイ新子と千年の魔法」も、かなり好きな映画だったので、制作が発表された段階からずっと楽しみに待っていました。そういう意味では、期待通りの良い映画になっています。この映画は「マイマイ新子」のときよりも、より丁寧になった片渕須直監督の繊細な演出が光る逸品です。
最近のリアル路線が中心なアニメ映画の描写とは一線を画す、じゃりン子チエ的というか、その系統を行く、ゆるくデフォルメされた線と、水彩画で構成されるアニメーションは、観ている人によっては懐かしい気持ちを誘うことでしょう。またある人にとっては「斬新に」見えることもあるかもしれません。……最近のアニメには、こういう"上手い"絵が大変に欠けていることが多いので。
戦争をテーマにした映画として考えても、大抵の人には、目新しく映るかもしれません。なにせ、最近の戦争映画といえば、プライベートライアン等の影響のせいで、とにかく残酷描写の目白押しをしていて、こういう形で戦争が描かれることはほぼ無かったわけですから。
実のところ、こういった戦争映画は、過去にもあったりはしたのですが。
特に僕は「ヒューマンコメディ」を思い出しました。ヒューマンコメディというのは、アメリカの小説家・劇作家ウィリアム・サローヤンが書いた小説・及び、その小説の前に作られた映画「ヒューマンコメディ(邦題:町の人気者)」のことです。
こちらの作品も、戦時下のアメリカを舞台に、兵士ではない普通の人々がどういう日常を生きているかを描いた作品で、手法的には非常に本作と似通っています。
つまり、本作はある意味で「内容も、絵も、昔に回帰している映画」なのです。
例えば、主演の「のん」の演技などどうでしょう。どことなく、トボケたような、ゆったりしたような語り口は、美少女版市原悦子的な雰囲気もあって、まるで「まんが日本昔ばなし」でも見ているかのような錯覚に陥りそうになります。
映画の始まりで流れる「悲しくてやりきれない」も、その昔への回帰を起こしている現象だと言えるでしょう。自分のような若い世代は勘違いしそうになるかもしれませんが、「悲しくてやりきれない」は、フォーククルセイダーズの曲で、まったく作中の時代の曲ではありません。
しかし、昔に回帰しながらも、この映画は確かに現代的でもあるのです。不思議なほどに、今のアニメだと分かるのです。細かい部分は、昔に回帰することなく、むしろ、今のアニメの基準を適用して表現しているせいです。
昔っぽいが、今っぽくもある。
おそらく、観客の大半は、そういった不思議な魅力に囚われたことだと思います。
そして、その部分が良い意味でも悪い意味でもこの映画の表現をマイルド化してくれているのです。このマイルド化は……本当に良い意味でも悪い意味でも、としか言いようがありません。上記のように、大きな効果を発揮していますが、同時になにかを風化させてしまってもいます。
その部分は、この映画のいただけないところでもあります。
こう書かれると、多くの人は僕が銃撃、爆撃等の表現に対して言っているのだと思われるかもしれません。
しかし、自分としては、むしろ、銃撃や爆撃をある種ファンタジー化させた表現よりも、飢餓等の状況を、しれっとマイルド化していることの方がよっぽど気になりました。映画の趣旨からしても、ここはもう少し史実に沿った極貧さを演出しても良かったのではないか、と思います。
そんなわけで、基本的に傑作ですが、個人的には巷ほどの評判は言い過ぎではないか、というのが、自分の感想です。
以上になります。
映画感想:聖の青春
恒例の手短な感想から
心配していたほど酷くなかった!
といったところでしょうか。
本当に心配で心配でしょうがなかったんです。聖の青春に関しては、構想や、脚本に掛ける時間が長過ぎることや、監督のインタビューを読むたびに「原作と相当に違うものになっている」こと、そして予告編の「無意味に感動を押しまくった内容」など、不安要素がどんどん増えていくばかりだったので、本当にこの映画は大丈夫なのかと、不安で仕方なかったのです。
その心配は、本編を見て晴れました。
合格点です。少なくとも、映画としてクリアしてほしい最低ラインを、この映画は上回ってくれています。特に、素晴らしいのは、今までの森義隆監督作品の中でも、圧倒的に、説明が少ないことです。説明的な演出、説明的なBGM、説明的なセリフ……それらが見事に省かれています。
そして、心配していた感動押しまくりの内容も、予告編だけの話で、映画本編は非常に静かです。あくまで最低限の場所に、音楽を付けるだけなのです。特に、この映画の対局シーンはほとんどが、BGMなしの状態で、自然音と駒の音だけが静かに流れるようになっています。安易な感動演出など、微塵もありません。
主人公である、村山聖の死すらも、あくまで淡白に描いています。
ここがもう、今までの森監督からすると、信じられないほどによく出来ていて……。
正直、個人的にはこの「聖の青春」は、森監督の代表作扱いされることも多い「ひゃくはち」よりも、好きな作品です。それほどに、今までの森監督作品からすると、演出の方向性が違うのです。
これは、端的に言って「聖の青春」が対局の魅力をそのまま引き出そうとしているからだ、と考えられます。
どういうことかと言いますと、こういったボードゲーム類の対局は、非常に映画との相性が良いのです。実際、トランプカードでの勝負がクライマックスにやってくる映画は多いでしょう。それほどに、映画的として上質な演出をつけやすいのです。ボードゲーム類の対局には。
対局は、静かに行われるものです。しかし、静かだけれども観ている側は、なんだか、対局している人の姿に熱いものを感じて、応援してしまうものなのです。一手ごとに増していく、緊張感や、独特の空気感、BGMの無い中、自然音だけで醸し出される興奮は、まさに映画に求められている表現や演出方法と合致します。
この、対局の魅力を引き出すという部分に、成功しているからこそ、この映画は十分な出来になっているのです。
そして、この対局の魅力を支えているのは、監督の手腕のみではなく、俳優の松山ケンイチと東出昌大の両名の演技も大きな要素として入っているのは明白です。やはり、対局している者同士が、いかにも本物っぽい仕草で、本物であるかのような空気感と緊張感を意識出来なければ、監督がどんなにいいカメラワークや演出で撮ろうが意味が無いのです。
ですからこそ、この映画が面白いのは、本当に本人そっくりで、なおかつ、モノマネではない、しっかりとした演技に消化している二人の演技のおかげだと、断言できるでしょう。
もちろん、改善点がないわけではありません。今までの森監督作品の中では、説明を省いている方ですが、しかし、それでもなんだか説明的だったり、妙に変なところで過剰だったりする森監督の今までどおりの演出も入ってはいます。
特にこの映画は序盤に、妙な説明的なセリフが多く、映画を見始めた最初は自分も、一瞬がっかりしそうになってしまったほどです。中盤に入ってからは、そんなセリフはほとんど登場しませんし、気にならなくなるのですが。
また、この映画、微妙に話の構成に難があるような気もします。いえ、基本的なことは守れているのですが、なんというか、実は一部の話が「これ、この映画に必要でした?」あるいは一部のシーンが「この謎のカットを挟む意味は?」という状態だったりで、なんとなく散漫な印象があるのです……ここは、ハッキリダメだったかもしれません。
ただ、まあ自分としては「もっと酷い出来でもおかしくない」と考えていたので、この程度ならば許容できます。
それと、自分は気にならなかったのですが、深い将棋ファンの中には、だいぶいろいろな事実が混ざり合ったり、演出や、構成のために、微妙にズレていたりするところを気にする人もいるかもしれません。
ですが、これはこのブログで紹介した「王将」もそうでしたし、映画にする以上、ある程度の時系列操作は必要なものなので、個人的には、全然、許容できる範囲です。
つまり、本作、普通に1800円払って見る分には、十分「値段分は元が取れた」と思える内容になっています。その点は安心してください。
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オマケ
感想自体は以上になるのですが、ちょっと個人的に言いたいことがあったので、オマケを……。
これは個人的なオススメになってしまうのですが、自分はこの映画を鑑賞した後で、この本を絶対読んだほうが良いとオススメできる一冊があるんです。もちろん、原作の書籍のことではありません。
彼の名局集「村山聖名局譜 」です。この本は、生前、村山聖九段が死期を悟って、映画に登場している荒崎のモデルになった先崎学九段に、自戦記の代筆を依頼したことで、彼の死後に出来上がった書籍なのですが……。
実はこの本、先崎学九段と一緒に羽生善治三冠も、執筆しているのです。
それも、ただの執筆ではありません。二人による対談形式で「村山くんはこんな人だったよね」「そうでしたね」とフランクに語らいながら、村山聖九段の棋譜を解説していくという内容の書籍になっているのです。
これを読めば、この映画が更に面白く感じられることは間違いので、ぜひ読んでみてください。
映画感想:コウノトリ大作戦!
映画『コウノトリ大作戦!』本予告【HD】2016年11月3日公開
恒例の手短な感想から
ピクサー!…じゃない!だが、面白い!
といったところでしょうか
自分としても、まったくチェックしておらず、映画館へ足を踏み入れて「見るものないなー」と迷っていたところ、偶然、気まぐれに観ただけだったのですが……それにしては、随分、大きな収穫があったと感じています。
本作、コウノトリ大作戦!は「かつての、もはや懐かしいとさえ言えるようなピクサー」がこの上なく完璧に継承された映画と言って過言ではありません。具体的に言えば、まだディズニーと統合される前のピクサーのテイストを、この映画は見事に踏襲しています。
悪く言えば、ピクサーのパチもん映画です。ただし、非常に良質なパチもんです。もう、いろんな箇所がピクサーにかなり似ているのですが――いえ、似ているというレベルではありません。
正直、ピクサーの新作と偽って公開した場合、「相当なピクサーファン、ですら、本作がワーナーブラザースの映画だと気づかないのではないか」と思われるレベルで、いろんな部分がよく似ています。作品の軽い雰囲気や、親と子の信頼関係を修復する物語であるところや、「子育ての大変さ」などをメタファーにしつつ、全体的な話を展開するところなど、表層的な部分だけでなく、テーマ的な部分まで「実はピクサーが作っているんじゃないか」と疑うレベルで、同じなのです。
そう思ってしまうのも当然のことで――調べて分かったのですが、本作、かつてピクサーで監督を務めたこともあった、ダグ・スウィートランドが監督を務めている作品であるようです。
かつて、90年代~00年代に、ディズニーではない映画会社が「当時のディズニーの雰囲気と、やたらそっくりなアニメ映画*1」をつくり上げたことがあったのですが、これらの映画はドン・ブルースという、ディズニーの中核を担ったアニメーターが関わっているから成立できたものでした。
それと同じ現象が、この2010年代後半に、ピクサーで、また起こっているようです。つまり、本作はピクサーという看板がないだけで、中身自体はピクサーと同じ人材が使われている映画なのです。
だからこそ、本作はもう……「かつてのピクサー」のテイストが堪能できるようになっています。
まず、映画の始まり方からして、いかにもピクサー的と言いたくなります。
「ポスターから想像していた観客の『こんな感じの話だろ』という印象を、わざと少し裏切っていく、意外なストーリー展開」を大胆に見せ、観客の興味を引きつけてから、主人公、コウノトリの会社の中でも、エリートな稼ぎ頭のコウノトリ「ジュニア」を登場させ――彼に昇進の誘いなんて話を舞い込ませ――同時にコウノトリの世界が、既に赤ちゃんを運ばなくなってしまったことも観客に説明しつつ……と、いかにも、ピクサー的、というか、設定がほぼモンスターズインク。
あまりネタバレしたくはないので、これ以上は、仔細には語りませんが、ここからの物語の展開もピクサー的としか言いようがない「論理的な話の展開」と「同時に大胆すぎるほどの、急展開」の連続が待っています。
もちろん、ここまで、自分は散々にピクサー的と連呼してきましたが、「だからといって、この映画が完全にピクサーと同じか」と言われると、また違います。
まず、全体的にピクサーよりも、ブラックさが目立っています。あくまで仄めかす程度ですが、きわどいエロギャグが混ざっていたり、もう一人の主人公である「ハンター」という女の子が、序盤は完全に頭のおかしい子として描写されていたり(で、実際、途中で変に母性本能に目覚めて、ハイになってるシーンがあったり……)と、ピクサーと比べるとブラックジョーク的……というよりも、悪ふざけがすぎる部分が目立っています。*2
また、映画としては、わりとその状態でも面白いので気にはならないのですが、脚本の構成が微妙に雑だったりもします。おそらく、映画を観た人は中盤あたりで「あ、その問題、コウノトリが来る前に解決しちゃうんだ」と驚いたはずです。実際、自分は驚きました。これがピクサーだったら、もうちょっと問題を引っ張って、主人公たちコウノトリのおかげで解決した的な展開にしそうなものですが……。
それ以外にも「それって説明になってないんじゃ……?」とか「で、結果、あの人はなんであんな行動取ったんだ……?」とか、疑問が浮かぶような箇所がいくつかあります。
ただ、正直、この映画は「全体の大きなテーマ」や「立派な筋書き」があってどうだ、という内容ではなく、明らかに上記の悪ふざけと、同時にちょっと「子育ての大変さ」みたいなものを描写することが目的の映画なので、全体の話が多少雑でも、面白さが損なわれてはいませんが……。
そして、ここも少し言及しておきたいのですが、この映画はピクサーよりも少し保守的……とは少し違うのですが、「キリスト教」の趣が強めの作品にもなっています。
終盤、コウノトリがコウノトリとして、赤ん坊を運ぶことを決意するシーンで、「天が、自分たちを赤ちゃんを運ぶ鳥として作ったのだから、赤ちゃんを運ぶのだ」と主人公が、コウノトリたちを奮い立たせるシーンがあります。
これ、日本人には分かりづらいかもしれませんが、キリスト教的な「この世の生物は、全て、神様が作り、役割を与えてくださったものなのだ」という考え方が前提に入っているセリフなんです。
映画中、同性愛者の手元にも、コウノトリが赤ちゃんを運んでいたりしたため、そこまでキリスト原理主義等の保守的な考えが反映された映画ではないと思いますが、ただ、若干、そういった「キリスト教の教義」に寄ってもいる映画なのです。
そういった面も読み取って、本作を鑑賞すると、実はより発見があるのかなと思います。
ともかくとして、期待していなかった分、非常に楽しめた一作でした。