映画感想:夜明け告げるルーのうた
恒例の手短な感想から
この映画、相当すごいけど、相当に人を選ぶぞ!
といったところでしょうか。
「夜は短し歩けよ乙女」――今年、上映されたアニメ映画の中でも、間違いなくトップレベルの素晴らしい映画でした。その監督は、このブログでも紹介したとおり、湯浅政明監督なのですが、その湯浅政明監督が、なにをどうトチ狂ったのか「夜は短し歩けよ乙女」と微妙に被り気味な感じで出してきた映画が、本作「夜明け告げるルーのうた」になります。
しかも、本作は湯浅政明監督の完全オリジナルだというのだから、トンデモナイです。実のところ、湯浅政明監督のオリジナルアニメーション映画は、本作が初めてで、公開される前から「原作があってもあれだけぶっ飛んでる作風なのに、オリジナルになるとどうなってしまうのか」という、期待と不安でいっぱいなのですが……。
ハッキリ言って、その不安も期待も、両方見事に当たっていたとしか言い様がない出来でした。
本作、良い意味でも、悪い意味でもトチ狂っていること、トチ狂っていること……このトチ狂い方は、イルミネーション・エンターテイメントの3Dアニメと比べても圧勝するレベルでどうかしています。
出てくる登場人物たちは、誰も彼も「一体、なにを考えてるんだ?」と見ている端から疑問しか出てこないほど、唐突に謎な行動をしてきますし、なによりも、この映画で一番、何が訳が分からないって、主人公が一番訳が分からないのです。
この人、やたら無口でだんまりを続けているかと思えば、急に明るくなってケラケラ笑いだしたり、踊りだしたり、かと思えば急にまた無口になったり、もうよく分からない! 誰が見ても心理を理解できないであろう、かなり特殊な性格になっています。
しかし、本作は正直に言ってしまうと、そんなことはどうでもいいのです。主人公がそこそこ「……ヤッてるんじゃね?*1」と思えてしまうような性格だろうが、どうでもいいのです。
普通の映画では、そんな性格の主人公なんて気になってしょうがないと思いますが、本作の場合は、そんなことがどうでも良くなるほど、他にもいろいろとおかしな事が起こるので、どうでもいいのです。
一例を挙げれば、あるシーンでは
「しかも、エレキギターの音がした直後で、普通のウクレレの音もします」
あるシーンでは、こんな会話もあります。
「魚も人魚になるらしいわよ」
訳が分からないと思いますが、実際、この映画ではそういう場面が出てくるんだからしょうがないのです。ツッコミどころは満載です。全てのシーンが説明不足すぎて「なんで、そうなったの? なんで? なんで?」と疑問符が亜光速で頭の上を駆け巡ることにもなります。
しかし、それでも、本作はなんだか凄いのです。なんだか楽しいですし、なんだか最後は泣けます。かなり泣けます。訳分からないけれども、感情をワッと強く動かされるのです。
アニメーションとしても、かなり凄い出来栄えで、冗談抜きでダンボのピンクエレファントパレードが10分に一回は出てくるくらいの内容となっています。なんというか、究極にフェティッシュで超現実的な、"感触"だけを追求したアニメーションでもって、湯浅政明監督が考えた「頭のおかしいアイディア」を、数珠つなぎにしている感じです。
そういう意味では、本作は、湯浅政明監督がかつて参加した作品「ねこぢる草」に非常に似ています。「ねこぢる草」は佐藤竜雄監督のOVA作品なのですが、あれも佐藤竜雄監督が思いついた「頭のおかしいアイディア」を逐一、湯浅政明監督に教え、それでイメージを作っていって、それらを数珠つなぎにしたものでした。
ただ、ねこぢる草と比べると圧倒的に、本作は明るいのです。対極に位置するほどに明るく、楽しい作品となっています。
楽しくて、どうかしているレベルで明るい分、余計に「作り手たちは、なにか*2でキマってたんじゃないのか」とも思えてしまうのですが……。
そういうわけで、本作は、自分は大変に好きなのですが、それと同時に他人にはそう簡単にオススメしません。
圧倒的に普通の人達は「夜は短し歩けよ乙女」を見たほうが良いです。アレも見て、マインドゲームも見て、それでも物足りないという人に、本作はオススメなのです。
映画感想:メッセージ
恒例の手短な感想から
文句はないが、感慨も特にない
といったところでしょうか。
まあ、その程度の映画かなというのが本作への感想です。テッド・チャンの「あなたの人生の物語」を原作としている本作ですが――そもそも、テッド・チャン原作の時点でそうなのですが――まあ、「妥当な」「順当な」「そこそこな」出来ではあるけれども、それ以上の出来ではない映画が本作です。
映画の宣伝などでは、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が「新しいSFの映画なんだ」的なことを言っていますが、実のところアイディアとしては、新しいどころか、むしろSFとしては、ありきたりと言い切ってもいいくらいの、普通の映画です。
元も子もなく言ってしまえば、オチあたりはヴォネガットあたりがよくやっていたようなことを、単にやっているだけの映画でして――というか、どう見てもスローターハウス5ですよね、これ。「スローターハウス5」にも映画版がちゃんとあるんだから、それ見ればいいじゃないですか、って思っちゃうのは僕だけですかね。
唯一、原作で新しいアイディアが凝らされているのが「言語」に関してで、逆に言ってしまえば、その、宇宙人の言語に関しての考察が面白かったから原作はそれで良かったのですが、本作は……。
どう考えても、力の入れるところを間違えたとしか思えないのです。
この映画を奇特なものにしたいならば、どう考えても「宇宙人の話す言語を理解する過程」にもっと力を注いで映像化するべきだったように思います。その一点のみが、唯一、原作の時点で「斬新」と感じられる点であったのですから。
ですが、本作はドゥニ・ヴィルヌーヴ監督がなにを勘違いしたのか「幼年期の終わり」や「2001年宇宙の旅」*1あたりから、SF史に連綿と続いている"地球人の常識を超えた超宇宙生命体"がやってきて、人類にどうこうする話の"類型"でしかない部分をクローズアップしてしまったのです。
しかも、クローズアップして描くにしても、描き方自体があんまりにも普通なのです。
どういうことかと言いますと、この映画、ある理由から時系列が錯綜するような構成で作られているのですが、2017年の映画だと言うのに――あるいは、映画の作り手たちも、時間から開放されて過去を忘れてしまったのか――今までの時系列が錯綜するタイプの映画と比べても、「錯綜」のやり方が雑なのです。
例えば、無理やりに現在の時間に、未来の音声やらを流して未来の映像をフェードインさせようとしてたり、未来から現在に戻すときもだいたいが、主人公がハッと夢から覚めて戻るシーンばかりだったり、雑なのです。
前述した映画版の「スローターハウス5」と比べても雑です。またそれ以外の、時系列が錯綜するタイプの映画と比べても……。
例えば、このブログで紹介した映画で言えば、今敏監督の「千年女優」、ヴォイチェフ・イエジー・ハスの「砂時計」などからすると、比べ物にならないレベルで本作は雑です。この二作がいかに上手く、見ている側の時間の間隔を狂わせるレベルで、時系列を錯綜させていることか。
本作を見終わっても「あれ、今って、今だよな? 今じゃないわけないよな?」とか、そんな混乱したような思考をすることはないでしょう。多少、複雑な構成に頭を使うことはあったとしても。
とはいえ、悪い映画ではないです。撮影や、話の展開などに難はないですし*2普通にお金払って、普通に見て、普通に納得して帰る分には、なんら問題がない映画です。
ただ、期待している方は、あんまり期待しないほうが良いかなと思いますが……。
映画感想:SING/シング
恒例の手短な感想から
音楽映画として90点!話は荒い…でも、そこが良い!
といったところでしょうか。
イルミネーション・エンターテインメントといえば言わずと知れた「ミニオン」たちで有名なアニメーション製作会社です。
今や、下手をすればディズニー/ピクサーよりも、メインターゲットである子どもに、絶大な人気を誇っているのではないかと思われる会社であり――このブログでも、直接、名前を出したことこそありませんが、数々のディズニー/ピクサー映画の感想記事の中で、常にそれとなくこの会社には触れてきました。
実際、ディズニー・ピクサーの最近の妙な方針転換は、間違いなく、この会社の影響があってのことだからです。
それくらい、ディズニー/ピクサーをおびやかす存在となりつつある同社ですが、そんな会社が音楽映画に挑戦するとあっては見ない訳にはいきません。ディズニーの十八番といえば、音楽です。
そのお株を奪われてしまうとなると、本気で、これはイルミネーション・エンターテイメントの、そしてミニオンズの時代が来たと言わざるをえないからです。
長めに前置きしましたが、――で、結論から言ってしまうと、
これはイルミネーション・エンターテイメントの時代が来てますね……。
そう納得せざるをえないほどに、非常によく出来ていました。
少なくとも、音楽の見せ方("魅せ方")に関しては、かなりのレベルにあります。上手に歌と物語を交互に見せてストーリーを運びつつ、「ここぞ」というタイミングで、バッチリ臨場感のある、まさにダイナミックなシーンを持ってきたり等々の工夫によって、ただでさえ素晴らしい音楽に、更に映像的なマジックが足されています。
登場人物が単に綺麗に踊って歌っているだけでは到底味わえない感慨が、この映画の音楽にはあります。
個人的には「ラ・ラ・ランド」のデイミアン・チャゼルに、この映画製作者たちの爪の垢を煎じて飲んでほしいくらいです。
また、子供向け映画だと言うのに、この映画の音楽は、非常に幅に富んでいます。そこも素晴らしいのです。ロック系やら、R&B系やら、ジャズ系やら、とにかく分け隔てなく様々な音楽がこの作品には登場しますし、登場した上で「どういう音楽だから」といって馬鹿にされることも、映画上での扱いが悪くなることもないのです。
たとえば、フランク・シナトラの「My way」を「古臭い」とかそんなふうに馬鹿にすることもなく、ただ「素晴らしい音楽」として扱っています。それと同等で、まさにイマドキなポップスソングも「素晴らしい音楽」として扱っているのです。
そこも音楽映画として優秀なところで、まさに「大人も映画中の音楽を楽しめる」映画になっているのです。*1音楽映画としては、相当に高いクオリティであることは間違いないでしょう。
そして、映画の話自体も悪くありません。もちろん、ある程度雑だったり、荒いところもあります。明らかにおかしいところもあるのです。
ただ、正直、観客の誰も、そんな妙に細かいところの整合性を付けることを、子供向け映画に望んでいないのも事実なのです。むしろ、子供向け映画としては「いかに親子のスレ違い等を描写できるか」「子どもでも共感できるような設定を作れるか」が大事なわけです。
そういう意味では、本作が「モアナ」よりも売れてしまうのは納得なのです。
まず、本作、題材の選び方が上手いです。
ようするにこの映画って、ここ数年、様々な国で流行っている「オーディション系の番組」を題材にしているわけでしょう。「オーディション系番組をモチーフに、子供向け映画で使えるような設定に仕立て直して、ちょっとした三題噺を加えて、どうだ!」という映画なわけです。
実は、この時点で上手いのです。
かつて、面白かった時期のクレヨンしんちゃん映画なんかは、毎年のように「世の中で流行ってるものを、クレしんテイストで落とし込んで、どうだ!」という映画ばかり作ってました。
それと似たようなことをこの映画は、やっているのです。
やはり、このような情報の氾濫した時代にあっても、みんな「なんか見たことあるな」という要素に食いつきやすいんです。特に子どもほど、そういうものには食いつきやすいです。妖怪ウォッチの異様な人気など、子どもが流行りものに食いつく光景は誰しも見覚えあることと思います。
だからこそ、様々な国で流行っている「オーディション系の番組」を題材に持ってくる――この時点で「あぁ、コレは売れるな!」と納得できるのです。
他にも、ラストのタイムラプス風な映像で、劇場を再建する様子を映しているシーンなど、この映画はかなり「流行り」を意識しており、なおかつ、それらを上手に取り入れています。
そして、事あるごとに、大袈裟に進んでいく話も魅力的です。劇場が倒壊するときもただ、ガシャーンと倒壊するのではなく、ありえないと言いたくなるようなレベルの災害級の出来事が起こって全壊するのです。
刑務所を脱出するときも鉄格子を曲げるのではなく、壁ごと破壊するのです。
そうやって極端なレベルにしたほうが、見ている子どもたちは理解できるからです。
そうです。この映画は、確かに様々な部分が荒いのだけれども、しかし、荒いからこそ良いのです。
*1:今、子供向け映画は「大人も楽しめる」ではなく「大人しか楽しめない」ものが多すぎですからね……
4月に見た映画
・ムーンライト
・映画クレヨンしんちゃん 雲黒斎の野望
・ 映画クレヨンしんちゃん ブリブリ王国の秘宝
・ 映画クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険
・映画クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡
・映画クレヨンしんちゃん 爆発!温泉わくわく大決戦 / 映画クレヨンしんちゃん クレしんパラダイス!メイド・イン・埼玉
・映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ
・映画クレヨンしんちゃん オラの引越し物語~サボテン大襲撃~
・映画クレヨンしんちゃん 爆睡!ユメミーワールド大突撃
以上、13本になります。
なぜか、クレしん映画ばかりを見ていますが、4月に入ってニンテンドースイッチを手に入れてしまったのが原因です。いやー、面白いですね、ブレスオブザ・ワイルド。ハマりすぎて映画を見に行く時間がなかった…。
ちなみに、クレしん映画ですが、うーん結構最近のやつはそこまで面白くないんですね。ロボとーちゃんも、ラストあたりの巨大"ひろし"ロボあたりのおふざけ感は良いんですけど……。「んー、そっちの男性層が過大評価してるだけだな、これ」と。
サボテンは、クレしん映画ということを忘れて見れば面白いかな。クレしん映画としては違和感が半端じゃないけど。
こんなに酷い映画を見たのは久々でした。最近は、洋画ならなんでも擁護する傾向がありますが、こんな映画まで擁護するのは本気でありえないと思います。
映画感想:無限の住人
恒例の手短な感想から
そう!こういう傑作が見たかったんだ!
といったところでしょうか。
三池崇史といえば、かつては良くも悪くも無茶苦茶な内容の映画だとか、妙な演出の入ったしかし傑作としか思えない不思議な映画やらを撮ってきた監督なわけですが……。
今やその影もないほどに、ただの「見えている地雷な実写化映画案件」を、本当は別にこんな映画撮りたくないんだろうなと思わせるレベルで、いい加減に撮ってばかりいる姿に、落胆する映画ファンは多かったことと思います。
そんな三池崇史が久しぶりに、満を持して本気を出してくれたのが、まさに本作
「無限の住人」だと言えます。
もちろん、最初に実写化の話を知った段階で「おそらく、無限の住人だけは、三池崇史は本気で撮るはずだ」と予想はしていました。ただ、予想していたよりも遥かにその本気度が上回っていました。
それは映画最後のスタッフロールを見ても明らかなのです。なにせ、本作、きっちりと撮影のコンテを切ってから、更に脚本分析――つまりはスクリプトドクターまで入れた上で撮っていますから。
きちんと見ている人が退屈しないような話作りを心がけ、また撮影もこだわっているのです。
実際、この映画は二時間を超える大作だと言うのに、二時間も尺があることを感じさせません。映画の始まりから終わりまで、延々と怒涛の展開が続き、数分に一回は、誰かと誰かが斬り合っているという、究極の殺陣アクションエンターテイメント映画となっていたのです。
また、役者陣もこの”殺陣”を頑張っていて、主演の木村拓哉はもちろんのこと、福士蒼汰も市原隼人も誰も彼も(*1)が本当に「全盛期の時代劇映画」を思い出すクオリティで斬り合っているのです。
もちろん、シーンの一部はスタントによるものと思われますが、しかし、スタントだけでは説明できないシーンも多く、役者陣自体が相当頑張らないと、このクオリティの殺陣は達成できないはずです。
いえ、殺陣だけではありません。乗馬も「一体、今の日本のどこに、これだけ馬を乗りこなせる人たちがいたのだろうか?」と疑問に思うほどに、大量の馬が画面上を駆けること、駆けること……。
そして、殺陣の全てが三池崇史テイストのグロテスクなものとなっており、おそらく、三池監督ファンならばこの映画は必見かと思います。
どの殺陣も、見ているだけで体の節々に「実際、刺されたような痛み」を感じてしまうほどに、なんとも痛そうに撮られていて本当に素晴らしいのです。少なくとも、殺陣のクオリティはリメイク版の「十三人の刺客」を超えています。確実に。どう考えても。超えています。
実写化映画としても、本作は間違いなく、三池崇史監督が手掛けた中では一番の出来です。……もちろん、他がちょっと酷すぎるというのもありますが、それを抜きにしても、最初は「キムタク以外の何者」にも見えないキムタクが、映画の最後らへんでは本当に、一瞬、そこに万次がいるかのような錯覚を覚えてしまうほどによく出来ています。
それだけ、映画のマジックが効いているのです。
これはキムタクに限らず、全ての役者に当てはまることで、どの人も最初は「いや、どう見ても戸田恵梨香だよなぁ」「どう見ても福士蒼汰だよなぁ」としか思えないのに、終盤になってくると「あれ…? 今、戸田恵梨香に槇絵が宿ってなかった?」「影久そのものにしか見えない…」と思える瞬間が必ずあり、本当に驚くしかありません。
グロテスクな映像が苦手でない人ならば、一回は見てみていいと思います。キムタクが苦手だったりする人でも全然、大丈夫です。――いえ、実のところ、苦手な人ほど本作は面白いこともあるかもしれません。自分も好きな方ではないですし。
「演じている人は嫌いなのに、この映画の人物に関してはなぜか好きだ」
様々な映画を見ているとたまに、そういう一作と出会うこともあるのです。
映画感想:夜は短し歩けよ乙女
恒例の手短な感想から
ひょっとすると、原作を超えているかも……
といったところでしょうか。
以前から森見登美彦の代表作として、下手すると四畳半神話大系よりも更に世の中に知れ渡っていたかもしれない本作ですが、湯浅政明監督が映画化するともなれば、当然これは相当に面白い内容になっているはずだと確信していました。
もちろん、湯浅監督といえば、アニメ版の「四畳半神話大系」を作り上げた人でもありますし、なによりも「マインド・ゲーム」という傑作アニメ映画を作った人でもあるからです。これは映画として、相当に面白い内容になるはずだろうと。
ただ、ここまで面白い内容になることまではさすがに予測できていませんでした。
というよりも、マインドゲームを見てからだいぶ時間が経っていたので、湯浅政明監督作品が、どういうふうに面白いのかを自分が忘れてしまっていたのかもしれません。この映画は、"アニメ映画における湯浅政明監督の面白さ"を再認識できる内容となっています。
もちろん、あくまで森見登美彦の小説の映画化であり、話の大筋はほぼ小説に忠実と言っていいくらいなのですが、それでも本作の面白さは湯浅政明監督の力が大きいと思います。
森見登美彦氏の小説は……なんというか、面白いのですけれども、同時に話がすごく軽いことが多いのです。
もちろん、かなり独特の――大正浪漫的というか、パブリックイメージの明治を煮詰めたような――過剰に装飾された文体で構築された、摩訶不思議な(というよりもマジックリアリズム的な)小説たちは魅力もあるのです。
が、同時に絢爛すぎる、言ってしまえば気取りすぎたキザのような装飾は、作品のテーマを酷くぼかしていて「え、結果、なにが言いたかったんだ?」「言いたいことはそれだけなのか?」と思ってしまうことがあるのも事実なのです。これが悪い方向に作用している作品もあるくらいです。
事実、小説の「夜は短し歩けよ乙女」も、伏線などを張り巡らせた構成や、奇天烈な面白いイマジネーション、京都大学周辺という、そんなことが実際起こっているのではないかと思わせる、絶妙な舞台設定などがよく効いていると同時に、読み終わった後の「うわー、なんも得るものはなかったなぁ」感も半端ではない作品です。
落語の小話で済むような話を、やったら長く説明されたような感慨を覚えるのも事実です。
しかし、本作、映画版「夜は短し歩けよ乙女」はそのような感慨はありません。むしろ、学生時代には誰もが一度は抱いたことのある「若さゆえの孤独感」のようなものが、実はこの「夜は短し歩けよ乙女」のテーマとなっていることが、よく分かるように提示されていて、見終わった後で「自分もこんなことを考えていた時代も合ったな」と懐かしめる――かつ、おそらく学生の方ならば共感できるであろう――良い物語に本作は仕上がっていました。
前述の通り、ほとんど内容は原作に忠実になっているのです。
多少、場面を提示する順序を変えた程度でやっていることは、間違いなく小説版「夜は短し歩けよ乙女」と同じなのです。しかし、その場面に遭遇した時に覚える印象がかなり違うのです。
特に、終盤のとあるシーンは、原作を読んだときには「酷くありふれた表現で、陳腐」「こういう、二束三文の描写で主人公を、ちょっとウジウジ悩ませて物語を解決させようとか、やっぱり森見登美彦の小説は軽いな」としか思えないのに、本作では、むしろ「ここまで強烈に陰鬱で、主人公の心の沼を底からひっくり返すような描写を、畳み掛けられると共感を覚えてしまう」「あぁ、自分もこういうこと思ってた時期合ったなぁ」と正反対の感想を抱いてしまうほどに、まったく、小説とアニメ映画で感触が違うのです。
やはり、ここらへんはさすが湯浅政明監督といったところなのでしょう。本作を全体的に俯瞰した上でのテーマを見抜き、「この作品の、どこが一番表現をハジケさせるべきポイントなのか」をきっちり考えて、自らの得意とする"湯浅節"を使っているのです。
そして、この湯浅節が、まあ本当に今まで話題になってきた湯浅政明監督の諸作品や、参加作品のアレコレを思い出してしまうような、"濃縮された湯浅節"で、だからこそ、「夜は短し歩けよ乙女」のテーマもより一層に際立つというか……。
元々、「マインド・ゲーム」などでも見て分かるように湯浅節は、奇天烈なイマジネーションの連続であると同時に、それが登場人物の心理状態を示すメタファーとしても捉えられるような描写が多いんですよね。*1
それが濃縮している状態なので、まあ、画面の隅々まであらゆる表現が、登場人物の心をよく表しています。ここまで、本作が良い出来に仕上がっているのは、間違いなく湯浅政明監督の功績でしょう。
そして、そんな本作は、湯浅政明監督の魅力を再認識できる、良いアニメ映画となっているのです。
映画感想:ムーンライト
恒例の手短な感想から
んー、惜しい映画過ぎて、頭が痛い……。
といった感じでしょうか。
第二章まではかなり面白い映画だったと思っています。第二章までは、アカデミー賞で、ラ・ラ・ランドを抑えた上で、しかもゲイ映画で初の作品賞受賞を達成した映画に相応しく、精緻な描写が備わった立派な映画だったのです。
人よりも小柄な黒人の男の子が、イジメを受けながらも、ギャングのリーダーや唯一の親友に支えられながら成長していくものの、状況は一向に良くならず――どころか、ヤク中の母親は症状が悪化し、学校でのイジメもより一層に過激化、しかし、そんな中で自分がゲイなのだという自覚を覚えるようになり――。
畳み掛けるように、複雑な問題とテーマが次々とこの映画で提示されるだけでも、相当に面白いのですが、その上、この映画は全体的に「実はシュールな」「実は抽象的な」表現が合間に挟まる構成となっており、それらの描写を手伝って、物語に強く引き込まれていく内容となっています。
特に、主人公と親友のラブシーンは美しさと、性への生々しさが同居しており、ここは冗談抜きでかなり素晴らしいです。
その後、主人公に訪れる――ネタバレになるので表現をぼかしますが――急転直下の展開も、人生の"らしさ"と言いますか、人間関係の複雑さや様々な想いが交錯する展開となっており、主人公と親友どちらに感情移入しても、心苦しさが残るものとなっています。
この"展開"の部分は、撮影も素晴らしかったです。あの「グルグルと周囲をカメラが回ってるかと思えば――」という、見せ方の順序立てが上手く「すごい。考えたなぁ」と感心もするのです。
しかし、それでも、この映画は非常に残念なことに、最終的には「えぇぇぇ……」と困惑せざるを得ないほどに、ガッカリとした展開になってしまいます。
具体的に言えば、第三章の「ブラック」からは、本当にこの映画はどうしようもなく薄っぺらいのです。
例えば、あれだけの複雑な問題が絡み合って、母親の、嫉妬とヤク中と息子への愛がグッチャグチャに混じり合って、最悪の方向に進んでいたあの状態を、映画上でなにか解きほぐすような場面も与えずに、それら全てをこの映画は「時間が解決してくれましたー」で終わらせてしまうのです。
いくらなんでも、これはないでしょう。
もう一つ、例えば、主人公が非行に走った原因です。この原因には、映画を見た方なら誰でも分かるとおり、親友も加担しているのです。同調圧力への恐怖があったとはいえ、事実としてこの親友は主人公が、麻薬の売人になってしまう原因をつくった一人であるわけで――では、そんな親友を、主人公は「憎い!」と思うと同時に「でも、お前が好きなんだ!」という気持ちが交錯するシーンがあるかというと、これもほぼ無いのです。親友がそれを後悔することもないのです。
ひたすら、映画の終わりまでその問題をフワーとした雰囲気で誤魔化して「観客にバレる前に逃げちゃえ!」と言わんばかりに話を強引に終わらせているだけなのです。
「一体、第一章・第二章の奥深さはどこへ行ったんだ?」と思うほどの浅さです。
で、なぜ、このようなことになっているのかというと、答えは簡単で「ウォン・カーワイ」のせいです。
第三章は見る人が見れば、すぐに分かるほどにウォン・カーワイの「ブエノス・アイレス」がオマージュされています。どうやら、監督が好きなんだそうです、ウォン・カーワイ。
確かに、ウォン・カーワイは画面上のこだわりや美しさには定評があります。それをオマージュして真似するだけなら、全然、個人的には大丈夫だと思うのです。
が、ウォン・カーワイはそれと同時に「とにかく話が薄っぺらい」「無神経」という巨大な欠点も抱えていまして――ようするに、ウォン・カーワイのそういう部分まで真似してしまった結果、こうなっているのです。
いやー、本当に惜しいというかなんというか……。
ウォン・カーワイは、画面を真似するだけなのが一番理想的なのです。本当に、あの人の話作りとかは真似しちゃいけないのです。
本当に惜しい映画です。