儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

11月に見た映画

チャーリー・モルデカイ 華麗なる映画の秘密

 ・猿の惑星:聖戦記


映画『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』予告編

山本エリ「復元可能性ゼロ」と化す

 ・血まみれスケバンチェーンソー

KUBO/クボ 二本の弦の秘密


『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』本予告  11月18日(土)新宿バルト9ほか全国ロードショー

 

 

以上、5本になります。

記事数も2本と激減……いやーなんていうか、11月はあまりにも見たい映画が無さすぎて、まったく見る気にならなかったんですよね。実は、そういう状態の人、僕以外にも多かったんじゃないでしょうか。

邦画も洋画もズッコケ大作ばっかりが、ここまで並ぶ月って珍しいです。

12月も期待作が少ないんですけどね……。

映画感想:KUBO/クボ 二本の弦の秘密


映画『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』予告編

 恒例の手短な感想から

良い映画だけど、色々が雑

 といったところでしょうか。

 

 ライカは「コララインとボタンの魔女」で有名になった、アニメスタジオです。CGかと見間違うかと思うような、高いクオリティのストップモーションアニメを製作することで有名な会社であり、実際、前述の「コララインとボタンの魔女」は自分としてもお気に入りにしている映画の一つです。

 そのライカが、久々に新作を出すということで一部で話題になっていたのが、本作「KUBO」です。まるで日本人の名字のようなタイトルからも察せられるように、KUBOはジャパンテイストを織り込んだ、和洋折衷の風景や登場人物、物語が描写される映画になっており、それなりの前評判も聞かれる映画でした。

 当然、自分も強い関心を持って映画館へと足を運んだのですが……。

 

 鑑賞後、うーん、と唸りながら映画館から自分は出てこざるをえませんでした。アニメーションが良くないとか、そんなことを言うつもりはありません。本作はアニメーションとしては素晴らしい出来でした。

 折り紙を用いた自由なイマジネーションは、それだけで感嘆に値するものがありますし、途中のがしゃどくろ的な巨大な骸骨が襲ってくるシーンなどは、大変に面白いのです。

 

 背景や設定に関しても申し分なしで、幼い頃にNHKの人形劇で見たような、古典的なおとぎ話をいくつも重ねたような設定と舞台美術は、思わずグッとくるものがありました。特に序盤のKUBOと母親の描写などは、見事で、あれだけで観客を完璧に物語に引き込むことに成功しています。

 

 思ったほど感動しなかった、などと言うつもりもないのです。この映画は十二分に感動できるラストがあります。詳しくはネタバレになってしまいますが、結構、既存の物語を逆手に取ったラストを選んでおり、意表を付かれるような良いオチが用意されています。

 

 しかし、それでも、この映画を掛け値なしで誉めるのは、少し無理があるのです。この映画には巨大すぎる欠点がいくつも存在しているからです。

 まず、なんといっても、全体的にチグハグすぎる出来となっているのが問題です。

 この映画のチグハグさをよく象徴しているのは、クボの母親でしょう。序盤では軽くクボへのネグレクトさえ感じさせる描写さえあった彼女が、とあるシーンからは普通の良き母として描かれ始め、最終的に素晴らしき母親にいつの間にかキャラクター像が摩り替えられてしまっています。

 別に母親像が、聖母的なものである必要性などありませんが、本作のように、最初は呪いにでも掛かっているのか、支離滅裂で狂気しか感じさせなかった異常な母親を、なんの説明もなく、良き母に摩り替えてしまうのはどうでしょうか。

 

 この作品、全編に渡ってこの調子なのです。さっきまでの説明や、さっきまでの作品の雰囲気等々とまったく合わないーーどころか、正反対のことを平然としているシーンが多すぎるのです。

 例えば、厳かな和風テイストのいかにもおとぎ話のような話にも関わらず、登場人物たちがアメリカンすぎるリアクションを取り出したりといった具合です。

 音楽もそういう意味で酷い出来であり、主人公のクボが三味線を弾いて戦っているシーンで、なぜか大音量のオーケストラを流して、三味線の音をかき消していたりと、肝心の設定をまったく活かせておらず、宝の持ち腐れになってしまっているのです。

 

 そして、なによりも本作は色々な部分が雑です。

 特に酷いのはクボの両親の顛末です。急に敵が衝撃の事実を明かしたと思ったら、次の瞬間に物語から即退場はどう言い訳しても雑ですよ。もうちょっと引っ張って、クボに両親との思い出を作らせるなりしてから退場、という運びにしないと、悲しみも何もなくなってしまいます。

 

 実はライカ、この前作である「パラノーマン ブライスホローの謎」でも、この傾向あったんですよね。若干、話運びが雑で、急にさっきまでの雰囲気をぶち壊すようなことをやりだすシーンはいくつかありました。

 それが余計に本作では酷くなっているのです。

 

 正直、この意味不明な作劇方法論は、本作が限界ではないかと思います。本作は辛うじて良い映画になっています。しかし、これ以上、同じことをやったら、目も当てられない駄作を作ってしまうのではないでしょうか。

 ライカの次回作は要注意かもしれません。

映画感想:猿の惑星:聖戦記


映画『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』予告編

 恒例の手短な感想から

良かったけど、詰め込みすぎ感はある

 といったところでしょうか。

 

 まあ、冒頭のこの一言に尽きるかなと思います。本作「猿の惑星:聖戦記」は、本当に詰め込みすぎの一作でした。

 もともと、一作目の「猿の惑星:創世記」の時点でいろんな映画の要素が混ざり合っていた、新しい猿の惑星シリーズですが、三作目である本作は更に、様々な映画のオマージュなどが、事細かに詰め込まれています。

 

 詳しく書いてしまうと映画のネタバレになってしまうのですが、おそらく、だいたいの映画ファンが序盤の復讐から始まっていく物語の展開や、どことなくドライな描写での銃撃戦に「西部劇映画」や「時代劇映画」を思い浮かべたりしたはずです。

 なおかつ、中盤辺りからは雪化粧の森林を馬で駆けていく撮影等々、ファンタジー映画を思い出すような描写、キャラクターが出てきたりもするのです。なおかつ、荒廃した建物の様相にどことなく「ポストアポカリプスもの」のSFを想起させる描写も入り込んできます。*1

 つまり、中盤の時点でも既に「復讐劇で、西部劇・時代劇的設定から、ファンタジーそして、ポストアポカリプスへと変遷していく映画」なわけで、この時点でも十分なほどにお腹いっぱいの映画なわけですが……。

 その上、この映画はここから先も次々と「違う映画」の顔貌を見せ、変化していくようになるのです。それは一作目でも見られた「監獄もの映画」を踏襲するような内容でもあり、「受難劇」を連想する内容でもあり、はたまた「神話」を連想する内容にもなっていきます。

 メタファーも数知れず、とあるシーンは、スタンリー・キューブリックの「某共和制ローマ映画」を彷彿とさせる描写となっていますし、あるシーンは「キリスト教ユダヤ教の歴史を勉強しているような」気分にもなってきます。

 

 それくらいに、いろんなものをギュウギュウに詰め込んでしまった映画が、本作なのです。だからこそ、実は本作の評価は非常に難しいです。あまりにもジャンルを混ぜすぎていて、なおかつ、その一つ一つの方向性が違いすぎるゆえに、映画全体として見た場合に、この映画をどう評価すれば良いのか戸惑ってしまうのです。

 

 少なくとも、自分に確かに言えるのは、本作はどう見ても映画の尺が短すぎるということです。

 前述した、様々な映画の要素たちなのですが、これらはわりと「あっさりとした味」で、煙のように出てはふわりと消えていってしまうことが多いのです。例えば、マカロニウェスタンの西部劇的な描写が一瞬入ったかと思えば、次のシーンではまた違う種類の西部劇的な描写がまた一瞬だけ入って――といった具合なのです。

 話自体も無理に詰め込んでいる印象を拭えず、事実、さっき張った伏線を、3分後には回収してしまっているようなシーンも散見されます。

 普段は、映画の尺は短ければ短いほどいい、と考えている自分ですが、さすがに本作のような映画に関しては「もっと尺が長い方が良かった」と言わざるをえません。なんなら、間にインターミッションを挟んで前後編合わせて3時間半くらいの尺があっても構わないくらいです。

 

 実際、この映画はそういう「大作映画と言えばインターミッションを挟んでいた時代」の映画から薫陶を受けた箇所も多く見受けられる作品です。近年の流行りには逆らうかもしれませんが、作り手としては、そういったものに仕上げたかったのではないかと。

 

 ここまでこの映画の欠点を書き連ねてしまいましたが、最後に言わせていただくと、それくらい自分にとってこの映画は「惜しい」気持ちがいっぱいなのです。

 撮影や美術はまったく悪くなく、話の筋書きもよく考えられており、編集もかなり優秀であるこの映画の作り手たちにとって「二時間ちょっと」という尺の舞台は、まさに正しい意味で役不足だったのだと考えているからです。

 次回作で、それくらいの大作をぜひ作っていただきたいなぁ、とそう思っているのです。もちろん、経済的に無理があるかもしれませんが……。

*1:「ポストアポカリプスもの」なのは、本作が猿の惑星なので、当然の話かもしれませんが……。

10月に見た映画

・ドリーム


映画『ドリーム』予告A

ザ・セル

ザ・セル (字幕版)

ザ・セル (字幕版)

 

 ・タイピスト

タイピスト!(字幕版)
 

 ・アウトレイジ:最終章


『アウトレイジ 最終章』特報

アトミック・ブロンド


『アトミック・ブロンド』予告編/シネマトクラス

・インク

Ink

Ink

 

 ・ブレードランナー2049


映画『ブレードランナー 2049』TV Spot④

 

以上、七本になります。

タイピスト!が、「じゃじゃ馬ならし」の内容、そのまま過ぎたのが……。

映画感想:ブレードランナー 2049


映画『ブレードランナー 2049』TV Spot④

 恒例の手短な感想から

エンキ・ビラルでやれ!

 といったところでしょうか。

 

 ブレードランナーといえば、サイバーパンク映画の金字塔です。リドリー・スコットによって作られたこの映画は、言ってしまえば「サイバーパンク」というジャンルを世の中に知らしめた映画と言えます。

 東洋系の文化を積極的に取り入れ、既存のSFテイストと混合し、ある種の芸術にまで昇華させた斬新すぎる街の様相、細かい部分まで徹底して全体の雰囲気を損なわないように気を配った小道具、背景美術の数々、ハードボイルドとSFをかけ合わせたような話の筋書き、あえて濃い霧の中にライトを当て、ぼんやりとした光の筋して見せるというライティング手法。

 書ききれないほど、この映画で出てきた数々の視覚的な効果や美術は「サイバーパンクとは、こういうものなのか!」と世界中に衝撃を与えました。その後、ブレードランナーのアレコレを真似する映画が多発し、多発し、未だに多発し続けていることからも、その衝撃がどれほどのものだったのかは想像に容易いと思います。

 

 そんなブレードランナーの続編が出るーーこの話は、かなり前から映画ファンたちを賑わせていた話題だったのですが、これが待ちに待って、ついに公開されました。

 ということで、自分も映画館に足を運んでみました。

 

 ……「見なければよかった」と激しく後悔しましたが。

 

 本作が「ブレードランナー」というタイトルを冠している意味がさっぱり分かりませんでした。もうそこから決定的にダメだったと思っています。正直に言ってしまって、こういうおゲージツ映画がやりたいならば、別にブレードランナーじゃなくて良かったんじゃないでしょうか。

 本作「ブレードランナー 2049」は、日本では今年公開された映画「メッセージ」のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督なわけですが……自分からしてみれば、監督の時点でお察しだったのは否めないと思います。「メッセージ」も、原作の良さなどを殺し、そこらへんの訳知り顔な評論家をドヤ顔で「こんな考察できる、俺って頭いいんだぜ?」と自慢させるためにあるような映画でしたから。*1

 実際、自分はそこまで期待をして観に行ったわけではありませんでした。

 

 ただ、自分の期待してない度合いから底を抜けてしまうほど、本作はつまらなかったのです。この映画は低い期待を下回ってきたのです。「そこまで下に抜けるか」と思うほどに。

 

 まず、「メッセージ」のときも思いましたけど、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の「俺って頭いいんだぜ?」と言いたげな演出方向、演技の付け方の方向はことごとく、鼻につきます。特に、酷いのは本作で終始出てくる、敵ボスの言動です。

 なにかといえば、詩的な表現で喋るレプリカントとして描かれているのですが、これがなんとも、ただ、ただ、うざったいだけで面白くもなんともありません。言っている内容も、言うほど高尚なことを言っておらず、正直、そこらへんの電波ゆんゆんが喋ってる妄言と大差がありません。

 

 そして、なにかといえば、妙にゆったりとしたカメラワークが、映画全体のテンポを恐ろしいほど鈍重に感じさせており、特に映画の前半は、観客は睡魔との格闘を強いられることになります。

 前半は話自体にも、大した起伏がなく観客からしてみれば「最初から予想ついてたわ、それ!」と言いたくなるような、分かりきった話を延々と無駄に引っ張って作られているので、フラストレーションの溜まり方も半端ではないわけです。下手すれば登場人物たちが馬鹿に見えかねないレベルで分かりきった話しかしないのです。

 また、ブレードランナーの売りであるサイバーパンク的なビジュアルも、本作では、かなり後半になって発揮されます。前半はスターウォーズみたいな、ボロっちい小屋などが主体であるため、サイバーパンクを見ているという感触にも乏しいです。

 

 ついでに言えば、後半になって出てくるサイバーパンク的なビジュアルも、また、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の本来の資質に近いと思われる、少しファンタジーを感じさせる巨大な像のビジュアルにしても、そうなのですが、全て既視感が半端ではないのです。

 どっかのゲームやアニメや漫画で見たことあるようなものしか出てきません。

 辛うじて、主人公とヒロイン(と思しき存在)のセックスシーンや、デッカードと主人公の戦闘シーンなどの演出は既視感がなく、面白かったのですが、本当にそこくらいしか価値を見いだせるシーンがないほどに、なんとも、陳腐なイメージに終始しています。

 

 なにより、問題なのが本作の「話の筋書き」のお粗末さです。

 逐一、思わせぶりで、象徴的な話にしようとするあまり、表層的な話の筋書きが、とてつもなくおかしなことになっています。ツッコミどころだらけなのです。

「なんで、あいつに、あの記憶があったという謎を『みんなそうなのよ』とか精神的な話で誤魔化して済ませているんだよ!」とか「結局、最後に出てきたあいつらなんだったんだよ。映画のプロット上、欠片も意味が無いだろ!」とか「そもそも、あいつらはなにがしたかったんだよ!革命起こして、なにをどうする気なんだよ!」とか「しかも、別に何一つ物事が解決してないだろ、このオチ。どこが大義だよ!」とか、キリがないほど疑問点しか出てこないのです。

 

 そして、なによりも決定的なのが「こういう象徴的な話を、ブレードランナーでやる意味ってなに?」ということです。

 ブレードランナーは、そもそも、公開当時からすればB級映画です。事実、内容としてもB級なテイストを孕んでいることは否定できません。殺しの警官「デッカード」がハードボイルドに、標的のレプリカントたちを容赦なく、一体ずつ殺害していく映画なのですから。

 そのB級で、分かりやすくエンターテイメントなあらすじに、単なるエンタメで終わらない人生観や、「ないはずの、嘘かもしれない感情を持ってしまった、人造人間のレプリカントたち」という複雑なテーマや、芸術性を入れているのが「ブレードランナー」であるはずです。

 

 こういうただ単に象徴的な話がやりたいのならば、ブレードランナーの、美術等の元ネタと言われている、エンキ・ビラルバンドデシネ「ニコポル三部作」でやればいいでしょう。あちらは、結構象徴的な話が多いわけですし。

 実際、本作は、全体的にもブレードランナーの続編というよりは、エンキ・ビラルの雰囲気にかなり近いです。背景的に宗教的なものを匂わせている美術などはモロにエンキ・ビラルと言っていいでしょう。

 エンキ・ビラルでじゅうぶんです。

*1:詳しくは本ブログの「メッセージ」感想記事をお読みください。

映画感想:アトミック・ブロンド


映画『アトミック・ブロンド』特別予告 "Sweet Dreams"

 恒例の手短な感想から

やっぱ微妙だったわー。さ、撤収!

 といったところでしょうか。

 

 ……まあ、正直、それなりに目の肥えた映画ファンならば、だいたいの人が「あー、やっぱりなー」と思うのではないでしょうか。この映画、予告編の段階で香ばしさが半端ではなかったですから。

 宣伝が上手く頑張って、格好良い予告編にしていたのですが、ソレと同時に「ここまで格好いい予告編にしているのに、隠しきれていない、この『アレ』な感じはなんなんだ?」と感じていた人も多いことでしょう。

 実際、自分はそうでした。

 

 そして、予告編だけでも十分に不安要素があったというのに、その上、続いて出てくる映画スタッフの情報が……監督、デヴィッド・リーチ

 思わず「誰だよ、お前」と言いそうになってしまいますが、この人は、一応、ジョン・ウィックの共同監督です。しかし、ジョンウィックの監督だと知ってしまったからこそ、なおのこと不安になってしまうわけです。

 

 ジョン・ウィック自体は確かに素晴らしい映画なのですが、同時に、あの映画が素晴らしいのは、製作総指揮のキアヌ・リーブスが自分の趣味を見境なく、とにかく、ぶっこんでいるからです。

 正直、ジョン・ウィックは監督の手腕で面白くなったとは言い難い内容でしょう。

 そして、本作の製作総指揮にキアヌ・リーブスはいません。言ってしまえば、本作はキアヌ・リーブスのマニアックな趣味がない、「ジョン・ウィック」なわけです。……面白くなるとは正直思い難いのです。*1

 

 実際、面白くなかったわけですが。

 まず、本作、ものすごい決定的な欠点を言ってしまうと、監督の手腕自体に明らかな問題があります。いえ「監督が能力不足だ」と言うつもりはありません。本作の問題が技量不足とか、そういうものではないからです。

 むしろ、本作の問題は、監督がなにか巨大な勘違いをしている部分にあるといっても過言ではないでしょう。

 どうも、変に「ジョン・ウィック」なんてヘンテコ映画に関わってしまったせいで、デヴィッド・リーチ監督は「ヘンテコな編集、分かりづらい構成が素晴らしい芸術として認められるのだ」と思いこんでしまったようなのです。

 実際、この映画は編集や話の構成が中途半端にヘンテコです。辛うじて、なにが起こっているのかは分かるのですが、それと同時に、妙に回りくどいシーンが入っていたり、妙なカットが突然割り込んだりして、なんとも見づらいのです。

 例えば、これがアレハンドロ・ホドロフスキーや、鈴木清順などのように「やることなすこと、全てが意味が分からず、けれども、芸術的な完成度が凄い」というレベルに昇華できていれば良いのですが、そこまでのレベルには到底達していない程度で見づらいのです。

 ようは、単に下手くそな編集にしか見えなくなってしまっているのです。

 

 しかも、そういう構成にしているわりに、そもそも肝心のこの映画の筋書き自体がかなり陳腐です。

 ハッキリ言いますが、おそらく、観客のだいたいがこの映画の冒頭10分くらいで「あー、シャーリーズ・セロンの正体って多分、アレだよね?」「なんか、無理やり居合わせている、この人くさいなー」と目星を付けられるのではないでしょうか。

 そして、実際この映画はそういうオチで終わります。

 おそらく、作り手的には「大どんでん返し」のつもりで作っているものと思われますが、最初からバレバレなので、この筋書きは見ていてちっとも面白くないのです。

 

 アクションも……まず、シャーリーズ・セロンは腹に力を入れて「ヤーッ」と叫ぶことを覚えるべきです。あんな気の抜けた発声で闘われても説得力がまったくありません。妙にリアル寄りなアクションシーンとして作るのならば、なおのこと、ここは抜かせないでしょう。

 

 最後に、自分は本作をフェミニズム的な映画として持ち上げるのは、ものすごく違和感があるということは、ハッキリ言っておきます。なぜって、ガーターベルトを着こなした、ブロンドの女スパイが女性同士で絡んだり、闘ったり、騙したり、騙されたり……これ、全部、男の願望そのものですから!*2

 むしろ、この映画ほど男性の欲望に忠実な映画はない、と言えるのではないでしょうか。

*1:そもそも、共同監督でしかもクレジットなしという時点で……

*2:そもそも、ブロンドヘアーって時点で……ですし。

映画感想:アウトレイジ最終章


新キャストも登場!北野 武監督最新作『アウトレイジ 最終章』特報!


 恒例の手短な感想から
結構良かった
 といったところでしょうか。


 実のところ、一部のネットでは微妙な評判が立っているようですが……まあ、ネットの人たちって、最近は「無限の住人」もまともに評価できない、「シン・ゴジラ」ではゴジラを明らかに見てないまま、いい加減なことを言い出す、と、あまり当てにならない ことが多いですし、気にしない方が良いのかなと。
 少なくとも、自分としては結構面白い最終章だったと思っています。第一作目ほどではないけど、ビヨンドよりは間違いなく面白かったかなと。


 第一作目、ビヨンド、とアウトレイジは、北野武の気分によって、様々に雰囲気を変えてくるわけですが、今作は武映画の中でも「日常の中で、急にバイオレンスがやってくる歪さ」「ヤクザ世界の異様さと恐ろしさ」がかなり強調された内容となっています。
 そういう意味では、今作が一番アウトレイジの「全員悪党」というコンセプトに忠実な作品と考えて良いのではないでしょうか。


 武映画としては、ここまでコンセプトに忠実な映画は珍しいでしょう。北野武監督は、こういう映画には必ず「全体の雰囲気からすると、明らかにはみ出ているおかしな要素」を入れがちでした。
 が、それが本作にはほとんど無いのです。
 もちろん、今までの武映画的な描写自体は入っているのですが、その描写が映画全体からすると違和感がないのです。
 だからこそ、武映画として物足りない気持ちになる人もいるのかもしれませんが、正直、武映画ファンでもない人からしてみれば、そんなことはどうでもいいとも言えます。


 自分からすれば、アウトレイジという映画は「ヤクザたちの腹黒いやり取りの面白さ」「罵声浴びせあい大会の中でそこはかとなく感じる快感」「銃で人があっさり殺されていくさまの恐ろしさ」
 この三つこそが本質です。

 ここが究極的に描けていれば、それで十分なのです。本作は、ビヨンドよりも明らかに上記の三つを満載しています。
 西田敏行を筆頭に、役者陣がアドリブやらなにやら飛ばし合いまくる、ヤクザのやり取りと罵声大会は、いろんな意味で面白いですし、今作のアウトレイジは、本当に次々と人が銃殺されていきます。


 これだけでアウトレイジとしては、十分なのです。


 その上、誰も彼もが様々な腹黒い思惑を抱え、暗躍し、それらが交錯した結果、誰の思惑どおりにも物事が進んでいかないという、人間社会の難しさを執拗に描き出す本作には、図らずも作品全体に異様な虚無感が漂っています。
 北野武が憧れる、ルイ・マルの「鬼火」などの映画にあった、底の知れない虚無感を抱いている本作は、実は武映画的な要素がないにも拘らず、最も武映画的であると言えるのではないでしょうか。

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