映画感想:祈りの幕が下りる時
恒例の手短な感想から
これは本当に面白い
といったところでしょうか。
予告編の段階で、この映画から「明らかに面白い映画の匂い」がしていたことに驚いた人は僕だけではないでしょう。新参者シリーズは東野圭吾ファンでもなんでもない――ただの映画ファンからすれば「所詮、テレビ屋が『どうだこれ、面白いだろう?』とどや顔で出してくるつまらない映画」の一つに過ぎなかったからです。
ですが、本当に本作「祈りの幕が下りる時」には、確かに面白い映画の匂いが漂っていました。予告編の断片的な映像の中にある、撮影照明や背景美術、ロケーション等々からひしひしと「作り手たちの本当にやりたいことが実現できている」印象を受けたのです。
映画ファンでない人には「他の映画と何が違うんだろう?」と首を傾げるかもしれません。しかし、何百本と酸いも甘いも噛み分けた映画ファンには、この映画は面白くなっているかもしれないと予感を感じる予告編でした。
実際、本作は相当に良くできた映画です。かなり映画にうるさい自分でさえ、納得させられるほどのクオリティを持ったミステリー映画となっています。
少なくとも本作を見て、退屈することはまずないでしょう。
まずなんといっても、本作は冒頭からとてもテンポがいいです。今まで邦画がやりがちだった説明的な台詞を排し、テロップと組み合わせながらタンタンと気味の良いリズムで、複雑な話の中に観客を巻き込んでいるのですが、これがかなり上手いのです。
情報の出し方に過不足がありません。見れば分かることは言わず、見ても分からないことは言う。至極当たり前ですが、これが出来ているのと出来ていないのでは映画の出来は大きく変わります。
そして、本作は間違いなく、それが出来ています。
この時点でだいぶ感心したのですが、次に感心したのは撮影のクオリティです。残念ながら、最高の出来の撮影、というわけではありません。が、しかし映画としては申し分のないクオリティであることは間違いないです。
さりげない僅かな視点の移動や、些細なズームアップが画面を飽きさせない工夫として活きていますし、要所要所でのレイアウトもしっかりしていました。真相を明かしていくパートで、舞台の様子を窓に反射させ、そこ越しに二人を撮すのも象徴的で感心しました。なによりも途中、主人公・加賀恭一郎が橋の名前を次々言い当ててくシーンのカメラワークは見事です。あそこでメモ帳にだんだんと焦点を合わせていくのは完璧としか言いようがありませんでした。
さらに本作は細かい演出等への配慮も、かなりしっかりしていました。
特に自分が感心したのは、今回の真犯人が犯行に至るまでの描写です。正直、あの状況であの犯行を行うこと自体は、下手な描き方をすれば「サイコパスな、自分勝手な犯人が、自分勝手な納得で殺してしまった」ようにも受け取られかねない状況なのです。
しかし、本作ではそう受け取られないように、本作の肝であるメインテーマに反しないように、丁寧に気を使って描写をしていました。それは台詞も、もちろんそうなのですが、細かい演技でもそうなのです。あの人は、そうなることを望んでいたのだ、と感じられるようにちゃんと配慮をしているのです。
だからこそ、本作は本当に心置きなく、感動ができます。
実のところ、まったくこの手の物語で感動しない――どころか、冷ややかな目で見がちな自分でさえ、このクライマックスでは目が潤んでしまいました。音楽の盛り上げかたといい、非常に上手かったです。
本作はここの描写を完璧に描けたことが、今までの東野圭吾映画化作品とは一線を画しています。
ファンには申し訳ないですが、僕が見てきたかぎり、東野圭吾の映画化作品の最大のネックはこういう箇所だったからです。
東野圭吾は良くも悪くも典型的な直木賞作家です。ベッタベタで読んでいて背中が痒くなるような、頭の悪い高校生が大人ぶって喜んでそうな、読者に媚びまくった、そんな感動シーンを織り混ぜがちですし、しかも、それを無駄に強調しがちな作家です。
文章で読む分には、まだ"文章というマジック"が効いているので良いのですが、実際に映像にしてしまうと「なんか、うすら寒いぞこれ」と冷めてしまうことも多々ある作家なのです。
そこを見事に映像化出来ている本作は、なるほどシリーズ最高傑作とファンの方々が褒め称えるのも納得できます。
映画感想:ロープ/戦場の生命線
恒例の手短な感想から
これが戦争なのか。
といったところでしょうか。
戦争映画というと、大抵の映画が戦場――それも決まったように最前線ばかりに目を向けられがちですが、当たり前のように、最前線だけが戦争の真実を映しているわけではありません。
戦争の中にあっても日常は存在しており、死や残酷のみが存在するのではなく、その中には生活があり、経済があり、様々な人間模様があります。もちろん、そういった戦争の日常に焦点を合わせた作品たち――「町の人気者」「この世界の片隅で」など――も昔から存在しているのですが……いずれの作品も、そこまでは克明に戦争を描けていてはいなかったのかもしれません。
そう思えてしまうほどの、戦争をテーマにしたコメディ作品が、存在していました。
それが本作、「ロープ/戦場の生命線」です。
本作は誰もが光を当てることがなかった「戦争のある側面」に初めて光を当てた作品と言えるでしょう。
それは「停戦」という側面です。
WW2やWW1時には存在しなかった――しかし、現実の、現代の戦争には必ずついて回っている大きな要素――「停戦」と「国連軍/NGO」の人たちに焦点を当てた、斬新な戦争映画が本作なのです。
初めに断っておきますが、この映画には「戦争らしい描写」というものが一切存在していません。戦闘機が機関銃を放つことも、マシンガンが無残にも人を撃ち抜くことも、爆弾が人を粉微塵にしていくことも、一切起こらないのです。
当たり前ですね。「停戦時」なんですから。1995年のボスニア・ヘルツェゴヴィナです。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の最末期――和平交渉が行われているような時期なのです。普通の感覚ならば「もう戦争は終わった」「もう平和になったんだ」と思ってしまうような、そんな時期の「戦争」の話です。血しぶきの一つも出てこないのが当たり前なのです。
いえ、それ以前に、そもそもこの映画は主人公たちのNGO職員たちが、井戸に落ちた死体を引き上げるためのロープを探し回るだけの映画でしかありません。ただ、それだけの映画なのです。
戦争後の復興のためにあちこちの集落へ行ってはトラブルを解決していくNGO職員が、いつものように、トラブルを解決していくだけの映画なのです。内容も、全体的にはブラックジョークを交えたコメディです。クスリと笑ってしまうようなギャグが出てくる映画なのです。
しかし、この映画には、どの戦争映画よりもハッキリと明確に「戦争」があります。
いえ、むしろ「銃弾が一つも出てこない内容」であるからこそ、本当の戦争が見えているのかもしれません。銃撃のうるさい音や、感傷的な死がないからこそ、そんな表層的に隠れた「戦争の姿」をよく暴き出しています。
主人公たちの、道に落ちている牛の死骸を見ながら「どっちに地雷が埋められているのだろうか?」と悩む姿に、ただロープを買おうとするだけで店主から拒絶されてしまう姿に、子どもたちが何気なくハンドガンを持ち出してしまう姿に、すっかり人の居なくなった街の中でくだらないロープのジョークを語りだす姿に「これが戦争なのか」と実感出来るのです。
その日常なのに、あまりにも日常とかけ離れた日常を生きている姿に、どうしようもなく戦争を実感してしまうのです。
そして、今もなお「きっと紛争地域では、まだこういったことが起こっているのだろう」と誰に言われるでもなく、想像を巡らせてしまうのです。
本作はそういった意味で、最も優れた戦争映画であるのかもしれません。
映画感想:羊の木
恒例の手短な感想から
原作よりも、良いかもしれない、傑作
といったところでしょうか。
羊の木は、一部で話題になっていた漫画です。犯罪者が更生して、一般人として日常生活に溶け込んでいくなかで、様々な出来事が起こっていくというその内容の特異さや、ぼのぼの等でお馴染みの漫画家いがらしみきおが作画を担当していることから、伊集院光などが取り上げ、そこから広まっていった漫画です。
本作を実写化すると聞いて、自分としては「まあ、最近の邦画って意外と実写化で良い映画撮るから、面白い映画になるかもなぁ」と思っていたのですが、その通りでした。
本作、実写版羊の木はかなり面白いです。下手すれば原作さえ超えてしまったのではないかと思うレベルで、原作が提示したテーマを深く追求することが出来ています。
実は、前述の複雑なテーマや設定からすると、拍子抜けするほどに原作は良くも悪くも大雑把であり、かなり大味な内容です。
犯罪者の描写もいい加減ですし、様々な設定にその場のノリで作ったような雑さがあり、話の終わり方も(作り手が意図している以上に)強引な面があったりもします。
原作の雑な部分は、映画にするにあたって明らかに不味い要素でした。原作はいがらしみきおのあの絵柄だから許されている部分が多く、それを単に実写にしてしまうと、観客からは「不愉快な要素」「現実離れした、感情移入を妨げる要素」として受け取られてしまう可能性が高いのです。
そこを上手に、実写にしても不快に取られないように、丁寧で繊細な設定に改変しているのが本作なのです。さすが、「桐島、部活やめるってよ」の吉田大八監督といったところでしょうか。原作を上方修正するのが、本当に上手い監督だと思います。
結果、本作では、原作の様々な設定が変わってしまいましたが、じゃあ、原作の魅力が損なわれたかというと、そんなことはまったくありません。むしろ、原作では殺人者以外の前科を持つ者もいたところを、映画版では殺人者のみにするなど、よりキツい設定を用いることでテーマをより濃く煮出すことに成功しています。
本作の象徴である羊の木には、様々な意味が付随していることは、映画からも原作からも読み取れると思いますが、特に羊の木が強く象徴しているのは、科学的に言うところの「正常化バイアス」でしょう。
羊の木とは、原作で説明がありますが、綿という植物を知らなかったヨーロッパの人たちが、綿を誤解した挙句に都合の良い妄想で作り上げた架空の植物です。映画冒頭で引用された東タタール旅行記*1の一節は、羊の木を空想して描いた一節です。
当時のヨーロッパでは、東方旅行記*2などの旅行記にて、得手勝手な妄想を「実際に見た」と吹聴して回ることが多々あったのですが、その文化の中で生まれた空想の生物が羊の木なのです。
言ってしまえば、「自分の常識と違うものと遭遇した時に、やってしまう都合の良い解釈」の果てに、羊の木という空想の産物が生まれてしまったのです。だからこそ、羊の木は「自分の常識と違うものと遭遇した時に、都合の良い方へ」考えようとしてしまう人間の性質――つまり、正常化バイアスを象徴するに相応しい木です。
本作「羊の木」では、元犯罪者たちの姿を「まさか、身近なあの人がそんな酷い人な訳がないだろう」と思い続ける人々の姿がよく描かれています。実際には、彼らが本当に罪を償って反省している人なのかどうかは、本作を見ている観客にもよく分からないように出来ています。
どの人たちも、また再犯するようにも考えられます。観客にもそれは分かっているのです。しかし、分かっていながらも「きっとこの人達は、ちゃんと生きていくのだ」と願ってしまっているのも事実なのです。
もちろん、それだけには留まりませんが、本作では様々な人が「自分にとって都合良いように」正常化バイアスを働かせて、物事を見ていく姿がよく描写されます。のろろという神様についての各個人の捉え方や、同じ前科者についての捉え方、きっと相手も自分と同じなのだろうと思ってしまう捉え方――それらが一気に集約され、爆発するのが本作のクライマックスなのです。
本作は、「羊の木」を「羊の木」以上に「羊の木」らしい内容として昇華させたと言えるのではないでしょうか。
1月に見た映画
1.カンフーヨガ
2.キングスマン:ゴールデンサークル
3.百円の恋
4.劇場版マジンガーZ/INFINITY
6.エクスマキナ
以上、6本です。
ちょっとスケジュールの組み立てをミスして、1月31日にもう2本鑑賞するつもりが、 2本を見終わったときには2月1日になっていて「あ、しまった」と。
というわけで、来月の鑑賞本数が10本くらいになっているかもしれません。
映画感想:劇場版 マジンガーZ/INFINITY
マジンガーZ最後の出撃?『劇場版 マジンガーZ / INFINITY』予告編
恒例の手短な感想から
終盤が良かったから、良し、とするかなぁ…………。
といったところでしょうか。
前評判的になんとなく気になる作品だったのですが、残念ながら自分としては「期待外れ」と言わざるをえない出来でした。そこまで素晴らしい作品とは言い難いかなと……。
「クライマックスの展開が辛うじて盛り上がる展開だったから、まあ良しとするか……」というその程度の感慨しか覚えられない、どうでもいい作品でした。
ものすごい単刀直入に言ってしまいますが、この作品の作り手たちは「昔のノリだから」「昔のスーパーロボットだから」という言葉を、作品への作り込みの甘さへの言い訳にしてしまっていませんか?
少なくとも、僕にはそう感じられる一作でした。
別に設定の考証を現実的にしろとか、整合性つけろとか、そういうことが言いたいわけではないのです。この作品の全体としての物語のバランスや、話を盛り上げるポイントの入れ方などが、いい加減過ぎるという話をしているのです。
ひょっとすると、これは自分がアニメ版のレッドバロン*1を大好きでいるためなのかもしれませんが、自分にとっては、今作のところどころがご都合主義なくせに、変なところでグダグダグダグダと理屈を説明する、妙なノリがまったく合わないのです。
あんな複雑な理屈じゃなくて「この力を与えるべきか迷っていたけど、あなたに預けます……」とか「兜甲児が、ピンチに『そうだ!敵の光子力エネルギーも同じ光子力エネルギーなら使えるんじゃないか!?』って思いつく」とか、もっと分かりやすくて、納得のいく理屈を付けられないものでしょうか。
自分なんか「絶体絶命だけど死ぬ気の根性で立ち上がったー!」で全然良いんですが。それで心の底から「最高だ!」と拳突き出して喜べるんですが*2、なんでこんなにグダグダ理屈付けちゃったんでしょうか。
そもそも、今回の話でゲストとして混ぜられているオリジナルキャラクター……彼女の存在は、どこからどう見ても、2000年台以降のガンダムSEEDに出てきそうなキャラクターにしか見えませんし、実際、彼女絡みの話は量子論やら多世界解釈やら*3、謳い文句の「昔のマジンガーZっぽさ」はどこ行ったんだ、と疑問に思う内容です。
実際、周囲とのキャラクターにまったく溶け込んでおらず、なんだかマジンガーZの映画というよりスーパーロボット大戦の映画を見ているような気分になってきます。それくらい、違う作品から急に連れてきてしまったような容姿です。
このように、どうにも自分にはこの映画の妙なノリは合いませんでした。ただ、戦闘シーンなどが面白かったことや、クライマックスの展開が素晴らしかったことも確かです。
例えば、板野サーカス的なミサイルシーン等々に代表される、いかにもなリアルロボット作品風の戦闘シーンも、既視感の塊のはずなのに、マジンガーZでやってみると意外と新鮮に感じられることは自分にとっても驚きの発見でした。
そして、なによりもクライマックスの世界の光子力がどんどん集まっていく展開ーー既存のこの手の「みんなの応援が!」的な展開の作品と比べる*4と、若干雑なところもあるのですが、それでも、やっぱりこういう展開はいいですね。単純に世界が協力するというシーンは、なんだか感動してしまいます。
一部、作画がおかしいシーンや、あと明らかに塗りのレイヤーと線画のレイヤーがズレているシーンなどもありましたが、全体的には良作画であったことも間違いないです。
なので「上記のことをもって、この映画は良しとする」ーー変な言い方になりますが、本作に関しては、この中途半端な感想が自分の感想になるのです。
*1:そんなものあったの? と思ったあなた。あったんですよ! Gガンダムの裏番組だったせいでマイナーだったけど、熱いロボットアニメが!
*2:例えるなら、柴田ヨクサルのエアマスターで「屋敷が浸透勁で気を打ち尽くして、もう立ったまま気絶しそう! そんな彼に坂本ジュリエッタの蹴り足がーー! 屋敷、死に物狂いで泣きながら、絶叫して彼の蹴り足をないはずの気で受け止め、そのまま相手の頭に最後の振り絞った一撃!」みたいな理屈じゃない熱い展開とか大好きなんですが
*3:またかよ!多世界解釈!SF関係者はなぜ、量子論の数ある解釈のうち、多世界解釈しか取り上げないのか本当に不思議です!全世界のSFの作家たちは多世界解釈以外を知らないのでしょうか?
*4:ウルトラマンティガとか、ドラゴンボールとか、あと、マイナーどころで言うと、アニメ版の住めば都のコスモス荘とか、数年前の映画版ドットハックとか
映画感想:キングスマン:ゴールデン・サークル
恒例の手短な感想から
さすがのマシューヴォーン。最高だ!
といったところでしょうか。
マシュー・ヴォーンという監督に外れなし! そう言ってしまいたくなるほどに、作品を作れば良作か名作しかないマシューヴォーン監督ですが、本作も相変わらず最高でした。
前作のキングスマンは、このブログでも書いたように「あまりにも特異すぎる傑作」であり、あれの続編を撮るとなると、さすがにマシューヴォーンと言えども難しいのではないかと考えていましたが、杞憂だったようです。
もちろん、何もかもがずば抜けた出来であった前作ほどの作品かと問われると若干、疑問のある部分はありますが、いわゆるシリーズものの二作目と考えると、本作は十二分な魅力のある成功作でしょう。
前作のキングスマンに見劣りしない、続編となっています。
まず、本作は前作からすると明確に方向性を変えています。前作は、強くオールド007をオマージュしており、前面に華麗さを押し出した上で、その華麗さを皮肉っているようなスプラッタギャグを挿入するような方向性でしたが、これをやめています。
本作はどちらかというと、華麗さよりも地に足のついた泥臭さがよく出ています。それは主な舞台がアメリカに移っていることからもよく分かりますし、なによりこの映画の主題として使われている、数々のカントリー系楽曲を見ても明白なことです。
そして、全体的によりコメディ色が強い出来となっています。ネタバレになるので避けますが、某ポップミュージシャンがこの映画で終始活躍する姿は間違いなく、観客の爆笑を誘うことでしょう。他にも小さいエロギャグなどが織り混ぜられており、前作以上に笑える一作となっています。
そして、この上記二つの変化により、前作とはアクションの方向性さえも変化が見てとれるようになっています。
断言しますが、アクションシーンに関しては本作の方が編集、スタント、流れているBGM、コメディチックなシークエンス含めて、前作よりも全てが上です。特にクライマックスのアクションシーンは、相変わらず音楽センスが抜群のマシューヴォーンによる、見事な選曲と絡まって、興奮間違いなしのシーンになっています。
正直、このシーンだけでこの映画の評価が3割は増していると思えるくらいに素晴らしいです。
ただ、もちろん、本作には欠点がないわけではありません。まず、なによりも本作は筋書きが、かなり適当です。前作も若干ツッコミどころはありましたが、本作はツッコミどころしかないような状態だと言えます。
ただし、冷静に考えれば、なのですが。
本作はクリフハンガー的に衝撃の展開が次々待ち受けているので、正直、冷静に考えている暇がないため、ツッコミどころが、あまり気にならないのです。
なにより、ツッコミどころだらけとはいえ、話のテーマに、相当な時事ネタを取り扱っていることは評価に値します。本作は間違いなく、ドゥテルテ大統領の麻薬戦争や、ドナルド・トランプのような存在、そして、それらを通して、世界中の右左構わず、正義にひたすら突っ走ろうとしている狂気の風潮を痛烈に皮肉っていることは間違いないでしょう。
また同時に実は麻薬常習者や、人間のおかしな感覚を皮肉っている内容でもあります。
冷静に考えれば、そもそもの麻薬自体、常習していれば、本作で敵が巻いていたウイルスの感染症状に近いようなことは、将来、起こるはずなのです。しかし、その危険性を気にせず、なんなら開き直って麻薬を常習するくせに、それがウイルスとなった途端に人間は大騒ぎしてしまうわけです。
これはなんとも皮肉げな設定でしょう。
このように、本作は相変わらず絶妙なマシューヴォーンの手腕をよく表す一作となっているのです。
映画感想:カンフーヨガ
恒例の手短な感想から
言うほど珍品でもない、普通に楽しい映画
といった感じでしょうか。
去年の年末らへんに、一部の映画好きやツイッターなどで話題になった映画が実はありました。「相当な珍品映画」「変なところしか無い映画」と評する人が多く、とても風変わりな映画があるのだとか。しかも、それがジャッキー・チェン主演の映画であるんだとか。
風変わりな映画ならば、まず見に行くことを信条にしているクソ野郎こと、自分としては観に行かない訳にはいきません。また自分は同時に、そこそこはジャッキー・チェン映画を好んでいる人です。やはり、観に行かない訳にはいきません。
というわけで、観に行った「カンフー・ヨガ」だったのですが……。
いえ、これ想像以上に普通に楽しめるエンターテイメント映画でした。
逆に言うとそこまで風変わりではないです。もちろん、これを風変わりだと誤って捉えてしまう人の気持ちも理解できなくはないのです。確かに、筋書きとしては矛盾点が多いですし、勢いだけしかないようなシーンも多いです。
また、最初の20分くらいは正直、つまらないシーンもあったりします。
しかし、この映画は、そういう風変わりなヘンテコ映画ではないんです。
むしろ、この映画は昔の連続活劇のノリを、現代的にやろうとしている映画というのが相応しい評価でしょう。実際、途中のセリフでインディー・ジョーンズのことに言及していますが、あれはインディー・ジョーンズ自体もまた、そういった昔の連続活劇に影響を受けている映画だからです。
昔の連続活劇は、全体的な話の整合性や、細かい理屈などがおかしい場面が多いものでした。観客をハラハラさせて、笑わせて、興奮させられれば、あとの細けぇこたぁどうでもいいんだよ!――っていうノリで作るのが、普通だったのです。
実はこの映画が無茶苦茶なのは、そのノリを復活させようとしているからです。実際この映画は頭から終わりまで、ギャグだらけです。しかも、ギャグの内容は使い古されたような古典的なものが大半です。そして、ギャグのないところには、ひたすらにアクションとスリルが入っています。
まさに連続活劇的です。
だからこそ、あちこちのシーンが整合性がつかなくなっていたりするのです。むしろ、あえてジャッキー・チェンの趣味で「整合性を付けさせていない」とさえ言っていいかもしれません。彼も連続活劇のファンだからです。
また、インドとの合作であるために、最後に入ってくる謎のダンスエンディングも、よくよく考えてみれば北野武の「座頭市」などでもあったものですし、まあ、この手のエンターテイメント性を追求した映画ではありがちなことです。
なので、本作はそこまで変な映画ではありません。むしろ、伝統的なエンターテイメント映画であると評していいでしょう。ですから、本作は風変わりな映画だけを求める変わり者だけではなく、もっと広い層に親しまれていいはずなのです。
ジャッキー・チェンのアクションも、このブログで去年取り上げた「スキップトレース」と比べると、編集や撮影などの妙もあり、だいぶマシに見えていますし、往年のアクション映画ファンならば一見の価値ありです。
ぜひ、鑑賞してみてください。