儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画感想:ちはやふる ―結び―


「ちはやふる -結び-」予告

 恒例の手短な感想から

驚嘆の一作

 といったところでしょうか。

 

 確かに「ちはやふる 上の句」は間違いなく、近年の実写化映画において珍しいほどにエンターテイメントとして、この上なく誰でも楽しめる内容になっており、素晴らしい映画であったことは間違いないのです。

 しかし、言っても邦画の悪い癖が抜けきれていなかったり、下の句になると若干、低調になっていたりもしたのです。

 面白いといっても「邦画としては面白い」というレベルの映画であったことも事実です。まだまだクオリティの詰められそうな映画シリーズでした。

 

 まさか、その「ちはやふる」がこんな頭抜けた傑作になってしまうとは……。

 

 一体、この映画シリーズになにが起こったのでしょうか。競技かるたの多彩な演出、あの手この手でクライマックスを盛り上げる一転集中した話の筋書き、効果的に使われるアニメーション……この映画は、なにもかもが、「上の句/下の句」の遥か上を行く出来で完成されています。

 ハッキリ言って、本作、現在同時期に上映されているディズニーピクサー映画と、真っ向から勝負しても構わないほどの出来です。「上の句/下の句」にあったキズは、ことごとく解消され、それどころか上出来な内容に修正が施され、カメラワークも、演技の付け方も、コメディシーンの入れどころと、そこからのシリアスに持っていく流れの上手さも、誉めどころにしかなっていないのです。

 

 ここまで映画の作り手たちが大きく成長を見せるとは、まったく予想もしていませんでした。

 

 本作は、とてつもなく素直な映画です。演出や脚本や演技の全てがストレートで、ひねくれていないのです。もちろん、ひねくれているから良い悪いという話ではないのですが、やはり、本作のようなカラッとした分かりやすい青春映画には、ストレートで素直な演出が似合います。

 昨今ブームになっている将棋報道の過熱ぶり、三月のライオンの演出、最近のラブコメ映画の演出、いろんな映画やアニメの表現をとにかく取り入れていこうという、作り手たちの姿勢は、まさに素直そのものです。

 おそらく、ここまで素直な演出は、何かとひねくれがちな、才能ある邦画の著名監督たちでは出来なかったことでしょう。

 本作をここまでの面白さに出来たのは、間違いなく作り手たちの努力と研鑽によるものだと言えます。

 そして、そんな素直にいろんな表現を取り入れ、この映画をとにかく面白いものにしようとした作り手の姿勢そのものが、本作のメインテーマと見事に噛み合っており、映画のテーマ自体の説得力にもなっているのです。

 

 

 ちはやふる原作ファンも、下の句だけならばあれですが、本作が「完結編」であるならば、大満足でしょう。鼻が高いでしょう。自分が好きな漫画がここまでの素晴らしい映画を産み出せたのだという事実は、とても心地が良いものでしょう。

 その感覚は間違っていないです。それほどの傑作が、本作です。

 

 唯一、ニコニコ動画の演出だけ、素直に取り入れすぎててどうなのか、と言われかねないものでしたが、自分からすれば、あの程度は愛嬌と考えればいいと思っています。

映画感想:シェイプ・オブ・ウォーター


『シェイプ・オブ・ウォーター』日本版予告編

 恒例の手短な感想から

高尚なフランス映画を見るような…

 といったところでしょうか。

 

 特撮とそしてホラーの監督として辣腕を振るい、もはやコアな映画ファンでなくても名前を認知する人が多くなってきたであろう、ギレルモ・デル・トロ監督の最新作にして、アカデミー賞総舐め作品、それが本作、シェイプ・オブ・ウォーターです。

 ギレルモ・デル・トロが幼い頃に見た特撮映画を基盤とした、オリジナル作品である本作の出来は一言でいってしまうと、「これ、ハリウッド映画って嘘でしょう?」としか言い様のないものになっております。良くも悪くも素晴らしくも、本作はまったくハリウッドらしさを感じない作品です。

 

 元々、ギレルモ・デル・トロの監督作品は、全体的にハリウッド映画らしくない、象徴的なガジェットやシーンなどが挟まれがちで、なおかつ映画の雰囲気もゴス気味な気配を漂わせていることも多かったのですが……とはいえ、パシフィック・リムヘルボーイなど「言っても、ハリウッド映画の監督」であったのが、ギレルモ・デル・トロでした。

 話の盛り上げ方や演出の分かりやすさ、高尚な内容にしようとしてもイマイチなんだか高尚にならないところ含めて、良くも悪くもギレルモ・デル・トロは「欧州映画とハリウッド映画の合の子を作る監督」という領域を決して出ない監督でした。

 しかし、本作は明確にそれが異なっています。

 

 アカデミー賞であれだけ賞を取れたことが不思議なくらいに、本作はまったくハリウッドらしくない映画となっております。まず、なんといっても、話の筋書きが恐ろしくシンプルです。

 この手の話のテンプレートをそのまま用いたような筋書きになっており、シンプルすぎて、あまり話に起伏がありませんし、先の読める展開しかやってこない内容となっています。ハッキリ言って退屈に感じる人が居てもおかしくないくらいに、シンプルすぎる筋書きです。

 そして、そのシンプルな筋書きをひたすらに、ギレルモ・デル・トロのイマジネーションと撮影技術、VFX技術で磨きあげ、映画としての魅力を発揮させている映画──それが本作なのです。

 

 文学で言うならば純文学に分類されてしまうような映画であり、本作の本質は話自体のテーマそのものよりも、「シンプルなテーマを、いかに豊潤なイメージで描くかという芸術性」に重きが置かれていることは明らかです。

 映画冒頭から延々と強調される水中のイメージなどがまさにそれを表しています。主人公の住まいをまるで海底の底に沈んでいるかのように演出し、淡い光だけが差し込む世界としてしまう、このイマジネーションです。

 それ自体がこの映画の魅力であり、価値です。

 ギレルモ・デル・トロがここまでヌーヴェルヴァーグめいたイマジネーションを抱えた監督であったとは……。

 

 本作はハッキリ言って、特撮技術等々を駆使しながらも、内容は極めて大人です。子供じみたところが一つもありません。イノセントな登場人物がいたとしても、そのイノセントな人物の視点のみに偏らず、その他の人物たちの視点を絡め、あくまで客観的に登場人物たちを見つめています。

 今までのギレルモ・デル・トロであれば、ここぞとばかりに特定の人物に寄り添い、他の人物の事情などまったく映しもしませんでした。映画の視点そのものが純粋で、残酷なほどにイノセント――それがギレルモ・デル・トロ映画であったのです。

 が、本作はそれを避けているのです。子供の気持ちだけを描く映画に留まっていないのです。

 

 何もかもが、今までのギレルモ・デル・トロ映画とは、明らかに異なる映画です。実際、ギレルモ・デル・トロ自身、この映画を撮って以降、自分の心境に変化があったということを方々で語っています。

 様々な点において、ギレルモ・デル・トロの諸作品の中でも最も異端であり、彼の内面の大きな変化を見ることが出来る作品――それが本作なのです。

映画感想:15時17分、パリ行き


映画『15時17分、パリ行き』予告

 恒例の手短な感想から

これが現実さと、イーストウッドは乾いた笑みを浮かべる

 といったところでしょうか。

 

 本作はかなり変な作品となっています。

 正直、クリント・イーストウッドを映画監督としてそれなりに尊敬している自分であっても「これはキツイ」と思わざるを得ない映画でした。つまらないというよりも、色々とおかしい作品なのです。

 

 既に様々な人から指摘されていますが、映画として本作は構成やら演出やら編集やらがおかしいのです。特に巷では、中盤のまったく意味がない上に長過ぎる観光シーンがよく取り沙汰されていますが、実はこの映画、それ以外もかなりおかしい映画です。

 

 本来、こういった題材で映画を作るとなれば、それなりにテロ事件のあった列車内での出来事に焦点をなるべく絞り、それを救った主人公たちをそれなりにドラマチックに描いていくはずです。

「母子家庭で学校などでも落ちこぼれ、軍隊でも落ちこぼれだった青年が、テロ犯を倒し、フランスから勲章を授与される」というこの映画全体のストーリ-からすれば、主人公たちを、それなりに格好良く、あるいは誠実な人間性などに脚色して描いたりするものです。

 

 しかし、本作はそれを避けています。

 

 むしろ、本作での主人公たちの姿は、軍隊で自分の荷物を盗まれてしまったり、しょうもない寝坊をしたり、観光でクラブに入ってはしゃいだり――まったく脚色がなされていないのです。むしろ、驚くほどに「現実そのまま」を描いていると言っていいでしょう。

 実際、主人公たちを演じているのは"本人"です。徹底的に現実だけを映画に封じ込めようとしていると言って過言ではないでしょう。

 

 このことでよく分かるのは、イーストウッドは、この事件のことをなんとも思っていないということです。

「アメリカ兵がたまたま乗り合わせて、テロ犯を倒した――だから、なんなんだ? 誇りに思えってのか? 思うわけないだろ」

 そう言いたげなイーストウッドの言葉が暗に聞こえてくるような映画になっています。

 

 実際、肝心のテロシーンも驚くほどにあっさり解決してしまいます。観客の「さぞかし、立派な英雄ショーが始まるのだろう」という期待を裏切るように、本作の主人公たちはテロ犯を軽々と倒してしまうのです。

 むしろ、犯人を捕まえるために行った、主人公たちの一連の攻撃をかなり痛々しく描写しており、その痛々しさはあえてリンチまがいの行為に感じられるよう、描いたのではないかと思うほどでした。

 その後も、イーストウッドはまったく主人公たちを善人に描く気がなく、むしろ、テロ犯よりも主人公たちの方がよっぽど怖い存在として描かれています。

 アサルトライフルを抱えながら、横柄な態度で他の車両の乗客に声掛けする主人公たちなどの姿は、それをよく象徴しています。乗客たちが一瞬、主人公たちをテロ犯だと間違えてましたが、間違えるのも納得してしまうほど、この主人公たちに「人間としての異常な面」を感じるように撮っているのです。

 

 クリント・イーストウッドは、本作を「面白い映画」として撮る気がないです。むしろ、映画の出来を犠牲にしてでも、浮ついた世の中に冷水をかけようとしています。現実なんてものはこんなものだ、と。

 

2月に見た映画

ゲゲゲの鬼太郎 大海獣

ゲゲゲの鬼太郎 大海獣
 

ゲゲゲの鬼太郎 最強妖怪軍団!日本上陸 

ゴースト・イン・ザ・シェル

羊の木


映画『羊の木』予告編

・ロープ/戦場の生命線 


【映画 予告編】 ロープ/戦場の生命線

祈りの幕が下りるとき


映画『祈りの幕が下りる時』予告

 

月初めに投稿するこの記事をすっかり忘れていました。

2月は……思った以上に鑑賞してなくて自分のことながら驚きです。反省して、3月はもっと鑑賞ペースを上げたいと思います。

映画感想:祈りの幕が下りる時


映画『祈りの幕が下りる時』予告

 恒例の手短な感想から

これは本当に面白い

 といったところでしょうか。

 

 予告編の段階で、この映画から「明らかに面白い映画の匂い」がしていたことに驚いた人は僕だけではないでしょう。新参者シリーズは東野圭吾ファンでもなんでもない――ただの映画ファンからすれば「所詮、テレビ屋が『どうだこれ、面白いだろう?』とどや顔で出してくるつまらない映画」の一つに過ぎなかったからです。

 

 ですが、本当に本作「祈りの幕が下りる時」には、確かに面白い映画の匂いが漂っていました。予告編の断片的な映像の中にある、撮影照明や背景美術、ロケーション等々からひしひしと「作り手たちの本当にやりたいことが実現できている」印象を受けたのです。

 映画ファンでない人には「他の映画と何が違うんだろう?」と首を傾げるかもしれません。しかし、何百本と酸いも甘いも噛み分けた映画ファンには、この映画は面白くなっているかもしれないと予感を感じる予告編でした。

 

 実際、本作は相当に良くできた映画です。かなり映画にうるさい自分でさえ、納得させられるほどのクオリティを持ったミステリー映画となっています。

 少なくとも本作を見て、退屈することはまずないでしょう。

 

 まずなんといっても、本作は冒頭からとてもテンポがいいです。今まで邦画がやりがちだった説明的な台詞を排し、テロップと組み合わせながらタンタンと気味の良いリズムで、複雑な話の中に観客を巻き込んでいるのですが、これがかなり上手いのです。

 情報の出し方に過不足がありません。見れば分かることは言わず、見ても分からないことは言う。至極当たり前ですが、これが出来ているのと出来ていないのでは映画の出来は大きく変わります。

 そして、本作は間違いなく、それが出来ています。

 

 この時点でだいぶ感心したのですが、次に感心したのは撮影のクオリティです。残念ながら、最高の出来の撮影、というわけではありません。が、しかし映画としては申し分のないクオリティであることは間違いないです。

 さりげない僅かな視点の移動や、些細なズームアップが画面を飽きさせない工夫として活きていますし、要所要所でのレイアウトもしっかりしていました。真相を明かしていくパートで、舞台の様子を窓に反射させ、そこ越しに二人を撮すのも象徴的で感心しました。なによりも途中、主人公・加賀恭一郎が橋の名前を次々言い当ててくシーンのカメラワークは見事です。あそこでメモ帳にだんだんと焦点を合わせていくのは完璧としか言いようがありませんでした。

 

 さらに本作は細かい演出等への配慮も、かなりしっかりしていました。

 特に自分が感心したのは、今回の真犯人が犯行に至るまでの描写です。正直、あの状況であの犯行を行うこと自体は、下手な描き方をすれば「サイコパスな、自分勝手な犯人が、自分勝手な納得で殺してしまった」ようにも受け取られかねない状況なのです。

 しかし、本作ではそう受け取られないように、本作の肝であるメインテーマに反しないように、丁寧に気を使って描写をしていました。それは台詞も、もちろんそうなのですが、細かい演技でもそうなのです。あの人は、そうなることを望んでいたのだ、と感じられるようにちゃんと配慮をしているのです。

 だからこそ、本作は本当に心置きなく、感動ができます。

 実のところ、まったくこの手の物語で感動しない――どころか、冷ややかな目で見がちな自分でさえ、このクライマックスでは目が潤んでしまいました。音楽の盛り上げかたといい、非常に上手かったです。

 

 本作はここの描写を完璧に描けたことが、今までの東野圭吾映画化作品とは一線を画しています。

 ファンには申し訳ないですが、僕が見てきたかぎり、東野圭吾の映画化作品の最大のネックはこういう箇所だったからです。

 東野圭吾は良くも悪くも典型的な直木賞作家です。ベッタベタで読んでいて背中が痒くなるような、頭の悪い高校生が大人ぶって喜んでそうな、読者に媚びまくった、そんな感動シーンを織り混ぜがちですし、しかも、それを無駄に強調しがちな作家です。

 文章で読む分には、まだ"文章というマジック"が効いているので良いのですが、実際に映像にしてしまうと「なんか、うすら寒いぞこれ」と冷めてしまうことも多々ある作家なのです。

 

 そこを見事に映像化出来ている本作は、なるほどシリーズ最高傑作とファンの方々が褒め称えるのも納得できます。

映画感想:ロープ/戦場の生命線


【映画 予告編】 ロープ/戦場の生命線

 恒例の手短な感想から

これが戦争なのか。

 といったところでしょうか。

 

 戦争映画というと、大抵の映画が戦場――それも決まったように最前線ばかりに目を向けられがちですが、当たり前のように、最前線だけが戦争の真実を映しているわけではありません。

 戦争の中にあっても日常は存在しており、死や残酷のみが存在するのではなく、その中には生活があり、経済があり、様々な人間模様があります。もちろん、そういった戦争の日常に焦点を合わせた作品たち――「町の人気者」「この世界の片隅で」など――も昔から存在しているのですが……いずれの作品も、そこまでは克明に戦争を描けていてはいなかったのかもしれません。

 

 そう思えてしまうほどの、戦争をテーマにしたコメディ作品が、存在していました。

 それが本作、「ロープ/戦場の生命線」です。

 

 本作は誰もが光を当てることがなかった「戦争のある側面」に初めて光を当てた作品と言えるでしょう。

 それは「停戦」という側面です。

 WW2やWW1時には存在しなかった――しかし、現実の、現代の戦争には必ずついて回っている大きな要素――「停戦」と「国連軍/NGO」の人たちに焦点を当てた、斬新な戦争映画が本作なのです。

 

 初めに断っておきますが、この映画には「戦争らしい描写」というものが一切存在していません。戦闘機が機関銃を放つことも、マシンガンが無残にも人を撃ち抜くことも、爆弾が人を粉微塵にしていくことも、一切起こらないのです。

 当たり前ですね。「停戦時」なんですから。1995年のボスニア・ヘルツェゴヴィナです。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の最末期――和平交渉が行われているような時期なのです。普通の感覚ならば「もう戦争は終わった」「もう平和になったんだ」と思ってしまうような、そんな時期の「戦争」の話です。血しぶきの一つも出てこないのが当たり前なのです。

 いえ、それ以前に、そもそもこの映画は主人公たちのNGO職員たちが、井戸に落ちた死体を引き上げるためのロープを探し回るだけの映画でしかありません。ただ、それだけの映画なのです。

 戦争後の復興のためにあちこちの集落へ行ってはトラブルを解決していくNGO職員が、いつものように、トラブルを解決していくだけの映画なのです。内容も、全体的にはブラックジョークを交えたコメディです。クスリと笑ってしまうようなギャグが出てくる映画なのです。

 

 

 しかし、この映画には、どの戦争映画よりもハッキリと明確に「戦争」があります。

 いえ、むしろ「銃弾が一つも出てこない内容」であるからこそ、本当の戦争が見えているのかもしれません。銃撃のうるさい音や、感傷的な死がないからこそ、そんな表層的に隠れた「戦争の姿」をよく暴き出しています。

 主人公たちの、道に落ちている牛の死骸を見ながら「どっちに地雷が埋められているのだろうか?」と悩む姿に、ただロープを買おうとするだけで店主から拒絶されてしまう姿に、子どもたちが何気なくハンドガンを持ち出してしまう姿に、すっかり人の居なくなった街の中でくだらないロープのジョークを語りだす姿に「これが戦争なのか」と実感出来るのです。

 その日常なのに、あまりにも日常とかけ離れた日常を生きている姿に、どうしようもなく戦争を実感してしまうのです。

 そして、今もなお「きっと紛争地域では、まだこういったことが起こっているのだろう」と誰に言われるでもなく、想像を巡らせてしまうのです。

 

 本作はそういった意味で、最も優れた戦争映画であるのかもしれません。

映画感想:羊の木


映画『羊の木』 予告編

 恒例の手短な感想から

原作よりも、良いかもしれない、傑作

 といったところでしょうか。

 

 羊の木は、一部で話題になっていた漫画です。犯罪者が更生して、一般人として日常生活に溶け込んでいくなかで、様々な出来事が起こっていくというその内容の特異さや、ぼのぼの等でお馴染みの漫画家いがらしみきおが作画を担当していることから、伊集院光などが取り上げ、そこから広まっていった漫画です。

 本作を実写化すると聞いて、自分としては「まあ、最近の邦画って意外と実写化で良い映画撮るから、面白い映画になるかもなぁ」と思っていたのですが、その通りでした。

 本作、実写版羊の木はかなり面白いです。下手すれば原作さえ超えてしまったのではないかと思うレベルで、原作が提示したテーマを深く追求することが出来ています。

 実は、前述の複雑なテーマや設定からすると、拍子抜けするほどに原作は良くも悪くも大雑把であり、かなり大味な内容です。

 犯罪者の描写もいい加減ですし、様々な設定にその場のノリで作ったような雑さがあり、話の終わり方も(作り手が意図している以上に)強引な面があったりもします。

 

 原作の雑な部分は、映画にするにあたって明らかに不味い要素でした。原作はいがらしみきおのあの絵柄だから許されている部分が多く、それを単に実写にしてしまうと、観客からは「不愉快な要素」「現実離れした、感情移入を妨げる要素」として受け取られてしまう可能性が高いのです。

 そこを上手に、実写にしても不快に取られないように、丁寧で繊細な設定に改変しているのが本作なのです。さすが、「桐島、部活やめるってよ」の吉田大八監督といったところでしょうか。原作を上方修正するのが、本当に上手い監督だと思います。

 結果、本作では、原作の様々な設定が変わってしまいましたが、じゃあ、原作の魅力が損なわれたかというと、そんなことはまったくありません。むしろ、原作では殺人者以外の前科を持つ者もいたところを、映画版では殺人者のみにするなど、よりキツい設定を用いることでテーマをより濃く煮出すことに成功しています。

 

 

 本作の象徴である羊の木には、様々な意味が付随していることは、映画からも原作からも読み取れると思いますが、特に羊の木が強く象徴しているのは、科学的に言うところの「正常化バイアス」でしょう。

 羊の木とは、原作で説明がありますが、綿という植物を知らなかったヨーロッパの人たちが、綿を誤解した挙句に都合の良い妄想で作り上げた架空の植物です。映画冒頭で引用された東タタール旅行記*1の一節は、羊の木を空想して描いた一節です。

 当時のヨーロッパでは、東方旅行記*2などの旅行記にて、得手勝手な妄想を「実際に見た」と吹聴して回ることが多々あったのですが、その文化の中で生まれた空想の生物が羊の木なのです。

 

 言ってしまえば、「自分の常識と違うものと遭遇した時に、やってしまう都合の良い解釈」の果てに、羊の木という空想の産物が生まれてしまったのです。だからこそ、羊の木は「自分の常識と違うものと遭遇した時に、都合の良い方へ」考えようとしてしまう人間の性質――つまり、正常化バイアスを象徴するに相応しい木です。

 

 本作「羊の木」では、元犯罪者たちの姿を「まさか、身近なあの人がそんな酷い人な訳がないだろう」と思い続ける人々の姿がよく描かれています。実際には、彼らが本当に罪を償って反省している人なのかどうかは、本作を見ている観客にもよく分からないように出来ています。

 どの人たちも、また再犯するようにも考えられます。観客にもそれは分かっているのです。しかし、分かっていながらも「きっとこの人達は、ちゃんと生きていくのだ」と願ってしまっているのも事実なのです。

 

 もちろん、それだけには留まりませんが、本作では様々な人が「自分にとって都合良いように」正常化バイアスを働かせて、物事を見ていく姿がよく描写されます。のろろという神様についての各個人の捉え方や、同じ前科者についての捉え方、きっと相手も自分と同じなのだろうと思ってしまう捉え方――それらが一気に集約され、爆発するのが本作のクライマックスなのです。

 本作は、「羊の木」を「羊の木」以上に「羊の木」らしい内容として昇華させたと言えるのではないでしょうか。

*1:ちなみに、映画冒頭で引用されていた東タタール旅行記ですが、少なくとも、それなりにこの手の本を知っている自分でも、この本については聞いたことがありません。おそらく、この本は実在しないと思われます。本作のテーマに合わせて、存在しない旅行記をあたかも存在しているかのように引用したのでしょう

*2:ちなみに、マンデヴィルの東方旅行記には羊の木――バロメッツについての記述があります。本当に羊の木のことが書いてある旅行記はこっちです。自分は実際に東方旅行記を読んだことがあるので間違いないです。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村