儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画感想:ペンギン・ハイウェイ


映画『ペンギン・ハイウェイ』 予告1

 恒例の手短な感想から

まあ……どうでもいいよね

 といったところでしょうか。

 

 若干、巷で炎上気味な騒ぎが起きていた本作。別に自分としてはコロリドというアニメーション会社にも、もっと言えば、原作の「ペンギンハイウェイ」自体にも、大きな感心はなかったのですが、火事場の野次馬的な魂胆で見てきました。

 感想としては上記の通り「まあ……その、そこそこ?」という感じの感想になっております。

 

 なぜ自分がここまで、歯切れの悪いような感想を抱いているのかというと、端的に言って「出来自体が微妙だったから」に他なりません。別に巷で一部の人が騒ぐような問題点など、この映画には存在していませんし、かといって、貶すのもかわいそうだと言って擁護したくなるほど立派な作品でもありません。

 強いて言うならば、コロリドは頑張ってアニメーションを作っていたとは思いますが、それ以上の感想は特に出てこないのです。

 

 本作、ペンギンハイウェイはーー原作の時点でそうなのですが、そこそこ、ある種類の純文学的な要素を兼ね備えた作品です。

 ある種類、と勿体ぶって書いていますが、これはようするに「村上春樹的な純文学」のことです。「夜は短し、歩けよ乙女」などの著作で知られる森見登美彦が、なにを思ったのか、村上春樹的な小説を書こうとして、書いた小説ーーそれが本作なのです。

 

 この作品は、実は全てがそれで説明がつく作品です。

 例えば、本作を巡って「幾原邦彦監督的な空気感を感じる」とか、そういった感想なども目にしますが、それは幾原邦彦監督の芸術性は、ほぼ村上春樹から影響を受けて出来たものだからです。元が同じなので、派生した本作と幾原作品が似ているように見えるのは当然なのです。

 また、本作を巡っては、性的な要素が目につくような感想も一部囁かれていますが、それは「ノルウェイの森」などの村上春樹作品で見られた「性的なメタファー」あるいは直接的に描かれている性的モチーフを、森見流に真似しているだけに過ぎません。

 

 本作とは、「自分がなぜおっぱいをずっと見てしまうのか、理解できなかった(つまり、性に目覚めていなかった)少年」が、「好きだから、おっぱいを見てしまうんだと理解し(つまり、自分の性に目覚めて)思春期を迎えようとしている」という、ただそれだけの話に過ぎません。

 それらを、いかにも村上春樹的な隠喩としての動物やファンタジー描写を使い、七面倒臭く、回りくどく描いている作品が本作なのです。 

 

 そして、同時にこれが本作の問題点でもあります。村上春樹的な文学を森見登美彦が書いていること自体に、何らかの意味や新しい価値がないのです。
 村上春樹的な「性、異性との触れ合い」を、村上春樹的な隠喩めいた動物やら、ファンタジー的描写に託し、物語全体を作り上げることで、物語全体に何らかの意味を施すという手法を森見登美彦が行ったところで「だから、なんだ。何が言いたいんだ。なにを見せたいんだ」としか言いようがありません。
 

 ただでさえ、村上春樹本人の小説であっても、上記の手法は食傷気味で、作品を出せば出すほど、「ファンでさえ、呆れて離れていっている」始末だというのに。

 そんなわけで、本作、ペンギンハイウェイはそもそも原作の時点で、相当に「どうでもいい作品」だったのです。そんな話を、かなり忠実にアニメ化してしまったせいで、どうでもいい作品がどうでもいい内容のまま出来上がってしまっています。

 

 そこまでの作品なのです。

映画感想:ファントム・スレッド


美しすぎる…『ファントム・スレッド』30秒予告

  恒例の手短な感想から

 "見えない糸"に圧倒されて……………。

 といったところでしょうか。

 

 本作は、久しぶりのポール・トーマス・アンダーソン監督作品だというのに、なぜか巷では、あまり注目もされず、話題にもなっていないーーどころか、上映館すら今までよりもずっと少ない状態でした。

 自分も気まぐれにネットを検索するまでは、本作の存在を知らず、気づいたときにはだいぶ上映館も少なくなっていたのですが、どうにか都内最後の上映館で見てきました。

 見た感想なのですが……こんなにも面白いのに、こんなにも感想に困る作品もないですね。

 

 本作、出来栄えとしてはとてつもなく素晴らしいのです。はっきり言って、かなり面白いです。

 この映画には、見た人の誰もが「あの場面どう思った?」「あの瞬間、どう感じた?」と同じくこの映画を見た方々に語りたくなってしまう、圧倒的な魔術力があります。

 しかし、具体的に「本作のどこがどう素晴らしいのか」を説明しようとすると、これがあまりにも難しくて感想に困るのです。

 

 本作は怖い映画です。ある面においては。

 しかし、怖いばかりの映画ではありません。笑えてしまうような場面もあり、普通のラブロマンスでもあったりするのです。

 そして、時折、話の筋書きがおかしかったりもします。

 しかも、話の筋書きがところどころおかしいにも関わらず、本作は観客の理解を拒むようなタイプの映画ではなく、基本的には登場人物たちの言っていることや、やっていること、抱いている感情は観客でも共感できる内容なのです。

 

 特に、一つのある恋愛をーー人間関係をーー描くことに注力する、本作は人間関係における難しい駆け引きや、難しい葛藤を巧みに浮かび上がらせており、それをフィルムに映すことに成功しています。

 例えば「好きだからパートナーに合わせなければいけない」という気持ちと「相手も好きであるはずなのに、なぜ合わせなければいけないのか」という2つの気持ちで板挟みになる主人公・アルマの心境や、後半でそれと同じような葛藤を彷徨うことになる主人公のパートナー・レイノルズなどの心境には、共感を覚えた人も少なからずいたのではないでしょうか。

 しかし、それでも、最終的に誰もがこう思ったはずです。

 

「この主人公たち、何を思っているのかサッパリ理解ができない」と。

 一瞬、とても共感しそうになっただけに、最終的に「あぁ、やっぱりこの人、全然自分と違うんだ。自分には理解できない人なんだ」となったことに、衝撃すら覚えたはずです。

 そして、ある意味で、衝撃的なオチにこう思ったはずです。

「どうしてそうなるのか」と。

 

 実際、自分も鑑賞中はかなり唖然というか、呆然とした記憶があります。「ここまで積み上げた物語を、こんなふうに終わらせてしまうことが、あっていいのか」と。しかし、そんなふうに呆然とさせられたというのに、なぜか本作に対して、不思議と怒りも呆れも出てこないのです。

 これは、なぜなのでしょうか。

 きっと、自分の心の中の何処かで、このオチが腑に落ちたのだと思います。

 つまり、矛盾した書き方になりますが「あぁ、なんか分かるかも」とも自分は思っていたのです。

 

 当然、この映画のように、自分の身の回りが、あんな極端で過激な状況になったことなどはありません。が、例えば「明らかに嘘だと分かっているのに、明らかに自分を騙そうとしているのだろうと、察しているのに、それに対して、怒りすら沸いていたのに、いざ対峙すると、諦めのような境地になって…………あるいはそんな境地すらなく、ただただ流れで首肯していた」ーーそんな程度の経験ならば、自分の二十数年の薄い人生経験でも、数え切れないほど多くあります。

 だからこそ、このオチにーー言ってしまえば観客に向かって粗暴に殴りかかってくるようなこのオチに、不思議と怒りが沸いてこなかったのではないでしょうか。

 

 確かに筋書きとしては、話の流れとしては、この映画は節々が理解不能で、流れのおかしい映画なのです。オチでさえも。

 しかし、「人間ってそういうものじゃないか」と問われたとき、自分たちはあまりにもそれが否定出来ないのです。

 見えない糸でどうしようもなく繋ぎ合わされ、その糸の両端を引き合いながら、こっちへあっちへとフラつくアルマとレイノルズの姿を「変だ。奇妙だ。気持ち悪い」と思いつつも、「こんなことはあり得ない」と全てを否定することができないのです。

 

 つまり、この映画は描き出したのは、恋愛における、いえ人間関係における、そんな人間の姿なのです。そこらへんの漫画や小説や映画が描き出す、絆や縁なるものとは明らかに違う、現実の恐ろしく美しく面白い"縁"に縛られた人間の姿なのです。

 だから、この映画はとてつもなく素晴らしいのです。

映画感想:志乃ちゃんは自分の名前が言えない


南沙良&蒔田彩珠主演『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』予告編

 恒例の手短な感想から

中途半端な出来

 といったところでしょうか。

 

 作り手側が、本作をアイドル映画のつもりで作っているのであれば、別にこんな出来でも良いのですが……残念ながら、普通の映画として見た場合、本作はあまりいい出来の映画ではないでしょう。

 

 本作が取り扱っているのは、いろいろな人が、いろいろと過剰反応しがちなテーマであり、だからこそ、自分がこのブログで、このような低評価を下す事自体を恨む人もいることだと思います。

 が、そういった人の存在を認識した上で、やはり自分は「本作は駄目な映画である」と主張します。

 浮世にいらっしゃる、居丈高に世の中を見下したい人たちからすれば「吃音症をテーマにしている」「原作からして、知る人ぞ知る作品で、大抵の人は知らない」というこの2つの理由だけで支持出来るのかもしれませんが、残念ながら、自分はそんな腐った人間ではないのです。

 

 本作は、根本的な部分こそ間違ってはいないものの、作り手たちの作品に対する姿勢に、いい加減だったり、中途半端だったりするところが多すぎます。 

 例えば、主人公の志乃が初めて歌声を披露するカラオケの場面。ここは、主人公のそのままの歌声を聞かせるべき場面であるはずなのに、なぜか、主人公の歌声に思いっきり、カラオケの音程補正機能が入ってしまっています。

 初めて観客が聞く、「喋れなかった主人公が見せる歌声」がかなり加工されたものになってしまっているのです。これは映画上の演出として、明らかに駄目でしょう。

 その後の場面では、主人公の歌声に変な音程補正が入っていないので、意図的な演出でもなさそうなのです。おそらく、この場面を撮ったスタッフの誰一人も、一切、音程補正機能が入っていることに気づいていなかったのではないでしょうか。

 このように、本作の重要な位置を占めている音楽の扱いが、本当にいい加減なのです。細かいところまで気が使えていません。

 

 他にも、菊池が志乃にアイスクリームをおごって謝る中で、志乃が「なんで?!うるさい!」と叫んで飛び出してしまう場面。果たして、あの場面を見たあなたは、あのタイミングでなんで志乃が「なんで?!うるさい!」というセリフを言いだしたのか理解できましたか?

 おそらく、大抵の人が「なんで急にそんなこと言い出したの?」と戸惑ったのではないでしょうか。あの場面で菊池に対してぶつける言葉にしても「うるさい!」という言い方になるのだろうか?と。

 無理もないことだと思います。なぜなら、あのセリフは原作から無神経に引っ張ってきたセリフだからです。

 原作では、あの場面で菊池は志乃に対して「前から実は気になっていて、本当は志乃と仲良くなりたいと思っていた」と告白をしているのです。

 そして、志乃はそれまで苦手意識があり、自分をからかっている人間だと思っていた菊池が、実は自分のことを好きだった事実に戸惑って「なんで?!うるさい!」とつい叫んでしまうーーという場面が、あの場面なのです。

 

 この原作の流れを、映画はかなり改変しています。別に改変自体は悪いことではないのですが、当然、改変した分、登場人物たちの心持ちなどの変化に合わせて、セリフ等の細かいディテールも変えないといけないのは当然のことです。

 が、この映画はその部分を疎かにしてしまっているのです。

 この場面に限らず、要所要所の場面で「そのセリフは原作の流れだから、出てきたのであって、映画版だとちょっと意味が分からない」というセリフが散りばめられており、作り手の雑さが際立っています。

 

 また、本作、前述の音楽の扱いのいい加減さもさながら、そもそも音楽シーンが無駄に長すぎです。特に、この映画の音楽は「音楽を描きたい」「自分が思う音楽のテーマを提示したい」という類のものではなく「単に、監督が好きだから、作り手に好きな人がいたから、無理して流させました」というマスターベーションめいた使い方をされているので、単純に音楽好きとして「ふざけんな!」と頭に来ます。

 

 もちろん、あれだけ短すぎる原作を、原作の要素だけで映画にしようとすると、どうしても尺が足りなくなるので、こういった水増しシーンを突っ込むのも分からなくはないのですが、それならば「海外の映画等々と同じように、原作のテーマや題材、重要な場面などを取って、別の話として作り上げるべきだったのでは?」と思います。

 

 現に、本作、結構な要素が原作から改変されています。

 中には、良い改変もあるのです。原作の「おかしな要素」を器用に削ったり等も出来ているのです。しかし、そこまでやるのであれば、いっそのこと、話ごと作り変えてしまうべきだったのではないでしょうか。

 

 本作は、そこまで大きく話も作り変えず、そのわりに重要な場面だけは、妙に変わっていてーーという具合であり、つまり、前述したように中途半端なのです。

7月に見た映画

ニンジャバットマン


映画『ニンジャバットマン』 日本用トレーラー【2018年6月15日劇場公開】

ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー


「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」日本版予告

未来のミライ


「未来のミライ」予告

グレイテスト・ショーマン


映画『グレイテスト・ショーマン』予告D

平山夢明の眼球遊園 I 大日本ノックアウトガール

・ 劇場版 ドラゴンボール 魔神城のねむり姫

 ・映画 ちびまる子ちゃん 大野君と杉山君

 

 以上、七本になります。

 グレイテスト・ショーマン。若干、「褒めすぎじゃね?」と思う箇所があるものの、想像以上に良い映画で感動しました。特に前半の、サーカスシーンは「マイノリティを哀れまない姿勢」が素晴らしいなぁと。「マイノリティの味方だぜ」みたいな顔して、平然と哀れんでくる不快映画、国内外問わず多いですからねぇ……。

 あと、「ちびまる子ちゃん 大野君と杉山君」が意外と良い映画です。

 

映画感想:未来のミライ


「未来のミライ」予告

 恒例の手短な感想

細田守ジャイアンリサイタルを見て何が楽しいのか

 といったところでしょうか。

 

 細田守監督作品の中でも――どころか、それなりに予算を割かれた、アニメ映画の中でも最低の出来と言って過言ではないと思います。

 アニメ映画は、どうしてもその作品の性質上、「予算がないと、多少はアレな出来になっても仕方がない」面があり、その分を考慮して評価を考えないといけない難しさがあるのですが、本作はその点で言えば評価が楽です。

 どう見ても本作は、予算を大量につぎ込み、優秀なアニメーターたちの才能を無駄に消費させた上で、作り上げられた巨大なクソ映画であることは自明だからです。

 

 本作は、宮崎駿やら、高畑勲の失敗作・迷作とも比べ物にならないレベルでの駄作です。ハッキリ言って、本作は全てがどうしようもない出来で、どの要素から悪しざまに貶したとしても問題がない作品です。

 

 例えば、この作品のタイトル「未来のミライ」についてもそうです。ハッキリ言って、この作品を見た人は大抵、「未来のミライ」という題にとてつもなく違和感を覚えたはずです。なにせ、未来のミライちゃん、本編に二回しか出てきませんから。

 そして、テーマと比較して考えても「未来のミライ」という表現はおかしいわけです。この作品の言いたいこと(これについても、色々な文句があるので後述しますが)からすると、本作品のタイトルは「未来のミライ」ではなく「現在のクン」になってないとおかしいのです。

 でなければ、なんのために作ったあのラストなんだよ、という話になってしまいますから。

 

 そして、次におかしいのは登場人物の名前です。言わずもがな、主人公の「くん」です。このふざけた名前はなんなんでしょう。僕は、てっきり予告編で見たときは「あだ名・愛称」として、くんちゃんと呼ばれている男の子なんだと思っていたのですが、どうも本編を見るかぎり、本当に両親が付けた名前のようなんです。

 ……で、自分の子供に「くん」とかいう、イジメまっしぐらな名前をつける両親の愛情について、この映画はどうこう語っているんですが……正気なんですか?! 愛情?! 自分の子供に「くん」とか付ける人の愛情?! 

 例えば外国の映画で、自分の子供を「ミスター」なんて名付ける親の物語があったとしたら、それはまず間違いなく、児童虐待をしている親の話になります。

 まったくもって、神経が理解できないです。

 

 そして、次におかしいのは、くんちゃんの言動です。主人公のくんちゃんはすごく、幼い子どもの設定なのですが、言葉遣いが変なところで昭和の大人なんですよね。しかも、難しい単語等もまったく淀みなく言えてしまう始末。

 好きくないや、索引など「野原しんのすけでさえ、そんな言葉使わないぞ」と言いたくなるレベルの言葉を次から次へベラベラ喋ること喋ること……おそらく、宮崎駿ならば絶対にこんな子どもは描かないでしょう。

 

 そして、極めつけに言えるのは、本編自体のどうしようもなさです。本編はずっとこの構造で作られています。

「くんちゃんにとって、気分が良くない出来事が起こる→ひょこっと突然、くんちゃんの目の前に、変な人が現れる→くんちゃんの心を、その人が全部代弁する→その人がくんちゃんの気持ちを肯定か否定する」

 映画として――いえ、物語として、最低の手法でこの映画は紡がれていると言っていいでしょう。なにか起こるたびに、周りの人たちがみーんな、みんな、くんちゃんの気持ちや状況を説明してくれるわけです。

 観客からしたら、言わなくても分かることを、いちいち、それもなんかウザったい――いかにも子供受けを狙ったような、子どもを舐めきっている――パントマイム付きで、登場人物たちはくんちゃんの気持ちを語ってくれてしまうのです。

 

 そして、この物語の中枢をなす、テーマも最低で――いえ、確かに言っている事自体、自分たちはたくさんの過去から出来ている、というテーマ自体は良いものかもしれません。

 ですが、ハッキリ言って、この物語のテーマって、湯浅政明監督が「マインド・ゲーム」で説明無しで描いたはずのものでしょう?

 あるいは金子修介監督が「百年の時計」で、個人どころか時代ごと一気に振り返って見せたものでしょう。

 あるいは小田雅久仁という小説家が「本にも雄と雌があります」で「ラディナヘラ幻想図書館」という形で描いたものでもあります。

 

 この映画のテーマは、他の様々な作家が描いてきた偉大なイマジネーションを、とてつもなくチンケに真似しているだけなのです。

 それくらい陳腐なテーマなのです。しかも、それをやっぱり、セリフでベラベラと説明しています。他の作家は誰も説明などせず、映像や物語全体や描写だけで描いていたものを。

 

 で、本作はなぜこんな酷いことになっているのか――それは、おそらくですが、細田守という人間自体が原因なのでしょう。

 ハッキリ言って、本作をここまで劣悪な出来にしてしまったのは、ひとえに細田守の独りよがりが原因でしょう。タイトルの「未来のミライ」や主人公の「くんちゃん」という名前、全て、細田守がそういう好みだから入れたものなのでしょう。

 くんちゃんの、凄まじく違和感のあるセリフ回しも、結局、細田守声を当てている女優さんにそういう言動をさせるのが好きだからでしょう。実際、劇中では「うぅー」だの「むむぅー」だのそういう言動を未来のミライちゃんや、クンちゃんが無意味にしている場面も目立っていました。

 きっと収録現場では、そういう言動を女優さんにさせながら、ニヤニヤしてたであろうことは想像に容易いです。気持ち悪い

 そして、やたらめったら説明しまくる本編の惨憺たる様相――これ、別に細田守作品では、今作に限った話ではないですからね。前作のバケモノの子や、いえそれ以前の作品から続いている傾向でありました。

 おそらく、細田守は登場人物の気持ちを、作中でズバズバ説明させるのが好きなのでしょう。

 そして、テーマ――急にラストになって、それまでそんな話など一つも言い出していなかったのに、索引だのインデックスだの言い出して、ほぼ観客の全員が困惑したことと思いますが、それも、結局、細田守が最後にそういう索引だのなんだのという話をして、自分を格好良く見せたかったのでしょう。

 本編も、宮崎駿を真似したような場面もあれば、片渕須直を真似したような場所もあり、山内重保を真似したような場面もあり、湯浅政明を真似したような場面や、芝山努を真似したような場面もあり、原恵一を真似したような場面もありました。

 おそらく、細田守が真似したかったのでしょう。

 

 この映画はそれが全てなのです。

 細田守の究極の独りよがりであり、独り相撲――端的に言って、細田守ジャイアンリサイタルを見せられただけなのです。

 

 信者ならば、教祖様のジャイアンリサイタルは、最高に見えるのでしょうが、そうでもない人からすれば、ただのジャイアンリサイタルです。見るに値していません。

映画感想:ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー


「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」日本版予告

 恒例の手短な感想から

これがスターウォーズだ!

 といったところでしょうか。

 

 アメリカでは大コケしていて、興行成績が惨憺たるものになっていたという、本作「ハン・ソロ」ですが――ハッキリ言って、これを大コケさせるとか今のアメリカ人はセンスが一ミリもない恥ずかしい人たちなんだなぁ、と言わざるを得ません。

 これほど、見事にスター・ウォーズの魅力を引き出した作品はないでしょう。

 少なくとも、エピソード7、ローグワン、エピソード8という一連のスターウォーズ作品と比較しても、最もスターウォーズらしさを醸し出している「これこそがスターウォーズだろう!」という観客の気持ちをよく汲み取った作品です。

 いえ、それどころか、ジョージ・ルーカス自身が監督したエピソード6までのシリーズと比較しても、まったく遜色のないスターウォーズ然としたスターウォーズに仕上がっています。

 本作は、ジョージ・ルーカスが見失ってしまっていた”スターウォーズ”という作品の面白さを、ちゃんと引き出した作品だと言えるでしょう。

 

 スターウォーズ・シリーズの魅力は、ライトセーバーの振り回しや、フォースという超能力だけに宿っているわけではないのです。

 スター・ウォーズの魅力とは、

1.細かい伏線や、ファンだけがクスッとしてしまうような描写などの細部

2.あるいは、西部劇や時代劇、ミュージカルなどの古典的な戯曲から引用した、活劇然とした筋書きやあらすじ

3.時代劇と西部劇に強く影響を受けたライトセーバー・レーザーガンなどのアクション

4.宇宙の舞台に繰り広げられる、荒唐無稽、奇想天外なクリーチャー・惑星・機械・景色などのイマジネーション

5.そして、それら全てを整える、スター・ウォーズ以前のSFにはあまり見られなかった、全体的な泥臭い雰囲気

 この5つ、全てから作り上げられたものだと言えるでしょう。

 そして、これだけ多岐に渡る様々な要素が組み合わさって、出来上がった魅力だからこそ、ジョージ・ルーカスでさえ、その魅力の本質を見失い、迷走していってしまったわけです。

 その後も様々な監督たちが悪戦苦闘していましたが、どの監督も、上記5つのうち、どれかに魅力を特化させて「エピソード7」「ローグ・ワン」「エピソード8」という三つの作品を作り上げていっていました。

 ジョージ・ルーカスの迷走ぶりを見ても明らかなように、5つ全ての魅力を拾い上げるとなると、至難の業ですから。

 

 しかし、この映画はその5つ全てを拾い上げることに成功してしまっているのです。

 

 この映画の出来は驚異的と言わざるを得ないです。なぜ、このような傑作を作り上げることが出来てしまったのか――それは、変な言い方になってしまいますが、本作を作る過程のいざこざで、まったく違うタイプの監督2組が関わることになってしまったのが、大きな要因だと言えます。

 

 本作はどう見ても、途中で揉めて監督が交代してしまったことで、映画が傑作になってしまったとしか思えないのです。

 当初、本作の監督は、クリス・ミラー&フィル・ロードという二人の監督コンビによって作られる予定でした。

 確かに、本作を見てみると、いかにもクリス・ミラー&フィル・ロードコンビっぽい、今風な感覚で作り上げられた、大人にしか分からないヒドいブラックジョークや、巧妙な伏線が本作には散りばめられており、当初二人が監督する予定だったことがよく伺えるのです。

 しかし、二人がディズニーと揉めてしまい、監督は交代。途中で、ベテランのロン・ハワードに監督が変わってしまうのですが――これもまたとても頷けるのです。

 例えば、西部劇的な決闘の場面の、妙にゆったりしていて、これ見よがしで、しかし、なんだか妙に性急なところもあるカット割りや、クライマックスでヒロインの目の周りだけにライトを当てる演出など、そこかしこの演出が妙に古臭いのです。

 明らかに上記部分はロン・ハワードによって撮られた場面なのでしょう。

 

 この、クリス・ミラー&フィル・ロードの、今風な感覚で作り上げられている要素と、ロン・ハワードの古臭い感覚で作り上げられている要素――普通の映画では噛み合わなくて、いかにも「駄作」と呼ばれるものになってしまう要因でしょう。

 しかし、本作では、むしろ、その2つがこの上なく、相性良く混ざり合っているのです。なぜ混ざり合ってしまったのか――その答えは、だいたい察しがつくと思いますが……。

 

 そうです。この作品が、スター・ウォーズだからです。

 

 スター・ウォーズSF的な部分、イマジネーションの部分においては、クリス・ミラー&フィル・ロードの新しい感覚が良いアクセントになっており、なおかつ、スター・ウォーズ古典的な部分、アクションの部分においては、ロン・ハワードの古臭い感覚が良いアクセントになっているのです。

 つまり、偶然にもスター・ウォーズという作品にとっては、監督が交代したことが良い方向へ作用してしまった――と、そう言えるのです。

 実際、ディズニーと揉めて監督を交代したはずの、クリス・ミラー&フィル・ロードコンビも、ちゃっかりエグゼクティブ・プロデューサーとして、エンドロールにクレジットされていましたし、それくらい、作り手にとっても、本作は大誤算で上手くいった作品だったのではないでしょうか。

 

 本当に、本作は奇跡の作品なのではないでしょうか。

映画感想:ニンジャバットマン


映画『ニンジャバットマン』 日本用トレーラー【2018年6月15日劇場公開】

 恒例の手短な感想から

バットマン映画としても、時代劇映画としても、上質

 といったところでしょうか。

 

 正直、当初は見る予定もなく、予告編を見ても「どうせ、面白くないんだろう?」とどこか見くびっていたのですが、周囲の評判が「賛否両論だと思うけど、僕は好きだ」という意見だけで占められていることに、非常に興味を持ちまして、見てきました。

 結論から言ってしまうと、かなり面白かったです。

 本作、近年のDCコミック映画の中では、トップレベルの出来栄えと言って過言ではないでしょう。このところのDCコミック映画といえば「スーサイド・スクワッド*1等々、アレな出来栄えの映画が多かったわけですが、間違いなく、それらと比べても非常に良くできた映画です。

 

 なんといっても本作が素晴らしいのは「バットマンヴィランズが日本の戦国時代にタイムスリップしてしまった」という無茶苦茶な基本設定や、ツッコミどころだらけのシュールな筋書き、さすがポプテピピックの神風動画と言いたくなるような、インパクト重視のアニメーションが跋扈し、あれもこれも、てんこ盛りにした内容――にもかかわらず、実はちゃんとバットマンの映画としてテーマが成り立っていることが素晴らしいと言えます。

 いえ、むしろ、前述した、一見、無茶苦茶に見える――別にバットマンでやらなくていいじゃないかと思えてしまう――この映画の様々な、バットマンらしくない要素たちは、実のところ、バットマン的なテーマを成り立たせるための舞台装置として使っているとさえ言えるでしょう。

 

 戦国時代という時代設定であるために、いつものような、ハイテク兵器を使うことができないという状況下――戦国時代という時代設定であるために、本当にヴィランズが一国を支配できてしまう世の中という状況下――司法制度どころか、そもそも警察機構さえないという世の中であることが、バットマンという存在の意味合いへの問いかけになっています。

 中盤のレッドフード、バットマンと記憶を失ったあの二人*2とのやり取りや、バットマンと彼*3が一瞬手を組んでしまう展開などに、それはよく現れていたと言えるでしょう。

 

 そして、あのジョーカーがバットマンに対して、戦いを通じ、しつこいほどに存在意義を問いかけ続けるクライマックス――本作はバットマン映画としてよく出来ているとしか言いようがないでしょう

 

 もちろん、普通であれば戦国時代という時代設定の中で、そんな現代的なテーマを持ち込んでしまうと、違和感が大きかったり、「え、この時代にそんな話する必要性あるか?」と感じられてしまったりするのですが、その違和感も実は本作では少ないのです。

 むしろ、戦国時代という時代設定の中で、バットマン的なテーマを持ち込むことが極めて自然に感じられます。

 これもまた、日本の戦国時代という時代設定であるから、なせた技でしょう。旧来の時代劇映画では、実はこういうバットマン的なテーマの話が終盤で出てくる作品がとても多いのです。

 日本人の価値観の根源である、神道や仏教自体が「善悪」というものを問う側面があることも寄与してか、時代劇映画こそ、実は「善悪」の話をよくする映画ジャンルでした。眠狂四郎シリーズや、座頭市シリーズでも、そういった作品は少なからず存在します。

 

 つまり、実のところ、本作は時代劇映画としても、実はかなり上質な出来栄えになっているのです。

 

 本作は、一見、水と油のように見える、戦国時代とバットマンという2つの要素ですが、実はこの上なく相性の良く、お互いを引き立て合うことが出来るだ――ということを、よく証明している映画ではないでしょうか。

*1:ただ、スーサイド・スクワッドに関しては、ちょっと一部の人たちが過剰に酷評しすぎている、とも思いますが……あの人達の中では、有名な雑誌とかで貶されたら、自分も一緒になって口汚く罵らなきゃいけない不文律でもあるんですかね?

*2:ネタバレのため、表現をぼかしています。

*3:ネタバレのため、表現をぼかしています。

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