映画感想:ムタフカズ-MUTAFUKAZ-
恒例の手短な感想から
散漫な出来
といったところでしょうか。
まず、初めに確実に誤解がないよう、言っておきたいのですが、草彅剛は本作の主人公の声優としては、あまりにもハマり役だったと思います。あの、ちょっとナヨっとした感じで、面倒くさがりそうな声は、まったく違和感がないレベルで、本作のキャラクターとマッチしていました。
また、本作が魅力のない映画だとも思いません。むしろ、魅力はよく溢れています。特にこの映画の前半は、本当に画面にのめり込んで見そうになってしまうほど面白いです。
どこからどう見ても、GTA5に相当強く影響を受けているように見える、ギャングスタ的なビジュアルや各種登場人物の設定、そして、銃とバイオレンスに満ちた舞台、その中で出自不明な主人公が、とある出来事から徐々に巨大ななにかに巻き込まれていくストーリーライン――どこか既視感がありながらも、しかし、見たことがない作品に仕上がっており、かなり好感を覚えていました。
その好感も後半に入って全て消滅してしまいましたが。
この映画は後半、ストーリーラインが無茶苦茶なことになります。おそらく作り手は露悪的にやっているのだと思われますが、これがハッキリ言ってちっとも面白くないのです。別に、そういう雰囲気や設定の作品ですし、無茶苦茶な筋書きになっても良いとは思うのです。
しかし、この映画の場合は、それが作り手のマスターベーションで終わってしまっているのが、残念なのです。
本作の、一番の問題は「何がしたいのかは、分かるが、それにしては関係ない話をしすぎだ」という、ここにあると思います。
本作が、何をしたいのかは非常に分かりやすいのです。簡単に言ってしまって、主人公と、ある女の子の間に生まれる愛の話をしたいことは、物語全体を見ても明白なことです。
それ自体は別に良いのです。この映画はいかにもギャングっぽく、バイオレンスな話です。そこで、純真な話をテーマにするというのは、もはや、この手の作品の常套手段でもあります。
ただ、本作の場合は、この愛の話がちっとも頭に入ってこないのです。もっと彼女が主人公をどこかで労ろうとする場面や、あるいは、主人公がもっと彼女に好意を伝えようとする場面があれば、頭に入ってきたのだと思います。
が、実際の作品では、それらの場面の代わりに「地球温暖化がどうだ」というつまらない陰謀論や、結局、話とあまり関係がなかったプロレスラーたちや、くだらない脇役同士の物語的に極めてどうでもいい銃撃戦などが入っており、とてつもなく散漫な出来になってしまっています。
そんな状態の作品で、クライマックスに、取ってつけたようにキスシーンだけ入れられて、それで納得しろと言われても……そんなの小学生くらいしか納得しないでしょう。
映画感想:プーと大人になった僕
恒例の手短な感想から
まさにプーさんらしい話
といったところでしょうか。
まず、本作について何よりも言いたいのは、実は本作、「プーと大人になった僕」が原作の者である、AAミルンの思想をよく反映させた一作となっているということです。大抵の人は驚かれると思いますが、本作はその見た目とは裏腹に「とてつもなくプーさんらしい一作」となっているのです。
嘘だろ、と思われる方も多くいることだと思われます。
「大人となり、いわゆる最近で言うところの社蓄となってしまったクリストファーロビンが、ボッロボロで、しわがれたおっさん声のプーさんと出会う」なんて、まるでちょっと前に流行ったテディべア映画のTEDのような内容ですし、それらを鑑みて、「きっと、本作は原作のプーさんから、かけ離れた、大人向けに作り直されたプーさんが本作なのだろう」と思ってしまう方も多くいるのではないでしょうか。
しかし、それが違うのです。おそらく、上記のような誤解をしてしまった方は、元々の「くまのプーさん」がどういう作品であったかをご存じないだけなのです。
実のところ、「くまのプーさん」は一見すると子ども向けに作られた作品のように見えて、その実、「大人が自分の中に隠してしまった子供心」に対して、訴えかけようとしている作品です。
「くまのプーさん」は、他の作品で言えば「星の王子さま」などの作品と、かなり本質は近い作品です。
くまのプーさんの原作者であるAAミルン自体も――現代的な視点では異常に見えるほどに――幼少時の空想や幼さゆえにあるものの貴重さに重きを置いており、そういった「柔軟で豊かな空想力を持つ幼少期」「それを失ってしまう成長の悲しさ」を描いた作品をいくつも書き残している作家です。
「くまのプーさん」もそういった作品の一つであり、後にディズニーによって作られたくまのプーさんの初長編アニメーション作品「くまのプーさん 完全保存版」も、その思想をかなり反映させた内容となっております。
ここまで書けば、大抵の人が察すると思いますが、本作はまさにそんなAAミルンの原作や、元々のディズニーアニメの「くまのプーさん」の底にあった思想を、分かりやすく掬い上げてきた作品なのです。
本作のクリストファーロビンは、戦争を経験し、現実を経験し、仕事に追われるうちに徐々に、幼少時の大事なことを忘れていきます。それは、元々、本当はAAミルンやウォルトディズニーが「くまのプーさん」を通じて、考えを訴えたかった当時の大人たちと一致するキャラクター像となっています。
そんなクリストファーロビンが、再びくまのプーさん――つまり、幼い頃の自分の思い出と出会うことで、疲れきっていた心身を癒し、歪んでいた自分を治していく作品が、本作なわけです。極めて、AAミルンやウォルトディズニー的な思想を色濃く反映させた作品と言えます。
作中で描かれるプーさんたち、100エーカーの森の様子も、かなり原作に忠実であり、プーさんたちも、実在感を持てるように作ってあり、本作が原作をとことんまでリスペクトした作品であることは明白です。
「お馬鹿なプーさん」と笑いながら、プーさんの世話をするクリストファーロビンの姿は、原作ファンはもちろんのこと、原作を知らない人たちにも「無邪気な頃の自分」を思い起こさせてくれることでしょう。
若干、クライマックスだけが強引な展開でとってつけたように終わってしまうのが、残念なのですが、それ以外の魅力が大いにある良い作品でした。
映画感想:泣き虫しょったんの奇跡
恒例の手短な感想から
タイトルに似合わず、中身は将棋版ロッキー!!!
といったところでしょうか。
自分が将棋ファンであることは、当ブログやツイッターにてしばしば言及していることですが、そんな将棋ファンである贔屓目を抜きにして考えても、本作は間違いなく、傑作であると言えます。
本作は、瀬川晶司五段のベストセラー本が原作となっております。瀬川晶司五段は、藤井聡太七段が起こした、いわゆる「藤井フィーバー」の真っ最中に対局相手の一人として注目されたため、将棋ファン以外の方もご存知の方が多いと思いますが、社会人からプロ棋士へ編入した、将棋界でも珍しい経歴を持つ棋士の一人です。
そんな彼が、いかに奨励会で将棋を挫折し、そして、いかなる経緯でプロ棋士への昇華を見せたのかーーそれを語っているのが、原作のエッセイ「泣き虫しょったんの奇跡」です。
その原作である「泣き虫しょったんの奇跡」にあった魅力を、本作はこの上なく引き出していると言っていいでしょう。
原作の魅力とは、つまり「夢を追う」という表面の薄っぺらい言葉に隠れた、夢自体に存在する過酷さや、それに情熱を持ち続けることの難しさ、夢というメリットしか強調されない概念が持つ巨大なデメリットーーそれらを含んだ上でなおも「夢を目指したい」「夢を叶えたい」と思うことの素晴らしさのことです。
自分もまた夢を持ち、それ以外の道を閉ざして人生を生きたことのあるものだからこそ、言えるのですが、夢は呪いや希望なんて言葉で表せるほどの単純な物事ではありません。もし、そんな単純な言葉で夢を表す人が居たならば、きっとその人は世の中のごく一部しか居ない「難なく夢を叶えられた人」なのでしょう。
そうでない人たちは、夢を叶えた人であれ、叶えられなかった人であれ、この概念がいかに単純なものでないかを知っています。
自分という存在への葛藤や、自分の才能や経済状況や年齢という現実との板挟みの中で、自分は間違っているのではないかと何度も否定し、ある日は肯定し、楽観的になり、悲観的になり、迷い苦しみーーそれほどの苦難と蛇の道を歩みながらも、最後には、極めて単純な「敗北か勝利」の二択しか出てこない――そんなあまりにも複雑で、単純で、言い表せない物事が夢というものだからです。
そして、そんな「夢という物事の複雑な現実」が素直に綴られているのが、原作の「泣き虫しょったんの奇跡」でした。
このエッセイに多くの人が感動したのは、間違いなく、原作の瀬川晶司五段の姿は「多くの人に共感できるもの」があったからでしょう。
そして、この映画はそこを極めて的確に描いているのです。特に素晴らしいのは脚本です。この映画の筋書きは、ハッキリ言ってこの種の物語としては、殆ど完璧な出来であると言えるでしょう。正直、あるならば脚本の教科書に載せたいほどです。
瀬川晶司五段以外にも、多数の夢破れた者たちや、夢を諦めた者たち、夢の中で葛藤した者を登場させ、その人達の願いも一身に背負って棋士を目指す瀬川五段という筋書きにした本作は、本当に見ていると「これは将棋版ロッキーじゃないか!」と叫びたくなることだと思います。
おかげで、結果が分かっているはずのプロ編入試験に観客まで手に汗を握ってしまうのです。そして、心の中で「棋士になってくれ」とついつい願ってしまうのです。非常に優秀な脚本だと言えます。
またそれ以外も、夢破れたときの瀬川五段の気持ちを表すサイケデリックな演出等に代表される全般の演出やカメラワーク、細かい時代考証まで気を使って可能な限りで当時を再現させたであろう美術設定、シンプルなロック調で統一された音楽なども、本作は非常に良く出来ており、かなり映画として面白い作品となっています。
結構、普通の映画ファンにもオススメの一作です。
映画感想:寝ても覚めても
恒例の手短な感想から
まさか、ここまで見事に映像化するとは
といったところでしょうか。
本作の感想を書くにあたっては、まず何よりも、柴崎友香という作家について語らなければなりません。大抵の映画ファンは彼女のことを知らないだろうと思うからです。柴崎友香は文学畑の人間には、なかなか有名な純文学作家です。
数年前に芥川賞を受賞し、その、日常を的確に捉えた表現力や、またそんな表現力の上で生み出される独特の作風が印象的な作家であり、日常的な場面とその「日常的な場面」に内包された複雑なテーマを描き出す、その内容は「高度に発達した日常系」とでも言うべきでしょう。
自分などの浅い本読みなどは、"現実に、あり得たかもしれない可能性"の姿を描き出していく「わたしがいなかった街で」などに大変に関心したりする作家さんなのですがーーその小説家の小説が、まさか映画化されているなんて、と本作に対しては驚きしかないです。
「寝ても覚めても」
本作は、なんと「万引き家族」のパルムドール受賞で賑わった、今年のカンヌ映画祭でーー「万引き家族」の影に隠れて、実は好評を得ていた作品です。実際、受賞にこそ至らなかったものの、既に多くの国での配給が決まっているらしく、いかに本作が評価を受けていたかが想像に容易いと思います。
事実として、本作は極めて面白い映画です。原作である柴崎友香の「寝ても覚めても」に遜色ない、見事な作品となっています。
セリフを排し、人の仕草や行動や視線や、はたまたカメラワークなどの細かい妙技で演出された本作は、繊細な登場人物たちの心の機微を十二分に描き出すことに成功しています。早い話が本作「言葉がなくても、分かる」映画なのです。
その上、原作の、緻密でどこか美しい日常描写を、まったく原作通りに描き出している時点で、既に自分からすれば「素晴らしい」としか言いようがないでしょう。原作の日常描写は、とてつもなく映像化が難しいものだからです。
原作は文章のマジックによって魅力的に描かれているだけで、映像にするとだいぶ、シンプルというか、言ってしまえばショボい光景であったりすることもままあるからです。
また、本作はテーマ的な意味でも、極めて映像化が難しい作品でした。前述で、自分は、原作者である柴崎友香のことを「"現実に、あり得たかもしれない可能性"の姿を描き出していく「わたしがいなかった街で」などに大変に関心したりする作家さん」と書きました。
実は、これ、本作「寝ても覚めても」もまたそうなのです。
本作を鑑賞された方は、主人公のふわふわとした存在感に違和感を覚えた方も多いのではないでしょうか。これは意図的に演出として、このような存在感になっているのです。
ふわふわとした、何処と無く不安定な存在として主人公を描くことで、「主人公の未来や将来がまだハッキリと定まっていない感じ」を醸し出すためです。そうして、主人公の「あり得たかもしれない、もう一つの自分」と「現在の自分」の2つの間で揺れ動く姿を描き出すためです。
「え? そんな場面が、この映画にあったの?」と思われた方、あったじゃないですか。
同じ顔で、性格が正反対の二人の男が、同じ場面に居合わせる場面が。
本作の主題である、同じ顔をした二人の恋人という設定ーーそれはこの物語が単純な恋愛ドラマではないことをよく示しています。わざわざ同じ顔にしているのは、おそらく、本作の二人の恋人は、主人公のあり得る未来の姿、それぞれを表しているからでしょう。
主人公は二人の恋人のうち、どちらを選ぶかによって、その未来が大きく変わってしまうことは明白です。つまり、あの二人はある意味で「主人公のあり得る未来の姿そのもの」であったわけです。
その二人が同じ顔をしているーーこれは、喩えるなら量子力学の逸話であるシュレディンガーの猫のように「2つの未来が、同時に存在しており、重ね合った状態になっている」ことを暗に示しているのでしょう。
この映画のクライマックスは、まさにその「2つの未来が、同時に存在する状態」であり、そして、ふわふわとしている主人公は、その中でどちらの未来を選び、また、なぜその未来を選ぼうと決めたのかーー実は本作はそういう話であるのです。
これを、この映画は描くことが出来ています。
実際、二人の男が同じ画面内で出てきた瞬間の「ただの恋愛ドラマとは違う、異常なことが起きている」と観客に感じさせる描写の見事さは、語りつくせません。この場面で二人の男を演じ分けた東出昌大も、相当に素晴らしいです。
ここまでの映像作品として、映像化を出来てしまったことは驚嘆の一言に尽きるでしょう。
8月に見た映画
映画感想:ペンギン・ハイウェイ
恒例の手短な感想から
まあ……どうでもいいよね
といったところでしょうか。
若干、巷で炎上気味な騒ぎが起きていた本作。別に自分としてはコロリドというアニメーション会社にも、もっと言えば、原作の「ペンギンハイウェイ」自体にも、大きな感心はなかったのですが、火事場の野次馬的な魂胆で見てきました。
感想としては上記の通り「まあ……その、そこそこ?」という感じの感想になっております。
なぜ自分がここまで、歯切れの悪いような感想を抱いているのかというと、端的に言って「出来自体が微妙だったから」に他なりません。別に巷で一部の人が騒ぐような問題点など、この映画には存在していませんし、かといって、貶すのもかわいそうだと言って擁護したくなるほど立派な作品でもありません。
強いて言うならば、コロリドは頑張ってアニメーションを作っていたとは思いますが、それ以上の感想は特に出てこないのです。
本作、ペンギンハイウェイはーー原作の時点でそうなのですが、そこそこ、ある種類の純文学的な要素を兼ね備えた作品です。
ある種類、と勿体ぶって書いていますが、これはようするに「村上春樹的な純文学」のことです。「夜は短し、歩けよ乙女」などの著作で知られる森見登美彦が、なにを思ったのか、村上春樹的な小説を書こうとして、書いた小説ーーそれが本作なのです。
この作品は、実は全てがそれで説明がつく作品です。
例えば、本作を巡って「幾原邦彦監督的な空気感を感じる」とか、そういった感想なども目にしますが、それは幾原邦彦監督の芸術性は、ほぼ村上春樹から影響を受けて出来たものだからです。元が同じなので、派生した本作と幾原作品が似ているように見えるのは当然なのです。
また、本作を巡っては、性的な要素が目につくような感想も一部囁かれていますが、それは「ノルウェイの森」などの村上春樹作品で見られた「性的なメタファー」あるいは直接的に描かれている性的モチーフを、森見流に真似しているだけに過ぎません。
本作とは、「自分がなぜおっぱいをずっと見てしまうのか、理解できなかった(つまり、性に目覚めていなかった)少年」が、「好きだから、おっぱいを見てしまうんだと理解し(つまり、自分の性に目覚めて)思春期を迎えようとしている」という、ただそれだけの話に過ぎません。
それらを、いかにも村上春樹的な隠喩としての動物やファンタジー描写を使い、七面倒臭く、回りくどく描いている作品が本作なのです。
そして、同時にこれが本作の問題点でもあります。村上春樹的な文学を森見登美彦が書いていること自体に、何らかの意味や新しい価値がないのです。
村上春樹的な「性、異性との触れ合い」を、村上春樹的な隠喩めいた動物やら、ファンタジー的描写に託し、物語全体を作り上げることで、物語全体に何らかの意味を施すという手法を森見登美彦が行ったところで「だから、なんだ。何が言いたいんだ。なにを見せたいんだ」としか言いようがありません。
ただでさえ、村上春樹本人の小説であっても、上記の手法は食傷気味で、作品を出せば出すほど、「ファンでさえ、呆れて離れていっている」始末だというのに。
そんなわけで、本作、ペンギンハイウェイはそもそも原作の時点で、相当に「どうでもいい作品」だったのです。そんな話を、かなり忠実にアニメ化してしまったせいで、どうでもいい作品がどうでもいい内容のまま出来上がってしまっています。
そこまでの作品なのです。