映画感想:クレイジー・リッチ!
手短な感想から
気軽に見るのに、最適の一作
といったところでしょうか。
傑作というほどの作品ではないのかもしれませんが、映画としては十分に面白い作品ではないでしょうか。
クレイジー・リッチ!と題された本作は、アメリカで育った中国系アメリカ人が、恋人の実家を訪ねてみたところ、なんと実は恋人は、シンガポールで巨万の富を築いた超大金持ち一家の唯一の跡取り息子であったーーという、なんとも、題材だけ聞けば少女漫画チックな物語となっています。
実際、本作は女性向けに作られている面が多少なり見られる作品ではあるのですが、では、男性が見たらつまらない映画なのかというと、そうでもありません。
確かに、題材こそ少女漫画チックではっきり言って非現実的な設定なのです。
しかし、その題材の中で描かれるのは、例えば、同じ中国系でも、アメリカで育ったアメリカ系中国人と、中国の伝統を重んじているシンガポール系中国人の間にある文化的な溝や、あるいは庶民の文化の中で育った人と、大金持ちの文化の中で育った人の間にある認識の溝についてであり、そういったシビアな現実をちゃんと物語の中に組み込むことが出来ています。
「あぁ、やはり、中国人でも育った場所によって、ここまで人間としての差が出るんだなぁ」と納得できる物語になっているのです。
そして、この作品は、その上で、この手の恋愛ものらしく「愛する人と一緒に居たいけど、現実的に考えたらまず無理」という、恋と現実に板挟みになる男女の姿を描くようにしています。だからこそ、表層的には悪い意味で非現実感のある設定でも、観客の共感を呼ぶことが出来ています。
土台として現実的にありそうな問題を持ち込んでいるために、この板挟みで心痛める男女の姿や気持ちも、なかなかの説得力があるのです。
また、随所に忍ばせてある暗喩も見事で、例えば、映画の序盤で「一夜しか綺麗な花を咲かせないーーつまり、一晩だけ咲き誇って、後は散ってしまうーー月下美人」を出すことで、ひょっとすると主人公の超大金持ちの彼との恋もまた、いずれは散ってしまうものなのではないか、と観客に暗に連想させようとしているのは、なかなか良い演出ではないでしょうか。
その他の箇所でも、主人公たちの行く末をさりげなく、そして、若干不穏気味に描いていく演出が小気味よく挟まれており、その点でも感心されられました。若干、あからさま過ぎる演出も散見されるのですが……。
もちろん、冒頭で述べたとおり、傑作と呼べる出来ではないのも事実で、本作のSNSの描写は、あまりにも幼稚な描き方で、かなり悪い意味でキョトンとしましたし、なによりも映画の終わり方にズッコケそうにもなりました。
いや、この手の恋愛映画で最終的に、ああいうハッピーエンドになるのは、別段お約束みたいなものなので、構わないのですが、しかし、主人公にあれだけのことをして、あれだけ見下したことを言っていた人たちまで、あそこで「イエーイ!」ってなってるのは、さすがにちょっとないでしょう……。
そういうわけで、本作、そこまで重く受け止める作品というわけでもないのです。ただ、気軽に見る映画としては十分に面白い内容となっています。
映画感想:若おかみは小学生!
恒例の手短な感想から
普通に駄作。なんで、これ評価されてるの?
といったところでしょうか。
巷の評判を聞きつけて、鑑賞した本作ですが「過大評価」という言葉がとても似合う作品でした。本作は評判の「今話題の素晴らしい作品」という評価からすると、驚くほどに、作品全体の出来が低調すぎるものとなっています。
ハッキリ言って、見ていて何が面白いのかよく分からないほどに、つまらないのです。
もちろん、評価する人たちがどこを評価しているのか、ということは分かります。
十中八九、クライマックスの展開を見て評価しているのでしょう。かなり強引で、ご都合にも程があるほどツッコミどころだらけの展開で、もたらされたクライマックスでしたが、「でも、泣ける話だから、それでいいだろう。これは傑作だ」というのが、評価している人たちの気持ちなのでしょう。
ですが、「それでいいだろう」で許容できる範疇というものがあります。この映画は明らかに許容できる範疇を大きく下回っています。
いえ、そもそも、このクライマックス自体も、実はそこまで良い出来とは言い難いのですが……。
この映画の問題点は根本的に「何がしたいのかよく分からない」というここに尽きるでしょう。
「両親を事故で亡くしてしまった、主人公おっこが、祖母の旅館に引き取られ、そこで出会った幽霊に旅館を継ぐように頼まれて、『来るものを拒まない』という華の湯温泉の旅館を継いで若おかみを目指し、いろいろな事情を抱えるお客様と出会っていく中で、両親の死というトラウマを乗り越える話」――この映画のあらすじを簡単に書き出してみましたが、この時点で、一つの映画としてあまりにも要素が多すぎることは明白です。
いえ、映画でなかったとしても、単純に物語としても、異様に設定が多すぎます。
パッと見ても「この映画は死をテーマに話がしたいのか?」「死をテーマに、といっても幽霊、両親、どっちの死が主題なのか?」「旅館で働くという話をテーマにしたいのか?」「それとも、出会っていくお客さんたちをテーマにしたいのか?」等々、どういう話にしたいのかがサッパリ見えてこない内容となっています。
そのため、このあらすじを一つの物語として、成立させたいのならば、どうしてもテーマを絞る――ある要素の描写を抑え、ある要素の描写を強調することで、方向性を明白にするという抑制が必要になってきます。
大人向けの映画でも当然、そういったテーマの取捨は必要ですし、子供向けアニメ映画ならば、なおのこと、話をぼやけさせないために、よりくっきりとテーマを取捨する必要性があります。
で、この映画はそういった抑制によって、どのテーマへ絞ったのかというと――これがまったくどのテーマにも話を絞っていないのです。
おそらく、未鑑賞の方は前述までの文章を読まれて「え、クライマックスの両親の死に繋がるように描写を絞ってるんじゃないの?」と思われるかもしれません。が、残念なことに、この映画は全てのテーマに対して、逐一、曖昧な描写しかしないのです。
ちょっと話が逸れますが、うじうじして、いつまで経っても、何がしたいのかハッキリ言わない人って居ますよね。
なんだか、音楽活動だか小説活動だか分からないけれども、なんか創作活動でもやっているらしくてバイトで生計を立て、しかし「そこそこいい年齢に達しているからやめどきかもしれない」などと口走っておきながら、就職などは別にしないで「じゃあ就職しろよ」と言われると、急に「いやでも、両親が年老いていて、介護しなきゃいけないから田舎に帰らないといけないかも」と言い出し、「じゃあ田舎帰れよ」と言われると、今度は「まだ帰るほどの年齢じゃない、創作活動あるし」とか言い出す、煮えきれない人――おそらく、この文章を読んでいる人も何人か思い当たる人がいることでしょう。
この映画は、まさにそれです。
主人公・おっこが両親の死を受け入れているような描写を出したかと思ったら、次のシーンでは両親の死を受け入れていないようなシーンを入れ、「え、結局、おっこは両親のこと、どういうふうに認識してるんだ?」と疑問に思っていると、そこから関係ない「幽霊がどうしたこうした」という話が始まり「あぁ、この幽霊たちの話が主軸なのかな」と思っていると、今度は「お客さんがどうしたこうした」という話を始め、「じゃあ、今度こそお客さんを饗す話が主軸になるんだな」と思っていると、そのお客さんの話の途中から、また「両親の死がどうした」という話が始まり「え、やっぱり両親の死をテーマにしたいの?」と思っていると、また今度は関係ない「幽霊がどうしたこうした」という話が始まり――本当にクライマックスの直前まで、こんな調子で、一体何を話の主軸にしたいのか、さっぱり分からないままなのです。
そして、クライマックスになって急に「やっぱり、おっこは両親の死を受け入れてませんでした!」と言い出したかと思ったら、次の瞬間に「でもおっこは両親の死を受け入れました!良かったね!ほら、あなたも感動感動!」と薄っぺらく言い出すのが、この映画なのです。
泣ける場面が来たら「あー泣けるっ」ってなる瞬間湯沸かし器みたいな人以外は、そんな唐突な描写で感動できるわけが無いでしょう。
原作や、元々のTV放映版も、こんな無茶苦茶な構成になっているのかなと簡単に調べてみましたが、どうやら、全然違うようですね。
ちゃんと話の主軸を「旅館と幽霊」に絞ったりしているらしく――つまりは、なぜこの映画がこんなにしょうもない出来かというと、一重に、この映画の作り手がそうしてしまったから、というだけの話であるようです。
監督はジブリ出身の方とのことで「自分たちの理想とする、おゲージツアニメーション(笑)を、原作を改変してまで押し付けようとするジブリの悪癖」がまた出てしまいましたね、という感じでしょうか。
映画感想:ムタフカズ-MUTAFUKAZ-
恒例の手短な感想から
散漫な出来
といったところでしょうか。
まず、初めに確実に誤解がないよう、言っておきたいのですが、草彅剛は本作の主人公の声優としては、あまりにもハマり役だったと思います。あの、ちょっとナヨっとした感じで、面倒くさがりそうな声は、まったく違和感がないレベルで、本作のキャラクターとマッチしていました。
また、本作が魅力のない映画だとも思いません。むしろ、魅力はよく溢れています。特にこの映画の前半は、本当に画面にのめり込んで見そうになってしまうほど面白いです。
どこからどう見ても、GTA5に相当強く影響を受けているように見える、ギャングスタ的なビジュアルや各種登場人物の設定、そして、銃とバイオレンスに満ちた舞台、その中で出自不明な主人公が、とある出来事から徐々に巨大ななにかに巻き込まれていくストーリーライン――どこか既視感がありながらも、しかし、見たことがない作品に仕上がっており、かなり好感を覚えていました。
その好感も後半に入って全て消滅してしまいましたが。
この映画は後半、ストーリーラインが無茶苦茶なことになります。おそらく作り手は露悪的にやっているのだと思われますが、これがハッキリ言ってちっとも面白くないのです。別に、そういう雰囲気や設定の作品ですし、無茶苦茶な筋書きになっても良いとは思うのです。
しかし、この映画の場合は、それが作り手のマスターベーションで終わってしまっているのが、残念なのです。
本作の、一番の問題は「何がしたいのかは、分かるが、それにしては関係ない話をしすぎだ」という、ここにあると思います。
本作が、何をしたいのかは非常に分かりやすいのです。簡単に言ってしまって、主人公と、ある女の子の間に生まれる愛の話をしたいことは、物語全体を見ても明白なことです。
それ自体は別に良いのです。この映画はいかにもギャングっぽく、バイオレンスな話です。そこで、純真な話をテーマにするというのは、もはや、この手の作品の常套手段でもあります。
ただ、本作の場合は、この愛の話がちっとも頭に入ってこないのです。もっと彼女が主人公をどこかで労ろうとする場面や、あるいは、主人公がもっと彼女に好意を伝えようとする場面があれば、頭に入ってきたのだと思います。
が、実際の作品では、それらの場面の代わりに「地球温暖化がどうだ」というつまらない陰謀論や、結局、話とあまり関係がなかったプロレスラーたちや、くだらない脇役同士の物語的に極めてどうでもいい銃撃戦などが入っており、とてつもなく散漫な出来になってしまっています。
そんな状態の作品で、クライマックスに、取ってつけたようにキスシーンだけ入れられて、それで納得しろと言われても……そんなの小学生くらいしか納得しないでしょう。
映画感想:プーと大人になった僕
恒例の手短な感想から
まさにプーさんらしい話
といったところでしょうか。
まず、本作について何よりも言いたいのは、実は本作、「プーと大人になった僕」が原作の者である、AAミルンの思想をよく反映させた一作となっているということです。大抵の人は驚かれると思いますが、本作はその見た目とは裏腹に「とてつもなくプーさんらしい一作」となっているのです。
嘘だろ、と思われる方も多くいることだと思われます。
「大人となり、いわゆる最近で言うところの社蓄となってしまったクリストファーロビンが、ボッロボロで、しわがれたおっさん声のプーさんと出会う」なんて、まるでちょっと前に流行ったテディべア映画のTEDのような内容ですし、それらを鑑みて、「きっと、本作は原作のプーさんから、かけ離れた、大人向けに作り直されたプーさんが本作なのだろう」と思ってしまう方も多くいるのではないでしょうか。
しかし、それが違うのです。おそらく、上記のような誤解をしてしまった方は、元々の「くまのプーさん」がどういう作品であったかをご存じないだけなのです。
実のところ、「くまのプーさん」は一見すると子ども向けに作られた作品のように見えて、その実、「大人が自分の中に隠してしまった子供心」に対して、訴えかけようとしている作品です。
「くまのプーさん」は、他の作品で言えば「星の王子さま」などの作品と、かなり本質は近い作品です。
くまのプーさんの原作者であるAAミルン自体も――現代的な視点では異常に見えるほどに――幼少時の空想や幼さゆえにあるものの貴重さに重きを置いており、そういった「柔軟で豊かな空想力を持つ幼少期」「それを失ってしまう成長の悲しさ」を描いた作品をいくつも書き残している作家です。
「くまのプーさん」もそういった作品の一つであり、後にディズニーによって作られたくまのプーさんの初長編アニメーション作品「くまのプーさん 完全保存版」も、その思想をかなり反映させた内容となっております。
ここまで書けば、大抵の人が察すると思いますが、本作はまさにそんなAAミルンの原作や、元々のディズニーアニメの「くまのプーさん」の底にあった思想を、分かりやすく掬い上げてきた作品なのです。
本作のクリストファーロビンは、戦争を経験し、現実を経験し、仕事に追われるうちに徐々に、幼少時の大事なことを忘れていきます。それは、元々、本当はAAミルンやウォルトディズニーが「くまのプーさん」を通じて、考えを訴えたかった当時の大人たちと一致するキャラクター像となっています。
そんなクリストファーロビンが、再びくまのプーさん――つまり、幼い頃の自分の思い出と出会うことで、疲れきっていた心身を癒し、歪んでいた自分を治していく作品が、本作なわけです。極めて、AAミルンやウォルトディズニー的な思想を色濃く反映させた作品と言えます。
作中で描かれるプーさんたち、100エーカーの森の様子も、かなり原作に忠実であり、プーさんたちも、実在感を持てるように作ってあり、本作が原作をとことんまでリスペクトした作品であることは明白です。
「お馬鹿なプーさん」と笑いながら、プーさんの世話をするクリストファーロビンの姿は、原作ファンはもちろんのこと、原作を知らない人たちにも「無邪気な頃の自分」を思い起こさせてくれることでしょう。
若干、クライマックスだけが強引な展開でとってつけたように終わってしまうのが、残念なのですが、それ以外の魅力が大いにある良い作品でした。
映画感想:泣き虫しょったんの奇跡
恒例の手短な感想から
タイトルに似合わず、中身は将棋版ロッキー!!!
といったところでしょうか。
自分が将棋ファンであることは、当ブログやツイッターにてしばしば言及していることですが、そんな将棋ファンである贔屓目を抜きにして考えても、本作は間違いなく、傑作であると言えます。
本作は、瀬川晶司五段のベストセラー本が原作となっております。瀬川晶司五段は、藤井聡太七段が起こした、いわゆる「藤井フィーバー」の真っ最中に対局相手の一人として注目されたため、将棋ファン以外の方もご存知の方が多いと思いますが、社会人からプロ棋士へ編入した、将棋界でも珍しい経歴を持つ棋士の一人です。
そんな彼が、いかに奨励会で将棋を挫折し、そして、いかなる経緯でプロ棋士への昇華を見せたのかーーそれを語っているのが、原作のエッセイ「泣き虫しょったんの奇跡」です。
その原作である「泣き虫しょったんの奇跡」にあった魅力を、本作はこの上なく引き出していると言っていいでしょう。
原作の魅力とは、つまり「夢を追う」という表面の薄っぺらい言葉に隠れた、夢自体に存在する過酷さや、それに情熱を持ち続けることの難しさ、夢というメリットしか強調されない概念が持つ巨大なデメリットーーそれらを含んだ上でなおも「夢を目指したい」「夢を叶えたい」と思うことの素晴らしさのことです。
自分もまた夢を持ち、それ以外の道を閉ざして人生を生きたことのあるものだからこそ、言えるのですが、夢は呪いや希望なんて言葉で表せるほどの単純な物事ではありません。もし、そんな単純な言葉で夢を表す人が居たならば、きっとその人は世の中のごく一部しか居ない「難なく夢を叶えられた人」なのでしょう。
そうでない人たちは、夢を叶えた人であれ、叶えられなかった人であれ、この概念がいかに単純なものでないかを知っています。
自分という存在への葛藤や、自分の才能や経済状況や年齢という現実との板挟みの中で、自分は間違っているのではないかと何度も否定し、ある日は肯定し、楽観的になり、悲観的になり、迷い苦しみーーそれほどの苦難と蛇の道を歩みながらも、最後には、極めて単純な「敗北か勝利」の二択しか出てこない――そんなあまりにも複雑で、単純で、言い表せない物事が夢というものだからです。
そして、そんな「夢という物事の複雑な現実」が素直に綴られているのが、原作の「泣き虫しょったんの奇跡」でした。
このエッセイに多くの人が感動したのは、間違いなく、原作の瀬川晶司五段の姿は「多くの人に共感できるもの」があったからでしょう。
そして、この映画はそこを極めて的確に描いているのです。特に素晴らしいのは脚本です。この映画の筋書きは、ハッキリ言ってこの種の物語としては、殆ど完璧な出来であると言えるでしょう。正直、あるならば脚本の教科書に載せたいほどです。
瀬川晶司五段以外にも、多数の夢破れた者たちや、夢を諦めた者たち、夢の中で葛藤した者を登場させ、その人達の願いも一身に背負って棋士を目指す瀬川五段という筋書きにした本作は、本当に見ていると「これは将棋版ロッキーじゃないか!」と叫びたくなることだと思います。
おかげで、結果が分かっているはずのプロ編入試験に観客まで手に汗を握ってしまうのです。そして、心の中で「棋士になってくれ」とついつい願ってしまうのです。非常に優秀な脚本だと言えます。
またそれ以外も、夢破れたときの瀬川五段の気持ちを表すサイケデリックな演出等に代表される全般の演出やカメラワーク、細かい時代考証まで気を使って可能な限りで当時を再現させたであろう美術設定、シンプルなロック調で統一された音楽なども、本作は非常に良く出来ており、かなり映画として面白い作品となっています。
結構、普通の映画ファンにもオススメの一作です。
映画感想:寝ても覚めても
恒例の手短な感想から
まさか、ここまで見事に映像化するとは
といったところでしょうか。
本作の感想を書くにあたっては、まず何よりも、柴崎友香という作家について語らなければなりません。大抵の映画ファンは彼女のことを知らないだろうと思うからです。柴崎友香は文学畑の人間には、なかなか有名な純文学作家です。
数年前に芥川賞を受賞し、その、日常を的確に捉えた表現力や、またそんな表現力の上で生み出される独特の作風が印象的な作家であり、日常的な場面とその「日常的な場面」に内包された複雑なテーマを描き出す、その内容は「高度に発達した日常系」とでも言うべきでしょう。
自分などの浅い本読みなどは、"現実に、あり得たかもしれない可能性"の姿を描き出していく「わたしがいなかった街で」などに大変に関心したりする作家さんなのですがーーその小説家の小説が、まさか映画化されているなんて、と本作に対しては驚きしかないです。
「寝ても覚めても」
本作は、なんと「万引き家族」のパルムドール受賞で賑わった、今年のカンヌ映画祭でーー「万引き家族」の影に隠れて、実は好評を得ていた作品です。実際、受賞にこそ至らなかったものの、既に多くの国での配給が決まっているらしく、いかに本作が評価を受けていたかが想像に容易いと思います。
事実として、本作は極めて面白い映画です。原作である柴崎友香の「寝ても覚めても」に遜色ない、見事な作品となっています。
セリフを排し、人の仕草や行動や視線や、はたまたカメラワークなどの細かい妙技で演出された本作は、繊細な登場人物たちの心の機微を十二分に描き出すことに成功しています。早い話が本作「言葉がなくても、分かる」映画なのです。
その上、原作の、緻密でどこか美しい日常描写を、まったく原作通りに描き出している時点で、既に自分からすれば「素晴らしい」としか言いようがないでしょう。原作の日常描写は、とてつもなく映像化が難しいものだからです。
原作は文章のマジックによって魅力的に描かれているだけで、映像にするとだいぶ、シンプルというか、言ってしまえばショボい光景であったりすることもままあるからです。
また、本作はテーマ的な意味でも、極めて映像化が難しい作品でした。前述で、自分は、原作者である柴崎友香のことを「"現実に、あり得たかもしれない可能性"の姿を描き出していく「わたしがいなかった街で」などに大変に関心したりする作家さん」と書きました。
実は、これ、本作「寝ても覚めても」もまたそうなのです。
本作を鑑賞された方は、主人公のふわふわとした存在感に違和感を覚えた方も多いのではないでしょうか。これは意図的に演出として、このような存在感になっているのです。
ふわふわとした、何処と無く不安定な存在として主人公を描くことで、「主人公の未来や将来がまだハッキリと定まっていない感じ」を醸し出すためです。そうして、主人公の「あり得たかもしれない、もう一つの自分」と「現在の自分」の2つの間で揺れ動く姿を描き出すためです。
「え? そんな場面が、この映画にあったの?」と思われた方、あったじゃないですか。
同じ顔で、性格が正反対の二人の男が、同じ場面に居合わせる場面が。
本作の主題である、同じ顔をした二人の恋人という設定ーーそれはこの物語が単純な恋愛ドラマではないことをよく示しています。わざわざ同じ顔にしているのは、おそらく、本作の二人の恋人は、主人公のあり得る未来の姿、それぞれを表しているからでしょう。
主人公は二人の恋人のうち、どちらを選ぶかによって、その未来が大きく変わってしまうことは明白です。つまり、あの二人はある意味で「主人公のあり得る未来の姿そのもの」であったわけです。
その二人が同じ顔をしているーーこれは、喩えるなら量子力学の逸話であるシュレディンガーの猫のように「2つの未来が、同時に存在しており、重ね合った状態になっている」ことを暗に示しているのでしょう。
この映画のクライマックスは、まさにその「2つの未来が、同時に存在する状態」であり、そして、ふわふわとしている主人公は、その中でどちらの未来を選び、また、なぜその未来を選ぼうと決めたのかーー実は本作はそういう話であるのです。
これを、この映画は描くことが出来ています。
実際、二人の男が同じ画面内で出てきた瞬間の「ただの恋愛ドラマとは違う、異常なことが起きている」と観客に感じさせる描写の見事さは、語りつくせません。この場面で二人の男を演じ分けた東出昌大も、相当に素晴らしいです。
ここまでの映像作品として、映像化を出来てしまったことは驚嘆の一言に尽きるでしょう。