儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

雑記:相似、そして双極――「ジョーカー」と「永遠に僕のもの」

 

 映画ファン間で密かに話題になっている事柄がある。それは今年公開された映画、「ジョーカー」についてだ。

 ――というと、まるで、ジョーカーに関しての考察だのどうだのという話をこれから、この記事で行うように見えてしまっているかもしれない。だが違う。今回の記事ではアメコミのみならず様々な映画を見漁る映画ファンの間で話題になっていることを取り上げたい。

 それは今年公開された二つの犯罪映画についてである。

 片方はもちろん「ジョーカー」――もう片方は「永遠に僕のもの」である。

 

 一部の映画ファンの間で、この二つが実に話題になっているのである。この二作品、様々な要素がとても似通っている。しかも、互いの作品の作り手は、おそらく別に互いの作品のことなど意識していないのだ。しかし、やたらに似ている。

 

 例えば、主人公の妄想がTVショーと混ざっていくシーンなどがそうだ。「ジョーカー」でアーサーは古臭いTVショーを見ながら優越感とともに自分がそのTVショーに混ざっている妄想を抱く。同じように「永遠に僕のもの」でもカルリートスが自分の相棒が出ているTVショーを眺めながらうっとりと自分もそのTVショーに混ざっている妄想を夢見る。

 犯罪を起こした後で陽気に踊りだす姿もよく似ている。アーサーもカルリートスも普段はそんな行動など欠片もしないのに、犯罪を犯したときだけまるで自我が解放されたように、無我に、一心に踊る。

 

 

「ジョーカー」と「永遠に僕のもの」、両方の作品を見た人は「この作品は二つ並べて鑑賞したい」という欲求に駆られたことだろう。実際、自分もこの二つは丁寧に比較して鑑賞したいと思っている。

 それもただ似ているから比較したい、という話ではない。

 実はこの両者の作品、明らかに決定的な違いも存在しているのだ。この二つの作品は、それぞれとても似ている内容でありながら、その間には、まるで雪山のクレバスのような深い溝が横たわっている。

 二つの作品は「正反対の方向を向いて作られている」と言って過言ではない。

 そして、その決定的な違いこそが「ジョーカー」と「永遠に僕のもの」それぞれの作品の分厚い表層の下に潜んでいる”何か”を浮き彫りにもしているのである。

 

 

 その深い溝の正体は――おそらく二つの作品を鑑賞した人はすぐに気づいたと思うが、「アーサー」と「カルリートス」という、それぞれの作品で描かれた殺人鬼の姿である。どちらも、そもそも存在的に危うく今にも何かをしでかしそうな青年で、そして、そんな青年が転がるように犯罪の道を落ちていく点は変わらない。

 社会の「こうあるべき」という倫理観を嫌悪し、その倫理観の破壊に惹かれている点も同じだ。

 が、それ以外の要素は、二人はまるで示し合わせたかのように「正反対」を向いている。

 これがなんとも興味深いのだ。

 

 貧しい家でそもそも家庭に問題を抱えていたアーサーと、家庭に問題はなくむしろ優良な家庭であったカルリートスというだけでも、相当に違う両者で、他にも様々な要因に差異が存在しているのだが、総じて言ってしまうと「作り手が、観客に主人公を共感してほしいと思っているか、いないか」というその点が決定的に違うのである。

 

 アーサーは極めて共感しやすいキャラクターだ。認知症を患っているらしき親がいて、差別され、偏見を受けているし、実際どこか不気味さを感じさせることもあり不幸な目に合う。そして、不幸な目に合う中で徐々に変貌していく。だからこそ、怒りを表現し抑えきれない衝動を原動力として犯行を犯す姿に共感を覚えられる。その姿に、一抹の不安と一緒に加担したくなる感覚を覚える。

 カルリートスはまったく共感を得るつもりがないキャラクターだ。親は裕福で、作中で天使と自称するのも納得なほどの容姿であり、独特の死生観を持ち、悲劇が起きようと何もスタンスを変えない。しかも、怒りなど露ほども表さず、まるでたまたま手元が滑っただけのような感覚で犯行を行う姿は、共感以前に動機すら理解できない。しかし、その姿に、圧倒的な魅力が存在している。

 

 この二つの違いが、それぞれの作品のスタンスの違いをよく表している。

「ジョーカー」は陳腐な言葉で言えば承認欲求の物語だ。より大きな枠で言えば「人と人とのコミュニケーション」――つまり社会性の物語である。経済活動にしろ、福祉にしろ、怨嗟にしろ、それらは結局のところコミュニケーションの一種であることは間違いない。良いにしろ悪いにしろ「人と人が関わり合った」結果で起こっている物事だ。

「ジョーカー」でアーサーは、自分が存在していないように感じている、と言っていた。そう感じるのは、まさに彼が「人と自分の距離感」によって、自己というものを見出そうとしている人間だからだ。

 ラスト、彼が自分を支持する人間たちに囲まれ、讃えられる中で終わることからもそれはよく現れている。

 言ってしまえば、ジョーカーはコミュニケーションが生み出す俗っぽい怪物であり、変わった個性を持つ人間が得たかった社会性を得られず、怪物に変貌した物語なのである。

 社会性の物語だからこそ、共感しやすく作られており、彼に加担したくなる。

 

 

 一方「永遠に僕のもの」は自己実現の物語だ。大きな枠組みに当てはめると「自分の中にある価値観」――つまり、個性の物語だ。綺麗な容姿や、独特の死生観も、圧倒的に備えた魅力も、全ては彼自身が勝手に自分の中で強固に抱き続けている価値観の発現であり個性である。

 カルリートスは冒頭で、みんなは同じ道を歩くが、自分は道の途中で垣根をくぐって隣に行くのさ、という趣旨のことを述べていた。カルリートスは見いださなくても自己があるので、社会性を必要としない。だから、強烈な個性のために社会性を払い除けたがっていたのである。

 ラスト、彼は大勢の警官たちに囲まれているにも関わらず、家の中で平然と踊っていた。

 言ってしまえば、カルリートスは個性の怪物なのである。その個性の怪物を社会性が蓋と錠をして、どうにか抑えていた物語だ。そして、その蓋と錠を少しずつ外し、怪物が目覚めていく物語だ。

 個性の物語だからこそ、共感させる気がなく、しかし魅力を感じてしまう。

 

 

 これほどまでに似通った作品が、これほどまでに正反対かつ互いに傑作足り得ているなど驚きに値するだろう。

 

harutorai.hatenablog.com

 

harutorai.hatenablog.com

 

映画感想:ジョーカー


『ジョーカー』心優しき男がなぜ悪のカリスマへ変貌したのか!? 衝撃の予告編解禁

 恒例の手短な感想から

もはや、一つのデカダンスな犯罪映画

 といったところでしょうか。

 

 巷での評判も相当なものになっており、自分としても興味を抱くところがありましたので、「ジョーカー」鑑賞してきました。いや、これかなり素晴らしいですね。とてもハングオーバートッド・フィリップスが監督脚本したとは思えない、上品なデカダンス映画となったのではないでしょうか。

 個人的にはダークナイトより本作のほうが遥かに好きです。

 象徴的な話に終始し、善も悪も全てが「お空の上の出来事」という描かれ方でしかなかったあの作品とは違い、本作「ジョーカー」はなんとも地に足の着いた作品だと言えるでしょう。

 

 鑑賞前はジョーカーという、過去のバットマン映画たちによって若干超然とした存在にまで昇華してしまったキャラクターの微細な生い立ちを見せてしまうことは、彼のキャラクターを破壊しかねない危険なことなのではないかと危惧もしていたのです。が、それは杞憂に終わりました。

 それほどにジョーカーという本作が、強烈に新しいジョーカー像を描けていた――というわけではありません。むしろ、本作は新しいジョーカー像を描くことをやめているといえます。本作は、その代わりに、彼がジョーカーになる前の姿に力強いキャラクター性を与え、そこでストーリーを生み出しているのです。

 

 早い話が、ジョーカーという便利なアイコンでありキャラクターを、本作はほぼ放棄したのです。ジョーカーなしでも成立できる物語を紡ぎ、その物語の強度で今までのジョーカー像に対抗しよう、という「ドラマ映画」として真っ当な手段で、真正面から今までのジョーカー像に殴り込みをかけたのが本作だと言えます。(同時に、これはアメコミ映画の文脈としては「ある種の反則技」でもあります。キャラクターという枠組みの中で映画を作る、お約束事を捨てているのですから)

 

 実際、本作はジョーカーというキャラクターや、バットマンの設定もろもろを、別の設定に置き換えたとしても成立する話になっています。極端なことを言ってしまえば、本作はハッキリ言ってアメコミ映画ではなく、もはや一つのデカダンスな文芸の犯罪映画になってしまっているのです。

 

 奇妙な生い立ちを持ち、脳の障害を抱えた主人公が、歪んでいく世の中で徐々に歪みに飲み込まれたようにも、あるいは生来の本性がだんだんと現れてしまったようにも見え、そして、救いといえるものなのかさえ、よく分からないものを掴んでしまった映画――あらすじだけ聞いても、本作がダダ的な文芸の薫陶を受けた映画であることは瞭然です。

 そういった類の映画であることは間違いがないでしょう。

 

 実際、作り手にもこれが文芸的である自覚があるのか、極めて、各々の描写に映像的な比喩が多用されています。例えば本作、主人公のアーサーが、なにか一つ悪に染まっていくたびに、必ずアーサーが階段を降りていく描写が入るようになっています。

 嘘だろうと思った人は、ジョーカーとして目覚めた後、刑事たちが後ろで待ち構える中アーサーが踊っていた印象の深いシーンを思い出してください。――あのシーンでも、アーサーは「階段を降りて、その先の踊り場で」踊っていましたね。

 

 これは日本人的に分かりやすく言うなら、芥川龍之介羅生門」のラストと同じ意味合いの描写です。アーサーは階段を降りるたびに、一つ一つ、人間として”堕ちても”いたのです。

 

 そして、様々な箇所で話題になっているアーサーが突如として、冷蔵庫の中に入ってしまうシーン――このシーン、噂ではホアキン・フェニックスがアドリブで急にやりだしたことで作り手としても意図していないシーンかもしれないそうですが、それでも、一つだけ確実に言えることがあります。それは、ホアキン・フェニックスのアドリブにしろ、作り手の意図にしろ、本作には「こういった抽象的、比喩的な行動のアドリブが必要な作品なのだ」と感じていたということです。

 

 本作がいかに文芸的な作品として、意識した作りになっているのかは、この点でも非常によく分かります。

 そして、その文芸的な作品として、本作はとても完成度が高いのです。脚本は緻密で、一つ一つの細かいやり取りが後々の描写と結びつくように作られており、そして、そこに描かれている人間のドラマはとても複雑な感情を覚えます。

 撮影も見事で「カメラのピントをどこに合わせ、どの深度で撮るか」というそんな細かいところまで、よく計算され、映画のそのシーンをより深められるように構築されています。

 演出も抜け目がなく、一瞬違和感を覚えるような変な演出も、実は後々のシーンで「あぁ、そのためにわざわざおかしな演出にしたのか」と納得できるような仕掛けがいくつも施されています。

 

 冗談抜きで、普通に映画として飛びぬけた出来の傑作です。

映画感想:クロール ―凶暴領域―


映画「クロール -凶暴領域-」予告編(出演:カヤ・スコデラーリオ )

※若干、ネタバレありです

 恒例の手短な感想から

主人公、ゴリラかな……?

 といったところでしょうか



 サム・ライミ製作の映画については、正直、前回の「ドント・ブリーズ」といい、なんだか最近は「うーん、それでいいのか?」と言いたくなることが多いのですが、本作のおかげで「うーん、それでいいのか?」と言いたくなる例が増えてしまいました。

 

 いや、本当にこれでいいんでしょうか、サム・ライミ

 わざわざ、アレクサンドル・アジャなんて素晴らしいホラー映画の才能を使ってまで、やりたいことがこれなのかと。こんな書き方をしていると、この手のパニック映画が好きな方から「ケッ B級映画だからって馬鹿にしやがって……」なんて、思われる方もいるかもしれませんが、むしろ、正反対です。

 

 B級のホラー映画でワニを題材にした映画って、普通に面白い作品が多いのです。それらの作品と比べて、本作が抜きん出た内容――つまり、アレクサンドル・アジャを使うだけに足る内容の映画になっていたかというと、明らかになっていません。



 確かにホラー演出は見事なものです。怖がらせ方はさすがアジャ監督というべきか、一つ一つの描き方が上手く、特にときおり出てくる三人称視点は「ワニの視点」にも見えるし、そうでないようにも見える――という絶妙なバランスのカメラワークであり、これは白眉です。

 おかげで常に「ワニが水中にいるんじゃないか?」とドキドキさせることには成功しているのです。

 

 

 しかし、全体的には見ていて頭が痛くなるほどに、内容が馬鹿っぽくてなんだか感情移入が出来ないのです。

 一見すると論理的に構築された脚本のようでいて、実際のところ、本作の脚本はなんだか各登場人物たちが行動する動機が「バカすぎる」のです。

 

 例えば、映画クライマックス付近で主人公の父親がワニに襲われるシーンです。

 当然、父親が襲われたから、上の階にいる主人公が父親のことを心配するまでは良いとして――で、次のシーンで、主人公が「お父さんどうした?」って言いながら水面に飛び込んでくるのは、いくらなんでも行動としておバカすぎでしょう。

 しかも、この主人公、それまでに散々ワニと対峙して怖い目に合い、なんなら水面に手を出して腕を噛まれたりしているのに「お父さん、だいじょーぶー?」と言いながらボチャンです。……この主人公、ゴリラかな?

 

 そのあと、当たり前のように、主人公は、主人公へと矛先を変えたワニとチェイスする羽目になるのですが……もうスクリーンの前にいる自分は「えぇー……」と内心で呆れるしかないでしょう。

 

 一事が万事、こんな調子であるため、「あ、今、窓にちょっとヘリが見えたわ!」って言いながら、水族館のケース並に水位が上がった窓に平然と駆け寄ってワニに襲われたりする主人公に「ゴリラなのかな?」という印象をどうしても抱かざるを得ないわけです。

 実際、堤防が決壊したことによる激流の中でも雨樋を掴んでその場に留まれるほどの握力があるみたいですし、この主人公、ゴリラなのではないでしょうか。劇中でしばしば、主人公は猿座りからの膝立ちで水面を覗いていましたし、ゴリラでしょう。

 

 しかも、主人公の決め台詞が「Apex Predetor,All day!(訳:私は食物連鎖の頂点だ!)」ですからね。実際、昔の生物学では頂点捕食者とされたワニに絡めたセリフなのですが、*1……いや待てよ。霊長類で他の動物を倒せそうな動物……やっぱり、ゴリラじゃないか。



 そんなわけで、本作はつまり「ファッションモデルが、なぜかゴリラを演じながら、ワニと対決する映画」なわけです。

 真面目に評価するのがバカバカしいですね。


Bruno Mars Gorilla Lyric (OFFICIAL LYRIC VIDEO)

 

 

 あ、ちなみに、本作でお披露目されたワニ知識ですが、端から端までデタラメしか言ってないので、本気にしないようにお願いします。そもそも、ワニって地上でも結構速く走れますから。一応、人間の全速力と同じくらいには走れます。

 本作は、そういういい加減なバカ映画にしたいのか、真面目なホラーにしたいのかどっちつかずなところが、本当に評価に困ります。

*1:現在の生物学では、そもそも頂点捕食者という考え方が古いとされています。

映画感想:ジョン・ウィック:パラベラム


映画『ジョン・ウィック:パラベラム』特報

 恒例の手短な感想から

前半は駄作、後半は良作

 といったところでしょうか。

 

 映画の前半と後半でこうも中味が違う映画も珍しいです。ハッキリ言って「前後を二つに分けて、それぞれ別の映画として鑑賞するべきではないか」と感じるほどに、映画としてのタッチが違うのです。まるで別々の監督同士で二本連作映画を作っているような違和感が本作にはあります。なぜ、このようなことになってしまったのでしょう。

 

 ハッキリ言って、映画の前半はどう見ても救いようがないほどに駄作です。

 古くさいボンドガールを連れるキアヌ・リーヴスが、ぐだぐだと台詞で、シュールだった前作までの物語を整合性を取ろうとあれこれ言い訳しているだけの内容です。当然、前作までの鈴木清順を感じさせるケレン味溢れるシーンなども特にありません。

 しかもジョン・ウィックシリーズ特有の「様々な映画をオマージュしすぎて訳が分からなくなっているシュールさ」もなく、ジョンウィックのアクションは妙に残酷な上に「それ実質、ただの死体蹴りだよね?」と言いたくなる箇所もあり、あげく「奥さん一筋、愛情と仁義通しきります」という人物像だったからこそ憎めなかったジョン・ウィックが他の女をベタベタ頼っていくストーリー展開は、見ていて嫌悪感しか覚えないでしょう。

 

 一作目のジョン・ウィックは殺し屋たちの組織構造にしろ、ジョン・ウィック本人にしろ、その場で思い付いたような設定がじゃんじゃん出てくる上にそのどれもがシュールで説明が全くないから面白かったのです。

 そのシュールな説明不足さが、ツッコミどころとして笑うこともでき、そして時には感心するような芸術性も帯びていたから、鑑賞してなんとも満足感のある映画になっていたはずです。そのシュールな部分をわざわざ、全部説明してしまっている本作の前半なんて、俳句を読んだ後で口早に説明を垂れるようなものでしょう。野暮すぎる。

 

 そんな前半を越え、後半に差し掛かり、シュールな板前の殺し屋集団が登場するようになって、各登場人物の行動がどんどん意味不明になっていくに連れて、本作は面白さを取り戻していきます。

「お前ら、瞬間移動でもしてんのか」といいたくなるほど、不思議な場所からにゅるっと現れて、サクサクと雑魚を殺しながらターゲットに向かっていく彼らの姿に「そうそう。それだよ、それ」と言いたくなった人は多いことでしょう。実際、この後からジョン・ウィックもまったく説明なく瞬間移動したり、「いや、普通に水から上がって撃てば良いだろうが」とツッコミたくなる*1水中戦があったり、どんどん各人物の行動も「細けぇこたぁいいんだよ」とばかりに整合性がつかなくなっていきます。

 しかし、おかげでこの映画の後半は面白いのです。いかにジョン・ウィックからシュールを抜いたら、ただのダメな映画になるかが如実に現れているといえるでしょう。

 一作目の時点で当ブログは指摘していましたが、ジョン・ウィックとは任侠映画や時代劇映画、カンフー映画とガンアクション映画を足して、そこに芸術映画を掛けようとしている、なんかよく分からない鵺みたいな映画であり、それこそが魅力なのです。

 二作目はストーリーまで小難しくしてしまったために、この魅力が半減していましたが、だからといって本作の前半のように、ストーリーを小難しくするために、シュールさを抜いたらダメなのです。むしろ、後半のようにストーリーは極限まで分かりやすくして、シュールさをつぎ込みまくる方が遥かに良いのです。

 

 ジョンウィックシリーズは、これ以降も続いていくようですし、続くならばぜひ作り手はそこを忘れないで欲しいところです。

*1:でも、あのプールでの撃ち合い映像としてはとてもシュールで芸術性高いから個人的には好きです。なお、このシーンはおそらく座頭市のオマージュです。座頭市シリーズのどれかは忘れてしまいましたが、同じように風呂の中で市がバサバサ人を斬るシーンがあったはず……

映画感想:見えない目撃者


【本予告】映画 『見えない目撃者』/9月20日(金)公開

 恒例の手短な感想から

かなり面白いけど、かなり怖い

 といったところでしょうか。

 

 韓国のサスペンス・スリラー映画を元に作り上げた映画ということで、本ブログとしては「22年目の告白-私が殺人犯です-」をどこか思い出すような過程を経ている映画だなぁと思いながらの鑑賞となりましたが、いやー、本作「22年目の告白-私が殺人犯です-」とは、印象がまったく異なります。

 

「22年目の告白」はアクションや残酷描写を軽めにしつつ、謎解き部分をより面白くしていくという、いかにも日本人らしいやり方でのリメイクを図っていましたが、本作、見えない目撃者はその逆を行っています。

 端的に言って、向こうの映画らしい残酷表現やスリラー部分を、違和感なく日本に置き換え、とにかく観客に「恐怖の殺人犯がいる」というリアリティを感じさせることに注力しております。これでもかと言うほどに血塗れた映画となっており、なんなら、犯人の凶悪さと不気味さは、元の韓国映画版よりも酷くなっているという始末であったりします。

 

 本当に「園子音や三池崇史でもないのに、よくここまでやりますね」と言いたくなるほどに死体の描写も殺人の描写も、ものすごく恐ろしい描き方がなされている映画となっており、そっちの方面に振り切って日本リメイクさせたプロデューサーの野心的すぎる判断が光る一作と言って過言ではありません。

 

 

 しかし、おかげで本作は本当に面白い映画になっております。多少、「え、その演出は安いでしょ」と言いたくなる部分も数箇所あるのですが、本当にそれは数箇所だけの話です。

 それ以外はまったく手を抜いていない映画であり、おかげで映画の始まりから終わりまで、吐きたくなるほどの緊張感とハラハラをまとっていて、一瞬も目が離せない映画となっています。

 特に個人的には「本当に日本映画なのか、これは」と言いたくなるほど、カメラワークが素晴らしかったです。邦画っぽい撮り方を徹底的に排し、代わりに照明からスローの使い方から構図に至るまでが韓国の映画っぽい撮り方に変わっているのです。これは感心しました。

 

 プロデューサーとして向こうの人が関わっているので、そのため、このようなカメラワークを可能に出来たのかもしれませんが、それにしても、邦画の中で本作が特異な出来となっていることに変わりはありません。

 

 この特異なカメラワークのおかげで、観客は「この映画はなにか雰囲気が違う」「なんだか雲行きが怪しい」と予感することが出来、その予感があるからこそ、後に来る恐怖が一層引き立ってくれるのです。

 

 そして、その引き立った恐怖感の中で、犯人役を演じた浅香航大さんの怪演としか言いようがないサイコパスっぷりや、巧みに論理的に主人公たちを「そうせざるをえない状況」に追い込んでいく脚本の構築などが、観客にガンガンとキツイ一撃を加えていくわけです。

 あまりにもキツイ一撃が多いので、怖がりな自分なんて、この映画を鑑賞した帰り道は「道路脇から殺人犯とか急に出てこないよな」と警戒しながら帰ってしまいました。それくらい、本当にこの映画にはシャレにならないものがあります。

 

 ただ、惜しむらくは、若干鑑賞していて気になったのですが……犯人が主人公を捕まえたときに言っていた「俺とお前は同じだ」って言う犯人の独白――あれ、この映画に要りました?

 セリフとして、ちょっと説明的すぎる点も問題あるのですが、それ以上に、この物語ならば、そもそも主人公と犯人を対比する必要性がないのでは……。あと、犯人に切りつけられた盲導犬の姿も「犬に、そんな微妙な特殊メイクしか施せないんなら、そのカットを入れないほうが良かったんじゃ……?」と気になりました。

 

 その二点だけ惜しいのですが、それ以外は本当に素晴らしい映画だと思います。

映画感想:この素晴らしい世界に祝福を!紅伝説


『映画 この素晴らしい世界に祝福を!紅伝説』本予告第1弾

 

 恒例の手短な感想から

ふざけているようで、ちゃんとしてる!

 といったところでしょうか。



 本作に対してこのような感想を書くことはかなり意外かもしれませんが、自分が鑑賞したかぎり、この「この素晴らしい世界に祝福を!紅伝説」は、かなりちゃんとした面白い映画でした。

 

 もともとTVシリーズの時点で、昔の90年代前後にあったファンタジーアニメやライトノベルの薫陶を受けたことが分かる内容で、とても好感を持っていたのですが、その好感を決して裏切らない内容になっていると言えます。

 90年代のファンタジーアニメの薫陶とは、ズバリ言って「既存の真面目なファンタジーに対する、強烈な皮肉であり、パロディ」という面です。簡単に言ってしまえば「おふざけファンタジーです。

 

 この素晴らしい世界に祝福を!――通称「このすば」は、90年代のファンタジーアニメにあった「おふざけファンタジー」という要素を、見事に2010年代のいわゆる「異世界転生ものなろう小説」の形式に違和感なく混ぜることが出来ており、そこが何よりも優れています。

 フォーチュン・クエストなどのライトノベルと、本作の比較をしてみれば「このすば」が、いかに上手くそれらの要素を「なろう小説」に巧妙に溶け込ませたか、よく分かることでしょう。

 

 そして、本作、劇場版「このすば」も、おふざけファンタジーの点がとても素晴らしいクオリティで出来上がっております。

 凶悪なはずの魔王軍が逆にボコボコにされているという観客の予想を裏切る展開や、金勘定と己の欲に目ざとく異様に俗っぽいファンタジー世界住民の姿など、従来のシリーズ以上に本作はおふざけの面が強くなっており、単純に見ていて楽しいのです。

 

 最初の展開こそ「おいおい、そのテンションで映画をやられても困るぞ」と言いたくなる瞬間もあるのですが、そんなものはあっという間になくなり、あれよあれよと話が次々に転がって、主人公であるカズマはいろんな酷い目にあったり、逆に酷いことをしようとしたりと、飽きない展開が続くようになっています。

 本当におふざけファンタジーとして、よく出来ているのです。

 

 そして、おふざけファンタジーだからと言って決して魔法などの描写に手を抜かないのも好感が持てます。TVシリーズでも、この点に感心していましたが、劇場版はそれ以上に手を抜いていません。

 

 なにせ「なるほど、この迫力ならば劇場版として映画にするのも当然だな」と思わせるだけの、迫力ある豪勢な画づくりでバンバンと魔法が飛んでいくのですから。



 実は劇場版にあたって、本作、製作するアニメ会社が変更したりしているのですが、まったく違和感がないほどによく出来た仕上がりです。むしろ「え、そこまでやります?」と言いたくなるほどに、作画などで過去シリーズのオマージュを入れているくらいです。

 

 その上、前述したように「わざわざ長い尺で、デカイ音響を用い、巨大スクリーンを使う映画にするだけの」内容にブラッシュアップすることも出来ているのです。

 正直、エンタメ映画としては、十二分に満足な内容と言って間違いありません。

 

 しかも、本作はそれだけに飽き足らず、「ちゃんと一本の物語として」まとめる工夫も行っています。

 わざわざ原作から話の流れを変えてまで、映画の冒頭に「めぐみんの爆裂魔法でカズマが困っている」シーンを出し、最後に対比として「めぐみんがカズマに『爆裂魔法だけじゃ困るでしょ?』と尋ねさせ、カズマが『爆裂魔法だけで行けよ』と言う」シーンを入れることで、一つの物語として綺麗にテーマをおさめたことは、本当に英断だと言えます。

 

 おかげで映画として、かなり綺麗でしっかりとした作品になったと言えます。おふざけファンタジーにも関わらず、この作品は「しっかり」しているのです。

 

 このシリーズを知らない人でも、初見で楽しいと思える映画にすらなっているのではないでしょうか。

 いろんな人にオススメできる、素晴らしい映画です。

映画感想:ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -


『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』予告

 恒例の手短な感想から

面白いが、とてつもなく歪な出来。

 といったところでしょうか。

 

 

 今の京都アニメーションの状況を鑑みると、このようなレビューを書くことは大変に心苦しいのですが……しかし、本作が作品として歪な出来になっていることは指摘せざるを得ない状態です。

 面白いことは面白い映画でした。しかし、その面白さよりも本作はテーマや、話の構成のヘンテコさが異様に目立つのです。

 

 これは決して、京都アニメーション自体が抱えている問題ではありません。

 このブログでも、何度か京都アニメーションの映画は取り上げていますが、そのいずれも「映画という形式に対して、明らかに話の構成がおかしい」などという内容ではなかったからです。

 

 つまり、本作の問題点はどちらかというと、ヴァイオレット・エヴァーガーデンという作品自体が抱えている問題点が露呈している結果だと言えます。



 白状しますが、自分はそもそもヴァイオレット・エヴァーガーデンというシリーズ自体が苦手です。

 京都アニメーションが製作されているヴァイオレット・エヴァーガーデンというアニメシリーズ――確かにクオリティは高いアニメシリーズであることは疑いようがないのですが、根本的な話のテーマや、筋書き、設定など、どうしても自分の中でモヤモヤするものところがあり、どうしても「苦手だなぁ」という印象を拭えないのです。

 

 いわゆる西洋文化の古典的な作品をリスペクトしたいのか、あるいはそれを破壊したいのかよく分からないどっちつかずの雰囲気を作品全体がまとっているところ、変に感動的な話にしようとするところ、自立した女性を描きたいのか描きたくないのか中途半端なところなど、このシリーズは一体なにがしたいのでしょうか。



 本作も、やはりそのような作品になっており、自分としてはとてもモヤモヤした感覚を覚えるのです。

 

 特に本作に対してモヤモヤとした感覚を覚える理由は、その話の構成のヘンテコさ加減です。

 90分以上も尺のある映画で、その前半が過去の回想という構成は、相当に異様な構成です。ハッキリ言って、前衛芸術系の映画かと言いたくなるようなおかしな構成となっています。

 

 詳しく内容を解説すると、前半の話は、ほぼシェイクスピアの喜劇「じゃじゃ馬ならし」の話をオマージュしているだけの話となっています。ただ、「じゃじゃ馬ならし」は今の時代的には女性をバカにしているとも受け取られる内容なので、不味いと判断されたのか、本作は喜劇というよりは女性同士の愛情に限りなく近い友情劇となっています。

 そして、喜劇じゃなくなり、いわゆる百合的なエンタメになった「じゃじゃ馬ならしの話が駆け足気味で一通り紡がれ、話が終わったところで、後半になって話が現代に戻って、新しい話が始まるわけです。

 

 前半をわざわざ「じゃじゃ馬ならし」オマージュにしたんですから、この後半の話も、前半の「じゃじゃ馬ならし」と似通った話になって、前半と後半を対比させたり、あるいは別にシェイクスピア劇のオマージュでもするのかな……と思いきや、後半はまったく違う話になってしまいます。

 

 後半の話は、シリーズのキャラクターたちが話に大きく関わり、手紙をキーにした話の展開になるのです。

 これは、ヴァイオレット・エヴァーガーデンシリーズ定番の形式です。

 

 そうです。本作、なんと、この後半になってから、ようやく本編の「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」が始まるのです。

 

 言ってしまえば、本作は「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝」本編の前に、微妙に繋がりがある、短編アニメが45分も付いているような状態の構成だと言えます。

 さすがに変でしょう!

 

 

 このように、本作はあちこちが変に歪な作品なのです。

 

 

 また、ネタバレになるので詳しくは言えませんが、個人的には「そのオチで、あの半分幽閉されているような生活をしているあの子に対して、『手紙があるから、生きていけるね!これで良かったね!』って、何が良い話なの? 誤魔化してるだけじゃん!」とも思います。

 

 正直、ヴァイオレット・エヴァーガーデン、そもそもコンセプトというか、原作者の考え方がズレてるんじゃないか、という気がするのですが……。

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