儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

2019年映画ランキング

  明けましておめでとうございます。

 年が明けましたので、今年も昨年の映画をランキング形式で振り返っていきたいと思います。

 

10位 見えない目撃者

harutorai.hatenablog.com

 自分、実はホラー映画が大の苦手なのです。*1そんな自分でも認めざるを得ません。どう見ても傑作です。まあ心の底から怖い演出が多いのです。

 しかも、どれもこれも、びっくり箱ではありません。本作の殺人鬼の怖さは、例えるならノーカントリーの「シガー」です。

 それが邦画で描けてしまったということに驚愕します。

 9位 アナと雪の女王

harutorai.hatenablog.com

 前作はランク外でしたが、本作は文句なくランク入りです。実にファンタジー映画らしく、同時に今っぽい展開も織り交ぜられており、いろいろと不安定だった前作とは打って変わって安定した素晴らしい作品になっていたと思います。

 ただ、ちょっと中身があまりにも「ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド」っぽすぎて「え、ディズニー、それでいいのか?」とも思ったので、その点だけランクを下げました。

 モアナといい、最近のディズニーは任天堂っぽくなりすぎです。

 8位 殺さない彼女と死なない彼

harutorai.hatenablog.com

 小林啓一監督の最新作ですが、記事でも書いたとおり、ここまで最適な采配もないでしょう。日常系的な空気感を持ちながらも、日常らしくない日常をコミカルに描いていく小林啓一監督の手腕も相変わらずで、文句のない一作に仕上がっています。

 ただ、今年は他の作品でも演出が素晴らしいものが多すぎでした。

7位 シュガーラッシュ・オンライン

harutorai.hatenablog.com

 なぜかネットでの評判は悪いそうなのですが、個人的にはこの映画が大好きです。ディズニーの悪ノリと黒い一面が表側にドロっと出てきたと言っても過言ではありません。おかげでまあ出てくるギャグがどれも酷いこと、酷いこと……。

 だから、最高なんです。

6位 クリード 炎の宿敵

harutorai.hatenablog.com

 本作も納得の順位でしょう。演出力が抜群に素晴らしい監督が、全力でロッキーを撮ったらこうなるということをよく体現しています。おかげでとにかく本作は、熱いし、目が離せないのです。この手のスポーツものだと傑作であっても、中盤でダレたりすることもあるのですが、本作はそれもありません。

 それほどに絶妙な演出が各所でさり気なく施されているのです。

5位 この素晴らしい世界に祝福を!紅伝説

harutorai.hatenablog.com

 え、ベスト5がこれなのかと驚かれた人も多いかと思いますが、実際のところ、それくらい自分はこの手のコメディアニメが大好きなのでしょうがないです。世代としても、こういうコメディに囲まれて育った世代ですし、そういった意味でもこの作品は高い順位に入れたいと思っていました。

 作品自体も非常に素晴らしいです。おそらく本作だけを見た人でも十二分に楽しめるのではないでしょうか。それほどに片っ端から見ていて思わず笑ってしまう無茶苦茶な設定と、個性的な登場人物たちが繰り広げる意表を突いた展開の数々がとにかく楽しい作品でした。

4位 ジョーカー

harutorai.hatenablog.com

 惜しくもベスト3には届かない順位になってしまいましたが、全ては「永遠に僕のもの」があるせいです。間違いなく映画として傑作であり、正直、個人的には、近年のアメコミ・ヒーロー映画の中で一番に好きかもしれないというくらいに好きな作品なのです。

 特に印象的なのは、意図的に「演出として、おかしなタイミングで編集したり、音楽で場面場面を消す」という伏線の貼り方です。最初は作り手の都合で、そのような演出がなされているのかなと思わせつつ、実はそれが伏線だったという若干メタ気味な伏線の入れ方は、かなり映画として斬新な手法であり、あれを思いついただけでも十分に素晴らしいと言えます。

 

 が「永遠に僕のもの」を見てしまった後だと、正直、「いや、この作品ももっと行けるゾーンがあったはず」と思わされてしまうところもあります。なにせ、こっちは犯罪者に共感はするものの、犯罪行為そのものに美しさや犯罪者そのものに憧れる気持ちは、さすがに湧きませんから……。

3位 キングダム

harutorai.hatenablog.com

 ベスト3がこれというのも驚きでしょうが、実はそれほどに自分の中では本作に対する好感が高いのです。自分からしたら、単純に「エンターテイメントという形式の映画として、これ以上の作品なんて要らないだろう」と思うからです。アクション映画として、これ以上に上手い作品は今年ありませんでした。

 ノンストップで見事に展開していく話と、原作のイメージを十二分に表現している美術、少年漫画らしい展開と、アニメみたいに重々しい武器を軽々振り回す美女の姿――全部を実写という形で体現できているなんて最高ではないでしょうか。

 特にハリウッドですら「美女がちゃんとした格闘している絵面」を説得力を持って再現できた例は少ないのです。アメコミ映画にしろ、普通のアクション映画にしろ、大抵において、設定側で女性用のちっこい武器を用意させたりしてそこを回避するのが普通なのです。

 

 しかし、この作品はそこを逃げませんでした。それだけでもベスト3にできる価値があると思うのです。

2位 グリーンブック

harutorai.hatenablog.com

 いろいろ迷ったのですが、ベスト2はこれにしました。個人的に、本作がテーマとして取り上げた「人種差別」という問題はこの後も様々な展開を見せていくと思っているからです。

 最近(もちろん、未だに旧来的な露骨な人種差別もありますが)特にリベラル的なスタンスを示しているはずの人たちに潜んでいる「無自覚の人種差別」というものが、徐々に明かされてきていると感じています。*2

 

 そして、本作「グリーンブック」は、まさにそこに対しての話もしている人種差別がテーマの映画なのです。感想記事でも指摘したように、本作は実のところ「反レイシストが完璧に気に入るような映画」としては作られていません。

 主人公たちの黒人でもなく、白人でもない”人種”として存在している姿。そんな彼らが訴える「人種差別問題」の本当にあるべきゴールは、間違いなく今後必要な考え方になるでしょう。

1位 永遠に僕のもの

harutorai.hatenablog.com

 文句なしの2019年ベストワンでしょう。本作はこの映画をベストワンにしないで何をベストワンにするんだと言ってもいいほど強烈な作品です。なにせ、この映画を見ていると「あぁ、自分もカルリートスのように自由に生きて、犯罪を犯してみたい!」と思わされてしまうのです。ただ、サイコパスな殺人鬼が犯罪を犯し、殺人するだけの姿に「美しさ」や「格好良さ」すら感じてしまい、ついぞ「憧れ」すら抱いてしまうのです。

 しかも、観客がなぜそんな感情を抱いたのか、観客自身も誰も理解できないし、説明ができないのです。

 冗談抜きや、大袈裟な表現でもなんでもなく、本作ほど人間の価値観を根底から揺さぶってくる作品はないです。いかに人間の中に――いえ、この映画を見ている自分の中に狂った自分が存在しているのかを、この映画は丁寧に暴いていくのです。

 ジョーカーより、よほどジョーカー的な映画だと言えます。とてつもなく危険で、とてつもなく魅力的な傑作。この映画を観れただけでも、2019年の映画には巨大な価値があったと言っていいでしょう。

 

 

以上がランキングになります。

 

 2019年の映画全体を総評してみると「ガッカリさせられることが、多すぎた」という印象がちょっとあります。特にネットの「洋画ならば、ハリウッドならば絶対面白い」という色眼鏡を掛けている人たちやら評論家やらの色眼鏡全開の評価に反して、かなり洋画のガッカリ映画率が上がっているのが気になります。

 もちろん、邦画の方も相変わらずな出来の映画は、やっぱりコンスタントに出てきているのですが、同時に数年繰り返し言っているように面白い作品もコンスタントに出てきています。

 それと比すると――洋画は今までほどコンスタントに面白いものが作れなくなり始めているのかな、と。実際、2019年ランキングも半分近く邦画が締めています。必ず、それなりのクオリティを作ってくるディズニーアニメ映画を例外として省くと、なんと数が4:4で拮抗してしまいます。

 

 若干、洋画の未来が気になり始めてきました……。

*1:特にびっくり箱型のホラーは無駄に怖がらせてくるわりに中身がないことが多いから「無駄にビビらせやがって!」と減点しがちです。

*2:正直、個人的にはグレタ・トゥーンべリなどに代表される欧州の変な環境保護運動も、それをやたらに世界に対して強要しようとする態度にも、根底には「白人こそが世界の主役だからやってもいいのだ」という優生学的な考え方があるんだろうな、と思っています

映画感想:スター・ウォーズ スカイ・ウォーカーの夜明け


「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」特報

 

 恒例の手短な感想から

普通につまらない

 といったところでしょうか。

 

 ひょっとすると初めてかもしれません。新しいスターウォーズシリーズで、ここまでハッキリとガッカリさせられたのは。

 ローグ・ワンやEP8など、「確かにこれは問題点があるなぁ」と感じさせられてしまう映画は、確かに一連のスターウォーズ新三部作シリーズにもありました。

 

 しかし、いずれも問題点と同時に評価できるポイントもありました。特にEP8は、フォースという存在を仏教の観念的な事象にまで昇華させることに成功しており、だからこそ、問題点があっても傑作と言える出来になっていました。

 

 で、今回のEP9ですが、そこが一番ないのです。EP9は問題点が散見されるわりに評価できるポイントがないのです。

 なぜ、評価できるポイントが無くなってしまっているのか。それは一重にEP9はすべてが中途半端だからということに尽きるのでしょう。

 

 例えば、EP7のように、振り切って元来の一番古いスターウォーズにあった、プログラムピクチャーとしての楽しさを追求したわけでもありません。

 EP8のように、それまで中途半端で意識高い系の愚論のようなものになっていたフォース論を、観念的な、複雑な哲学の世界まで切り開かせたわけでもありません。

 ローグ・ワンのように、戦場や戦争という側面を強調し、ある時期の時代劇的な泥臭い戦いを見せたわけでもありません。

 ハン・ソロのようにスターウォーズ世界を冒険し、探検し、様々なイマジネーションや奇抜な仲間たちとのスペースロマンを描いたわけでもありません。

 

 

 EP9はどれにも根ざさず、ただただ「うるさくて声の大きいファンたち」だけが気に入るように、彼らのつまらないイマジネーションと陳腐に妄想していた中二病ストーリーをひたすら再現することに注力しています。

 だからこそ、本作は恐ろしいほどにつまらないのです。

 

 映画に出てくる要素、一つ一つが、まるで実感もなく共感も覚えられないものばかりで、話はとてつもなくセカイ系で、EP8までの無限な広がりを見せたスターウォーズ世界は矮小化され、最終的にスカイウォーカー家とパルパティーン家がいざこざしてるだけの話にまでスケールが狭まってしまいます。

 

 これならまだEP1〜EP3で繰り広げられた、パドメとアナキンの虫酸が走る恋愛話の方がマシです。

 あの三部作は始めからそういうスケールの小さい話を描き続けていたからです。最後の最後まで「まあ、どうせ主軸はスケールの小さい恋愛話で終わるんだろうなぁ」と分かっていたから許せたし、それを許容したからこそEP3はそれなりに楽しめました。

 

 一方、こちらはスケールを広げに広げたあとでフォース番地のご近所トラブル話を急に始めたEP9なので、全く納得がいきません。

 

 そういった点も納得がいかない状態なのに、更に根本的な問題として本作最大の仕掛けであり、同時に新三部作シリーズで最も核と成していた重大な設定――レイが実は○○っていう設定が、あまりにも話として陳腐すぎて面白くもなんともないのが本作の「どうでもよさ」に拍車をかけています。

 

 EP8辺りから、ずっとリーク情報としてネットで囁かれていたあの設定……リーク情報として囁かれていた頃から「そんな、つまらない設定をディズニーは本気で面白いと思っているのか?」と疑義を抱いていましたが、実際の本作を見ると尚の事「やっぱりこの設定自体がつまらないだろ」と言わざるを得ません。

 

 そもそも、レイの力に血筋という「理屈」を入れること自体が野暮でしょう。

 スターウォーズ世界は、様々な予言と予知で成り立っている世界であり「理屈などなく、ただ運命として結果そうなるのだ」という決定論に近い世界観を共有している作品です。

 その作品で才能にいちいち血縁がどうだの出自がどうだの……そんな理屈が必要なのでしょうか。ただ、圧倒的な力を持つ人として"世界に存在させられたのだ"で十分なのでは?

 

 また、現実の世界から考えてみても、圧倒的な才能を持つ人間に、恵まれた血筋だののくだらない理屈は通用しないのが普通です。

 例えば藤井聡太羽生善治の才能に、血筋なんてまるで関係ありませんよね。それが才能なのです。理屈が通じないからこそ天才なのです。それに説明をつけられないからこそ、天才は天才たり得ているのです。

 説明がつくなら、それは天才――天賦の才とは決して呼ばれません。

 

 だからこそ、レイの力に「血筋という理屈」で納得させようとする本作は、どうしても狭い価値観で作られた陳腐な作品に映ってしまうのです。



 そして、もう一つ残念なのは、結局全ての黒幕がやはりあいつだったという話の筋書きでしょう。そもそも、「ゴルゴムの仕業だ!」ばりに、今まで起こったなんでもかんでもを全部「あいつの仕業だったんだ」と言い出し、都合の良い悪役として使い倒すこと自体に問題が大有りですし「いや、別にあいつシス卿の生みの親的な存在でもないのに、なんでそんなに悪役として使い倒すんだよ」と言いたくもなるのですが、なによりビックリなのは、あいつが映画冒頭の序文でいきなり復活した扱いになっていることでしょう。

 百歩譲って復活させるまでは良しとしても、復活するシーンすら描かず、たった一文で復活したことにするのは雑なんてレベルではありません。

 ソードマスターヤマトと言っていいレベルのいい加減さです。

 

 

 しかも、復活したあいつの劇中での活躍がまた問題だらけで、一挙手一投足の全てがどっかで見たことのある悪役でしかありません。はっきり言って、見れば見るほど「なんか、そこそこつまらないRPGのラスボスを見てるみたいだ」って印象がどんどん増していく有り様なのです。

 なぜ、こんな体たらくで、こいつをわざわざ復活させたのでしょうか。本気で度し難いです。

 

 このようにEP9「スカイ・ウォーカーの夜明け」はEP7、8にかなり好感を持っていた自分でもキツい作品となっていまして――まあ、巷のガッカリした反応も仕方なしかなと思わざるを得ないのです。

映画感想:アナと雪の女王2


『アナと雪の女王2』- 予告編

※ネタバレ全開です。

 恒例の手短な感想から

子供が大人になるための物語

 といったところでしょうか



 自分は一作目のアナと雪の女王について、物語の雑な作りにガッカリしていたクチなのですが、その自分からすると本作は極めて良い出来であるように感じました。一作目のダメだった点などをキチンと改善し、正統的なファンタジー映画へ昇華させているのは見事と言えるでしょう。

 

 巷では、本作の最後「アナとエルサが別々の国で過ごしている」という描写で終わることについて賛否があるようですが、この作品ならば、むしろ、あのオチにしないほうがむしろ変でしょう。

 逆に「姉妹が暮らしているままが良かった」と言っている人たちは、本作の物語を全否定していることに気づいてほしいと思います。



 なぜなら、本作は「モラトリアム的な青年期から、きちんとした立派な大人になること」がテーマの映画だからです。

 

 不思議に思いませんでしたか。本作でオラフがやたらと「大人になったら」「大人になったら」となぜか大人になることを意識したセリフを連呼していることに。いえ、連呼どころか、歌パートでもオラフは「大人になったら」という歌を歌っています。

 つまりオラフは大人になりたがっているわけです。

 

 クリストフは導入の時点で、アナに結婚を申し込むことを心に決めており、作中でも事あるごとに、アナにプロポーズする機会を伺っています。そして、毎回毎回なにかに邪魔されてプロポーズは失敗するという流れを繰り返していました。

 現代社会でも、そうですが、昔の欧州などでも結婚というものは、大人になるための通過儀礼の一つとして捉えられてきました。その結婚を、つまりは大人になる決意を固めているクリストフまでいるわけです。

 やはり、クリストフも大人になりたがっているのです。

 

 オラフもクリストフも「大人になりたい」という話をずっとしているのです。

 

 そして、最後にエルサです。冒頭からずっと謎の歌声に惹かれていて、妹たちがいる城を出て声の元へ向かうべきなのではないかと悩みつつも、それを家族に打ち明けられず、妹たちと暮らしているという状態でした。

 物語のクライマックスで明かされるように、謎の歌声の正体は、水が記憶していた母親の歌声でした。それに惹かれていたということは、つまりエルサは自らの母親みたいな存在になりたいと感じ始めていたということです。

 

 そう。エルサ自身も「大人になりたい」と感じていて、そんな自分の気持ちと葛藤していたわけです。

 

 そんな序盤でアナ一人だけが「いつまでも、みんな一緒で、みんな同じ」という話をしています。つまり、アナだけが、まだ大人になろうと思っていないわけです。

 実際、何度も自分から離れていこうとするエルサに、アナは「どこにも行っちゃダメ」と駄々をこねていますし、アナはちょいちょい相手の気持ちが読めていない発言をして相手を困らせたりしています。

 

 アナだけが、まだ大人になろうと思ってないのです。

 

 言ってしまえば「いつまでも実家ぐらしで良いのかと悩み始めている姉」「そろそろ、結婚したいなぁと思っている恋人」がいる状況で、「今までとずっと同じで良いじゃないと言い出す妹」がいる――そういう前提の物語がアナと雪の女王2なわけです。

 

 そういう前提の物語ならば、当然のように話も「大人になる」ことがテーマとなります。

 特に本作が「大人になる」物語であることを象徴しているのは、物語中盤でアナとエルサの両親の死をアナとエルサが見るシーンクライマックス直前でオラフが死んでしまうシーンが描かれていることでしょう。

 

 どちらも死と直面させられる描写であり、通過儀礼的な描写であることは明白です。しかも、ただの死ではなく「親の死」と「オラフ*1の死」です。通常の通過儀礼的な物語よりも、本作のほうがよっぽど強い意味で「大人になる」物語になっている事がわかります。

 

 

 そして、実際、本作の物語は親の死と直面したことで、エルサが「大人になる」覚悟を決めてアナと袂を分かち、オラフが死を迎えたことをきっかけに、アナが「大人として」目覚め自分の王国を犠牲にしてダムを壊す決意を固めます。

 

 アナと雪の女王2は「大人になること」を描いた物語なのです。



 そして、大人になったからこそ、アナとエルサは最後、別々に暮らすようになるのです。

 逆にこの物語を経てもなお、一緒に暮らしていたらそれこそ台無しでしょう。「いつまでも一緒に暮らすというアナの価値観が幼稚だ」という話から始まっている物語なのですから。

 

 このように、本作は通過儀礼的な物語として非常に良く出来ており、この手のファンタジーが好きな自分からすると、一作目よりも遥かに好感を持てる素晴らしい映画に感じました。

 

 そもそも原作の「雪の女王」自体が、そういう通過儀礼的な成長譚を寓話にしている物語*2なので、原作へのリスペクトという意味でも過不足ないです。

 

 また、映像表現やイマジネーションに、ジム・ヘンソンの人形劇をオマージュしているところが見られるのも良かったです。まあ、全体的に「作り手の人たち、全員、ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザワイルドに激ハマりしたんだろうなぁ」と思える描写が多すぎじゃないかとも思いましたが。

*1:作中でのオラフは、かなり分かりやすく幼稚さがあるキャラクターです。作中でもっとも空気が読めず、意地っ張りで、自分勝手で、実際オラフ自身も自分が幼いことを自覚しています。特にオラフはアナと序盤からつきっきりであり、言ってしまえばオラフは「アナの幼稚さ」を象徴するキャラクターなのです。それの死とはつまり、アナが幼さから脱却することを意味します

*2:harutorai.hatenablog.com

映画感想:殺さない彼と死なない彼女


間宮祥太朗×桜井日奈子『殺さない彼と死なない彼女』本予告

 

 恒例の手短な感想から

これほどに相性のピッタリな実写化映画は奇跡

 といったところでしょうか。



 小林啓一監督のことは「ももいろそらを」から、当ブログでは延々と作品が出るごとに評し続けてきましたが、今回の映画化については特に楽しみにしていました。「殺さない彼と死なない彼女」については、事前に原作を読み込んでいたのですが、内容からして「これを小林啓一監督に映画化させるのは、名采配だろう」と言わざるを得ないものだったからです。

 

 青春をテーマにしつつも、ただ単に「青春が良い」とも「青春の恋愛って素敵」とも言おうとしない、ひねくれたストーリーとひねくれた性格の登場人物たち、本人たちは至って真剣なのに思わず笑ってしまうヘンテコな会話と行動、そして、そんなやり取りの中でときどき浮かんでくる哲学的なテーマと背後に漂い続ける死の影――それらの要素は、今までの小林啓一監督作品で、小林監督が描き続けていたものと間違いなく同じです。

 

 ここまで小林啓一と同じことを描く人がいたのか――と、原作を読んだとき自分はとても感心しました。同時に、本作の公開が待ち遠しいな、とも思いました。

 

 

 そして、案の定、本作は極めて今までの小林啓一的な映画作品を連想でき、余すところなく原作の魅力を映像化したと言える映画になっていました。

 

 原作は「リストカット」という要素を、青春と日常の中に溶け込ませているところがとても印象的で「あぁ、そうか。リストカットも日常の行いなんだ。非日常的行為ではないんだ」と気づかされてハッとするところがあります。

 今までの小林啓一作品でも「同性愛」や「売春行為」を「あくまで日常の一つ」として描いていましたが、本作でもここをキッチリと掬い上げ、リストカットを過剰にシリアスにも過剰にコミカルにも、肯定的にも否定的にも見せず、ちゃんと青春と日常の中に存在しているんだと意識させるようにシンプルに演出して描いているのです。

 

 おかげで、観客にとって「とても異質な存在」であるはずの主人公たちのことを、次第に自然と受け入れられるようになっています。

 

 本来ならば、こういった要素をシンプルに撮るのが、いかに難しいことかは説明するまでもないでしょう。どこかで過剰にクローズアップしたり、逆に過剰に引いて撮ってしまうのが普通です。しかし、本作にはそれがないのです。

 姿勢として「あくまでリストカットは、日常の一つ」というスタンスを崩さないのです。

 

 それは本作の筋書きが、リストカットしている女子高生のみをクローズアップしない姿勢からもよく読み取れます。原作でも「殺さない彼と死なない彼女」はあくまで短編であり、同書にはリストカットしている女子高生の話以外にも、微妙に話の繋がりがある、他の青春の短編が描かれているのですが、本作はそこもちゃんと再現しております。

 

「自己愛の強くて愛を求め続ける女の子の話」「ある男子が好きすぎてその人にずっと告白し続ける女の子の話」――それらの、一見すると「殺さない彼と死なない彼女」という話とは関係がなさそうな恋愛話たちを、リストカットしている女の子の話と同じくらいにちゃんと描いているのです。

 決しておまけ扱いではなく、それぞれの登場人物たちが個人的に抱えている悩みや気持ちや考え方を丁寧に描き、それぞれの登場人物が作品内で起こったことをどう捉えるのか、どう理解するのかというところまで見せ、様々な角度と様々な価値観から全体像が見えるように「殺さない彼と死なない彼女」を描いているのです。

 

 そして、それら全てを等価で描き、一つの要素にウェイトを置かないからこそ、本作がリストカットという行為の裏――つまり「死というもの」自体を主眼に置いているのはなく、ましてや2000年代の恋愛映画のような、ただ「人が死んで悲しい」と言うことをテーマにしたい映画でもなく「それよりも大きななにか」を浮かび上がらせようとしている映画であることがよく分かるのです。

 

 小林啓一監督で映画化させたことがこれほどに正解な漫画もないでしょう。

映画感想:オーバー・エベレスト 陰謀の氷壁


映画「オーバー・エベレスト 陰謀の氷壁」本予告(60秒)11/15全国公開!

※今回はネタバレ満載のレビューです。

 恒例の手短な感想から

間違いなく、ヘンテコ映画

 といったところでしょうか。

 

 そうです。ヘンテコ映画。

 それ以外に表現のしようがない一作ではないかと思います。

 本作、日中合作でエベレストを舞台にした壮大なサスペンス映画という時点で、90年代くらいにあった、昔の邦画ーー例えば「ホワイトアウト」だとか、ああいった映画を彷彿とさせる面があったのですが、やはり、その想像を裏切らない出来になっています。

 

 観客の誰もが「なんじゃそりゃ」と心の中でツッコミを入れたであろうほどにヘンテコな描写が満載であり、本作は映像の比喩的表現にしても、台詞の表現にしても、話の筋書きにしても、全てが極端で大袈裟で大雑把なことになっています。 

 例えば、映画の冒頭で役所広司とヒロインが思いっきり雪崩に飲み込まれているのに、なんの説明もなく普通に次のシーンでは生還していたり、ヒロインがはくちょう座を見つめていると急に星が集まり巨大な白鳥となって、わーっとヒロインの周りを飛び回ったり、高所から突き落とされて頭を打ったヒロインがなんの説明もなく息を吹き返したり――全ての表現が異常に大袈裟で説明的でツッコミどころだらけという、真面目に見ているとだいぶ頭痛のする映画となっています。

 

 これらは「マジックリアリズム」と言い訳すれば高等な表現にも見えますが、ようは過剰な映像的説明とご都合主義のなれの果てであり、映画として到底誉められたものではありません。

 あげくに肝心の雪山登山に関しても、考証はいい加減で、民間救助隊に志願しているようなヒロインが普通に雪山で乾いた喉を潤すために雪を食べて、雪で顔を洗っていたり、エベレストの山頂付近で登場人物がどいつもこいつも大声張り上げているわ、と「せっかくエベレストを舞台にしたのに、この映画はなにがしたいの……」と絶句したくなるほどです。

 

 ひょっとすれば、この映画の作り手からすれば、ヒロインが雪を食べるくだりあたりは「それより前の高所からヒロインが突き落とされた時点で、実はヒロインは死んでいて、霊的な存在になっていたから雪を食べている」的なつもりで描いたのかもしれません。

 映画全体の描かれ方からすると、その可能性も若干仄めかされてはいるのです。

 しかし、この映画、前後のシーンではヒロインのために大怪我して「俺を見捨てて下山するべきだった」と号泣している同僚やら、ヒロインのために自ら命を捨てた役所広司がいるんですよね。

 ヒロインがとっくに死んでいるとすると、彼らの行動の意味って一体……?

 

 ヒロイン死んでる前提だとしても、やっぱり「この映画って何がしたいんだ……」という疑問はまったく解消できません。

 

 いえ、それどころか、そのヒロインのために命を捨てた役所広司でさえ、その前に殺されてる描写があるんです。その後、何事もなかったようにヒロインを助けているので、つまり「幽霊が幽霊を助けるために幽霊の自分を犠牲にして死んでいる」というわけです。

 全てにまったく意味がありません。

 狐に摘ままれていた方がマシなレベルで無意味です

 

 マジックリアリズムマジックリアリズムを重ねたせいで、本当に「この話って、結局なにがしたいの……?」という疑問が出てこざるを得ないのです。そして、この異様すぎるマジックリアリズムの重ねがけぶりに、真面目に考えれば考えるほど「結局、ただのご都合主義じゃねーか!」というツッコミがどうしても頭に浮かんできてしまうのです。

 

 そして、仮にもし、上記のヒロインと役所広司、幽霊説が間違っているならば、それはそれでこの映画がただ単に描写が杜撰な映画であることを示しているだけですし、どっちにしても「アレな映画」であることは間違いありません。

 

 もちろん、まったくつまらない映画ではないのです。一応、サスペンス部分のおかげで飽きることはないのですが、異常に多い愁嘆場の数々、謎の描写と投げっぱなしだらけの伏線描写に「絶対良い映画でもないな!」と断言できてしまうところが本当に残念な映画です。

映画感想:ブラック校則


映画『ブラック校則』(11.1公開)予告編

 恒例の手短な感想から

良いんじゃない?

 といったところでしょうか。



 いえ、決してずば抜けていい出来の作品だというつもりは毛頭ないのですが、そうだとしても本作が面白い作品であることは事実でしょう。タイトルにもあるとおり、本作は若干前に世間で騒がれた古臭い「意味が分からない校則」――ブラック校則のことを、描いた作品です。

 

 センセーショナルな話題を安易に追って作られたと思しき本作は、主役二人がジャニーズアイドルで、しかもテレビのドラマとの連動企画で作られた映画という時点で普通の映画ファンの食指はまず届かないものと思われますが、これを見に行かないのは少し勿体ないです。

 なぜなら、本作、この手の学園もの――例えば「グレッグのダメ日記*1」や「志乃ちゃんは自分の名前が言えない*2」などと比べても、結構良い出来の作品であることは、間違いないからです。

 

 少なくとも自分は、前述の映画より、この映画の方が掲げたテーマに対してだいぶ誠実な態度で作られているように思います。特にブラック校則という問題を単に「校則がムカつく」という話だけでは済まさず、ブラック校則は最終的に一人一人が別に持っている「価値の否定」になっている、というところまで掘り下げて物語を描いているのは、なかなか良いです。

「この作り手たちは、ちゃんとテーマと向き合っているのだなぁ」と感心しました。

 

 特に自分は、地味に教育指導の体育教師は「生徒たちを見下している」のに対し、校長先生は「ビジネスライクに割り切っていて、生徒などどうでもいいと思っている」と、同じ学校側で校則を強いている人でもスタンスが違うところが、結構考えられているなと感心しました。



 また、映画の作り手たちがこの「一人一人の価値」という根本的なテーマに対して、決して映画自体の描き方が矛盾を起こさないように気を付けているのも、だいぶ良かったです。自分はちょっと前に「閉鎖病棟」の感想記事で「自分たちが提示したテーマと実際に描いている物語が自家撞着している」と指摘したことがあります。

 閉鎖病棟の作り手たちは、本作の作り手たちから爪の垢を取って煎じて飲むべきではないでしょうか。

 

 いかに本作が自家撞着に陥ってないかを示すのは、なによりも本作のヒロインのキャスティングでしょう。モトーラ世理奈さんというファッションモデルの方なのですが、この方、パッと見ても分かるくらいに、顔のそばかすがとても目立つモデルです。

 ちょっと昔だったならば「モデルとして欠点だ」と言われかねないレベルのそばかすなのですが、さすが今の世代というべきか、そのそばかすを、むしろチャームポイントとして活躍している方なのです。

 まさに「一人一人の価値」というものをテーマにする本作としては、この上なくベストなキャスティングだと言えるでしょう。

 

 そして、その主役の脇を飾る――いろんなところに欠点があり、性格の悪いところもあり、しかし同時に良いところもあったりする登場人物の数々。これら登場人物の善悪のさじ加減も絶妙で「完璧に悪い人も居なければ、良い人も居ない」というバランスに仕上がっております。*3やはり、ここもちゃんとテーマを体現することが出来ているのです。

 

 その上、脚本は様々な過去の「学園もの映画」を参照しながら丁寧に作っており「あ、これあの映画のアレか」と言いたくなる箇所がいろんな箇所で見られます。例えば前述した「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」や有名な作品でいえば「桐島、部活辞めるってよ。」リンダリンダリンダ!」などの映画を思わせる撮り方や描写がそこかしこに潜んでいるのです。

 

 あえて言うなら、若干、描写のいくつかが中二病めいているところもあるのですが――なんというか、この映画の青臭さの場合、そこもまた良い味になっているように思います。自分がそれくらいオジサンになったのかもしれませんが(まだ30にもなってないのに、こんなこと言ってたら怒られそうな気もしますが……)この映画で中二病めいた「安っぽい大人への反抗」的な描写があっても、「青春だからねぇ」ということで良いのではないでしょうか。

*1:以前もこのブログで取り上げたことがありますが、グレッグのダメ日記は、クロエ・グレース・モレッツが出演していること以外の取り柄がほぼない駄作映画です

*2:本作にも出てくる吃音症をテーマにした映画です。志は良かったのですが、内容的には納得がいかない描写の多い映画でした。

*3:主人公たちも完璧な善人ではないのが特に素晴らしいです。

映画感想:閉鎖病棟―それぞれの朝―


『閉鎖病棟―それぞれの朝―』予告編

 ※注意 ネタバレ全開の記事になっています。

 

 恒例の手短な感想から

手放しで褒めるにはノイズ多すぎ…

 といったところでしょうか。

 

 一部で好評を博しつつある本作の話題を聞きつけて鑑賞したのですが、自分としては、本作に対して「確かに感動できる内容にはなってるけど、これを手放しで褒めるのは不味くないか?」という感想を抱いています。

 

 上記で評したように、まさに本作は「ノイズ」が多すぎです。本来の話の筋書きからすると「え、その話、そんな雑な処理でいいの?」と言いたくなるような箇所がチラホラとあり、それが無駄なノイズとなって本作の鑑賞を妨げる要因となっています。

 

 特にノイズの中でも、決定的に「おいおい。それはないだろう」と言いたくなるのは、中盤まで主人公に近い扱いをされていた、小松菜奈演じる由紀の中盤以降の扱いでしょう。

 

 元々、義理の父親から性的暴力を受け挙げ句そのことで母親から逆恨みされている、という重い設定を彼女に課した上で、物語のターニングポイントとして彼女が同じ閉鎖病棟の男にレイプされてしまう話を設けるところまでは物語の筋立てとして理解できます。

 世の中にはそういう残酷な話が本当にあったりしますから、多少不快でもそれを描くことには意義があるでしょう。その後の描き方さえ間違えなければ、女性的な視点にも富んだ良い物語にもなりえます。

 

 

 しかし、本作はその後の描き方が全て間違っています。

 いえ、それどころか、レイプシーンの後、彼女が忽然と閉鎖病棟から居なくなり、しかも登場人物の誰も彼女の行方を気にしていないという描き方は、この手の話の中でも最低最悪レベルの描写だと言えます。

 

 例えば、この映画の登場人物たちが彼女がレイプされた事実を知らないとしても、忽然と居なくなった彼女を探さないのは変です。

 

 しかも、この映画の場合、それどころか登場人物たちの中に由紀がレイプされた事実を知って、男を殺害までしている人がいるのに由紀のことを気にしないから尚の事おかしいです。「いや、そうはならないだろ」としか言いようがないのです。

 

 一応、映画の終盤で由紀は再登場するのですが、そこでも誰も忽然と居なくなった彼女を気にしなかった件には触れません。

「どこ行ってたんだ」「心配してたよ」とかの一言すらないのです。

 しかも、レイプされ忽然と去った由紀が閉鎖病棟を去った後でどうしていたのかという回想でさえ……「レイプ後、街をさまよってたらホステスに罵倒されたので号泣して綺麗な夕日を眺めました。ちゃんちゃん」とかいう「だから、なんなんだよ!」としか言いようがないふわっとした話で終わり、彼女の口からも「今は看護師見習いやってます」という証言が出てくるだけです。

 

 なんじゃそりゃ! ふざけてんのか!*1

 

 これでは映画の作り手たちが、この由紀という登場人物を物語上の盛り上がりとしてレイプされるだけの役として存在させていて、そのレイプされる役目が終わったからどうでもいいと思っているかのようです。

 

 こういった扱いの女性をアメリカンコミック界隈では「冷蔵庫の女」なんて呼ぶのですが、まさにこの映画の由紀は「冷蔵庫の女」そのものでしょう。*2

 

 このように本作は大変にノイズが多い作品なのです。それも本筋に対してどうでもいい要素ではなく「本筋にとってその要素って重要じゃないのか」「この作品のテーマにとって、そこは重要じゃないのか」という箇所に限ってノイズが混じっているのです。

 

 散々、作中でどんな人にも事情があるんだと説いておきながら、あの覚醒剤中毒者や統合失調症者の妹にもあったはずの過去や事情を描かず一方的に悪者扱いし、そのわり元・死刑囚の男は浮気されていたという理由だけで妻と間男を惨殺しているのにそれは仕方ないことと言わんばかりだったり……かと思えば、海の見える公園で亡くなった閉鎖病棟患者は、家族いない寂しさから自殺したのかそれとも偶然の自然死だったのかさえ誰一人として不自然に言及せず、焼きそばパンを頬張っているシーンだけ回想で描かれて「はい、死にました」という扱いだったり……「この作品のテーマにとって、そこが重要な話じゃないのか」という点がなんだかところどころ軽んじられているのです。

 

 ただのサスペンスエンターテイメントならば、ただの悪者扱いがいても、よく分からないまま死んだ人がいてもいいでしょう。しかし、そこをテーマにしたはずの本作でこれを平然とやってしまうのは自家撞着にも程があります。



 はっきり言って、この作品は、結局「ボクかわいそうだなぁ。あぁ、かわいそう。かわいそう。なんて、かわいそうなんだろう。他の人? ボクがかわいそうなんだから、他なんてどうでもいいだろ!」という、"悲劇のヒーロー"イズムを開陳する映画にしか見えないのです。



 本作はそれを堪能するだけのエクスプロイテーション映画に成り下がっているだけではないでしょうか。



*1:そもそも、医療免許制度である看護師で"見習い"っていう表現も、かなり変なのですが。しかも、刑事裁判の証言台で”看護師見習い”って……。普通は"看護助手"って表現するはずです

*2:冷蔵庫の女とは……グリーン・ランタンにて、主人公の恋人が殺されたことで主人公・カイルが変身能力に目覚めるくだりの後、ちっとも主人公が殺された恋人のことを想いもしないし、なんならまるで初めから恋人なんて存在していなかったかのような扱いになってしまう話の流れが問題視されて出来上がった言葉です。

 一連の流れが、まるで恋人が主人公を変身能力に目覚めさせるためだけに存在し、殺されたように見えるので「それは女性軽視じゃないのか」と問題視した人たちは言いたかったんですね。そこから、雑な扱いで主人公が覚醒するためのキーとして女性が死ぬことをこう呼ぶようになりました

 本作の場合、由紀がレイプされたことをきっかけに、鶴瓶演じるチュウさんが覚醒剤患者を殺し、そのことで閉鎖病棟内の患者たちから英雄視されたりしています。そして、当の被害者である由紀自身は本記事で書いたとおりの扱いなわけです。

 これは極めて「冷蔵庫の女」に近い扱いでしょう。女性が死んでいない、というだけです。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村