映画感想:ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密
恒例の手短な感想から
見事なアガサパスティーシュ映画
といったところでしょうか。
パスティーシュというのは、既存の探偵小説やミステリー小説などを模倣して作り上げる二次創作のことを指すのですが、まさに本作「ナイブズ・アウト」は、そのパスティーシュ映画にあたる作品だと言えるでしょう。
実にアガサ・クリスティらしい、要素が多く散りばめられた作品であり、彼女が確立させたいわゆる「探偵もの」のフォーマットを上手いこと踏襲しながら、「探偵もの以外のアガサクリスティ作品」で描かれた要素を混ぜ、実に器用な手腕で一つの斬新なミステリー映画を作り上げています。
そうです。この映画はパスティーシュ映画でありながら、若干、パスティーシュの域を超えています。
アガサ・クリスティへのリスペクトに満ち溢れながらも、同時に彼女の作品を超えている内容にもなっているのです。
本作品、序盤は撮り方から、話の構成から何もかも全てを緻密に”アガサ・クリスティ映画作品風に”仕上げており「あぁ、この映画はアガサ・クリスティ的な探偵ものなんだなぁ」という強い安心と信頼があります。
たとえ、探偵役がジェームス・ボンドのダニエル・クレイグだったとしても、それがノイズにならない程度には、キチンとアガサ・クリスティ風味を出すことが出来ているのです。いえ、むしろ、本作序盤のアガサ・クリスティ探偵もの風味な映像表現は、ダニエル・クレイグの紳士的な一面を引き出すことに成功しており「探偵としての説得力」すら帯びています。
そして、そこまで高いクオリティで探偵ものを描いていきながら、中盤以降で徐々に同じアガサ・クリスティ作品でも、ノワール系のダークな作風が顔を出していくるところが、なんとも本作は素晴らしいのです。
この映画の大胆な構成に自分は度肝を抜かれました。そして、同時にハッとさせられたのです。言ってしまえば「ポアロ」的な犯人を追い詰めるタイプの推理探偵ものと、ノワールが実は表裏一体の存在なのだということを、この作品はまざまざと見せつけているからです。
その意味で、アガサ・クリスティは多彩な作品を作っているようで、実は同じ作品を作っていたのです。この視点を持って彼女の作品を鑑賞したことは、少なくとも自分にはありませんでした。
――つまり、本作はとても優秀な「アガサ・クリスティ評論」でもあるのです。
彼女が執筆した一連の作品たちにある共通点を見出し、これらの作品にある本質的な部分を曝け出すことに成功しているのです。この時点でも、本作はとても優秀なパスティーシュ映画だということがよく分かります。
もちろん、ただのパスティーシュではありません。
本作はパスティーシュであると同時にパロディのコメディ作品でもあります。この点については言うまでもないでしょう。セリフの一つ一つにまで趣向を凝らし、伏線を張り、巧みに観客の心を惹きつけている本作の脚本はギャグもよく出来ています。
この巧みなギャグセンスと、元ネタを丁寧にリスペクトした内容は、まさに「次世代のメル・ブルックス」といって過言ではありません。
ここまでの見事な作品ならば映画館で見る価値は絶対にあります。
映画感想:パラサイト 半地下の家族
第72回カンヌ国際映画祭で最高賞!『パラサイト 半地下の家族』予告編
恒例の手短な感想から
これ、ポン・ジュノにしては微妙だろ
といったところでしょうか。
アカデミー賞の監督賞まで獲得した本作ですが、端的に言ってこの感想が似合うと思います。「前評判だけで過大評価されてしまった」と。「ポン・ジュノという天才監督が居るらしい」「見てみたけど、なんかよく分からないところあったなー、でも天才らしいし、高評価した方がいいよね」というその風潮だけでここまで行ってしまった映画が、本作「パラサイト」です。
ハッキリ言って本作は、今までのポン・ジュノ映画の中でも、下の方から1、2番目の出来です。スノーピアサーよりかはマシかなと言う程度で、それ以上では決してありません。
登場人物がカメラに向かって、これみよがしに「ニヤッ」て笑うシーンを入れたり、映像上の比喩をわざわざセリフで説明している場面があったり、と映像表現の様々な面が「本当にあの『母なる証明』のポン・ジュノなのか?」と疑いたくなるほどにレベルが低くなっています。
その上、脚本もレベルが低く、伏線はいちいち全部セリフで「はい。これ伏線ですから、みなさん理解してくださいね」と解説してくれる傾向の――いわゆるバカ向け映画となっています。
しかし、なによりも本作がおかしいのは、各登場人物の設定でしょう。
よくよく考えると「なにその、ご都合な設定」としか言いようがない設定だらけであり、本作を挙げて「韓国の貧困を描いている」などとドヤ顔している人たちは、この違和感だらけの貧困家庭に疑問を持たなかったのでしょうか。
まあ、世界的に流行っている貧困に気遣っているポーズだけがしたいだけの「リベラルという名を冠した貴族様たち*1」からしたら、こんな薄っぺらい程度に貧困を捉えてくれている映画の方が、同情しているポーズを取りやすくて便利なのかもしれませんが……。
だからこそ、ここまで、すんなりと賞を取れたのでしょうし。
少なくとも、自分には「カブスカウトに通っていた過去を持つ息子、美大を目指していた娘、完璧なドライビングが出来る父親、メダルを持っているアスリート母親」なんてトンデモ設定の家庭から貧困を描かれても、それが貧困を描いたことになるとは到底思えません。
同じ金獅子賞の「万引き家族」のほうが遥かにちゃんと貧困を描いていました。
また本作は登場人物たちの行動の動機や、感情が酷く単純です。そこも今までのポン・ジュノ映画を堪能してきた身からすると、まったく納得がいきません。クライマックスも「あぁ、ムカついたから殺したのね」という酷く単調な感情があるのみです。「母なる証明」のクライマックスと比べると、なんと陳腐な話で終わっていることでしょうか。
今までの流れなんて全部無視して、バカにされてると分かったから怒って、好かれてると分かったから好いて――一事が万事、そんな感じで感情が単純なので、見ていて登場人物全員がバカに見えてきます。そして、その部分を「コメディだから」とごまかしているわけです。
そんな映画の、そんな登場人物に感情移入など、当然、全く出来ないです。
正直、ポン・ジュノ監督は「格差」やら「階級闘争」の話をテーマとして選んではいけない気がします。
ポン・ジュノ監督、この手の話をテーマにすると「昔の左翼小説か!」と言いたくなるほど紋切り型で薄っぺらい描写しか出来てないのです。スノーピアサーのときも、そうでした。
そんな、ガッカリ映画がパラサイトでした。自分としては「母なる証明」見たほうがどう考えても面白いよ、とただそう思います。
映画感想:テリーギリアムのドン・キホーテ
全世界賛否両論、カルトか?傑作か?映画『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』予告編
恒例の手短な感想から
うわぁ、なんだこれ…
といったところでしょうか。
アレハンドロ・ホドロフスキーだの、カレル・ゼマンだのの、シュールとしか形容しようのない芸術映画を度々嗜んでいる自分ですが、その自分でも、さすがに本作に関してはこの感想しか出てきませんでした。
「うわぁ……これ……どう捉えたらいいんだろう」と。
本作はそれほど見ている人の感慨やら感情やらを吹き飛ばしてしまう、強い力のある映画であることは間違いないでしょう。
内容がシュールすぎるとか、そういう話ではないのです。むしろ、テリーギリアムの映画としては本作はだいぶ「奇抜な設定がない」映画だと言えます。
元々は、テリーギリアムが20年近く前から撮ろうとしては失敗し続けていた映画なのですが、数々の失敗を重ねるに連れ、どうもテリーギリアムは、この映画に対する捉え方がだいぶ変化してしまったようです。
証拠にテリーギリアムが本作を撮ろうとしては失敗し続けた様子を捉えたドキュメンタリー映画「ロスト・イン・デ・ラ・マンチャ」の中でチラッと描かれていた本作と、実際の本作にはびっくりするほど設定に違いがあります。
「ロスト・イン・デ・ラ・マンチャ」の中での本作は、主人公が実際にドン・キホーテのいる過去にタイムスリップしてしまうという、いかにもテリーギリアムっぽい奇抜でシュールな設定でした。
ですが、本作ではその設定は排され、一度「ドン・キホーテを殺した男」を撮った男が、時を経てその自分が撮った作品自体と対峙するような内容となっています。
ちなみに、本作「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」の原題は「ドン・キホーテを殺した男(The Man Who Killed Don Quixote)」です。そして、かつて失敗して露と消えた映画のタイトルも「ドン・キホーテを殺した男」でした。
これはもう狙っていると考える他ないのでしょう。テリーギリアムは「ドン・キホーテを殺した男という映画を撮れなかったテリーギリアム」という現実そのものを、本作「ドン・キホーテを殺した男」の中に押し込んでしまっているのです。
だからこそ、この映画はとてつもなく解釈が難しいです。そして、同時に湧き上がってくる感情も複雑です。鑑賞した後の帰り道で「それで良かったのかな」「それが正しいのかな」と反芻する――反芻せざるをえない映画となっているのです。
この映画はある面では、コーエン兄弟の「バートン・フィンク」です。そして同時にある面では今敏の「千年女優」のような面も持っています。
つまり、作家がクリエイティブを発揮する者たちが、やがてそのクリエイティブ自体に飲み込まれていく様子を物語っているところもあり、同時に映画を作ることの恐ろしさ、それを人に演じさせるという行為の功罪を語っている面も存在しているのです。
そして、それらの面をある場面では肯定し、そして、ある場面では否定もします。この作品は「人が作品に染まって何が悪い」と言いながら、同時に「人が作品に染まったら悲しい」とも言っているのです。
そして、その2つのメッセージは何より「ドン・キホーテを殺した男」という映画に、長い年月ずっと振り回され、作品の中で溺れ続けたテリーギリアム自身に向けられているものです。
そんなメッセージを見せられては……簡単な感想やら感慨なんてものは吹き飛ぶに決まっています。
それくらいにこの映画は傑作なのです。
映画感想:メイドインアビス 深き魂の黎明
恒例の手短な感想から
度し難く、ファンタジーの傑作
といったところでしょうか。
メイドインアビスは2017年に巷で話題になっていたアニメシリーズでした。極めて特徴的で作品をよく象徴している音楽のクオリティや、想像力豊かで残酷なアビス内部の様相、原作の漫画そのものの完成度の高さ、作画の良さ、そして、その苛烈な内容から話題となり、2019年には総集編の映画が公開されるにまで至った、そんな作品です。
そのメイドインアビスの最新作が、本作「深き魂の黎明」となります。公開前後から各所でいろんな意味で話題となっており、個人的にも内容が気になっていたため、鑑賞してきました。
結論から言って、本作は間違いなくファンタジー映画の傑作でしょう。大穴・アビス内部の狂気の沙汰としか言いようがない、奇妙な世界をこの上なく堪能することが出来る作品になっており、グロテスクで幻想的なイマジネーションの数々は、まるでヤンシュワンクマイエルの芸術映画のような魅力を放っています。
それどころか、アビス内の原生生物たちが繰り広げる、残酷で容赦がなく、合理的な生態系と、どこか可愛げがありながらも、不気味さを感じさせる造形などはジム・ヘンソンの芸術性にも近しいものを感じられます。
これだけでも十二分に素晴らしいのですが、なおかつ、本作にはその独特な話運びにも大きな魅力があるのは言うまでもありません。
アビスという酷薄な世界の中を生き、進んでいくために、心を歪ませてしまった――あるいは元から歪んでいた――登場人物たちが繰り広げるストーリーは、複雑な事情と複数の事実、複雑な感情が絡み合っており、一つ一つが「こいつが一方的に悪い」「こいつはこいつが嫌いなんだ」などとは言い切れない内容となっています。
特に自分は、この映画内だけでもストーリーが多重的に絡み合うように作られていることにだいぶ感心しました。
例えば、映画冒頭で描かれていた、クオンガタリがトコシエコウの花畑に化け、探検者や原生生物たちを生きたまま捕らえていたエピソードは、アビス内部の残酷な生態系を示すと同時に映画の重要キャラクターである「ボンドルド卿の正体」も暗喩しているのです。
劇中でのボンドルド卿の行動なども冷静に考えてみると、クオンガタリのやっていたこととあまり変わりがないのですから。
このようにメイドインアビスは、ただ残酷で奇妙なイマジネーションを垂れ流すだけには至らず、そのストーリーの構成なども非常に計算されており、エピソード一つ一つが重なり絡み合い、メイドインアビスという作品の世界に厚みを持たせているのです。
その多層的なストーリーが、奇譚なく発揮されるのが本作の中心エピソードである、プルシュカとボンドルド卿の関係性であり、その二人の顛末でしょう。
この、「単純な愛憎では決して片付かない関係性」が見事に描かれているだけでも、本作はとても重い価値があると言えます。
ぜひ、劇場でご覧になることをオススメしたいです。
2019年映画ランキング
明けましておめでとうございます。
年が明けましたので、今年も昨年の映画をランキング形式で振り返っていきたいと思います。
10位 見えない目撃者
自分、実はホラー映画が大の苦手なのです。*1そんな自分でも認めざるを得ません。どう見ても傑作です。まあ心の底から怖い演出が多いのです。
しかも、どれもこれも、びっくり箱ではありません。本作の殺人鬼の怖さは、例えるならノーカントリーの「シガー」です。
それが邦画で描けてしまったということに驚愕します。
9位 アナと雪の女王2
前作はランク外でしたが、本作は文句なくランク入りです。実にファンタジー映画らしく、同時に今っぽい展開も織り交ぜられており、いろいろと不安定だった前作とは打って変わって安定した素晴らしい作品になっていたと思います。
ただ、ちょっと中身があまりにも「ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド」っぽすぎて「え、ディズニー、それでいいのか?」とも思ったので、その点だけランクを下げました。
モアナといい、最近のディズニーは任天堂っぽくなりすぎです。
8位 殺さない彼女と死なない彼
小林啓一監督の最新作ですが、記事でも書いたとおり、ここまで最適な采配もないでしょう。日常系的な空気感を持ちながらも、日常らしくない日常をコミカルに描いていく小林啓一監督の手腕も相変わらずで、文句のない一作に仕上がっています。
ただ、今年は他の作品でも演出が素晴らしいものが多すぎでした。
7位 シュガーラッシュ・オンライン
なぜかネットでの評判は悪いそうなのですが、個人的にはこの映画が大好きです。ディズニーの悪ノリと黒い一面が表側にドロっと出てきたと言っても過言ではありません。おかげでまあ出てくるギャグがどれも酷いこと、酷いこと……。
だから、最高なんです。
6位 クリード 炎の宿敵
本作も納得の順位でしょう。演出力が抜群に素晴らしい監督が、全力でロッキーを撮ったらこうなるということをよく体現しています。おかげでとにかく本作は、熱いし、目が離せないのです。この手のスポーツものだと傑作であっても、中盤でダレたりすることもあるのですが、本作はそれもありません。
それほどに絶妙な演出が各所でさり気なく施されているのです。
5位 この素晴らしい世界に祝福を!紅伝説
え、ベスト5がこれなのかと驚かれた人も多いかと思いますが、実際のところ、それくらい自分はこの手のコメディアニメが大好きなのでしょうがないです。世代としても、こういうコメディに囲まれて育った世代ですし、そういった意味でもこの作品は高い順位に入れたいと思っていました。
作品自体も非常に素晴らしいです。おそらく本作だけを見た人でも十二分に楽しめるのではないでしょうか。それほどに片っ端から見ていて思わず笑ってしまう無茶苦茶な設定と、個性的な登場人物たちが繰り広げる意表を突いた展開の数々がとにかく楽しい作品でした。
4位 ジョーカー
惜しくもベスト3には届かない順位になってしまいましたが、全ては「永遠に僕のもの」があるせいです。間違いなく映画として傑作であり、正直、個人的には、近年のアメコミ・ヒーロー映画の中で一番に好きかもしれないというくらいに好きな作品なのです。
特に印象的なのは、意図的に「演出として、おかしなタイミングで編集したり、音楽で場面場面を消す」という伏線の貼り方です。最初は作り手の都合で、そのような演出がなされているのかなと思わせつつ、実はそれが伏線だったという若干メタ気味な伏線の入れ方は、かなり映画として斬新な手法であり、あれを思いついただけでも十分に素晴らしいと言えます。
が「永遠に僕のもの」を見てしまった後だと、正直、「いや、この作品ももっと行けるゾーンがあったはず」と思わされてしまうところもあります。なにせ、こっちは犯罪者に共感はするものの、犯罪行為そのものに美しさや犯罪者そのものに憧れる気持ちは、さすがに湧きませんから……。
3位 キングダム
ベスト3がこれというのも驚きでしょうが、実はそれほどに自分の中では本作に対する好感が高いのです。自分からしたら、単純に「エンターテイメントという形式の映画として、これ以上の作品なんて要らないだろう」と思うからです。アクション映画として、これ以上に上手い作品は今年ありませんでした。
ノンストップで見事に展開していく話と、原作のイメージを十二分に表現している美術、少年漫画らしい展開と、アニメみたいに重々しい武器を軽々振り回す美女の姿――全部を実写という形で体現できているなんて最高ではないでしょうか。
特にハリウッドですら「美女がちゃんとした格闘している絵面」を説得力を持って再現できた例は少ないのです。アメコミ映画にしろ、普通のアクション映画にしろ、大抵において、設定側で女性用のちっこい武器を用意させたりしてそこを回避するのが普通なのです。
しかし、この作品はそこを逃げませんでした。それだけでもベスト3にできる価値があると思うのです。
2位 グリーンブック
いろいろ迷ったのですが、ベスト2はこれにしました。個人的に、本作がテーマとして取り上げた「人種差別」という問題はこの後も様々な展開を見せていくと思っているからです。
最近(もちろん、未だに旧来的な露骨な人種差別もありますが)特にリベラル的なスタンスを示しているはずの人たちに潜んでいる「無自覚の人種差別」というものが、徐々に明かされてきていると感じています。*2
そして、本作「グリーンブック」は、まさにそこに対しての話もしている人種差別がテーマの映画なのです。感想記事でも指摘したように、本作は実のところ「反レイシストが完璧に気に入るような映画」としては作られていません。
主人公たちの黒人でもなく、白人でもない”人種”として存在している姿。そんな彼らが訴える「人種差別問題」の本当にあるべきゴールは、間違いなく今後必要な考え方になるでしょう。
1位 永遠に僕のもの
文句なしの2019年ベストワンでしょう。本作はこの映画をベストワンにしないで何をベストワンにするんだと言ってもいいほど強烈な作品です。なにせ、この映画を見ていると「あぁ、自分もカルリートスのように自由に生きて、犯罪を犯してみたい!」と思わされてしまうのです。ただ、サイコパスな殺人鬼が犯罪を犯し、殺人するだけの姿に「美しさ」や「格好良さ」すら感じてしまい、ついぞ「憧れ」すら抱いてしまうのです。
しかも、観客がなぜそんな感情を抱いたのか、観客自身も誰も理解できないし、説明ができないのです。
冗談抜きや、大袈裟な表現でもなんでもなく、本作ほど人間の価値観を根底から揺さぶってくる作品はないです。いかに人間の中に――いえ、この映画を見ている自分の中に狂った自分が存在しているのかを、この映画は丁寧に暴いていくのです。
ジョーカーより、よほどジョーカー的な映画だと言えます。とてつもなく危険で、とてつもなく魅力的な傑作。この映画を観れただけでも、2019年の映画には巨大な価値があったと言っていいでしょう。
以上がランキングになります。
2019年の映画全体を総評してみると「ガッカリさせられることが、多すぎた」という印象がちょっとあります。特にネットの「洋画ならば、ハリウッドならば絶対面白い」という色眼鏡を掛けている人たちやら評論家やらの色眼鏡全開の評価に反して、かなり洋画のガッカリ映画率が上がっているのが気になります。
もちろん、邦画の方も相変わらずな出来の映画は、やっぱりコンスタントに出てきているのですが、同時に数年繰り返し言っているように面白い作品もコンスタントに出てきています。
それと比すると――洋画は今までほどコンスタントに面白いものが作れなくなり始めているのかな、と。実際、2019年ランキングも半分近く邦画が締めています。必ず、それなりのクオリティを作ってくるディズニーアニメ映画を例外として省くと、なんと数が4:4で拮抗してしまいます。
若干、洋画の未来が気になり始めてきました……。
映画感想:スター・ウォーズ スカイ・ウォーカーの夜明け
恒例の手短な感想から
普通につまらない
といったところでしょうか。
ひょっとすると初めてかもしれません。新しいスターウォーズシリーズで、ここまでハッキリとガッカリさせられたのは。
ローグ・ワンやEP8など、「確かにこれは問題点があるなぁ」と感じさせられてしまう映画は、確かに一連のスターウォーズ新三部作シリーズにもありました。
しかし、いずれも問題点と同時に評価できるポイントもありました。特にEP8は、フォースという存在を仏教の観念的な事象にまで昇華させることに成功しており、だからこそ、問題点があっても傑作と言える出来になっていました。
で、今回のEP9ですが、そこが一番ないのです。EP9は問題点が散見されるわりに評価できるポイントがないのです。
なぜ、評価できるポイントが無くなってしまっているのか。それは一重にEP9はすべてが中途半端だからということに尽きるのでしょう。
例えば、EP7のように、振り切って元来の一番古いスターウォーズにあった、プログラムピクチャーとしての楽しさを追求したわけでもありません。
EP8のように、それまで中途半端で意識高い系の愚論のようなものになっていたフォース論を、観念的な、複雑な哲学の世界まで切り開かせたわけでもありません。
ローグ・ワンのように、戦場や戦争という側面を強調し、ある時期の時代劇的な泥臭い戦いを見せたわけでもありません。
ハン・ソロのようにスターウォーズ世界を冒険し、探検し、様々なイマジネーションや奇抜な仲間たちとのスペースロマンを描いたわけでもありません。
EP9はどれにも根ざさず、ただただ「うるさくて声の大きいファンたち」だけが気に入るように、彼らのつまらないイマジネーションと陳腐に妄想していた中二病ストーリーをひたすら再現することに注力しています。
だからこそ、本作は恐ろしいほどにつまらないのです。
映画に出てくる要素、一つ一つが、まるで実感もなく共感も覚えられないものばかりで、話はとてつもなくセカイ系的で、EP8までの無限な広がりを見せたスターウォーズ世界は矮小化され、最終的にスカイウォーカー家とパルパティーン家がいざこざしてるだけの話にまでスケールが狭まってしまいます。
これならまだEP1〜EP3で繰り広げられた、パドメとアナキンの虫酸が走る恋愛話の方がマシです。
あの三部作は始めからそういうスケールの小さい話を描き続けていたからです。最後の最後まで「まあ、どうせ主軸はスケールの小さい恋愛話で終わるんだろうなぁ」と分かっていたから許せたし、それを許容したからこそEP3はそれなりに楽しめました。
一方、こちらはスケールを広げに広げたあとでフォース番地のご近所トラブル話を急に始めたEP9なので、全く納得がいきません。
そういった点も納得がいかない状態なのに、更に根本的な問題として本作最大の仕掛けであり、同時に新三部作シリーズで最も核と成していた重大な設定――レイが実は○○っていう設定が、あまりにも話として陳腐すぎて面白くもなんともないのが本作の「どうでもよさ」に拍車をかけています。
EP8辺りから、ずっとリーク情報としてネットで囁かれていたあの設定……リーク情報として囁かれていた頃から「そんな、つまらない設定をディズニーは本気で面白いと思っているのか?」と疑義を抱いていましたが、実際の本作を見ると尚の事「やっぱりこの設定自体がつまらないだろ」と言わざるを得ません。
そもそも、レイの力に血筋という「理屈」を入れること自体が野暮でしょう。
スターウォーズ世界は、様々な予言と予知で成り立っている世界であり「理屈などなく、ただ運命として結果そうなるのだ」という決定論に近い世界観を共有している作品です。
その作品で才能にいちいち血縁がどうだの出自がどうだの……そんな理屈が必要なのでしょうか。ただ、圧倒的な力を持つ人として"世界に存在させられたのだ"で十分なのでは?
また、現実の世界から考えてみても、圧倒的な才能を持つ人間に、恵まれた血筋だののくだらない理屈は通用しないのが普通です。
例えば藤井聡太や羽生善治の才能に、血筋なんてまるで関係ありませんよね。それが才能なのです。理屈が通じないからこそ天才なのです。それに説明をつけられないからこそ、天才は天才たり得ているのです。
説明がつくなら、それは天才――天賦の才とは決して呼ばれません。
だからこそ、レイの力に「血筋という理屈」で納得させようとする本作は、どうしても狭い価値観で作られた陳腐な作品に映ってしまうのです。
そして、もう一つ残念なのは、結局全ての黒幕がやはりあいつだったという話の筋書きでしょう。そもそも、「ゴルゴムの仕業だ!」ばりに、今まで起こったなんでもかんでもを全部「あいつの仕業だったんだ」と言い出し、都合の良い悪役として使い倒すこと自体に問題が大有りですし「いや、別にあいつシス卿の生みの親的な存在でもないのに、なんでそんなに悪役として使い倒すんだよ」と言いたくもなるのですが、なによりビックリなのは、あいつが映画冒頭の序文でいきなり復活した扱いになっていることでしょう。
百歩譲って復活させるまでは良しとしても、復活するシーンすら描かず、たった一文で復活したことにするのは雑なんてレベルではありません。
逆ソードマスターヤマトと言っていいレベルのいい加減さです。
しかも、復活したあいつの劇中での活躍がまた問題だらけで、一挙手一投足の全てがどっかで見たことのある悪役でしかありません。はっきり言って、見れば見るほど「なんか、そこそこつまらないRPGのラスボスを見てるみたいだ」って印象がどんどん増していく有り様なのです。
なぜ、こんな体たらくで、こいつをわざわざ復活させたのでしょうか。本気で度し難いです。
このようにEP9「スカイ・ウォーカーの夜明け」はEP7、8にかなり好感を持っていた自分でもキツい作品となっていまして――まあ、巷のガッカリした反応も仕方なしかなと思わざるを得ないのです。
映画感想:アナと雪の女王2
※ネタバレ全開です。
恒例の手短な感想から
子供が大人になるための物語
といったところでしょうか
自分は一作目のアナと雪の女王について、物語の雑な作りにガッカリしていたクチなのですが、その自分からすると本作は極めて良い出来であるように感じました。一作目のダメだった点などをキチンと改善し、正統的なファンタジー映画へ昇華させているのは見事と言えるでしょう。
巷では、本作の最後「アナとエルサが別々の国で過ごしている」という描写で終わることについて賛否があるようですが、この作品ならば、むしろ、あのオチにしないほうがむしろ変でしょう。
逆に「姉妹が暮らしているままが良かった」と言っている人たちは、本作の物語を全否定していることに気づいてほしいと思います。
なぜなら、本作は「モラトリアム的な青年期から、きちんとした立派な大人になること」がテーマの映画だからです。
不思議に思いませんでしたか。本作でオラフがやたらと「大人になったら」「大人になったら」となぜか大人になることを意識したセリフを連呼していることに。いえ、連呼どころか、歌パートでもオラフは「大人になったら」という歌を歌っています。
つまりオラフは大人になりたがっているわけです。
クリストフは導入の時点で、アナに結婚を申し込むことを心に決めており、作中でも事あるごとに、アナにプロポーズする機会を伺っています。そして、毎回毎回なにかに邪魔されてプロポーズは失敗するという流れを繰り返していました。
現代社会でも、そうですが、昔の欧州などでも結婚というものは、大人になるための通過儀礼の一つとして捉えられてきました。その結婚を、つまりは大人になる決意を固めているクリストフまでいるわけです。
やはり、クリストフも大人になりたがっているのです。
オラフもクリストフも「大人になりたい」という話をずっとしているのです。
そして、最後にエルサです。冒頭からずっと謎の歌声に惹かれていて、妹たちがいる城を出て声の元へ向かうべきなのではないかと悩みつつも、それを家族に打ち明けられず、妹たちと暮らしているという状態でした。
物語のクライマックスで明かされるように、謎の歌声の正体は、水が記憶していた母親の歌声でした。それに惹かれていたということは、つまりエルサは自らの母親みたいな存在になりたいと感じ始めていたということです。
そう。エルサ自身も「大人になりたい」と感じていて、そんな自分の気持ちと葛藤していたわけです。
そんな序盤でアナ一人だけが「いつまでも、みんな一緒で、みんな同じ」という話をしています。つまり、アナだけが、まだ大人になろうと思っていないわけです。
実際、何度も自分から離れていこうとするエルサに、アナは「どこにも行っちゃダメ」と駄々をこねていますし、アナはちょいちょい相手の気持ちが読めていない発言をして相手を困らせたりしています。
アナだけが、まだ大人になろうと思ってないのです。
言ってしまえば「いつまでも実家ぐらしで良いのかと悩み始めている姉」「そろそろ、結婚したいなぁと思っている恋人」がいる状況で、「今までとずっと同じで良いじゃないと言い出す妹」がいる――そういう前提の物語がアナと雪の女王2なわけです。
そういう前提の物語ならば、当然のように話も「大人になる」ことがテーマとなります。
特に本作が「大人になる」物語であることを象徴しているのは、物語中盤でアナとエルサの両親の死をアナとエルサが見るシーン、クライマックス直前でオラフが死んでしまうシーンが描かれていることでしょう。
どちらも死と直面させられる描写であり、通過儀礼的な描写であることは明白です。しかも、ただの死ではなく「親の死」と「オラフ*1の死」です。通常の通過儀礼的な物語よりも、本作のほうがよっぽど強い意味で「大人になる」物語になっている事がわかります。
そして、実際、本作の物語は親の死と直面したことで、エルサが「大人になる」覚悟を決めてアナと袂を分かち、オラフが死を迎えたことをきっかけに、アナが「大人として」目覚め自分の王国を犠牲にしてダムを壊す決意を固めます。
アナと雪の女王2は「大人になること」を描いた物語なのです。
そして、大人になったからこそ、アナとエルサは最後、別々に暮らすようになるのです。
逆にこの物語を経てもなお、一緒に暮らしていたらそれこそ台無しでしょう。「いつまでも一緒に暮らすというアナの価値観が幼稚だ」という話から始まっている物語なのですから。
このように、本作は通過儀礼的な物語として非常に良く出来ており、この手のファンタジーが好きな自分からすると、一作目よりも遥かに好感を持てる素晴らしい映画に感じました。
そもそも原作の「雪の女王」自体が、そういう通過儀礼的な成長譚を寓話にしている物語*2なので、原作へのリスペクトという意味でも過不足ないです。
また、映像表現やイマジネーションに、ジム・ヘンソンの人形劇をオマージュしているところが見られるのも良かったです。まあ、全体的に「作り手の人たち、全員、ゼルダの伝説ブレス・オブ・ザワイルドに激ハマりしたんだろうなぁ」と思える描写が多すぎじゃないかとも思いましたが。