儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画感想:スーサイド・スクワッド


映画『スーサイド・スクワッド』日本版最終予告編

恒例の手短な感想から

観客の望み通りのハーレー・クイン萌え映画

といった感じでしょうか。

 

 まあ、予告編の段階で正直僕としては、かなり酷い出来になる可能性さえ考えていたので、そこからすると「時間を潰せる程度には、楽しめる普通の映画」だったので、いいんじゃないかなと思っています。

 自分が特に予告編の段階で眉を顰めたのは、ボヘミアン・ラプソディです。確かにボヘミアン・ラプソディって、表面的な歌詞は殺人者のことを描いた歌詞なのですが、それはあくまで表面的な話です。中身としては殺人者が「死にたくないよー。やだー。ママーママー」と嘆いている歌詞なんですね。そういうものって、スーサイドスクワッドのような、「悪党で組んだ部隊もの」の格好良さとかからすると的外れもいいとこの選曲でしょう。

 それをこの映画に付けている時点で「あ、これは作り手たち、あんまり考えて、この映画作ってないぞ」ということが明白なわけです。

 

 で、実際、この映画はあんまり深いことを考えて内容が作られていません。とりあえず、観客の喜びそうなものを目白押しにしておこうぜという魂胆がありありと見える映画で、まあ、色んなものを突っ込んでいるのですが、色んなものを突っ込みすぎたせいで、リアリティラインが相当おかしなことになっています。

 

 特にヘンテコなオカルト要素と、ジョーカー的なサイコパス要素は、ものすごい食い合わせの悪さを誇っています。

 なぜなら、ジョーカーがどんな悪事やら、残忍なことをやっても「マジな邪神様と比べれば、どうでもいい」としか思えないからです。「どうでもいいレベルの性悪小悪党がなんか余計なやってるなー。邪魔だなー」くらいにしか思えず、完全にマイナス方向に作用してしまっているのです。

 作り手たちも、一応そこらへんのおかしさには、気づいているのか、画面上でジョーカーと、今作の敵の一団が、絶対に鉢合わせないように扱ってはいるのですが、そう扱えば扱うほど、あれほどの大事を察知してない、ジョーカーが相当な間抜けにも見えてしまい、やはり、食い合わせが悪すぎると言わざるを得ません。

 

 とはいえ、ハーレー・クインを出すためには、ジョーカーを出さざるをえないからしょうがないのでしょうが……。しかも、ハーレー・クインを出さなかったら、もっと普通につまらない映画になっていたでしょうし。

 

 そうです。この映画の魅力の7割近くは彼女であり、この映画は彼女のためにあると言って過言ではないです。実際、観客だって「エロかわいいハーレー・クインが自由奔放にかわいく活躍してくれたらいいなぁ」という淡い期待を持って観に行く人が多いのでしょう。*1

 そういった人たちの期待に見事に答えてくれる映画にはなっています。

 映画全体の流れとか「本来の筋書き的にはあいつが主役のはずじゃ……」とか、そういうことは一切無視して、とにかく脈絡なくハーレー・クインが大活躍します。他のキャラはない、彼女だけ単独で行動して闘うシーンが用意されていたり、クライマックスで彼女がアレしたりなど、とにかくハーレー・クイン推しの一品となっています。

 一人で勝手に行動するハーレー・クイン。ジョーカーとの過去を思い出してヤンデレ気味なハーレー・クイン。なんだかんだで仲間想いなハーレー・クイン。あぁ、ハーレー・クイン。ハーレー・クイン。ちょいちょい描写を挟まれるデッドショット。ハーレー・クイン。ハーレー・クイン。ハーレー・クイン……。

 とまあ、このように見事にハーレー・クインのいろんな表情が見れる、ハーレー・クイン萌え映画となっているわけです。

 

 なので、ハーレー・クインが見たい人は見に行けばいいのではないでしょうか。映画自体は、本当に「うわー、普通だなー」っていう出来ですし、そんな感じの鑑賞で別に問題ないかと。

*1:分かります。みんな好きですからね。ああいう、藤異秀明の漫画に出てきそうな女の子キャラ。ああいうの、意外と女性の中にも、どっぷりハマる人が居たりして、もう男女問わず大好きですから。

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