儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画感想:わたしは、ダニエル・ブレイク


『麦の穂をゆらす風』などのケン・ローチ監督作!映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』予告編

  恒例の手短な感想から

 日本よ、これが向こうの現実だ!

 といったところでしょうか。

 

 ここ二年ほど、自分はネット上のある風潮に辟易させられていました。それは「日本は後進国で、真の先進国である欧米諸国は素晴らしいのだ。社会制度も素晴らしいのだ」というトンデモな言説と、それを平然と知識人と呼ばれている人たちが喜んで言い出し、日本に住む人を愚民とみなす風潮です。

 自分は日本がなんの問題もない国だとは到底思っていません。PKO活動さえ儘ならない、このふざけた国を良いと思えるはずがありません。しかし、それと同時に欧米諸国もまったく良い国だと思ったことがないのです。

 それは当然で、日本以上に厳しい「学歴で就ける職業が予め決まってしまうような」ガチガチな学歴社会だったり、「制度を少しでも崩すことは秩序を崩壊させることだ」と信じてやまない"愚かな共和主義"社会であったり、自分の子供を問答無用で家から追い出し若年のホームレスを量産する社会だったり、女性だろうと誰だろうと働かない人を「人間じゃないやつ」扱いする社会だったりする国々を素晴らしいと思えという方が無理なのです。

 

 特にここ十数年は、EUのユーロとかいう、世界的な経済学者がこぞって酷評するような、お馬鹿な経済政策まで行ってしまい、自ら、どんどんと経済難に陥っていく姿は「下手すれば、日本以下なのではないか」とさえ思える場面もあり……とてもではないですが、「アレらを良い国と思え」とは無理難題過ぎて、目眩がしていたのです。

 

 しかし、映画で、本で、テレビで、ネットでさえも、都合のいいように切り取られた架空の欧米像しか流されない現状では、そんなことを訴えたところで虚しいものです。だからこそ、自分はそんな言葉を胸のうちにしまって来たのですが……。

 

 とうとう、その胸のうちを明かせる映画と出会いました。

 本作、「わたしは、ダニエル・ブレイク」は、イギリスがいかに、現在とんでもない状況に陥っているか――経済状況は、制度設計は、いかに醜悪なものと化しているかを、まざまざと見せつけてくる怒りの一作です。

 この映画には、自分がこの記事の冒頭で述べた社会が、余すことなく描かれています。弱者の目から見て、イギリス社会はどのような社会と感じるのか、どこまで息苦しい社会と思えるのかが、この上なく分かる一作となっているのです。

 あれこれと難癖に近い文句を付けては減点し、給付金を意地でもカットさせてこようとする行政の態度や、酷い就職難で就職口などロクに見つからない状況――これらは全てイギリス政府が方針として定めた、いわゆる「緊縮政策」と呼ばれる、締め付けの政策に起因するものです。

 緊縮政策とは「金融を締め付け、税金を高くし、政府の財政出動を減らし、生活保護などの給付金をカットする」ことで、政府の財政赤字等々を健全化させようという政策方針です。

 言ってしまえば「いかに国の借金やら赤字やらを減らせるか」――それのみを追求した政策と言っていいでしょう。政府の収支こそが第一で、それ以外のものは全てどうでもいい、という政策です。

 

 だからこそ、その国に住む人々さえも苦しい状況で、この政策を選択すると、必然的に「人が苦しむ制度」を生み出すハメになるのです。

 

 この「緊縮財政によって生み出された制度」は弱者を容赦なく、人間として扱わない、融通も効かない、まさに狂った代物であり、監督のケン・ローチはこの制度に対する大きな怒りを表現したかったのでしょう。

 というより、ほぼ、直接セリフで表現しているのですが……。

 しかし、ケン・ローチは、おそらく政府によって生み出された"制度"自体を批判したいわけではないのだと思います。それはココナッツとサメの問いかけにもよく現れています。

 劇中、ダニエルが「ココナッツとサメ、どちらのほうが死亡率が高いか?」というなぞなぞを出します。まあ、答えは「ココナッツ」なのですが、なぜココナッツなのか。

 ココナッツは、熟れるとヤシの木から落ちてくる事があります。それに偶然当たって死ぬ確率は、海で泳いでサメに食われて死ぬ確率よりも多い、ということなのです。

 実際に多いのかは知りません。

 ただ、確実に言えるのは、このなぞなぞが「海で泳いでサメに食われて死ぬこと=自ら危険に飛び込んで不幸を追うこと」と「偶然落ちてきたココナッツに当たって死ぬこと=本人にはなんの過失もないのに不幸を追うこと」の比喩である、ということです。

 つまり、人間は、理由もなく不幸を追うのです。どんなに不幸を避けて生きようとしても、避けようもなく不幸がやってくるのです。そして、そういう人たちのほうが多いのです。それが人生なのですから、これは仕方のないことでしょう。しかし、だからこそ「そういった不幸に見舞われた人たちを助ける受け皿」が必要なのです。

 経済学的には、これらは「セーフティネット」と呼ばれるものです。まさに劇中で描かれている「給付金」などは、セーフティネットとして用意されている制度の典型例です。

 このなぞなぞを映画に仕込んでいる、ケン・ローチは、制度自体は必要であることも分かっているはずです。

 

 ただ、用意された制度が正常に機能しない――制度を機能させないための制度が存在してしまっている、それがひたすらバカバカしく、怒りを感じて仕方ないのでしょう。

 ケン・ローチの怒りが現れた本作は、本当に傑作です。正直、「天使の分け前」などは、その内容の薄っぺらさに辟易していましたが、見直しました。

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