儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

特殊雑記:佐藤竜雄監督の作家性

 初めに、

「あなたは佐藤竜雄監督の作家性、と言われて、それがなにかを答えることが出来ますか?」と問われたとします。あなたはそれに対してなにか明確な返答ができるでしょうか。全く出来ない人もいることでしょう。佐藤竜雄監督は、アニメ監督の中では、言ってもそこまでメジャーではありません。

 そもそも、佐藤竜雄監督って誰だと思っている人も多いことでしょう。

 演出時代、「赤ずきんチャチャ」での活躍から「チャチャ三羽烏の一人」として耳目を集め、それから、TVシリーズで「飛べイサミ」「機動戦艦ナデシコ」と監督を務めた方ですが、「佐藤竜雄」という名前自体が広く浸透しているかというと、そんな感じはありません。

 アニメに詳しい人であれば多少なりとも知っている名前ではあると思います。(2017年現在)最近も、「魔弾の王と戦姫」や「モーレツ宇宙海賊」などの監督を務めましたし、シリーズ構成で「白銀の意思 アルジェヴォルン」などにも参加していましたので、頭の片隅に覚えている人もいることでしょう。

 ただ、そういった人でも答えるのは難しいかもしれません。

 

 

 自分はかなりの佐藤竜雄監督ファンです。

 しかも、どうかしていると周りが思ってしまうレベルでファンです。どれくらいかというと、アニメを見ていて数分で「あ、これ、佐藤竜雄監督の絵コンテだな」とか分かるくらいにどうかしているファンです。

 事実、この映画ブログでも、度々彼の諸作品を挙げて記事にしてきました。

 

 そんなファンからすると、佐藤竜雄監督の作家性というものが、ここまで表立ってハッキリと語られることが少ないのは納得がいかないのです。知らない人からすれば、この手のアニメ監督が、表立って語られないのは当然に思えるのかもしれません。

 

  しかし、佐藤竜雄監督といえば、前述したように「チャチャ三羽烏」の一人であり、かつ、90年代、後世に強烈な影響を残した新世紀エヴァンゲリオン機動戦艦ナデシコ少女革命ウテナ」という、スターチャイルドの三作品の一つを監督した人でもあります。しかも、星雲賞映画演劇部門・メディア部門を二度も受賞した監督でもあります。星雲賞映画演劇部門・メディア部門の二冠を達成しているのは「宮﨑駿、リドリー・スコットジョージ・ルーカス金子修介細田守佐藤竜雄」のみです。

 これほどの監督であって、それでも、あんまり目立った論がないというのは、ハッキリ言って変でしょう。

 

 そして、ファンの方々は、佐藤竜雄監督が「毎回、どことなく同じ気がする/同じだと思える部分がある話を様々な視点から繰り返している監督」であることに勘付いている人も多いことだと思います。ただ、同時に「どこに共通点があるのか、いまいち分からない」「多少は分かるのだけど、完璧には分かっていない」という人も多いのではないでしょうか。

 実際、巷の佐藤竜雄監督ファンはよく佐藤竜雄監督を「日常系の感覚を先取りした監督」と呼んでいることも多いのです。

 しかし、単に日常系を先取りしただけの監督でないのも事実でしょう。日常系的な空気があると同時に、異様に熱い展開や熱血な展開が違和感なく挿入されたり、異様に怖い展開が挿入されていたり――上手く説明することが出来ないはずです。

 

 この雑記は「イマイチ/まったく分からない」作家性を、この記事を読むあなたに「そうか。佐藤竜雄監督はそういうところにも共通点があるのか/そういうところに共通点があったのか」という納得ができるものを目指しています。

 

 そのため、いくつか章立てて、佐藤竜雄監督の作家性を追求します。

 まず、第一章に入る前に、フィルモグラフィーのおおまかな再確認を行います。それから、次に第一章で、「話の構成」上の共通点――佐藤竜雄監督の作品では、こういう話になりやすい、というところを追求します。続く第二章では、今度は話の構成等、物語に当たるところではなく「画面構成」や「演出」等の、表現的な共通点に着目していきます。第三章では、二章までの更に深層に当たる「作品のテーマ」についての共通点を述べていきます。そして、第四章で全てを統括した総評を行います。

 全てを読み終わったとき、佐藤竜雄監督の作家性というものを、ぼんやりでも掴んでいたけたら、と思います。

 

 

確認事項:フィルモグラフィー

 さて、佐藤竜雄監督の作家性を、早速どんどん切り崩していきたいのですが、その前に佐藤竜雄監督のフィルモグラフィーを簡単に整理してみましょう。ご本人のホームページを参照しつつ、監督された作品の一覧を(年代等は書かずに/劇場版とTV版を区別して)ただ制作した順でリスト化してみました。

がきデカOVA版)

リカちゃんの日曜日

rica the movie 劇場版リカちゃんとヤマネコ星の旅

飛べ!イサミ[総監督:杉井ギサブロー]

機動戦艦ナデシコ

劇場版機動戦艦ナデシコ the darkness princess

デ・ジ・キャラット サマースペシャル2000 第三話[総監督:桜井弘明

学園戦記ムリョウ

ねこぢる

宇宙のステルヴィア

獣兵衛忍風帖:龍宝玉篇

TOKYOTRIBE2

シゴフミ

モーレツ宇宙海賊

輪廻のラグランジェ[総監督及び、絵コンテとして]

劇場版 モーレツ宇宙海賊 ABYSS OF HYPER SPACE ―亜空の深淵―

魔弾の王と戦姫

アトム・ザビギニング

デ・ジ・キャラット サマースペシャル2000 第三話」と「リカちゃんの日曜日」「リカちゃんとヤマネコ星の旅」が意外と抜け落ちがちだったりする罠の多いフィルモグラフィーです。また、「リカちゃんとヤマネコ星の旅」は、ソフト販売自体は「飛べ!イサミ」の後ですが、作品自体はイサミの前に完成していたので、順番が逆転しています。また、監督作のみなので、シリーズ構成だった「バスカッシュ!」は抜けています。
 各作品を簡単に紹介すると、

「リカちゃんシリーズ」は言うまでもなく、リカちゃん人形のアニメ化したOVAシリーズで、少女向けアニメ。
飛べ!イサミ」は杉井ギサブロー監督と組んで(正確には「組むはずだった」というべきですが…)作り上げた、ボーイッシュな女の子イサミと、同じクラスメイトのトシ、ソウシの三人が新撰組として黒天狗党と闘ったり、小さな事件を解決したりする、子供向けアニメ。
機動戦艦ナデシコ」は、打って変わってエヴァンゲリオンの後釜で制作されたシリーズで、スタートレック宇宙戦艦ヤマトにオマージュとパロディを捧げるSFアニメ。
デ・ジ・キャラット サマースペシャル2000 第三話」は言わずもがな、萌えアニメ
学園戦記ムリョウ」は、日常系という言葉が作られるはるか前に作られた日常系で、山田太一的なストーリーテリング恩田陸的なファンタジーが乗っかったジュブナイルSFアニメ。
ねこぢる草」は、ねこぢる劇場等を原作に、延々とトチ狂ったイメージ映像が続いていく、トリップムービー。
宇宙のステルヴィア」は、大災害を防ぐために作られたファウンデーションステルヴィアで成長していく生徒たちを描くSFアニメ。
獣兵衛忍風帖:龍宝玉篇」は有名なOVA獣兵衛忍風帖」の続編として制作されたシリーズで、平成仮面ライダーの脚本家の一人・井上敏樹がシリーズ構成の、山田風太郎的な内容のアニメ。
「TOKYOTRIBE2」は今度、園子温監督が映画化すると決まっている漫画シリーズTOKYOTORIBE2の映像化作品で、架空のグループ「トライブ」の抗争を描く、アウトレイジなアニメ。
シゴフミ」は死後の世界から送られてくるという手紙「死後文」を届けるフミカを主人公に、イジメや不条理、虐待から、心温まる恋愛話まで幅広いテーマを描く、アニメ。
モーレツ宇宙海賊」は宇宙海賊をやることに決まってしまった加藤茉莉香を中心に、彼女の船長としての成長や、海賊船〈弁天丸〉の冒険・活躍を描くスペースオペラアニメ。
輪廻のラグランジェ」は鴨川を舞台にジャージ部である京野まどかが、ウォクス・アウラを使って活躍するロボットアニメ。

魔弾の王と戦姫」は、ライトノベル原作で、弓使いである主人公が、国同士の争いに巻き込まれていく異世界ものファンタジー。

「アトム・ザビギニング」は、手塚治虫のアトムの始まりを描いた漫画「アトム・ザビギニング」をアニメ化したもの。

 と、なります。
 作品の雰囲気も、各々の作品ごとに大きく違いがあり、かなりザックリと分けて

飛べ!イサミ」や「リカちゃんの日曜日」、「リカちゃんとヤマネコ星の旅」、「学園戦記ムリョウ」は善男善女の健全色の強く、学園戦記ムリョウ以外は、いわゆる「子供向け」の作品。
獣兵衛忍風帖:龍宝玉篇」と「TOKYOTRIBE2」の方はSEXシーンはあるわ、人の胴体は平気で飛ぶわのエログロ要素が強い作品。
シゴフミ」は社会問題など様々な話が織り交ざった作品。
デ・ジ・キャラット サマースペシャル2000 第三話」はギャグアニメ。
ねこぢる草」「リカちゃんとヤマネコ星の旅」はシュルレアリスムなイメージが垂れ流されるトリップ系の作品。*1
機動戦艦ナデシコ」から「宇宙のステルヴィア」、「モーレツ宇宙海賊」、「輪廻のラグランジェ」、「魔弾の王と戦姫」と続いている美少女とSFが出てくる作品。(「魔弾の王と戦姫」だけはSFではなく、ファンタジー)

「アトム・ザビギニング」は美少女の出てこないSF作品。

 というふうに分けられ、実は、パブリックイメージとは反して、作品のジャンルがかなり多岐にわたっている監督です。これは、元々は、子供向けアニメの動画マンから、演出に転向し、いわゆる少女向けの「リカちゃんOVAシリーズ」や「飛べイサミ」のシリーズを担当しながら、後述する、監督自身の転機となる事件に遭遇し、そこから、更に転向して、美少女等が出てくるSF方面へ進んでいき……という、転向に転向を重ねている経歴の持ち主であるためです。

 ちなみにOVAがきデカだけは鑑賞していないので、自分にはなんとも言えません。

*2

一:[話を構成するもの]の作家性について

 佐藤竜雄監督作品は、話の構成に共通点が非常に多いです。むしろ、ほぼ毎回、同じ話に収斂している、と言って差し支えないでしょう。佐藤竜雄監督作品は、原作がなんであろうと時代が変わろうと、物語の始まり方や設定こそ違えどほとんどの作品で終盤の展開が同じになります。

 まず第一にあげられる特徴は、

巨大な敵

 佐藤竜雄作品では*3必ず、とてつもなく巨大な敵――あるいは敵性を持つ存在――が出てきます。しかも、巨大な敵の巨大さ、というのが毎回毎回限度を越える巨大さになっており、例えば「神」とか*4、「2001年宇宙の旅の”モノリス”的な存在の超人」とか*5、「全ての物質を原子レベルで分解する宇宙ひも」とか*6、比較的小さいレベルになると「主人公たちの文明レベルより遥かに高いレベルの海賊船」とか*7、「お伽話に登場する龍」とか*8、そういう、登場人物たちを超越した存在が出てくる展開になります。こういった話作りが扱われる背景には、監督自身が経験したことも少なからず影響があるものでしょう。*9

 佐藤竜雄監督自身が、実際に、自分の力ではどうしようもないことで何度も冷や冷やする経験をしているため、終盤の構成として、これを選択しがちなのだと考えられます。

 

 

集結

 第一の特徴、巨大な敵は、本当にとてつもなく巨大なので、主人公一人の力ではどうにもならないことが多いです。そこでどうするのかというと、登場人物たちが集結する展開になるのです。

 これが佐藤竜雄作品、第二の特徴です。

 終盤は、巨大なものに立ち向かうために登場人物たちが協力して、総力戦を仕掛けていきます。最も分かりやすいのは、「リカちゃんとヤマネコ星の旅」での、雨を降らそうとする黒い龍に対抗すべく、小さな星たちが集結して白い龍に変身する展開でしょう。こういったように、一人の力では叶わない敵を、複数の力が協力しあって越えていこうとするのが佐藤竜雄作品のほぼお決まりの展開です。

 また、この集結のさせ方にも、佐藤竜雄監督は特徴があります。通常、この集結するという話の展開は、下手をすれば同調圧力のようなものとして受け取られかねない危険性があるのですが、佐藤竜雄作品ではあまりその同調圧力といったものは感じられないように出来ています。

 これは、集結があくまで個人的な意志の集まりであることを強調しているためです。例えば、集結の際に、いわゆる「面通し」や「ディスカッション」が行われる場面を必ず挿入していたり、集結しながらも、登場人物それぞれがバラバラの行動を取っていたりすることで、それを巧みに演出しています。

 

 また、そもそも集結をするそれぞれの登場人物の背景を細かく描くことが多いのも、同調圧力的な空気を回避できている要因でしょう。佐藤竜雄監督作品を見た人なら、誰もが実感することと思いますが、佐藤竜雄作品は、脇役の人たちにも印象的なキャラクターが多く、記憶に残りやすい傾向があります。

 脇役の扱いが「背景にいる他人」ではなく、そこに確かにいる「登場人物」として演出されます。これによって、人々が集結する展開で、漠然とした民衆が集結したのではなく、一人一人の人間が集結したという印象が強くなっているのです。

 そして、更にこの脇役も登場人物として演出する傾向は、次に挙げられる第三の特徴とも結びついています。

 

群像劇

 群像劇、といっても群像劇にも様々なタイプがあります。大きくは二つに分けられるものなのですが、一つは「なにか一つ大きな題材や舞台があって、そこに関係する人々を描いていくタイプ」、もう一つは「複数の主人公を登場させることで、一つのテーマなりを浮かび上がらせるタイプ」です。佐藤竜雄監督の作品を見ていったところ、性質としては前者の「なにか一つ大きな題材や舞台があって、そこに関係する人々を描いていくタイプ」が強めです。これも「学園戦記ムリョウ」が、その最たる例でしょう。「学園戦記ムリョウ」は、始まりこそ、主人公・村田始の視点のみで描かれる物語なのですが、だんだんと村田始の住んでいる、一族「天網の民」や「御統中学」の生徒たち、そこに関係する人々を描いていく物語になりますし、実際、オープニングアニメも中学校に登校する生徒たちの姿を描いています。

 他にも、ファウンデーションステルヴィア」にいる生徒たちを描いた「宇宙のステルヴィア」や、死後文に関わった人たちを描く「シゴフミ」、トライブたちの抗争を描いた「TOKYOTRIBE2」も特筆してこの性質を強く持っています。

 

 ただし、佐藤竜雄監督の作品は、厳密には群像劇とは言いがたい面があるのも事実です。なぜなら、他の登場人物よりも強く立脚している主人公がハッキリといますし、基本的にはその主人公の視点がメインになっているからです。その上、厄介なのが、だからといって「群像劇ではない」とは絶対に言い切れないほど、メイン以外の視点もかなり混ぜているということです。

 

 おそらく監督自身は強く意識をして、群像劇にしているものではないように思います。前述のとおり、群像劇というには少し話の構成が違うからです。

 監督はあくまで「それぞれの主要な登場人物のディテールや話を掘り下げていく」という、昔のアニメにもあった方法論と、監督自身の発言にもある「主役が活躍するときに脇役の登場人物が、動かなくなるのが嫌い」という監督自身にある信条、この二つを念頭に置いて話作りをしているだけなのでしょう。そして、その結果、群像劇化した話が出来上がっているということだと思います。ここらへんの、「群像劇であるともないとも言えない」独特過ぎる作劇方法は、まさに佐藤竜雄監督の作家性です。

 

  唯一、「獣兵衛忍風帖:龍宝玉篇」だけが「群像劇化も巨大な敵もなくて、集結もしない」パターンのアニメですが、コレ以外の佐藤竜雄監督のアニメでは、必ずこの三つの要素のうち、どれか一つは必ず出てきています。

 また、この三つ以外にも、細かい特徴はありますが、その中でも佐藤竜雄監督は少し変わった形での「通過儀礼」を描く傾向がある、というのもこの記事で挙げるべき特徴でしょう。

通過儀礼

 通過儀礼というのは「人間が人生の重要な節目をむかえ、ある状態から別の状態へと変わっていく際に、節目を越えたことを確認するために行われる儀式のこと*10」を指します。佐藤竜雄監督のアニメでは、ハッキリしていないこともありますが、通過儀礼が出てくる作品が多いです。

 ただし、いわゆるアメリカ映画等で描かれる通過儀礼から考えると、かなり変形した通過儀礼であることも事実です。どう変わっているのかは後々明かすとして、とりあえず、佐藤竜雄監督作品における、通過儀礼の傾向を先に述べようと思います。

 

 佐藤竜雄作品では、通過儀礼を象徴するものとして「水中/宇宙」のどちらかが出てきます。例を挙げると、「リカちゃんとヤマネコ星の旅」では、リカちゃんたちが、一夜瓢の管の中を通って「星めぐり」をして、リカちゃんは星に込めた人の思いを一遍に頭に流し込まれるという”通過儀礼”をむかえます。*11モーレツ宇宙海賊」では、加藤茉莉香はヨット部による「宇宙航行」で、自身が宇宙海賊になることを決意する”通過儀礼”を経験することになります。

 

 こうして作中で通過儀礼が描かれるのが、佐藤竜雄作品の特徴の一つなのですが、それだけではありません。前述した通過儀礼はあくまで「個人がむかえる通過儀礼」の話です。が、佐藤竜雄監督の作品では、この「個人がむかえる通過儀礼」の他に、もう一つ”別の通過儀礼”が物語に用意されていることが多いのです。

 

 その通過儀礼とは「共同体の通過儀礼」です。これは佐藤竜雄作品の大きな特徴でしょう。

 TVシリーズでの「モーレツ宇宙海賊」の終盤の展開は、主人公・加藤茉莉香の通過儀礼ではありませんでした。加藤茉莉香はそれまでの冒険を経て、立派な船長に既に成長しています。彼女は通過儀礼を必要としていませんし、実際、終盤の展開を超えても、分かりやすいほどの成長は見せないです。むしろ、茉莉香自体は「自分のもともと持っていた決意を表明した」という感じでした。

 

  モーレツ宇宙海賊の終盤、銀河帝国の海賊船「サザンクロス」との戦いで、なにが大きく変わったかというと、それは「あの地域にいた宇宙海賊たち」というコミュニティ自体です。終盤の戦いを経て、弁天丸等の「宇宙海賊たち」は古くにあった海賊会議を復活させ、宇宙海賊同士の新しいコミュニティを築き直して、サザンクロスと対決します。あの終盤は明らかに「銀河帝国の海賊たちと比べて、遥かに文明が遅れている宇宙海賊たちが、次のステップへ進むための通過儀礼」として機能していました。

 これが、佐藤竜雄監督が描く”通過儀礼”です。

学園戦記ムリョウ」「宇宙のステルヴィア」では、物語が終盤へ向かうに連れて「地球にいる人類全体に対する通過儀礼」がやってきます。「TOKYOTRIBE2」の終盤もまた「トライブ同士が協力して、新しい共同体をつくろうとしている」といえる展開です。

 

 おそらくは、前述した三つの特徴(「巨大な敵」「集結」「群像劇」)のおかげで、この"共同体の通過儀礼"という展開に話が進んでいくのでしょう。

 

 また、地球自体の通過儀礼、という意味では、SFファンの中には「アーサー・C・クラーク」を連想する人も多いのではないかと思います。実際、佐藤竜雄のSF作品では、たびたび「2001年宇宙の旅」を連想させる場面があり、これを意識した作りになっていることは確かです。この「2001年宇宙の旅」オマージュも、実は「リカちゃんとヤマネコ星の旅」のころからずっと続いています。

 

二:画面構成と演出について

  次に、この章では佐藤竜雄さんの作品に共通する画面構成や、演出について記述していきたいと思います。佐藤竜雄監督の画面構成や演出には――一見するとわかりづらいのですが――確かにハッキリとした特徴が存在しています。

 この画面構成と、演出の特徴が佐藤竜雄作品の、佐藤竜雄らしさとしか言いようがない雰囲気をかなり作っている原因です。

 

  佐藤竜雄監督の画面構成には、二つほどの特徴があります。

 

 一つは、「登場人物たちの正面が描かれている画面構成が多い」ということ、もう一つは、「シンメトリーを意識した画面構成も多い」ということです。

「登場人物たちの正面が描かれている画面構成が多い」

実際に、アニメ本編のキャプチャー画像を挙げていきたいと思います。

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(引用:TOKYOTRIBE2、モーレツ宇宙海賊輪廻のラグランジェシゴフミ各話及び、劇場版機動戦艦ナデシコより)

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 (引用:飛べ!イサミ宇宙のステルヴィア獣兵衛忍風帖:龍宝玉篇、学園戦記ムリョウ各話。及び、劇場版リカちゃんとヤマネコ星の旅、ねこぢる草より)

 このとおり、佐藤竜雄監督の作品では、登場人物の真正面を描くことが本当に多いです。これも佐藤竜雄監督の作家性といっていいでしょう。映画で言うならば、ウェス・アンダーソン伊丹十三などに似ている画面構成だと言えます。両名の画面は作家性として認められていますし、佐藤竜雄監督のこれも立派な作家性でしょう。

「シンメトリーを意識した画面構成も多い」

 これは前述の特徴と共通するところがある特徴ですが、佐藤竜雄監督の画面構成では、登場人物が画面の真ん中にいて、画面全体がシンメトリー(あるいは一点透視図法的な画面)に近くなっていることがあります。登場人物がいない場合も中にはありますが。

 こちらもいくつかキャプチャーを挙げてみます。

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(引用:TOKYOTRIBE2、モーレツ宇宙海賊輪廻のラグランジェシゴフミ各話及び、劇場版機動戦艦ナデシコより)

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 (引用:飛べ!イサミ宇宙のステルヴィア獣兵衛忍風帖:龍宝玉篇、学園戦記ムリョウ各話。及び、劇場版リカちゃんとヤマネコ星の旅、ねこぢる草より)

この画面構成も実は、ウェス・アンダーソン等に似通っている部分があると思います。

余談: 

 演出の項目に絡んでくる話ですが、佐藤竜雄監督がシンメトリーの画面構成を描く際に、とても使われることが多い演出として「じわパン」があります。

 じわパンとは、佐藤竜雄監督が師と崇めるアニメ監督の一人、杉井ギサブローさんが考案した演出方法で「登場人物のバストアップを映しながら、じわじわとカメラをパンする(ズームイン・アウトする)ことで、言外に出さない(出せない)感情をそこはかとなく表す」という手法です。

 佐藤竜雄監督は、真正面(あるいは真後ろ)の方向を向いている登場人物を真ん中に置いた状態で、この「じわパン」を行うことがよくあります。特にシゴフミでは、このシンメトリー状態での「じわパン」が頻出しています。

  こういった画面構成から分かるのは、佐藤竜雄監督は「職人的監督」な評価を受けながらも、実は、「芸術的」な要素を多く含んでいる監督だということです。

 実際、監督自身は、日本の時代劇映画等を見る傍ら、ラウル・セルヴェなどを筆頭にヨーロッパの前衛的なアニメーションをかなり大量に見ていたようです。監督のツイッター等でそれを窺い知ることが出来ます。*12

 

次に佐藤竜雄監督の演出の方向性について。

 まず、はじめに言うと、佐藤竜雄監督は、作品ごとに演出をかなり変える人です。TOKYOTRIBE2やねこじる草と学園戦記ムリョウでは、相当演出の方向性が違います。作品のテーマや作品自体が持っている面白さに合わせて色使いや照明まで変える人です。しかし、それと同時に、同じ演出をさりげなく使う人でもあるのです。

 

 佐藤竜雄監督の作品に共通する演出には、三つ特徴があります。「環境音を多く使用する」「静と動がかなり意識されている」「モブシーンを多く挿入する」

 この三つです。

「環境音を多く使用する」

 これはそのままの意味です。佐藤竜雄作品では、実はどの作品も印象的なBGMが多いにも関わらず、BGMを使用している場面自体はそこまで多くなかったりします。むしろ、BGMなしで静かなまま環境音だけがずっと流れているという場面が散見されます。たとえば、学園戦記ムリョウでの獅子おどしのカコンという音の使い方や、山に入った際の鳥の声の使い方などがそれです。

 しかも、作品によっては、環境音が印象的に使われることすらあります。「モーレツ宇宙海賊」でも、弁天丸がワープする際に「船体全体が軋みを立てて」いましたが、あの環境音は、視聴者の印象にかなり残ったと思います。

 この「環境音が多く使用される」というのが、日常系の先取りと称される「あの独特の空気感」が作品に漂う原因になっているのです。本来なら、演出として退屈させないために、BGMを挿入するような日常的な場面で、あえて人のざわめきや風の音や鳥の声をBGM代わりに挿入するからこそ、「独特の透明感*13」とまで言われる雰囲気が作られるのでしょう。*14

「静と動がかなり意識されている」

 少し抽象的な表現になっていますが、ようは「静かであまり物も画面も動かさない」という演出と「劇的に物事が変化する上に、大きく物と画面が動く」という演出を意識して使い分けている、ということです。これ自体はある意味で演出として当たり前のことと言えるかもしれません。どんな監督でも、映像作家でも、これは基本的に意識するものです。しかし、佐藤竜雄監督の場合、どうして作家性として言及できるのかというと、この「静」と「動」の演出を切り替える際の落差が、尋常じゃないほど大きいからです。

 どれくらいの落差があるかというと「さっきまであまり喋らず木の上で佇んでいた人が(静)、地上に降り立ったかと思うと超高速で走って生身で宇宙まで飛ぶ(動)」というくらいの落差です。

 佐藤竜雄監督の演出は、基本的に静的=「静かであまり物も画面も動かさない」演出がメインです。環境音を多く使用するという作家性からも明らかですが、全体的には静かめに演出するのが基本です。登場人物が、なにも言わずにじっとどこかを見つめる演出もとても多いです。そこから、「ここぞ」という場面、カタルシスや高揚感が欲しい場面だけが、動的=「劇的に物事が変化する上に、大きく物と画面が動く」演出に切り替わります。

 

 この「オフビート/オンビート」を切り替えるバランスが、かなり佐藤竜雄監督の独特な作風の一端を担っていますし、このバランスこそがクライマックスや物語の重要な場面で、高揚感を生み出す原因になっています。

 たとえば、誰もが語りぐさにした、モーレツ宇宙海賊の序盤、一話から五話までの流れもこの作家性が現れた結果といえます。静かな演出と描写を作品全体に施しながら、第5話の要点のシーンだけ、画面も話も大きく動かしていました。

「モブシーンを多く挿入する」

 これも文字通りの意味です。佐藤竜雄作品では、モブ(名前すらない、脇役)の人たちを映すシーンが 多く挿入されます。

 たとえば劇場版機動戦艦ナデシコの冒頭、幽霊ロボットが出現したというニュースを、芝生で弁当を広げながら女子校生たちが噂して騒いでいる様子や、ネットの掲示板の書き込みをオタクの男性が見ている様子などが挿入されますが、この人たち、本筋とは一切関係がないモブです。

 このように、佐藤竜雄監督は本筋に関わる登場人物たち以外の、関係ない人たち、関係していたとしても、ものすごい脇役の人の様子を、ことあるごとに挿入する傾向があります。*15

 この「モブシーンを多く挿入する」という演出は、佐藤竜雄監督の作家性の中でも、作品の流れを停滞させかねないような、少し「作品の完成度から考えるとマイナスになりかねない」作家性なのですが*16、しかし、同時に作品自体にかなりの効果を生むことがあるのも事実です。

 これが一番わかり易いのは、「学園戦記ムリョウ」でしょう。このアニメのとある展開はこの演出があるからこそ意味がありました。

余談

 ちなみに、だいたいの人が佐藤竜雄監督――というか、チャチャ三羽烏の演出の方向性として――”メタフィクション”を挙げる人も多いのではないでしょうか。

 これを本項で取り上げなかったのには理由があります。

 確かに佐藤竜雄監督の作品には「登場人物が画面を通り越して、アニメを見ている視聴者に語りかけてくる」「この世界がアニメであることを作品中の登場人物にわざと言わせたりする」などの場面が入っているものもあります。

 が、このメタフィクションがでてくるのは、佐藤竜雄監督作品の中でも、学園戦記ムリョウあたりまでで、そこからわりとメタフィクションっぽい演出は出てこなくなります。(2005年以降になるとモーレツ宇宙海賊に少しそれっぽいものがあったかなというくらいです)

 このため、この記事自体が指している「作家性」とイマイチ、ズレてしまうと思い、言及を避けています。

 ただ「初期の佐藤竜雄監督の作家性」という意味では、十分当たっているものだとも思います。

余談2

 佐藤竜雄監督は「よく目と口元を描く監督である」ということもこの項目で特筆しておきたいと思います。佐藤竜雄監督は、「登場人物の片目や、目元だけを映すカット」をよく好んで使っています。また、逆に、「目を画面から見切れさせて、口元だけを映すカット」もよく使います。これらは演出に絡んでくる話であり、両方とも、登場人物の喜怒哀楽などのはっきりとしたものではない、微妙な感情を表現させたいときに使っているものです。

 また、佐藤竜雄アニメでは「登場人物がどこを見ているか」ということが意外と重要だったりします。視線の動き等で、いろいろなことを表現しようとしているところも多くあるので「登場人物の視線」に注目しながら話を追うと面白いと思います。

 三:テーマについて

 いよいよ佐藤竜雄監督作品の肝、テーマについて語っていきたいと思います。ここまで様々な表層的な共通点、表層から少し踏み込んだところの共通点について記述してきたので、そこから薄々勘付いている方もいると思いますが、佐藤竜雄監督の作品にはテーマ的にも共通性があります。

 ただ、このテーマ的な共通性については、あらかじめ一つ断っておかなければならないことがあります。それは、これから挙げる共通点は、どれも「機動戦艦ナデシコ」以後の作品に共通するもので、それ以前の作品には共通しないという点です。

 先に注釈で挙げてしまいましたが、佐藤竜雄監督は「飛べ!イサミ」での事件(佐藤竜雄監督「他人事だと思っていても、いつか自分の身に降りかかる」 - Togetterまとめ)をきっかけに、自身の作品への考え方がだいぶ変わっています。

 その「だいぶ考え方が変わった」結果として、テーマに共通性が出てくるようになったので、これから挙げるものは基本的にナデシコ以後の作品のことだと思ってください。

 

まず、一つ目として挙げられるのは「現状認識の甘さと現実」です。

機動戦艦ナデシコ」を例に取って説明しましょう。

 最新の機動戦艦であるナデシコは、クルーたちの意向もあり、戦争に参加しているのですが、敵と戦うことは拒んでる戦艦です。ナデシコのクルーたちは、戦闘を拒む代わりに、木星蜥蜴との戦争で取り残されてしまった火星の難民たちを助ける方向で、戦艦ナデシコの力を発揮させようとします。

 しかし、いざ火星まで、ナデシコが向かってみると火星の人たちから、木星蜥蜴に追われる形でやってきたナデシコは「敵を運んできたおせっかい」という扱いを受け、挙げ句の果てに、ナデシコは自らを敵から防衛するために火星の人たちを犠牲にすることになります。

 これは機動戦艦ナデシコの序盤の話なのですが、こういったエピソードに代表されるように、佐藤竜雄監督作品では「登場人物たちの現状認識」に対して「それを打ち砕く現実」がやってくる展開がしばしあります。

 この展開に監督自身が経験したイサミの事件が、反映されているのは明らかでしょう。もちろん、各話、各作品を担当している脚本家・シリーズ構成等の意向というのもありますから、それだけではないのですが。

 

 例えば、宇宙のステルヴィアは、「戦争」がなくなり、どうして人間が戦闘を行うのかが理解できず、戦争というものと自分たちは無関係だと考えていた人たちに、無関係だと思っていた戦闘を行わざるをえない場面があります。*17

  この展開は、まさに引用*18:「自分は抵触している『ヤバイ』ものは作ってないから安心」と考えていた監督自身と一致するところがあります。

 

また、ここに関連して、もう一つ「情報の共有の重要性」というテーマがあります。

 佐藤竜雄作品では、しばし、登場人物が物事の真相や、真実を「知る」場面があります。それも、特定の人物の凄惨な過去であったり、特定の人物たちが秘密裏にしていた不都合な真実であったりするのですが、それでも佐藤竜雄作品では、その「誰かが抱えている真実を知ったこと」=「情報を共有したこと」は肯定的に描かれます。

 

 特にこれがわかりやすく現れているのは、学園戦記ムリョウでしょう。

 この作品の物語は要約すれば「主人公が、自分の学校にある秘密を知り、そこから、自分たちの住んでいる街の秘密を知り、そこから、更に外の世界の真実を知り、やがて、最後に自分がいる地球と、宇宙のはるか昔に起きた出来事の真実を知り、その真実を全世界が共有するようになる」という話の流れであると言えます。

 実際、物語のラストで主人公・村田始がモノローグでそう言っていますし、作品の随所にも「知らないよりは知っていた方がいい」という情報の共有を肯定するセリフなどが散見されます。

 

 もちろん、単純な「知の肯定」というわけではありません。「来るべき時に、適切に情報が共有されること」こそが、佐藤竜雄監督作品で描かれる、最も理想の情報共有の形です。そして、この情報が共有された瞬間が、共同体が成長を遂げた瞬間になるように佐藤竜雄作品は作られています。

 

 また、その「来るべき時」に備えるために「”ある程度の情報”をどこかで語り継がなければならない/重要な情報を知って覚える人が居なければならない」というテーマもよく出てくることが多いです。

 それが如実に現れているのは”見届け人”という要素です。ほとんどの作品、というわけではありませんが、佐藤竜雄作品では、半数以上の作品で、終盤、最終決戦の行方を見届けようとする人たち、つまり”見届け人”が登場します。

 作品によって”見届け人”は人類全体であったり、一部の人達であったり、一個人であったり、主人公であったりもするのですが、とにかく、彼らは「自分たちではどうしようもないほどの巨大すぎる事件の中」で、その事件がどうやって終息していくのかを見届けようとしはじめるのです。

 そして、その見届けるという行為は、野次馬根性にも似た理由で行われていることも多いのです。しかし、それでも、なぜ野次馬してでも、人々は見届けようとする――そこにある意味を重要視しているのだと言えます。

”この大きな事件の終息を見届けて、そこから得た結論を元に自分たちの明日に繋げなければいけない”というある種の使命感のもとに、見届けるという行為が肯定されているのです。

 これも情報の共有の一種であるといえるでしょう。 

 

 更にこの二つそれぞれに関連する、もう一つのテーマとして「社会と個人の両立」というものがあります。

 このテーマは佐藤竜雄作品の核心といってもいいです。佐藤竜雄監督がつくりあげたアニメのほぼ全てが、最後、このテーマに帰結します。*19

 物語に出てくる登場人物たちには、ほぼ共通して「自分がなりたい自分の姿」か「周囲から望まれている自分の姿」というものを持っています。この二つがあること自体は、ある種、人を描くのあるなら当たり前のことであり、大して珍しいことではありません。

 珍しいのは、この二つ(「自分がなりたい自分の姿」「周囲から望まれている自分の姿」)の描き方です。

 通常、この二つは二項対立で描かれます。*20そして、ほとんど必ずこの二つは相容れない存在として描かれます。

 *21

 

 佐藤竜雄監督のアニメは、”この二つが両立できる道”を延々と模索し続ける物語であることが多いのです。

 これだけだと、意味がわからないと思うので具体例を挙げてみます。

 機動戦艦ナデシコで、軍事企業であるネルガルの所属戦艦であったナデシコは、様々な経緯を経て、地球軍の言いなりになって動くことになります。その際、ミスマル・ユリカが行った軍からの命令の対処が「(命令=望まれる姿)も聞き入れて、作戦通りに動くけれども、やり方は(今までのナデシコのやり方=自分の姿)でやる」というものでした。

 佐藤竜雄作品では「自分がなりたい自分の姿」と「周囲から望まれている自分の姿」の二つが対立した場合、このようなプロセスで解決に至ることがとても多いです。つまり「周囲から望まれている姿に変貌しつつも、自分自身の核心の姿は失わないようにする」という処理が行われて、両者が両立する*22のです。

 モーレツ宇宙海賊で、加藤茉莉香が宇宙海賊を営業していながら、意地でも学生とランプ館のアルバイトをやめようとしなかったのも、これで説明がつくでしょう。

 

 また、別のパターンとして、「元々は周囲から望まれる姿のみを持っていた人」が、やがて、「自分が望む姿に明確なビジョンを描くようになって」そこと現状を両立させようとするという形での両立も多少はありますが、どのみちこのテーマであることは同じです。

 こうして「社会に望まれる自分の姿」と「自分がなりたい自分の姿」を両立させるための奮闘を物語内で繰り返しているうちに、登場人物たちは「社会に望まれる自分の姿と、自分がなりたい自分の姿を両立させる形」の「新しい自分の姿」を獲得するようになる、というのが佐藤竜雄作品の特徴なのです。

 

 ここから、完全に個人的な考察になりますが、佐藤竜雄監督の作品は「社会と個人」という視点から見ると、既存の物語の中でもかなり異端です。

 社会というのは、全体と言い換えてもいいかもしれません。全体主義個人主義。この二つは、常にどんな歴史でも二項対立して現れる概念だと思いますが、佐藤竜雄作品はこの「全体主義個人主義」の捉え方がかなり独特です。

 

 

 今まで記したとおりに、佐藤竜雄作品は共同体が成長していく物語であり、かつ、個人が成長していく物語でもあります。巨大な共通敵に立ち向かい、人類が手を取り合うところは全体主義的といえるでしょう。しかし、同時に全体に飲まれないように自分を保とうとする物語も展開され、その面でいえば個人主義的です。

 むしろ、佐藤竜雄作品は、どちらかを肯定しているというよりも、この二つが対立しない関係になりえることを解いている物語だといえます。

 

 宇宙のステルヴィアにある「大きなウリエッタは小さなアレサの集合である」というセリフにも、それはよく現れていると思います。全体とは個人の集合体であるし、逆に言えば、個人とは全体の一部分です。

ゆえに個人と全体は両立させるのが理想的である」としているのです。

*23

 

また、前述の3つのテーマと密接に絡むテーマとして、もう一つ「認識を広げる」というテーマがあります。

 これが佐藤竜雄アニメのもう一つの核心です。前述した学園戦記ムリョウの「主人公が、自分の学校にある秘密を知り、そこから、自分たちの住んでいる街の秘密を知り、そこから、更に外の世界の真実を知り、やがて、最後に自分がいる地球と、宇宙のはるか昔に起きた出来事の真実を知り、その真実を全世界が共有するようになる」という話のあらすじがなによりもそれを物語っています。

 

  学園戦記ムリョウで、主人公の村田始は、様々な経験を経て、自分の認識の範囲をどんどん大きくしていくのです。最初は自分の学校――そこから学校を取り巻いている街――街を取り巻く人々――人々より外にある地球や宇宙――宇宙の人たちさえ分からない更なる真実――といった具合に。

 

 モーレツ宇宙海賊の加藤茉莉香もここは同じです。最初は自分の親の秘密を知り――そこから宇宙海賊を知り――宇宙海賊を経て世界を知っていき――最後にはその認識を更に広げることを望むようになります。

 また基本的に、佐藤竜雄アニメでの「人間の成長」とはほぼイコールで「認識が広がる」ということになっています。認識を広げるために登場人物たちは成長しますし、成長の布石として認識を広げようとしています。また、登場人物たちが生存しようとする理由も「認識を広げるため」であったりします。もっといろんなことを知りたいと思うからこそ、登場人物たちは「ここでは死ねない/滅びることが出来ない」と考えています。

 

 そして、気づいている人も多いと思いますが、前述した3つのテーマも「結果的に認識を広げている」という共通点があります。また話の作りとして「群像劇化」するところや「共同体の通過儀礼」が描かれる理由も、全てはこのテーマに帰結させるためにあるものといえます。共同体が成長し、より技術が発展すれば、より遠くまで人類の認識が広がります。群像劇化させて、より多数の登場人物を描き、それらが交錯するように話を作れば、そちらの方がより登場人物たちの認識を拡大させることが出来ます。

 

 なぜ、佐藤竜雄監督は、ここまでに「認識を広げる」ことにこだわっているのか。その答えは簡単だと思います。多様性の拡大です。認識が広がることによって、人として成長すれば、広がった認識の分だけ「今までになかった考え方」をして、「今までには見えてこなかった選択肢」を見つけ出すことが出来ます。そこを肯定するためだと思われます。

 実際、学園戦記ムリョウ獣兵衛忍風帖:龍宝玉篇、機動戦艦ナデシコなどでは「成長した登場人物が今までになかった第三の選択肢を選択すること」で、物語が解決に向かうように構成されています。

 

 おそらくはこの「第三の選択肢」という可能性を佐藤竜雄監督は重視しているのだと考えられます。

 

四:総評・佐藤竜雄監督にある作家性

 ここまでテーマや、ガジェットや、話の構成・構造や、画面の構成など様々な面から、自分が発見した限りの佐藤竜雄監督の作家性というものを挙げてきました。このように佐藤竜雄監督とは、意外にも作家性がある監督であることが分かっていただけたかと思いますが、最後に「では、なんで、そもそもこれほどの作家性が今までまったく語られてこなかったのか」という根本的な話をしたいと思います。

 

 もちろん、これにはアニメ評論や、アニメを評価する環境、観客側が今までは成熟しきっていなかったというのも多少はあるかもしれません。

 最近になって、僕がチラホラと見かけるようになったのは「かつてのアニメ評価は”作品の見た目”につられていた」という話です。一見するとコメディ調であったり、”おふざけ”が激しかったり、牧歌的であったりする佐藤達雄作品は、明らかに正当な評価を得にくい作品といえました。*24

 

 また、佐藤竜雄監督の作品は、数年前まで、ほとんどの作品が視聴したくてもなかなか視聴できない状況にあったのも原因でしょう。

 ネットが発達した今ならある程度の作品を自由に見られるようになりましたが、ちょっと前までは学園戦記ムリョウは、VHSのみのレンタルで、DVDレンタルは一切できませんので、DVDで見たければ、DVDボックスや通販のDVDを買うしかない、TOKYOTRIBE2や獣兵衛忍風帖:龍宝玉篇は、DVDでレンタル可能でも、そもそも置いている店があまりないという状況でした。

 おそらくナデシコステルヴィアシゴフミが揃って良い方という状況だったはずです。

 

 上記のような状況であれば、作家性が気づかれないのは当たり前の話かもしれません。

 

 しかし、それだけでも無いように思います。

 

 例えば、佐藤竜雄監督は作品を発表するごとに「演出」や「表現」の幅が常に広がり続けている人である、というのもあるでしょう。例えば「音楽をどの場面のどのタイミングで入れているか」ということ一つをとっても、実は学園戦記ムリョウ前後の頃と、TOKYOTRIBE2以降では全然違いますし、画面上も、影の付け方や色彩の入れ方に明らかな変化があったりします。

 ある種、作品自体で認識の広がりをテーマにしている監督自体が、作品を発表するごとに認識を広げているところがあるのです。

 また、佐藤竜雄監督が「作品」や「現場のスタッフ」など様々な要素に、自分の作家性をある程度合わせる人だというところもあるのでしょう。

 原作があれば、なるたけ原作の空気を破壊しないように努めます。*25また、スタッフ側や声優側の意見を取り入れることも多いのです。

 

 そして、極端に自分の作家性のみに走ることもまずないです。必ず、作家性以外にどこかでサービス性を入れています。そうして、サービスと自分の作家性を上手く両立させながら、一つの作品をつくろうとしていくのです。……それが結果的に上手くいくときもあれば、変なバランスで収まってしまうときもありますが。

 

 しかし、僕はこれこそが「佐藤竜雄監督がなによりも佐藤竜雄監督らしいところ」だと思います。つまり、この「作家性」と、「サービス性や作品そのものの雰囲気」というものを両立させようとするところ自体が、佐藤竜雄監督の作家性だと言えるのではないでしょうか。

 

 そして、「作家性」と「サービス性や作品そのものの雰囲気」というものの両立というものは、作品内に入れている「自分が望む姿」と「社会から望まれる姿」の両立というテーマとリンクするものがあります。

 サービス性とは「社会から望まれる姿」、作家性とは「自分が望む姿」です。これをどちらかを減らして、どちらかに舵を切ろうとせず、両立させようと葛藤しながらアニメを作っていく姿は、それ自体が佐藤竜雄監督アニメ的です。

 佐藤竜雄監督自身が、なによりも佐藤竜雄監督アニメのテーマを体現しているのです。だからこそ、作品のテーマにもより大きな説得力が生まれるのでしょう。

 

 つまり、この「作家性の分かりにくさ」自体が、「佐藤竜雄監督が佐藤竜雄監督らしい、作品」を作れる――佐藤竜雄監督たらしめている――原因なのではないかと思うのです。

 

 

以上。

オマケ:その他

今回の評論の主題である「作家性」とは関係があるのかどうなのかよく分からないけれども、佐藤竜雄監督の作品では、こういうことがよくある、ということもいくつか発見していますのでそれらをついでに挙げておきたいと思います。


 まず、佐藤竜雄監督のアニメは音楽のクオリティが高めな傾向があります。しかも、制作資料等をあさっても、インタビューを見ても「佐藤竜雄監督自身がクオリティの高い音楽を強く希望しているという感じはあまり受けない」*26のに、なぜか音楽のクオリティが高めです。もちろん、クオリティが高いのは、各作品を担当している作曲家が「服部隆之機動戦艦ナデシコ*27、大野雄二(学園戦記ムリョウ*28、手使海ユトロ(ねこぢる草)*29喜多郎獣兵衛忍風帖:龍宝玉篇)*30MURO(TOKYOTRIBE2)*31鈴木さえ子輪廻のラグランジェ*32」と毎回毎回やたら各方面のすごい人が引き受けているせいも大きいのでしょう。

 ただ、このすごい人たちが作曲を引き受ける経緯自体が「試しに名前を挙げてみたら通った*33」とか「スタッフの一人が作曲家と『お前の作品に音楽つけてやる』と口約束していた*34」とか、ただの偶然で決まっていることもあったりと、やっぱり「なぜか不思議とそうなる」としか言いようがないのです。

 

 それと、次のはちょっと作家性に関わりのある話かもしれませんが、佐藤竜雄監督は、作品内でセルフオマージュを行うことがよくあります。特によくあるのが、キャラクターの名前に共通点があるというものです

 どの作品のどのキャラクターの名前と、どの作品のどのキャラクターの名前に共通点があるか、は、実際に作品を見て確かめてください。一つ例を挙げるとすれば「リカちゃんとヤマネコ星の旅」では、星野ユキという女の子が出てきます。星野ユキ……ホシノ・ユキ……ホシノ・ルリ

 

 また、セルフオマージュかよく分からないのですが、佐藤竜雄アニメではさり気なく同じ言い回しが作品を跨いで出てくることがあります。分かりやすい例を挙げると、「飛べ!イサミ」に出てくる銀天狗のよく使うセリフ「いやぁー参ったなぁ」です。機動戦艦ナデシコのプロスペクターも「いやぁー参ったなぁ」と言いますし、学園戦記ムリョウのジルトーシュも「いやぁー参ったなぁ」と言います*35

 また、「どうでもいいけど」という枕詞も使用頻度がとても高いです。「どうでもいいけど、――だよね」といった言い回しは聞き覚えのある人も多いのではないでしょうか。

 

 もう一つ、佐藤竜雄監督は「夫婦」を描くのが妙に好きです。これも実は「リカちゃんとヤマネコ星の旅」のころから一貫しています。(ただ、本編とかなり関係ないことが多いので第一章では取り上げていませんが)「カップル萌え」が好きな人は佐藤竜雄監督作品の「夫婦」に注目するといいかもしれません。

 

 また、話の構成以外にも、話のディテール自体にこのような感じで頻出する要素があります。これら話のディテール自体にも、「社会と個人」というテーマが色濃く出ているのも佐藤竜雄監督の作品の特徴だといえます。

 

悪夢/夢

 この「悪夢/夢」というのは、どの作品にもよく出てくるものです。いえ、よく出てくる、というレベルではないです。「佐藤竜雄アニメの主人公は、毎回必ずどこかで悪夢/夢を見るのが決まりである」とさえ断言できます。唯一、シゴフミのフミカだけを例外として、それ以外の佐藤竜雄監督作品では必ず、主人公がどこかで夢/悪夢を見るシーンが入っているものなのです。

 特に佐藤竜雄監督作品では、「悪夢/夢」でその主人公の過去を端的に説明することが多いのが特徴と言えます。もちろん、単純に、その主人公が抱いている感情等を示すときにも使われますが、全体的に、主人公が抱えている「過去のトラウマ」を、手短に説明するものとして――その主人公の個人的に抱えているものを象徴するものとして――挿入されていることがほとんどです。

 例を挙げると、〈劇場版機動戦艦ナデシコ the darkness princess〉では、途中でホシノ・ルリが悪夢を見る展開がありましたし、最近の作品でも〈モーレツ宇宙海賊〉で茉莉香が、敵に追い詰められて〈どうしよう。どうしよう〉と戸惑う夢を見ています。〈魔弾の王と戦姫〉でもティグルは父親のことを夢に見たりしています。〈学園戦記ムリョウ〉でも、村田始が夢を見ているシーンは何度も描かれました。〈TOKYO TRIBE2〉でも、メラや海が過去を回想する夢を見ています。

 これの理由は、一つは、夢で描写させてしまえば、その主人公の過去や心情を、コンパクトに、かつ過不足なく説明できるからでしょう。実際、説明の代わりに夢のシーンを描写として入れていると思われる箇所は多いです。ですが、同時に、注目に値するのは、この夢を見るシーンというのは、佐藤竜雄監督作品の中で、一番、佐藤竜雄監督の芸術性が出てくる瞬間でもあるということです。

 一番、最近の作品でいえば〈魔弾の王と戦姫〉の第三話にて、主人公のティグルヴルムド・ヴォルン伯爵が、自分の幼いころのことを回想して夢を見るシーンがありましたが、このシーンは、比較的低調だったこの作品の中で、似つかわしくないほど、異様なクオリティを放っていました。

 線画調の絵が、絶えず変化しながら、めくるめくように、次々と場面を変えていくさまは、芸術的という形容が相応しいものです。

 夢のシーンは、夢を見ている人の個人的なものが象徴されていると同時に、佐藤竜雄監督の(あるいは、その作品ごとの製作スタッフたちが)個人的にやりたいと思っている芸術的な表現が、交じり合って出てくることが多いのです。 

料理

 料理というのも、佐藤竜雄監督の大きな作家性の一つです。これもまた「佐藤竜雄アニメは、必ずどこかで登場人物が食事をする場面を入れるのが決まりである」とまで言えるほどです。喩えるなら、ジブリアニメ並に人が食事する場面が必ず描かれます。「モーレツ宇宙海賊」や「魔弾の王と戦姫」でも、それは遺憾なく発揮され、きっと初めて佐藤竜雄アニメに触れた人によっては「なんで、こんなにこの人は、食事をやたら描くんだ」と気になった人もいることでしょう。佐藤竜雄監督は昔から、ずっとそうなのです。

 これは、佐藤竜雄監督が「登場人物がその世界の日常を生きていること」を実感させる演出として、食事をよく使うことが多いためです。また、登場人物同士の繋がりを感じさせる象徴的なものとしても、食べ物はよく使われますので余計です。作中の重要な場面に、食事が出てくることもよくあります。

 言ってしまえば、佐藤竜雄アニメでは「食事こそが生活」なのです。人とコミュニケーションを取って、人と繋がり合っていくことは、人間の生活における基本的な要素です。料理を食べることもまた、同じように人間の生活における基本的な要素となっています。だからこそ、食事をよく行うのです。

 それがよく現れているシーンは、佐藤竜雄アニメの各所にあります。

 例えば、「シゴフミ」での、美川文歌は、長く父親の美川キラメキにより、ほとんど、自分と父親以外の人間を知ることなく成長し、とある事件をきっかけに、植物状態で眠っていました。そこから、目覚めた後、初めて自分と父親以外の人たち――葛西夏香の家族――に引き取られることになり、生活を知っていくことになります。

 ここで、文歌が生活を知っていくことの象徴として「すき焼きを食べるシーン」というのが挿入されています。葛西一家の団欒の中、すき焼きの食べ方が分からず戸惑う文歌が、葛西一家に「卵に付けて食べればいいんだよ」と教えられ、初めてそれを口にして食べ「美味しい」と呟くシーンは、シゴフミの作中でも、かなり感動を覚える名シーンです。そして、このすき焼きシーンの後から文歌は少しずつ、普通の人の生活を覚えていくようになるのです。

 このように、生活というものの象徴として食事があると考えていいです。

 宇宙でも、戦場でも、東京でも、大磯でも生活をしていかなければならないのは、全て共通です。そこは変わるはずはありません。そのために、生活を描きたい佐藤竜雄監督のアニメでは、食事がよく出てくるのです。

 *36

 当ブログで既に書いておりますが、星の旅は「お祭り」というものが話の重要なテーマの一つになっています。終盤の龍たちの決戦は、お祭りにおける”お神輿”と同じ役割を果たしていて、実際、ヤマネコたちは終盤の龍との決戦を「喧嘩祭り」と称していたりします。

 こうして、作品のテイストとして”和”の印象が強いものを使いたがるのも、佐藤竜雄監督の特徴です。これもやはり、星の旅から一貫しています。例えば「学園戦記ムリョウ」も同じく、お祭りが作品のテーマの一つでした。また、和のもので言うと、時代劇も大好きな監督なので、「劇場版機動戦艦ナデシコ」の北辰七人衆や、「飛べ!イサミ」の黒天狗党。「デ・ジ・キャラット サマースペシャル2000 第三話」での、唐突な無法松の一生のパロディ(しかも、なぜか阪東妻三郎版の)、これまた「学園戦記ムリョウ」での"はやぶさ判官"なる、遠山の金さんそっくりな劇中劇など、時代劇の要素もそこかしこに見て取ることが出来ます。最近の作品でも「シゴフミ」の葛西夏香が、時代劇が大好きな女子高生として登場したりしています。

プロレス

 星の旅では、途中、とある登場人物が「私は誰の挑戦でも受ける」と寝言でつぶやいたりしています。これはプロレスを知らない人でも知っている人は多いと思いますが、言わずと知れたアントニオ猪木の有名なセリフです。これもまた佐藤竜雄監督の作家性です。

  佐藤竜雄監督はプロレスが大好きな方です。どれくらい好きかというと、「モーレツ宇宙海賊」の終盤の展開を、インタビューで「プロレス」に喩えて解説するほどです。これも実は、星の旅からずっと一貫して入れられている(あるいは入れようとしている)要素です。「輪廻のラグランジェ」で思いっきりウォクス・アウラがプロレス技を使っていたのが印象的でしたが、前述のように、星の旅でも、途中、とあるキャラクターが寝言で「私は誰の挑戦でも受ける」と呟いていますし、また、学園戦記ムリョウでも、没になってしまった、第二話第一稿の脚本で、村田双葉がやっぱり「私は誰の挑戦でも受ける!」というセリフを言っていたりします。

 また、たまに演出として、登場人物にスポットライトが当たる表現があるのですが、これもおそらくはプロレスのスポットライトから来ていると思われます。これも星の旅から一貫しており、星の旅では、星めぐりをリカちゃんたちに説明する”お遊戯会”でヤマネコにスポットライトを当てています。

 星の旅では、リカちゃんは父親の香山ピエールに連れられて、ヤマネコのいる村、星降村へとやってくるのですが、これも佐藤竜雄監督の作家性の一つだと言えます。

 佐藤竜雄監督の作品では"登場するキャラクターの親"というものが「そのキャラクターを形成する重要な要素」として扱われることがとても多いです。

 

 わかり易い例を挙げるなら「飛べ!イサミ」で、イサミは行方不明になっている父親・花岡博士のことをいつも気にしており、一度、父親のことを思って焦るあまりにルミノタイトの力を暴走させたことがあります。

 また、同じように「モーレツ宇宙海賊」でも、主人公の茉莉香は死んだと言われている父親・権左衛門の存在を強く意識しているところが散見され、一度、船長室の椅子に座って「ここ、お父さんの椅子だ…」と呟いたことがありますし、なおかつ、母親・リリカの存在がなによりも彼女が宇宙海賊をやろうと決意する理由になっています。「宇宙のステルヴィア」の片瀬志麻のように、母親と対立しているという場合や、「シゴフミ」のように、逆に父親から虐待を受けているという場合もあったりしますし、「機動戦艦ナデシコ」のアキトや「TOKYOTRIBE2」のメラ、「学園戦記ムリョウ」の守口京一のように、両親が殺されているという場合もあったりと、親の描写は多岐にわたっていますが、いずれでも、親の存在がキャラクターの人格形成に大きな影響を与えていることは間違いないです。

 

 最近のアニメやライトノベルは、親の描写が希薄になりつつあるとよく言われています。実際、色んな作品において親は結構扱いが軽いです。仮に登場しても、そこまで主人公の目的や目標になるようには描かれないのが、もはや普通になりつつあります。

 その中で、親との葛藤を前面に押し出したり、明確に親を目標として突き進む人物像を描く佐藤竜雄監督の諸作品は、非常に珍しいと言えます。言うならば、古き良き時代の要素をかなり色濃く継承しているアニメなのです。

 星の旅でリカちゃんは湧き水の溜まっている小さな池の中を通じて、ヤマネコたちのいる不思議な世界へと進んでいきます。また、星めぐりをする際に、一夜瓢という植物の管を通るのですが、この管の中は水で満たされていました。

 水というのも、佐藤竜雄作品によく登場するものの一つです。

 特に佐藤竜雄作品では、登場人物がファンタジーと遭遇するとき、水が関係していることがとても多いです。

 

 中でも、一番分かりやすく「水」というイメージがファンタジーと結びついているのは「学園戦記ムリョウ」です。学園戦記ムリョウでは、度々、人の心理や力の流れを表すものとして水の流れが出てきます。

 他にも、ねこぢる草における、大津波やその後の水浸しになった地球、水でできた象などのファンタジー表現もこれに該当します。ラグランジェで、まどかが幼いころ、海に溺れる中でウォクス・アウラと契約したのもこれの派生表現ですし、また、佐藤竜雄監督がかつて著作した小説「スプラッシュ・ゾーン」では、空から落ちてきた水の滴に女の子が入っていて――、というストーリーでした。

女性

 星の旅に出てくる主人公、香山リカは、従来のリカちゃん人形のパブリックイメージからすると、かなり型破りなキャラ付けがなされていました。劇中でリカちゃんはいつも自転車を乗り回している女の子として描かれ、活発すぎて、映画の冒頭10分で田んぼに自転車ごと突っ込んだりします。他にも山の中を走り回ったり、星たちが行う星祭にもあんまり躊躇もなく参加したり…。とにかくパブリックイメージである「和製バービー人形」のイメージからするとかけ離れて違うリカちゃん像になっています。

 これも佐藤竜雄監督作品の特徴です。とにかく女の子はみんな活発です。また、基本的に「働いている女性」の描写が多いのも特徴的だといえます。ここらへんも飛べ!イサミの頃から一貫しているものです。

 女性が活発なだけなら、そこまでの特徴ではないようにも思えるかもしれません。しかし、佐藤竜雄監督作品に出てくる活発な女性はやはり佐藤竜雄監督の作家性としか言いようがない特徴があります。

 それは活発でありながら、”男勝り”や”ガサツな女性像”にはあまりならないところです。パシフィック・リムのインタビューでギレルモ・デル・トロが「女性キャラクターを性的でもなければ男みたいでもない描き方にしたかった」*37というコメントをしていましたが、ちょうど、佐藤竜雄監督が描いている女性像はこれに近いです。「男性顔負け」なほどに活発なのだけど、細かいところの気配りはしている辺りは「あ、女性だな」と思える、という塩梅の女性像であることが多く、これも特徴の一つです。

 

*1:リカちゃんとヤマネコ星の旅はラスト20分がかなりトリップ気味なのでここにも分類…「デ・ジ・キャラット サマースペシャル2000 第三話」も意外とシュールなので、ここに入れていいかもしれません

*2:佐藤竜雄監督作は一つ一つの作品が一概に「こういうもの!」とは言い切れない、様々なジャンルが複合した型で作られるものなので、あくまで「傾向としてはこういう感じ」という話です。決して勘違いしないようにお願いします。

*3:特にTVシリーズの作品はほぼ全て

*4:ねこぢる

*5:学園戦記ムリョウ

*6:宇宙のステルヴィア

*7:モーレツ宇宙海賊

*8:リカちゃんとヤマネコ星の旅

*9:

佐藤竜雄監督「他人事だと思っていても、いつか自分の身に降りかかる」 - Togetter

 

*10:引用:島田裕巳著「映画は父を殺すためにある 通過儀礼という見方」P.22

*11:余談ですが、ここの描写、学園戦記ムリョウファンならば「あれ? それって…」と思うはずです

*12:旧アニメスタイルの対談で挙げているフィルム20本(WEBアニメスタイル_もっとアニメを観よう)や、https://twitter.com/seitenhyohyo/status/200975201163411456のようなツイート

*13:「学園戦記ムリョウ」 | 【アニメ】はバンダイチャンネル 『みどころ』より引用

*14:誤解されるとまずいので、注釈しますが、日常的な場面でBGMを使っていることもあります。他の監督と比べると環境音のみのシーンが多い、という話です。またTOKYOTRIBE2だけは、原作の方向性もあって、この演出があまり使われていません

*15:監督自身が、学園戦記ムリョウを制作した際に『「ムリョウ」は自分のやりたいものを作った。やりたいものだったから作りまし た。通常は脇役になるような、いわゆる戦わないキャラクターは、主人公の戦闘シーン等になると急に目立たなくなったり、舞台から引っ込んだりして、キャラ が「止まって」しまうんですよ。だから今回は戦わない側を主役(村田始)にしてみようと思いました。』などの発言をしているので(「学園戦記ムリョウ 〜佐藤竜雄監督の世界」)これは、かなり意図的な面もある演出だと思われます

*16:実際、作品によってはちょっとここのバランスが危ういものもあります。TOKYOTRIBE2とモーレツ宇宙海賊を視聴されたときに、ここが気になった人も居ると思います。

*17:ネタバレを気にして遠回しに書いていますが、宇宙のステルヴィアを見ている人ならば一体どの展開のことを指しているかは分かると思います。

*18:脚注に前述した佐藤竜雄監督「他人事だと思っていても、いつか自分の身に降りかかる」 - Togetterにおける、https://twitter.com/seitenhyohyo/status/10753666342のツイート。

*19:ときたま、社会と個人の両立に”失敗する”オチの物語もありますが

*20:言うまでもないほどの当たり前のことなのですが…例えば「ミュージシャンになりたい」という主人公が居て「その主人公が親から八百屋になれと言われている」場合は、この二つは必ず対立しています

*21:先ほどのミュージシャンVS八百屋という対立でいえば、そこから夢を叶えてミュージシャンになる物語と、夢を諦めて八百屋になる物語の二種類が作られますが、ミュージシャンになりながら八百屋になる話はまず作られません

*22:したように見えたが…というパターンも多いのですが

*23:理想的、という言い方は、優しい言い方だと思っています。作品自体から読み取れるメッセージとしては「理想的」というよりも、「本来ならそうすべきはずなんだ」という語気の強さだと思います

*24:これは現在も続いている、という見解もありますが…

*25:もちろん、それでも原作ファンの中には文句がある人もいるかもしれませんが…それは”そういうもの”なので仕方のないことです

*26:こだわりがない、ということではないのです。

 が、音楽に詳しい注文(ジャズにしてほしいとか、ヒップホップにして欲しいとか、三拍子にしてほしいとか、もっと詳しくなるとハネた16拍子で、とか、途中で転調して、とか、こういう文言を必ず歌詞に入れてほしい、とか、そういうこだわり)を作曲家に注文する監督ではないのです

*27:日劇HERO - MainTitle - YouTube

*28:【高音質】「愛のバラード」 大野雄二 「犬神家の一族」メインテーマ - YouTube

*29:風たちとの出逢い 手使海 ユトロ - YouTube

*30:喜多郎 (シルクロード) 絲綢之路 - YouTube

*31:Street Life / MURO for MICROPHONE PAGER - YouTube

*32:鈴木さえ子 - I wish it could be Christmas everyday in the U.K - YouTube

*33:喜多郎 ※獣兵衛忍風帖:龍宝玉篇の監督インタビュー参照

*34:大野雄二 ※学園戦記ムリョウ:ウェブサイト大野雄二インタビュー(https://web.archive.org/web/20050307102601/http://www.muryou.gr.jp/c/fun11.html 上手くリンクできなかったので、コピペでお願いします)参照

*35:しかも、どのキャラクターも演じる声優さんが同じです

*36:※ちなみにですが、佐藤竜雄アニメでは出てくる料理が異様なほど美味しそうに作られています。バリエーションも豊かなので見ていると、かなりお腹が空きます。

f:id:harutorai:20131226172224p:plain

(引用:左上からモーレツ宇宙海賊、飛べイサミ、宇宙のステルヴィア、シゴフミ、宇宙のステルヴィア、輪廻のラグランジェ、シゴフミ、ねこぢる草、シゴフミ、ねこぢる草、TOKYOTRIBE2、左下へ行って劇場版機動戦艦ナデシコ、右同じく、学園戦記ムリョウ、劇場版リカちゃんとヤマネコ星の旅、より)

*37:菊地凛子とギレルモ・デル・トロ、「パシフィック・リム」について語る | BLOUIN ARTINFO

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