儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画感想:運び屋


クリント・イーストウッド監督・主演『運び屋』特報

 恒例の手短な感想から

老いてなおも惑う。それが人生なのだろうか。

 といったところでしょうか。

 

 正直なところ、単純にエンターテイメント映画として見てしまうと、本作はあまりにも盛り上がりに欠けた、かつ、なんだか勢いの感じられない作品であることは否めないでしょう。また、感動が散りばめられたような、あるいは人情味に溢れたような、ハートウォーミングなドラマかというと、そうでもありません。

 むしろ、本作は昔の欧州映画のような、人生についての芸術映画として見るべき作品であるといっても過言ではありません。

 クリント・イーストウッド監督は、俳優としてのイメージとは打って変わって、監督作品は意外と芸術寄りな作りになっていることも多いのですが、まさに本作はそういった作品の一つでしょう。

 ひょっとしたら、クリント・イーストウッド本人はエンターテイメント映画を撮っているつもりだったのかもしれません。しかし、実話を基にし、なおかつ、多くの要素に、現実のクリント・イーストウッドとの共通性が見られる本作は、エンターテイメントの枠で見るのは不可能でしょう。

 

 本作は、言ってしまえばクリント・イーストウッド私小説なのですから。

 

 

 言うまでもないことかもしれませんが、本作は明らかに、今までから現在までのクリント・イーストウッドを連想させる要素が多く見られる内容となっています。

 

 例えば、一攫千金を狙ってアメリカのあちこちを縦断し、横断するイーストウッドの姿はまるで牛追いで一攫千金を狙おうとした西部のカウボーイのように見えます。また、作中の主人公とクリント・イーストウッド自身の年齢も極めて近く、どうしてもイーストウッド本人と主人公を重ねてしまいます。

 作中で案外に、主人公がスケベジジイで、ちゃっかりヤることはヤっている描写が入っていますが、これも現実のクリント・イーストウッドとそっくり同じです。イーストウッドは、つい最近までかなり年下の妻がいたような人ですから。

 なおかつ、なんだか言葉足らずで、自分の言いたいことを上手く伝えようとせず押し黙り、相手を不必要に憤らせてしまうところ、そういった不器用なところも現実のクリント・イーストウッドそのままと言っていいでしょう。彼は政治の場面ですら、そのような態度を見せるときがあります。

 そして、主人公のまったく上手くいっていない家庭環境もまた、クリント・イーストウッド本人の家庭環境を連想させるように作られています。なにせ、主人公の娘役を本当にクリント・イーストウッドの娘が演じているのですから、連想するなという方が無理な話です。

 

 このように本作、運び屋は、まったくクリント・イーストウッドとは関係がない、麻薬運び屋の実話でありながら、その裏で「イーストウッドの現実」という、もう一つの実話が混ぜられている映画になっているのです。

 そして、そんな「もう一つの実話」の中に入れられた話は、果たしてどんな話だったでしょうか。

 

 それは、あまりにも家族をないがしろにしてきた、自分の人生への懺悔――そして、老いてなお、それを分かっていない自分への後悔でした。

 

 自分はここにどうしても、この映画がある価値と面白さを感じます。

 ここまで老い、人生を経験してきたクリント・イーストウッドが、等身大の姿を通じて「老いて、もう走ることもやめた自分であっても、やっぱり若造と同じようにまだまだ分かってないんだよ」と言っている姿に、やはりそれが人生なのだなと感心するのです。

 

 本作は、そんな面白さがよく出ている映画でしょう。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村