儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画感想:バースデー・ワンダーランド


映画『バースデー・ワンダーランド』90秒予告【HD】2019年4月26日(金)公開

 恒例の手短な感想から

これを作った連中は、恥を知れ

 といったところでしょうか。



 本作、ネット上の微妙な評判も頷ける、なんとも言えない作品でした。また、その微妙な点というのが、ことごとく「もともと原恵一作品にあった問題点」であり、それが一同に会した結果、なんとも腹立たしく、ガッカリした気分にさせられる作品になってしまっています。

 

 まず、物語の筋書きになりますが「おい、ここまで凡庸でどうでもいい話になるか」というくらいに、平々凡々な出来映えであることは間違いがないでしょう。

 本作、この手のファンタジー物語にありがちなシュルレアリスティックな――言い換えると、不思議の国のアリスなどに代表されるナンセンスコメディな――非常に夢のあるファンタジー要素は、ほとんどが省かれ、なんだか、小難しい政治的な話に全てがすり替えられています。

 

 冒頭のシーンで教室の黒板に「猫の事務所」と書いてあったこと、また中盤のどうでもいい裁判シーンや、数々の猫とねずみのモチーフなど、宮沢賢治のオマージュがかなり露骨に入れられているあたり、作り手としては――というか、原恵一監督としては、「オレ流の銀河鉄道の夜をやってやるさ!」というつもりだったのかもしれません。

 が、実際の当該シーンたちの出来映えは「それのどこが宮沢賢治なんだ」と言いたくなるほど、普通すぎるセンスで味付けされていましたので、どう見てもファンタジー要素の映像化に大失敗しています。早い話がイマジネーションに夢がないのです。

 

 どうも、調べると原作小説は、本作ほど王道のファンタジーみたいな話ではないようなので、本作の作り手たちが、非常にこの手のファンタジーというものを勘違いしたまま作ってしまったのではないでしょうか。



 ただ、本作では上記のストーリーだとか、演出よりも、もっと他の箇所に問題点が多いのですが……。

 

 本作が極めて残念なのは、映画自体にひそむ、見ていて非常に不快な気持ちになる要素の多さ、です。それも「グロテスクである」や、「嫌な展開が多すぎる」という話であれば、別に「そういう映画だから仕方ない」で問題はないのですが、本作の場合は、そういったケースとは明らかに異なる不快さがあります。

 端的に言って、作り手が、あまりにも無神経すぎるために、作り手自身もまったく自覚してないまま不快な要素がどんどん盛り込まれてしまっていることが、本作の大きな問題なのです。

 

 話は若干変わりますが、よくSNSで大上段から世の中を見下している、頭のかわいそうな方々というのがいらっしゃいます。何かと事件が起きれば「豊かになったこの国が悪い」だの言い出し、あまつさえ「江戸時代に戻ればいい」だのと口にし、何かといえば「昔は良かった。今はひどい」だのと言い出す、左派の残念な方々がいます。

 

 本作が作品を通して言いたい主張というのが、そのまま、あのかわいそうな方々がよく口にしていることをそのまま描いているのです。これが本作の一番の問題点です。いじめ問題にしろ、文明批判にしろ、やることなすこと、言うことの全てが「昭和のオヤジが言ってた妄言そのまま」なのです。

 

 例に出すならば、本作で描かれていた「いじめ」の解決方法など、まさに「昭和オヤジの無神経な考え」をそのまま反映したようなものといえるでしょう。

 誰もがエンドロールで描写された、主人公が異世界の貝殻を持って帰って(いじめられていた子も含めて)みんな仲良しこよし、というシーンに「そうじゃねぇよ!」とツッコミをいれずにはいられなかったはずです。

 

「そもそも、お揃いの髪飾りを付けてこなかったから始まったいじめの解決方法が、別のお揃いのものを用意するって……」と絶句したはずです。自分に至っては「あー、これで今度はこの貝殻を巡って、主人公を主導にいじめが始まるんだろうなぁ」と鑑賞しながら、素直にそう思いました。

 それくらい、無神経な解決方法に走っていました。

 

 そして、作中でしつこいほどに、様々なキャラクターが手を変え品を変え繰り返しこう主張するわけです。「変わる必要なんてない」「昔の方が、ずっと幸せだった。今の人々は幸せを失っている」と。

 

 原恵一監督、近年の作品は、かつてクレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲で「昭和を捨てて今を生きよう」などと言っていたことなど忘れたように「昔は良かったなぁ、あぁ昔はよかったなぁ(チラッチラッ)」とこちらを横目で見続けるような内容の作品がとても多かったのですが、とうとう、馬脚を表してしまったようです。

 原監督は、令和にもなって、まだ昭和に戻りたいと言っているようです。

 

 

 そして、やはり本作を見て、自分は上記の考え方がいかに間違っているかを実感いたしました。やはり、世の中は変わり続けた方がいいのでしょう。少なくとも、変わらないよりは遥かに変わっていく方がマシには違いないのです。

「変わらない幸福な世の中を望むこと」とは、すなわち「変わったものを絶対に認めない、地獄の世界を求める」ということに他ならないのですから。

 

 実際、本作の物語は、別に斜に構えてみなくても「たまたま、変わった性格で生まれてしまった王子」を鉄の人形に閉じ込め、よってたかっていじめ尽くして、人格矯正させた話にしか見えないでしょう!*1

 つまり、世界を変えないことを望むということは、いずれ生まれてくる、あるいは既に生まれている「自分と考えが異なるものの、考え方」を認めない、ということなのです。そんなことを認めたら、世界が変わってしまいます。

 だから、よってたかって、人格矯正を施さざるを得ないわけです。

 その考えが正しいかどうかさえ、考えもせず、ただ、今までと違うからというその理由だけで、自分と異なるもの全てを排除できてしまうのです。

 

 少なくとも、自分はこんな考えを当たり前のように許容する世界など、断じて認められません。そのことを実感させてくれた作り手には、惜しみない軽蔑をお送りします。

 

 恥を知れ。

*1:しかも、王子をどういう人格に矯正したかというと「世界のために、みんなのために、望んで死ねる人格」に矯正しているので、これを本気で良いと思っている原監督はじめ、その他の作り手たちは、気が狂っているとしか言いようがないです。俺らのために死ぬ人を作ることが良いとか抜かしているんですから、優生学よりも更にひどい危険思想を唱えていると言えます。

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