儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画感想:テリーギリアムのドン・キホーテ


全世界賛否両論、カルトか?傑作か?映画『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』予告編

 恒例の手短な感想から

うわぁ、なんだこれ…

 といったところでしょうか。

 

 アレハンドロ・ホドロフスキーだの、カレル・ゼマンだのの、シュールとしか形容しようのない芸術映画を度々嗜んでいる自分ですが、その自分でも、さすがに本作に関してはこの感想しか出てきませんでした。

 

「うわぁ……これ……どう捉えたらいいんだろう」と。

 

 本作はそれほど見ている人の感慨やら感情やらを吹き飛ばしてしまう、強い力のある映画であることは間違いないでしょう。

 内容がシュールすぎるとか、そういう話ではないのです。むしろ、テリーギリアムの映画としては本作はだいぶ「奇抜な設定がない」映画だと言えます。

 

 元々は、テリーギリアムが20年近く前から撮ろうとしては失敗し続けていた映画なのですが、数々の失敗を重ねるに連れ、どうもテリーギリアムは、この映画に対する捉え方がだいぶ変化してしまったようです。

 

 証拠にテリーギリアムが本作を撮ろうとしては失敗し続けた様子を捉えたドキュメンタリー映画「ロスト・イン・デ・ラ・マンチャ」の中でチラッと描かれていた本作と、実際の本作にはびっくりするほど設定に違いがあります。

 

「ロスト・イン・デ・ラ・マンチャ」の中での本作は、主人公が実際にドン・キホーテのいる過去にタイムスリップしてしまうという、いかにもテリーギリアムっぽい奇抜でシュールな設定でした。

 ですが、本作ではその設定は排され、一度「ドン・キホーテを殺した男」を撮った男が、時を経てその自分が撮った作品自体と対峙するような内容となっています。

 

 ちなみに、本作「テリー・ギリアムドン・キホーテ」の原題は「ドン・キホーテを殺した男(The Man Who Killed Don Quixote)」です。そして、かつて失敗して露と消えた映画のタイトルも「ドン・キホーテを殺した男」でした。

 

 これはもう狙っていると考える他ないのでしょう。テリーギリアムは「ドン・キホーテを殺した男という映画を撮れなかったテリーギリアム」という現実そのものを、本作「ドン・キホーテを殺した男」の中に押し込んでしまっているのです。

 

 だからこそ、この映画はとてつもなく解釈が難しいです。そして、同時に湧き上がってくる感情も複雑です。鑑賞した後の帰り道で「それで良かったのかな」「それが正しいのかな」と反芻する――反芻せざるをえない映画となっているのです。

 

 この映画はある面では、コーエン兄弟の「バートン・フィンク」です。そして同時にある面では今敏の「千年女優」のような面も持っています。

 つまり、作家がクリエイティブを発揮する者たちが、やがてそのクリエイティブ自体に飲み込まれていく様子を物語っているところもあり、同時に映画を作ることの恐ろしさ、それを人に演じさせるという行為の功罪を語っている面も存在しているのです。

 

 そして、それらの面をある場面では肯定し、そして、ある場面では否定もします。この作品は「人が作品に染まって何が悪い」と言いながら、同時に「人が作品に染まったら悲しい」とも言っているのです。

 

 そして、その2つのメッセージは何より「ドン・キホーテを殺した男」という映画に、長い年月ずっと振り回され、作品の中で溺れ続けたテリーギリアム自身に向けられているものです。

 

 そんなメッセージを見せられては……簡単な感想やら感慨なんてものは吹き飛ぶに決まっています。

 

 それくらいにこの映画は傑作なのです。

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