映画感想:ジュディ 虹の彼方に
恒例の手短な感想から
誠実な、あくまで誠実な
といったところでしょうか。
伝記映画というのは、極めて難しいジャンルだと常々思っています。何が難しいのかというと「人の一生をたかだか二時間に収めるのは無理がある」ということです。
当たり前ですが、人間の経験した時間は、二時間なんかでは替えの効かないものです。
中には、無為に過ごした時間も多くあることだと思います。他人が大スクリーンでポップコーン片手に鑑賞できるレベルではない、くだらない些末な出来事さえ起きます。
しかし、そういう無為な出来事と時間があるからこそ、人生の急転直下は「より急転直下として」感じられるのです。
その、人生の急落ぶり、その人の生き方の面白さを上手く引き出そうとなると、どうしても嘘をふんだんにつかざるを得なくなります。
そして、嘘をつきすぎた結果、描きたかったはずの人物のパーソナリティと映画で描かれているパーソナリティが「なんだかズレて」しまい、「え、あの人、こういう人だったっけ?」というモヤモヤを漂わせて終わってしまうことも多いわけです。
例えば、ボヘミアン・ラプソディは、まさにその典型の映画です。
この映画はなんとクライマックスの部分で、ほぼ事実ではないことを描写し続けるという「伝記映画としてはどうなんだ」と言いたくなる演出がなされており、映画として面白くても、伝記映画として当人のパーソナリティを描き切ったとは言えないものでした。
いかに伝記映画というジャンルが誇張しがちなのかが分かることでしょう。
そういう意味では、本作は、この上なくジュディ・ガーランドというパーソナリティに対し、誠実な描き方をしていることがよく分かります。
正直、LGBTに理解を示していたという一点のみで、ネット上ではなぜか聖人君主か、時代を先駆する革命者かのような扱いを受けているジュディ・ガーランドを題材にして、ここまで濁らずに「本人らしさ」を残せているのは感服します。
普通ならば、世間に媚びてもっと「実は素晴らしい内面を持っていました」という描き方をしがちですから。
ですが、本作はそこを避けているのです。
本作のスタンスは、あくまで「ジュディ・ガーランドがなぜこのような複雑なパーソナリティになってしまったのか」という原因の追究を軸にしており、「そんな彼女の人生をあなたはどう捉えますか」と問いかけるのみに留まっています。
そして、この映画で描かれる彼女のパーソナリティは素晴らしい面もあれば、和田アキ子のようなパワフル姉ちゃんの側面もありつつ、がなり声の老害めいた面もあり、かつ、少女のような幼稚さなども垣間見え――つまりは、まさに人間らしい描き方がなされているのです。
おそらく、この映画を見た人の感想は十人十色で変わることでしょう。「彼女はショービジネスの世界になど来るべきではなかった」と考える人がいてもおかしくはないです。
実際、自分は、上辺だけしか見ない人たちがジュディ・ガーランドを持ち上げるたびに、彼女の人生やパーソナリティに思いを馳せ、似たような思いを抱いていました。
「死んだ後で、レインボーなんて持ち上げられない人生こそが、彼女の、本当の幸せになったのではないか。そんな不幸かもしれなかった人生を、ただ主張のためだけに、持ち上げるのはどうなのだろう」と。
しかし、自分は今回、本作を鑑賞して、更に考え方が変わりました。
「ジュディ・ガーランドは、どこかで根っからにショービジネスが好きだったのかもしれない」と考え直すようになったからです。
もともと、ジュディ・ガーランドは家族の経営する映画小屋で、幼いころから幕間のショーとして歌を披露していたような人間です。*1
音楽で表現したい何かを、幼いころからずっと持っていたとしてもおかしくはないのです。
そんなことを、本作は自分に思わせてくれたのです。
こういう映画こそ、当人に対して誠実な、良い伝記映画と呼ぶべきでしょう。おそらく、この映画を見た大半の人は、ジュディ・ガーランドという人物が、そう容易く持ち上げられるような軽い人生ではないことを実感できたのではないでしょうか。
*1:実は、本作の幕開けからのシーンは、彼女のそんな幼少期を「オマージュ」した場面となっています。