評論:ミラーズ・クロッシング
Miller's Crossing (1990) - Original Theatrical Trailer ...
※今回は 評論にしてみました。当然ですが、ネタバレはしています。
コーエン兄弟が大失敗し、興行的にも成功しなかった映画、それがミラーズ・クロッシングである。映画自体の評価は賛否あるものと思うが(ちなみに僕は賛の方であるということは前もって誤解を受けないように言っておきたい)ともかくこの映画は、エンターテイメントとして優れず、観客を呼ぶことが出来なかった。実際、この映画を作るとき、コーエン兄弟はこの映画の脚本を書くことに大変苦労したそうだ。その苦慮の過程は、のちに彼らがつくった「バートン・フィンク」にもよく現れている。「バートン・フィンク」はまったく話が書けないで、苦悩する作家の話だった。
実際、ミラーズ・クロッシングは内容的にとてもではないが、エンターテイメントとは言い難い部分があった。ハードボイルド調の画作りや、舞台美術は素晴らしく、おそらく、話の原型をダシール・ハメットの「血の収穫」に求めているのであろうところも悪くはない。が、肝心の話そのものがあまりにも、エンターテイメントとしては成立していないものになっていた。
ミラーズ・クロッシングは、警察や自治体でさえも完全に支配し、街を仕切っているギャングのボスに、傘下のギャングのボスが楯を突き、ギャング同士の殺し合いが勃発するという話だ。が、その抗争の発端である、最初の殺人事件、これの真相が映画の最後になってもよく分からないままなのである。
これは人によっては、許せない人もいるだろうと思う。特に、ハードボイルド等のミステリーを愛好している人たちである。ミステリーはなによりもロジックを重要視するジャンルだ。事件の発端が「よく分からないけどともかく起こった」でも、許されるかというとかなり微妙である。そして、もちろん、映画や小説をあまり読まない、観客たちにとっても拍子抜けのオチと言わざるを得ないかもしれない。そういった観客は、2時間サスペンスドラマの例を挙げるまでもなく「事件の真相はなんだったんだろう」というそこを期待して最後までドラマを見る。そこが「よく分かりません」とあっては……。
また、ミラーズ・クロッシングは、登場人物の善/悪がよく分からないというのも問題だった。元々、血の収穫が原型なので、抗争でギャング同士が潰し合うという話になるのは仕方ない。だが、ミラーズ・クロッシングは血の収穫とは決定的な違いがあった。それは主人公の立場である。血の収穫では主人公はあくまでよそ者だった。それがトリックスター的な活躍をして、街に蔓延るならず者たちを殺しあわせていくという筋書きだ。これは非常に単純明快だ。誰が見ても「誰が悪くて誰が正しいのか」が分かる。
だが、ミラーズ・クロッシングの場合は、主人公は元々、街を牛耳っていたギャングのボスの側近という設定なのだ。その主人公が、ギャングを潰し合わせるつもりもなかったのにいつの間にか潰し合わせる羽目になっていくという筋書きだ。これは非常に理解しづらい。一体「誰が正しくて、誰が間違っているのか」がよくわからない。血の収穫では、読んでいる人は主人公に加担して読んでいけば良かった。だが、ミラーズ・クロッシングは主人公に加担して見ていっても問題なのである。なぜなら、主人公は行き当たりばったりに行動し「結果的にそうなっている」だけで、正しいわけでもなんでもないのだ。
この点もやはり、ミステリー好きにとっては微妙なところだろうと思うし、そして、映画や小説をあまり知らない観客にとってはチンプンカンと処理されてしまう可能性が高い。
こうした観点からミラーズ・クロッシングは、興行的に赤字。完全な惨敗に。
しかし、実はこのミラーズ・クロッシングに対する評価がまったくないわけではなかった。むしろ、評価はあった。前述のとおり、その分かりにくさ以外の部分は確かによく出来ている映画である。一応、今日の評価はギャング映画の佳作という見方が一般的なようだ。
だが、それだけではない。この映画をものすごく高く評価する人も居たのだ。
立川談志である。落語家であり、同時に映画等の造詣も深く、辛口に物事をずばずば毒舌で切っていく彼が、ミラーズ・クロッシングをとても高く評価していたのだ。
仲間と行く映画でも、嬉しい時に出掛けて逢う相手(映画)でもない。逆に、何か暗い時、淋しい時、ふとやり切れなくなった時、ふて腐れた時、心が、 身体が、寒くなった時、腹が空った時、そのまま「ミラーズ・クロッシング」を観てみたら如何と思う。完全に沈む筈だ。しかし、この映画を観て、このハシャギ過ぎて気が狂っている世の中にたまには静かに向かってみろ、と思うのである。(ミラーズ・クロッシングパンフレット P15"「ミラーズ・クロッシング」を観て"より抜粋)
見事な絶賛。
なぜ、彼がここまでこの映画を評価したのか。これは、あくまで憶測の範疇を出ないが、おそらく、僕が今まで上げてきたエンターテイメントとしての失敗点が、ことごとく立川談志にとっては美点に感じられたのだと思う。(美点、という表現は正確ではないかもしれないが、他に表現方法が思いつかない)
この映画は、確かにエンターテイメントとして考えると、微妙な点が多い。だが、それはあくまで「エンターテイメントとして考えた場合」の話なのだ。これにエンターテイメント以外の観点を入れると、この映画が非常に優れた映画であることが分かってくる。その観点とは現実である。自分たちが生きる、この現実世界の観点を入れていくとこの映画は面白すぎるのだ。実際、談志も評に「このハシャギ過ぎて気が狂っている世の中にたまには静かに向かってみろ」と書いている。
ミラーズ・クロッシングは、前述したように「街を牛耳っていたギャングのボスの側近が、ギャングを潰し合わせるつもりもなかったのに、いつの間にか、潰し合わせる羽目になっていく」という話だ。ここで重要なのは、この話の過程にある、主人公の動向である。(これまたさっきも書いたが)この映画において、この主人公は行き当たりばったりにしか行動していない。もちろん、多少の計算も入っているが、その計算もまったく目論見通りにいかず、いつの間にか、主人公は元いたギャングを追い出される羽目になり、仕方なしに敵方のギャングに加担し、結果的にギャング同士を潰し合わせていくことになってしまう。
これはまさに現実そのものだ。何一つ、思い通りに物事が進んでいかない。思い通りに進んで行かないのに、話だけはやたらとトントン進展していく。それも困った方向へ。
そして、なによりも現実的なのが、その主人公の行き当たりばったりな行動に対する、周りの人間の反応と、主人公の対処の仕方である。周りの人間は、ただ、偶然そうなってしまっただけの出来事を「主人公がはじめから計算ずくでそんな行動をしていたに違いない」と勝手に解釈していってしまうのだ。そして、インテリめいている主人公自身もまた、最初からそうであったかのように振る舞う。しかし、実際は、ただ行き当たりばったりに行動し、偶然と偶然が重なってそうなってしまっただけのこと。そこに無理に意味を見出して納得しようとする、そして、その無意味さのところにあたかも意味があるかのように振る舞う、人間の滑稽さ。これがなによりも現実そのものだ。
己れに忠実に生きるべし、というラストシーンの主人公の主張も、むしろ甘いぐらいに感じさせてくれて、所詮、人間なんざぁ、また同じことをやる筈だ、と思わせる凄さもあった。(同抜粋)
少なくとも、立川談志は、この現実世界をそうだと思っていた。立川談志は「決心なんてものは、行動の後に付ける判子だ」と言っている。この世の人間の行動には、大した理由なんてない。大した理由があるように見えても、それは理由があったかのように後でそう言い訳をしているだけだ。立川談志はそう考えていた。この映画の人々の描かれ方と、それはピッタリ一致している。
だからこそ、立川談志は評価したのだろうと思う。少なくとも(不肖ながら)僕はそうだ。これは、勘違いで進んでいく物語なのだ。最初に書いた抗争の発端にあたる事件でも、殺害された人のかつらが取られていたのが、この理由を物語の登場人物は誰も分かっていなかった。これは映画の冒頭で観客には明かされるが、偶然そこを通りがかった少年が悪戯にそれを取って行ってしまったからである。ただそれだけのことなのだ。しかし、それを映画の中にいる登場人物たちはなにか意味があるに違いないと思っていたりする。このかつらのエピソードは非常に象徴的だ。そして、そうやって深読みしていく姿はあまりにも滑稽で面白い。
ミラーズ・クロッシングは、現実のハードボイルドなのだと思う。