映画レビュー:千年女優
アニメ監督の中でも世界と渡り合える監督というのは、たくさんいるわけなのですが、その中でも今敏監督は、世界と渡り合えるというよりも、世界を圧倒してしまう監督だと僕は思っています。
僕がそのような確信を得るに至ったのは、今回レビューする、この「千年女優」を見たからなんです。
この作品はいま見ても、おそらく、未来にいつ見ても、斬新に見えることだと思います。それくらい、演出や話の構造の全てをとっても素晴らしいとしかいいようのないものがあります。そして、そのどれもが非常に前衛的な内容になっています。一本の映画として様々な考察が必要であり、それでいて、どの場面も映画として面白さが充満しています。しかも、この映画、これほどまでに充実した内容でありながら、意外にも上映時間は90分にもいかないんです。その映画自体のタイトさも素晴らしいと思います。この作品は、芸術映画といっても差し支えありませんし、エンターテイメント映画といっても違和感はないでしょう。
藤原千代子は、銀幕の大スターでありながら、撮影中に現場から失踪し、芸能界を引退した大女優です。そんな彼女のインタビュー取材を、千代子が所属していた映画会社「銀映」の撮影所取り壊しという機会に得ることが出来た、千代子の大ファンである立花源也と、千代子をよく知らない若いカメラマン井田恭二。二人は千代子の家を訪れ、立花は彼女がずっと昔に落としたままだった「鍵」を彼女に渡します。千代子はそこから様々な昔の話を語りだしていくのですが……。
というのが、主なストーリーです。
ただ、このあらすじを聞かされても、大抵の人は「へ?」と思うだけでしょう。なにせ、この映画は、この千代子から聞かされる「話」というのが、なによりも重要なのですから。
この映画はとても不思議な演出がなされていまして、千代子が語る「昔話」と「現代」が映像上でとても奇妙な形で混ぜられています。たとえば、千代子の「昔話」によって映像が過去へ回想した――と思ったら、なぜかその「過去の回想」の中に、現代で、千代子の昔話を聞いているはずの源也と恭二がいて、恭二は、昔の千代子の様子をカメラで撮影したりしているんです。
あえて時系列をぐちゃぐちゃにして、話を進めているのです。おかげで、映画自体の時間の進み方もとても奇怪なものになっています。たとえば、映画の撮影で、時代劇で牢獄のシーンがあり、その牢獄の扉を開けた――かと思うと、その先は焼け野原になった東京で、なぜか千代子は防災頭巾を被っている、なんてこともあります。
このとても奇妙な感覚が、純粋にとても面白いのです。なんだかくすぐりを受けているようなむず痒さがあって、上手く頭の中で割り切れない、かというとつまらないというわけではない、むしろ巧みな演出によって引き出されていく幻想的な感覚。これを堪能することができるのです。
また、この映画は、様々な「映画」をその作品内に閉じ込めているのも特徴的です。しかも、その「映画」は全て「日本の映画」に限られています。ある種、日本映画の究極の集大成といっても過言ではありません。前述の牢獄のシーン、セットがどことなく、修羅雪姫に出てきたセットに似ています。またゴジラのような怪獣が出てくるシーンもあります。トラック野郎そっくりのトラックが出てきたりもします。数々の名作を元にしたのであろう千代子が演じる映画たちは、そのほとんどに古今ジャンル問わない日本映画たちが元ネタである事が分かります。90分に満たない中にこれほどの映画を詰め込んだ映画も珍しいです。そういったところも素晴らしい。
もうこの二つを味わっただけでも、十分、この映画を堪能したといえるのかもしれません。が、しかし、実はこの映画が本当に素晴らしいのはそういうところではないんです。
この映画の素晴らしさ。それはこの映画は一体、何の映画だったんだろう、ということと直結する話です。
この映画には千代子がずっと「鍵」をくれた男の人「鍵の君」を追う話が、貫かれています。つまり、これは一人の女性が、一人の男を愛し続けた映画だったのか。一見するとそういう映画に見えてしまうストーリーですが、いえ、そんなことではないと僕は思います。
この映画は映画を作り続けるとはどういうことなのか、現実ではないものを作り続けるとはどういうことなのか、それがどういう代償を負うのか、そして、そういう虚構の中にいるとわかっていながら、それでも虚構の中に生きたいと思う人のその理由であり、そして、その心を描いた映画なんだと思います。
だからこそ、この映画はこれだけのたくさんの「映画」を中に詰め込んでいるんです。映画を語っている映画、だからなのです。映画に出てくる、女優とは何なのか、どういう存在なのかを語っている映画なのです。