儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画評論:千年女優

※レビューはしましたが、詳しい評論も必要と感じたので評論も書きます。

 

 当ブログのレビューで、僕は「千年女優とは、映画を作るとはどういうことなのか、虚構の中にいたいと思う人の心を描いた映画だ」と言いましたが、あれには、きちんとした理由があります。なんとなくそう思った、というわけではないので、長大になりますが、評論を書きたいと思います。当然ですが、ネタバレしまくっています。どうしてもそこに触れざるをえないので。

 

 ―――――――

 評論に合わせて口調を変える。 

 

 さて、千年女優という映画を最後まで見たとき、大体の人には、この複数の謎が残るか、引っかかるかしたはずだ。

 一つは、最後の千代子のセリフである。これはどんな人でも分かりやすく引っかかったことだろう。実際、このセリフを理由に、この映画をよく思わない人もいるらしい。確かに件のセリフは「まるで初めから『鍵の君』なんて好きではなかったのか」と思わせるようなものだ。ここが一つの謎として残ったと思う。

 もう一つはその『鍵の君』の正体である。一応、映画終盤で彼が死んでいたことは明かされるので、それで納得した人もいると思う。が、納得してない人もいるようであるし、『鍵の君』もこの映画のキーなのは間違いないので、これも謎にして評論に組み込むことにする。

 もう一つは『鍵』そのものの謎である。あれは一体、なんの『鍵』だったのか。ここも実は映画序盤をちゃんと見ていれば、「一応の答え」は得られるのだが、この評論では、その「一応の答え」から、さらなる答えを探って行きたい。

 そして、最後の一つは『千年の呪い』の正体である。千代子は、自らが演じる映画の途中で、千年の呪いをかけられてしまうが、それは一体どういうことだったのか。一体どんな呪いをかけられてしまったのかということを明かしていきたい。

 この四つに僕の解釈を入れて解き明かせば、「千年女優とは、映画を作るとはどういうことなのか、虚構の中にいたいと思う人の心を描いた映画だ」という結論に必ずなるはずである。

 

 では、早速、四つの謎を解こうと思うが、その前に、この映画の映像について前提を置く必要があるのでもう一つ前置きをさせてもらう。その前提とは、この映画はあくまで「千代子のインタビューの内容を、具現化し映像として表現している映画」である、ということだ。現代にいるはずの二人が過去の映像で観客のように入り込んでいるのは、まさに二人が「インタビューの聞き手」として千代子の話を聞いているからである。たまに観客どころか、映画の役者として立花が参加してしまっていたりするが、それは彼が千代子の映画のセリフを全て事細かに記憶しており、千代子がインタビュー中に行った演技の相手をしているからである。このため、この映画は基本的に「あくまで千代子の主観に頼った映像」になっていることが分かる。

 この前提を置いた上で、謎を解いていく。

 

 まず、一番わかり易いところから評論していきたいと思う。『鍵』の正体、である。この鍵は、千代子の初恋らしい人から渡されたものなのだが、この鍵は一体なにを開ける鍵だっただろうか。それはわりと映画の序盤で――千代子が鍵を渡されるシーンで――実は明かされている。あの鍵は、鍵を渡した男が持っていた鞄を開けるためのものである。鍵を受け取るときに千代子は、あの鞄を見ているので、少なくとも、千代子の脳内ではそういうことになっている。

 では、あの鞄はなんだったのか。これは鍵を渡した男――鍵の君が画家であることと関係がある。鍵の君が大事そうに抱えていたあの鞄には、絵具がなすった痕がいくつかついていた。これと、あの鞄の形から推察して、あれは絵具等の画材を入れる鞄であることは間違いないだろう。

 というわけで、「一応の答え」としてはあの鍵は、画材が入った鞄を開ける鍵ということになる。

 では、ここから更に深く考察していく。あの鍵は、画材が入った鞄の鍵であったわけなのだが、なぜそんなものを千代子がいつまでも大事そうに持っていたのであろうか。『鍵の君』に渡されたものだからだろうか。いや、それでは実は説明がつかない。そんな大事なものをなぜ、三〇年以上前に落としてしまっているのかという疑問が残るからだ。

 ここに「千代子が女優として、どういう評価を受けていたのか」ということをヒントにすると謎が溶けていく。立花や、様々な登場人物が繰り返し、千代子が七色の女優と呼ばれていることを強調していた。ここに色の喩えが使われている。

 あの鍵は、画材を入れた鞄を開けることができた。つまり「様々な色彩を出すための道具が入っている鞄」を開けることができるのだ。もちろん、「七色の女優」の七色とは演技の幅の比喩である。だが、ならば、あの鍵だって同じ比喩を当てはめることが出来るはずだ。

 あの鍵は「色彩を出すための鍵」――「千代子の演技を引き出すための鍵」だったのだ。

 実際、映画上でも、千代子は、演技に行き詰まってNGをたくさん出すようになると鍵を失う。他の場面でも、映画監督の妻として日常を過ごしていたところ、鍵をふと見つけ、鍵を握り、振り返ると、千代子は演技をし始める。なによりも、撮影現場から失踪するところで鍵を落としてもいる。あの鍵は千代子の演技の象徴なのだ。

 だとするなら、序盤の立花から鍵を渡される、ということにも大きな意味があることに気づく。「三〇年間、まったく演技をしていなかった女優が、自分の大ファンと出会い、鍵を渡される」これはまさに千代子が自分のファンの熱意によって、再び、最後の最後で演技の火を付けられたことを指していることになる。そして、この映画で二人からインタビューを受ける千代子はずっと演技をしている状態だったということでもある。映画の最後における、千代子の顛末を思ってもそれは確実なのである。

 

 次に、その鍵の持ち主である、鍵の君についての謎も解き明かしていこう。鍵の君は前述したように画家だ。そして、映画の終盤ですでに亡くなっている人であることが明かされている。だが、このことはこの映画にとっては重要なことではない。この映画は「千代子がどう物事を認識しているのか」ということの方が重要な映画だからだ。

 この映画における鍵の君は、明らかになんらかのメタファーとして扱われている。一番それを表現しているのは、鍵の君が途中で絵の中に入り込んでしまうところだろう。こんなことは現実の人間には決して起きない。

 では、鍵の君とはなんだったのか。これは鍵の君という名前がヒントとして解くことができる。鍵の君の「君」という二人称である。これが映画上でそのまま出てくるところがある。それは千代子が一番初めに語る映画のことだ。千代子は二人のインタビューを受けた序盤、自分の昔話を語りながら、いつの間にか映画の話をしてしまう。この映画のポスターが一瞬、画面に映るのだがタイトルが「君を慕いて」なのである。「鍵の君」の、君とはこの「」なのではないだろうか。

「君を慕いて」という映画は、千代子に女優の道を歩ませる気になった映画である。劇中で千代子がそう言っている。「君を慕いて」という映画を見て、感動し、そこから憧れを抱いたことがきっかけで、千代子は映画女優になることを決意するのだ。その「君」をそのまま「鍵の君」が貰っているのだから、「鍵の君」は女優・千代子にとっての憧れ・目標の象徴である事が分かる。

 鍵の君を、生涯千代子は追い続けた。あれは千代子の目標だったのだ。そして、前述の「鍵の君が途中で絵の中に入り込んでしまうところ」は、鍵の君が目標などの意味であることを考えれば、「千代子の目標は絵の中にある」ということになる。絵とはつまりピクチャーだ。ピクチャーには映画という意味も存在する。

 千代子は、映画に憧れて女優を始めて映画の中にしか目標を見いだせなかった人だったのだ。

 

 では、ここまで分かったところで次の謎、「千年の呪い」について解き明かそう。この千年の呪いとは、千代子が時代劇映画で姫を演じているときに受ける呪いのことだ。老婆に千年掛かっても恋が成就しない呪いをかけられてしまうのである。この「千年の呪い」とは一体なんだったのかということを解き明かしていく。

 千年の呪いを解き明かすためのヒントは、映画のあちこちに散らばっている。特に着目すべきは、立花が社長をしている会社「VISUAL STUDIO LOTUS」という名前や映画中に出てくる数々の円環がしめしている、輪廻転生の概念だろう。(LOTUSとは、蓮のことで仏教にはよく出てくる植物。仏像では、釈迦などは必ず蓮の華に乗っている)詳しい説明の必要もないと思うが、念のため説明すると、輪廻転生とは仏教上の考えの一つである。*1人にかぎらずすべての生命は生きては、死に、また別の生命に生き返っては死ぬというサイクルの中にいるという概念だ。

 この輪廻転生という概念を使って、千年の呪いを解き明かしていくと、千年の呪いとは「輪廻転生のサイクルそのものに掛かった呪い」であることは誰の目にも明白だろう。事実、ここまでは殆どの人が辿り着く答えだ。しかし、輪廻転生のサイクルそのものに掛かった呪いであったとしても、この映画に当てはまる答えにはなっていない。さらにこの答えを解き直す必要があるはずだ。

 答えから、解き明かしていくと、これが「鍵の君」と一生どころか後生掛かっても会えないことを表現しているように思える。この解釈は反論を挟む余地がなく、おそらくは正しい。前述の解釈を入れれば千代子は「一生を掛けても、決して望んだ目標・憧れにはたどり着けない」ことを指している。だが、実は、もう一つ別の解釈を入れられることも忘れてはならない。僕はこの呪いには、二つの意味合いが入れられていると踏んでいる。もう一つの解釈、それは彼女が「女優である」ということから着目し、浮かび上がってくるもう一つの輪廻転生に関連する。

 女優は、映画の中で様々な登場人物になりきる職業だ。一生のうちに何度も繰り返し様々な人になり、様々な恋、様々な人生を疑似体験する職業ともいえるだろう。この「女優の一生」そのものが、輪廻転生の概念に非常に似ている。女優は映画の中で、他の人の一生を経験し、他の人の恋を経験し続ける。だが、その恋は映画が終わるのと同時に終わってしまう虚構の恋でしかない。

 だから、どんなに色んな映画に出続けても(輪廻転生を繰り返しても)千代子は恋が成就しない。千代子は老婆に「千年の呪い」に掛かってしまったことを告げられる。千代子は女優として、映画に出続けているうちに、女優という呪いに掛かってしまったのだ

 これは、なにを意味しているのか、映画出演を繰り返すうちに、千代子は現実と映画の区別がなくなってしまったのだ。千代子は虚構の中で恋をしつづけ、虚構の人生を生きては死に続けた。千代子自身の認識としては、現実の人生とまったく同じように。だからこそ、千年女優は複雑な映像表現がなされている。それは昔話をする千代子自身が、そういった状態に陥っているためだ。

 そして、老婆が若い千代子に「千年の呪い」が掛かっていることを教えるシーンはどういう意味合いがあったのか。あの老婆は、現代の千代子そのもののメタファーだと思われる。老婆の声は、老いてからの千代子と同じ声優が声をあてていた。あのシーンは、千代子自身が「昔話をする中で、女優の呪いに陥ってしまった自分に、老婆という姿を借りて話しかけている」のである。つまり、千代子はあそこで虚構の世界にいる代償を負うことになった過去の自分を、回想し哀れんでいるのだ。

 

 さて、このように女優の一生が「輪廻転生に喩えられている」とすると、この映画の最後はどのように解釈できるだろうか。千代子は死を迎える。輪廻転生の中で死を迎える、輪廻転生の終わりを迎えるということは、まさに解脱そのものということだろう。千代子が涅槃の世界へ旅立つことを示しているといえる。輪廻という苦を終え、穏やかな涅槃へ行くのだ。

 だが、千代子の穏やかな場所とはどこであったのだろうか。それは映画中でも、さんざんに示されている。映画そのものだ。千代子の魂が落ち着ける場所は映画にしか存在していない。千代子は最期、かつて事故によって撮影が失敗してしまった映画の続きを自分の中で作り上げ、それを完成させることで死を迎える。千代子の呪いは映画だったが、涅槃もまた映画だったのだ。そのため、彼女は死の直前までも、ファンに対して映画を見せ続けることに、演技を見せ続けることにこだわった。

 これは果たして正しいことなのだろうか。いや、正しいと思えることではない。

 だからこそ、最後の謎「千代子の最後のセリフ」があるのだろう。今敏は千代子に最期、あのようなある種、独善的に捉えられるようなセリフをあえて言わせた。女優が女優を突き通し、最後まで女優であることを望み続ける物語は、確かに美しい。一見すると。

 しかし、よくよく突き詰めれば、その美しさもまた映画という虚構であり、そこであそこまで映画・演技に対して固執をするのは、その心の奥底に独善的な気持ちがあったからこそといえる。そこを今敏は最後、観客に見せたのである。

 あれは今敏自身の映画に対する覚悟を示しているのだろう。つまりはどこまで綺麗なことを描いていても、映画は映画でしかないのである。虚構なのだ。映画にかぎらず物語を作る限りは、細かいところまで見ていけばで独善的なところがどうしても出てきてしまう。どこまで美しいエンディングを迎えても、映画であるかぎり、虚構であるかぎり、突き詰めればそれは嘘であり、どんなに美しいと思えても残酷なエンディングでしかない

 まさにこの映画は「映画を作るとはどういうことなのか」ということと、そして「虚構にいたいと思う人の心」を的確に描いている。

 千年女優は真の意味で「映画を語った映画」だ。映画が好きである気持ちを数々のオマージュによって示し、そして、映画を作る気持ちの根源を冷静に分析し提示した。愛と同時に、あくまで映画を突き放し、現実を描いた。そこまでやらないと、本当の意味で映画を語った事にならないのだ。

 

以上。

*1:仏教上の、とあるが、正確にはヒンズー教等の東洋思想に元から輪廻転生という考え方は存在している。仏教が特徴的なのは、その輪廻転生を苦と捉え、そこから己に絶対的な魂などないという悟り=無我へ解脱することを目的としたところにある。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村