儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画レビュー:マグノリア


Magnolia Trailer - YouTube

 

 

 いきなりですが、僕は人生のベスト映画はなにかと訊かれると「マグノリア」と答えるようにしています。この映画は僕の人生の中で、一番、強く心に残った映画だからです。僕自身は、ゲームで言えばベストは「街」アニメで言えばベストは「学園戦記ムリョウ」といった感じで、多種多様な登場人物が交錯する群像劇がとてつもなく好きです。このマグノリアもその例に漏れず、群像劇の映画となっています。

 この映画は「この世に起こった偶然の出来事の話」を始まりに提示します。「世の中には偶然を超えた、不思議なことがある」そのことを様々な、名前や数字などの偶然の一致が見られる事件や、奇妙な縁を感じさせる事件等を次々挙げ、印象づけてから、そこから物語が始まります。

 物語に登場するのは、世の中の「情けない男たち」に女を掴むコツをレクチャーするカリスマ、フランク・T・J・マッキー。ヤクに溺れ、自堕落なボロボロの生活をしている、クローディア。彼女にひどく拒絶されている、彼女の父親で人気テレビ司会者のジミー・ゲイター。その妻のローズ。ジミーが司会を務めるクイズ番組で、連勝をしている天才少年スタンリー・スペクター。かつて、はるか昔のクイズ番組で天才少年と持て囃され、しかし、現在は電気商店でセールスの仕事をしているドニー・スミス。末期ガンにより死の間際にいる大富豪、アール・パートリッジ。その大富豪を介護しているヘルパーのフィル・パルマ。その大富豪と結婚をしたとても若い妻、リンダ・パートリッジ。警察の仕事に誇りを持っており質素で善良な生活を好んでいる警官、ジム・カーリング。彼らが巧みに一つの街の中で、様々に関わりあっていく話になっています。

 各登場人物が繰り広げる話は、それぞれ様々な様相を見せています。テレビ局の裏側を覗くような、ドキュメンタリーのような話が繰り広げられる登場人物もいれば、別の登場人物の中には末期ガンに侵された人もいて、しかもその末期ガンに侵されているそれぞれ二人の物語も、片方は父娘の葛藤の話かと思えば、片方は生き別れた息子を探すサスペンスになっていったりします。更に別の話では、インタビューを通じた、ある種のミステリーのような話になります。不幸な男の悲しい悲恋の話もありますし、かと思えば、二人の男女が出会っていくベタといってもいいほどの恋愛話もあります。しかも、そこから更に自らの罪を懺悔しようとするような話もあったりして、全ての話が微妙な繋がりを持って重なりあっているのがこの映画です。

 この映画は、全体を一貫して、人が会話するやり取りがとてもリアルに描かれています。これはポール・トーマス・アンダーソン監督の特徴的な演出の一つとも言えますが、なんとなく、人が同じセリフを何度か繰り返してしまったり、人と人が会話しているようで片方の人が話を聞いていないときがあったりと、人と会話するときにある「隙」。また、会話だけを文章にするだけでは見えない、互いの気持ちに「ズレ」があるところ。互いに話を聞いているようで聞いていないところ。その全ての捉え方がとても的確です。

 この会話にリアリティがあるからこそ、映画自体のなんでもないようなシーンの一つ一つに、強く吸い寄せられてしまいます。また、各々のシーンで、登場人物が抱く感情も様々です。その様々な感情、それぞれに共感をしてしまうのも、このリアリティがあるからだと思います。

 またカメラワークに関しても、非常に面白いです。手持ちのステディカムによる長時間の長回し撮影をしたかと思えば、シンメトリーに、ちゃんと固定したカメラ(フィックス)を使い一点透視図法で空間を捉えるショットがあったりしたりとカメラワーク自体も、登場人物のバラエティ豊かさと同じように種類が豊かです。

 

 ですが、なんと言ってもこの映画を見た人が魅了されてしまう理由は「巧み」の一言に尽きると思います。

 マグノリアという、この映画はありとあらゆるシーンが、音楽の使い方が、演出が、巧みです。とある場面では、とてつもなくスマートな会話の流れでメタ的な発言を登場人物に言わせるようなシーンがあったりします。とある登場人物が劇中でカルメンの歌を歌ったかと思うと、BGMにカルメンの楽曲がさらっと流れます。それが次の場面の、恋愛の様子を見事に語るような曲だったりします。まったく違和感なく、テレビ局の話から、テレビの向こうにあるバーの話へと移行したりします。

 

 なによりも、この映画はテーマの伝え方が巧みです。

 この映画を見た後で、きっと、大抵の人は「一体この話はなんだったんだろう?」と思うことでしょう。とても不思議な話ということは間違いありませんが、それ以上に、この映画で起きた出来事には、一体どういう意味があったのかがなによりもよく分からなくて、「一体何だったんだろう?」と疑問をいだいてしまうのではないかと思います。

 これは私見ですが、この映画が「単純明快な答えを観客が思わないようにできている」ためではないかと僕は思います。つまり、この映画は、様々な出来事が描かれ、様々な登場人物の生きるさまが描かれますが、そこに一貫性は存在していません。登場人物同士の「繋がり」はあるのだけれど、登場人物たちが生きる人生そのものはみんなバラバラに描かれています。

 例えば、罪を背負った死にゆく運命の「父親」がこの映画には二人居ますが、二人とも、その最期はまったく違うものになっています。同じように罪を背負っているはずなのに。例えば、この映画には恋愛が二つ描かれますが、二つとも、結末は違ったものになっています。片方は残酷に、片方はご都合といってもいいほどに楽観さを兼ね備えて。

 これはどういうことなのか。僕はつまり、人生とはそういうことなのだ、とこの映画は言っているんだと思います。

 例えば、世の中には、「ラブラブな恋愛など現実ではありえない」という人がいます。その人曰く「恋愛はとても残酷なものであるのが現実なんだ」そうです。

 本当にそうなのでしょうか?

 確かに、残酷な恋愛もあるんでしょう。浮気心や、嫉妬心に惑わされる恋愛も、きっと、世界のどこにでもあるものだと思います。でも、だからといって、全ての恋愛が残酷かというと、そんなわけは当然ありません。

 また、逆に全てが幸せな恋愛というのが、世界の恋愛の全てではありません。

 人生だってそうなのだと僕は思います。

 なんでもかんでも「これをすれば人は不幸になる」「これをすれば人は幸せになる」と決めつけたがる人がいます。でも、人生はそうじゃないとこの映画は言っているんだと思います。どうやればこの人生が報われるか、なんて誰にも決めようがないし分かるはずがないのです。人生に「一定の法則など、絶対に存在しない」ということこそがこの映画の強いテーマなのだと僕は思っています。

 それをこの映画は、巧みに伝えてきたのだと思います。 

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