映画レビュー:10億分の1の男
カジノでやたらと運が良く、馬鹿勝ちしている客がいます。その客に背後から忍び寄り、なぜか、そっと手を添える男性、「知り合いと間違えました」と一言。すると、さっきまで勝っていた客は急に勝てなくなり、まるでツキに見放されたように大負けしてしてしまいます。
これが、フアン・カルロス・フレスナディージョ監督の「10億分の1の男」の冒頭場面です。この冒頭に示されているように、この映画では、「人が触れると、触れた人の運を奪うことが出来る」という不思議な世界観が席巻しています。
昔の日本などでも、たとえば宝くじに当たった人や、ホームランボールを掴んでしまった、なんていう幸運な人に、その幸運を分けてもらおうと周りの人たちがぺたぺたとその人を触る、なんていう光景はあったと思います。
この映画はそれを拡大解釈し「本当にこの現実にそういう人たちがいたら…」という過程に基づいた思考実験をしているようです。
この不思議な「運」の設定は作中(正確には、吹き替えの訳)で、「能力」と呼ばれています。この人達は触れた他人の運を奪ってしまえる能力の持ち主で、中でも、とあるカジノを経営しているカジノ王、サムは最強の「能力」を持っています。同じく能力を持ち、カジノでサムの下に働いていたフェデリコは、サムに反発をし、カジノから出ていこうとします。が、カジノを出る際に、サムに能力を奪われ、部下に暴行を受けて叩きだされてしまいます。
それから、フェデリコはサムを「倒す」ために、奇跡的に事故から助かった者など、強運の持ち主を、保険会社に務める者に金銭的な協力を求めながら、探すようになります。そこに、ほとんど無傷で飛行機事故から助かったという奇跡の生還者である、トマスの情報が転がりこんできます。
病院にいる、トマスは銀行強盗犯でもありました。病院にいる間は警官に監視されています。フェデリコはトマスに取引を持ちかけ、病院から逃してやることにしますが……
というのが、この映画のあらすじになります。
監督のフアン・カルロス・フレスナディージョは「28日後…」というゾンビパニック映画の続編「28週後…」を監督した人です。この作品は、日本では、一部で高い評価を得ました。この作品は、そのフアン・カルロス・フレスナディージョの長編第一作となります。
個人的には「28週後…」よりも好きな作品です。ただ、難解な作品であることも否めないので、この作品を嫌う人の気持ちもわかりますが。
まず、この映画はとても話の内容がややこしいです。単純な、男の復讐譚一本で映画を成立させておらず、複雑にいくつもの話が重なりあうような構成になっています。片方でバディ・ムービーの要素も入れながら、ピカレスク・ロマンのような闇の世界を覗く話を展開させ、一方でそれに拮抗する刑事サスペンスのような話を展開させています。またその両者が、物語のとある一点で交わるのではなく、何度も交わりあったり離れたりするので、なおのことごちゃごちゃした印象を持たれる人も多いと思います。
が、僕はなによりもこのごちゃごちゃした感じが好きです。この映画自体、どことなく、恩田陸などのファンタジーやSFの雰囲気を持っていますが、そのファンタジーな感じ、SFな感じには、このちょっとした「ややこしさ」がむしろいい雰囲気を醸し出していると思います。
「能力」の不思議さも僕の肌にはよく合いました。僕としては、村上春樹の小説を思い出す感じで、なおかつ、村上春樹のいいところだけを抽出したような表現方法で能力が示されるので、どっぷりと陶酔させられるものがあると思います。
また、この手の映画にありがちな「全部、主人公の運の良さ」で説明をつけてしまう、いわゆるつまらない物語にありがちな「俺最強、主人公」「製作者のご都合主義」というものを上手く、警察に捕まりそうになるシーンなどを入れることで避けています。クライマックスの銃撃戦も同じく。
それでいて、最後には「やっぱり運だったのか」と思わせるように巧みに話を導いているのだから、この脚本はとても完成度が高いと思います。
撮影も、工夫が行き届いています。プールの水面を映していると、やがてそこにパトカーのサイレンが反射していく――など、表現と画面の美しさを両立させることができています。全体的にそこはかとなく、シュルレアリスムを感じさせる場面もありますが、それもシュールにはしすぎておらず、ちゃんと作品全体に違和感なく入れられていると思います。
話そのものについていうと、とても深い話だったと思わざるをえません。
「人が人の運を奪えるのはなぜか、それは愛を介しているから」
誰もはっきりとセリフではいいませんが、確かにそれが読み取れるようにできている素晴らしい作品だと思います。