映画レビュー:ツィゴイネルワイゼン
Zigeunerweisen 「ツィゴイネルワイゼン」 Trailer 予告編 - YouTube
江戸川乱歩などを読んだときに感じる、「独特のグロテスクさから滲み出るあの感じ」は、なかなか映像化出来ないものだと思います。
僕は蘭郁二郎という戦前・戦中の作家が大好きなのですが、あの日本の時代にいくつも生み出された「探偵小説」たち――探偵小説、という名前は冠していますが、実際には当時の探偵小説と言われるものの中には、いわゆる推理ものとは一線を画したところにある小説もいっぱいありました。ロマン派からの流れを受け、幻想小説とも、ファンタジーとも、猟奇ものとも、シュールとも、区別しがたい、なんだか変な小説たちがとても多く作られていました。
あの探偵小説たちが持っていた、あの感じ。
映像どころか、読んでいる最中のイメージとしても、なんだか曖昧なままのあの感じ。
それを最も、見事に映像化したのが、この「ツィゴイネルワイゼン」だと思います。
一人旅をしている陸軍士官学校の独逸語教授青地は、旅先で、男女のもつれから女の人を殺害した、という容疑にかけられている中砂と出会います。中砂は、かつては青地と同じ陸軍士官学校の独逸語教授であり、友人である青地は中砂の容疑を晴らして助けます。偶然の再会を果たした二人は、宿先で芸者を呼びますが、宿の芸者は全員出払っており、いるのは、唯一、弟の葬儀から帰ってきた小稲しかいません。二人は小稲を呼んで芸者遊びをします。
小稲は、毒を飲んだ弟が、死ぬ間際血を吐き出して部屋を汚さないように我慢し続けた結果、骨に血が染みこみ、火葬した弟の骨がじんわりと綺麗な桜色をしていたことを二人に話します。中砂はそれを興味深げに聞きます。と、そこに……
ツィゴイネルワイゼンは、鈴木清順監督作の中でも「大正浪漫三部作」と呼ばれているものの第一弾になる作品です。この「大正浪漫三部作」は――というよりも、鈴木清順監督作というものは、基本的にとてもわけが分からない作品が多いです。シークエンスごとに、画面のタッチが変わることなどザラで、それも前衛芸術的な意図でそれをやっているというよりは、どちらかというと「ギャグ」や「おちゃらかし」の意図でそういった、ムチャクチャなことをやる監督です。オペレッタ狸御殿、ピストルオペラなど、作品をいちいち挙げているとキリがありません。なので、ツィゴイネルワイゼンにも、思わず笑ってしまうようなヘンテコなシーンがそこかしこにあったりします。
一応、このツィゴイネルワイゼンは原作が内田百閒の「サラサーテの盤」であると言われています。(ただし、エンドロールにクレジットされてはいません)事実、映画の冒頭でサラサーテの盤が出てくるのでそれは間違いないと思います。が、おかしなことにこの映画は進んでいくと、途中、同じ内田百閒でも「冥途」の内容がぐちゃぐちゃに混ざっていたりします。
ですが、そういったところも含めて、とてもこのツィゴイネルワイゼンは、内田百閒らしい、探偵小説らしい作品であるように思います。元々、内田百閒は「贋作吾輩は猫である」なんていう作品を書いていたりするような人ですし、探偵小説自体も、この時代のものは、ジャンルがなんなのかよく分からない、後の時代であれば、スリップストリームと評されていたような作品が多いのも事実です。「冥途」自体もそういう小説だといえます。
そして、そのなんだかわけの分からない筋書きの中で、確かに不気味さだけは確実に伝わってくる内容になっています。レコードから聞こえてくる雑音のごとく、この映画全体には、不気味さというノイズだけはずっと響いているのです。そして、サラサーテの肉声が入ってしまったサラサーテの盤のように、ときおり、この映画にもなにかが入っていて、それが朧気にこっちに伝わってくる瞬間があります。
その感覚こそ、僕が探偵小説だと思う感覚にかぎりなく近いのです。