儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画レビュー:地球、最後の男

地球、最後の男(字幕版)

 

20年ぶりの有人宇宙飛行実験に参加したリー・ミラーは、国際宇宙ステーションの中で、今日も起きる。彼はずっと孤独に宇宙ステーションの中に滞在させられていた。たまにある、地球側との通信で、自分の兄に子どもが出来たことなどを知ったりするものの、ずっと宇宙ステーションの中にいる毎日だ。しかも、たまに宇宙ステーションの通信機に不調が見られる。――だんだんと、日を追うごとにその通信機の不調が目立っていき、地球側からの通信は徐々に様子がおかしくなっていく――

  誰もいない、なにも変わらない宇宙ステーションの中に、悲惨にも取り残されていく主人公。一体、どんな事情で自分が閉じ込められているのか。それさえもよくわからないまま、ひたすら孤独の中に追いやられていくさまは、独特の恐怖感があり、見るものをゆっくりゆっくりと映画に釘付けにしていく。

「地球、最後の男」はこんな感じの映画です。一応は。

 一応は、とエクスキューズを入れたのには少し事情があるのですが、ともかくとして、この映画は『人と人との繋がり』や、それに相対する『孤独』について、描いた映画であることは間違いないでしょう。

 孤独の中で、必死に理性を保とうと、自分の話し相手をどうにかつくろうとする主人公。だが、どんな方法を試しても孤独というものは癒えません。その中で、徐々に徐々に、正気を失っていき、主人公はだんだんと幻覚のようなものさえ見るようになってしまいます。

 この孤独感の表現は見事なもので、孤独であるということが、どれほどまでに辛いことなのかがよく実感できることでしょう。人とのコミュニケーションを渇望し、女性宇宙飛行士の写真を見て、彼女が隣にいるつもりで話しかけたりするシーンの切なさたるや、なかなかのものです。

 人とのコミュニケーションがないかぎり、人間には生きているという実感が沸きません。コミュニケーションというものが、人の生活にとっていかに重要なものであるか、如実にこの映画は語っているのです。

 そして、次第に物語は、南北戦争のころのある兵士の話とリンクしていき、そこから映画は、衝撃の展開を迎えることに――

 

 

 

 ……衝撃の…展開を…………

 

 

 

 と、書きましたが、正直言いましょう。

 終盤、この映画はかなりアレな映画になります。アレというのは、『悪い電波を受信している』という意味でのアレです。

 ハッキリ言いますが、”衝撃の展開”がかなり既視感のあるものなのです。というよりも、どう見てもこれは「2001年宇宙の旅」を、この映画の監督なりにコピーしているだけです。幸か不幸か、監督が撮影監督であったことも災いし、画面もかなりキューブリックのあの独特な画を上手いこと、自分流で表現できているのですが……上手すぎるがゆえに、キューブリックが元ネタにあることが簡単に分かってしまい、どう見ても「2001年宇宙の旅」にしか見えないのです。

 しかも、全ての表現が、「2001年宇宙の旅」よりも遥かに安直です。2001年宇宙の旅にあった、あの摩訶不思議さというか、サイケデリック感というかといった感じがなくなり、全てが単純な表現に置き換わっています。

 そして、単純な表現に置き換わったせいで、クライマックスがとんでもないことになっています。

 この映画のクライマックスの画を見たとき、あなたはきっとあんぐりと口を開け、「これ、おバカ映画だったのか!」と叫ぶことでしょう。それくらいのトンデモ展開が待っています。しかも、描き方からして、おそらく作り手は極めて真面目です。本気でこれがいいと思って、全力でこれを撮ってしまったのです。その事実がなお、このクライマックス……もう、なんとも言えない……いや、笑ってなにも言えない……。

 ここまで全力で作り手が、天然ボケを炸裂させている映画も珍しいです。

 貶しているように感じるかもしれませんが、本気で僕はとても面白いと思っています。

 ここまで笑える映画もそうないからです。

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