映画感想:神々のたそがれ
恒例の手短な感想から
とてつもない、超大作!見る前に、相当な覚悟を決めてください!
といったところでしょうか。
とてつもない作品です。この映画は、それしか言い様がない映画だと言えます。構想35年、上映時間3時間という、間違いなく近年でも相当なレベルの超大作である本作なのですが、その掛かった構想の年月、上映されている時間の長さに見合った、とてつもなく巨大なスケールの映画となっています。
いえ、巨大なスケールというのは、正確な表現ではありません。なぜなら、本編の話自体は、ある地球ではない惑星の、ある国に君臨している、一人の男をドキュメンタリータッチで追っていっているだけの映画だからです。なので、スケールとしてはあくまでこの映画は、一人の男についての映画になります。
ただ、その男の背負っているもの、その男の置かれている環境、そういった一人の男の背景にあるものがあまりにも巨大すぎるために、鑑賞後、印象としてはとてつもないスケールの映画という印象を覚えるはずなのです。
とにかく、よくまあ、これだけの巨大な世界を構築できたものだなと感心するしかない映画なのです。少なくとも、画面を見るかぎり、確かに地球によく似ているけれども、だいぶ発達が遅れている別の文明が存在しているようにしか思えないのです。これはもちろん、ドキュメンタリー的な形式であることも強く作用しているのでしょう。
ただ、それだけでは無いようにも思います。この映画の舞台は「地球よりもだいぶ文明が遅れており、なおかつ知識人が迫害され、知能的に劣っている人たちが大量に存在しているため、だいぶ荒廃してしまった世界」という設定なのですが、この設定が随所で、非常によく生かされているのです。
たとえば、この映画では、ことあるごとに、登場人物たちが自分の武器を自慢気に、カメラに向かって見せびらかすせいで、画面が非常に見づらいものとなっています。このもどかしい感じが「画面の向こうには、自分たちのような常識がない世界が広がっているのだ」ということを実感させてくれるのです。作品の設定を、この上なく実感させてくれる演出としてキチンと機能させているのです。
だからこそ、この映画の画面には、なんとも言えないリアリティーが存在しています。もちろん、アレクセイ・ゲルマンの芸術的なセンスなども注目に値するものではありますが、特に、この映画だけが突出しているのはここなのです。退廃的な芸術表現でありながら、この映画には、他の退廃的な芸術と違って、設定との呼応によって異様なほどのリアリティが生まれているのです。
この映画では、明確にわざと「思うようにカメラが、きちんと観客が見たい対象物を映さない」ように作られています。とにかく、見ている間は苛々して仕方ない人もいることでしょう。ほとんどの場面で、カメラには余計なものが映っていたり、余計な場所を映してしまっています。この、もどかしさが、この映画に雑然とした印象を与えています。
この雑然さも結構重要です。なぜなら、この惑星は、雑然としているはずの惑星ですから。また、カメラがずっと追っている一人の男「ドン・ルマータ」の心自体も、きわめて雑然としています。はっきり言って、この男、一体なにを考えているのかさっぱり分からないはずです。それも、感情がないように見えるためではなく、むしろ、あまりにも、同時にいろいろな感情が湧きすぎているために、なにを考えているのかよく分からない人物像になっています。
この映画の雑然さは、惑星の様子と、男の心の内、その二つのどちらも、同時に体感させるものとして機能しています。観客は映画を見ている間、この惑星の異様な雰囲気と、ルマータの気持ちを常に味あわされているといって過言ではないです。
ドン・ルマータは、作中、何度か「神様はつらい」と吐露します。そのつらさは、絶望によって構築されていました。おそらく(というよりも確実に)ドン・ルマータはあの作品世界においても、かなり上位の知識人です。なぜなら、彼は元々地球の学者ですから。そんな彼は、文明が破壊された世界の中で、どうにか、「自分と同じくらいの知識人を求めて」いました。
そのために、知識のありそうな人たちをどうにかして生かそうとしていました。しかし、あの世界の知識人は、言っても、ドン・ルマータからすれば、全然知識人でもなんでもないのです。だいたいにして、思慮が浅いのです。ゆえに、彼はとてつもなく絶望しているのです。
所詮、こんなものなのか、と。
そして、描写からして、彼の絶望は、あの惑星に対する単なる絶望でもないのです。生物に対する絶望にも繋がっているのです。所詮、自分たちも生物。つまりは、自分たちもこんなものなのか、と、ルマータは絶望しています。
ついでに言えば、それは映画を見た後で呆然とした観客も抱いた感情なのです。