映画レビュー:肉体の悪魔
詩の授業中、教室の外で突然と変な女が屋根の上で叫び出す。なにを言っているのかさえよく分からない言葉を、笑いながら叫び出す彼女に、みんなは深刻な顔で見つめる。どうやら、彼女は自殺しようとしているらしい。そんな彼女をカトリックの神父が、自殺はいけないと必死で説得をする。しかし、彼女は神父の言葉を拒む様子で、言葉を叫んでいる。
あまりのうるささに、その建物で住んでいたジュリアは、目を覚まし、神父の説得する様子等を眺める。すると、自殺しようとしている女が、ハッキリとジュリアを見つめ返すのだ。ジュリアと女は、なにも言わずにじっと見つめ合う。二人とも、何かが通じたように涙を流した。そして、女はジュリアに向かってなにかを何度も語りかけると、女は正気に戻り、「助けてくれ」と周囲に懇願したのだ。
詩の授業を受けていた生徒の一人アンドレアは、ジュリアの不思議な存在に惹かれ、授業を抜け出し、ジュリアを追いかけていく。
この映画のヒントは、見た人ならば誰もが分かることだと思いますが、冒頭に隠れています。冒頭の詩です。この詩は、劇中で解説が合ったとおりに、死者を拒絶せず、むしろ様々なものを教えてくれる存在として、丁重に扱っています。
ある種、死を特殊視した詩であると言えます。そして、それはこの映画も同じなのです。この映画は、死に近づくことで見える何かがあるという考え方が強く根底に存在した映画です。
この文章を読んだだけでお分かりかと思いますが、この映画、原作である、ラディケの「肉体の悪魔」とは、正直、関係があまりありません。本当に”外殻だけを”原作から取っただけであり、この映画自体は、原作とは大きく違ったものになっています。原作はどちらかというと、男性が女性に対して抱く愛の身勝手さのようなものをテーマにしていたのですが、この映画ではそれはほとんど描かれません。
そして、代わりに強く強調されているのは、強い死への願望というテーマになっています。なぜ、死をそこまで絶対視するのか。この答えは単純で、死は生の全てを支配している概念だからです。だからこそ、冒頭、自殺しようとする女性の場面から始まり、もっとも死に近い存在であるジュリアがそれを、何も言わずに説得できてしまうのです。自殺しようとした女性が見切った「真実」をジュリアは、理解していたためでしょう。ある種、ジュリア自体が、死そのものの象徴なのです。事実、ジュリアは、劇中、目を開けたまま、瞬きもせず、じっと横たわったりします。まるで死体のように。
だからこそ、アンドレアは彼女にどんどんと惹かれていってしまうのです。少なくとも、人間という生物に限っては死は絶対です。ある種、”神のようなもの”と言ってもいいくらいの絶対的な概念です。そして、人間はその絶対である死を認識しています。
であるためか、死は人間にとって、妙な魅力を兼ね備えています。人が死ぬ瞬間、あるいは、自分が死にそうになった瞬間、人間はとてつもなく興奮を覚えますし、高揚感を感じて、あまつさえ喜ぶことさえあります。”不謹慎なこと”であるため、表面上はそれに大きな嘘をついていますが、事実上は死ぬこと自体には巨大な恐怖を感じつつも、死に接近すること自体には、大きな快感を感じていたりするものです。
例えば、ネットで、人が死ぬ動画をどうしても見に行きたくなってしまうことがあるように。
そこをある種、寓話的な、象徴的な、抽象的な話の中で描いていったのが本作といえるでしょう。
日本でも、こういう物語を特に作家性としてたくさん書いていた作家は、何人か存在していましたし、存在していますが、中でも、有名な作家が一人います。石原慎太郎です。この映画、実は、なにに近いかというと、彼の小説に近いのです。事実、裁判で、人を裁いている横で、被告人たちがセックスを始めてしまうシーンなどは、彼の小説に出てくるアンモラルな雰囲気に近いものがあります。
なので、決して日本人に理解できない物語というわけではないはずです。むしろ、生死に対する特別な宗教観がない日本ほど、ここに共感しやすい民族はいないかもしれません。
死は絶対的であるために嘘を暴いてしまうのです。人間が作りあげた規律やらと対比され、それを壊してしまう面があります。体裁を全て剥がして、本質をまざまざと浮かび上がらせてしまうのです。だからこそ、異様に惹かれてしまう、この映画はそういう映画なのではないでしょうか。