映画感想:マジカル・ガール
恒例の手短な感想から
奇抜そうな見た目をしている普通の映画。
といったところでしょうか。
マジカル・ガール。某評論家の「魔法少女もののアニメが、映画の要素として出てくる」「長山洋子の歌が主題歌」「最終的に江戸川乱歩の『黒蜥蜴』がテーマに絡んでくる」というレビューの鳴り物入りで、公開を待たれていた本作。当然、自分も気になるということで見に行きました。
が、とても残念なお知らせになりますが、正直、本作「マジカル・ガール」は言うほどの出来の映画ではありませんでした。悪いわけでもないのです。かと言って、特段良いわけでもないです。
この映画、とても、とても、普通の出来なのです。
確かに多少、群像劇的な構成を取っていて、話の展開はそれなりに意外性もあります。が、この映画で特筆すべきポイントはそれだけです。それ以外は、ほぼ映画のセオリー通りに作られていて「あぁ、こんな映画、幾つも見たことあるよ。うん。見たことある。ヨーロッパとか、南米とか、こういう映画多いよね」としか、言いようがない出来なのです。
しかし、世間的には評価されている映画です。斬新なものだと思われているフシがあります。そう思われている理由には、おそらく、日本文化というものが絡んでくるのでしょう。
この映画は一応、前述したように「魔法少女もののアニメが、映画の要素として出てくる」「長山洋子の歌が主題歌」「最終的に江戸川乱歩の『黒蜥蜴』がテーマに絡んでくる」という部分を売りにしていますから、ここが世間の評価を上げているのではないかなと。
しかし、ハッキリ断言しますが、この映画の売りである「魔法少女」「長山洋子」「黒蜥蜴」は、ただ出してあるだけで、実は本編との関連性はあまりないです。
特に「黒蜥蜴」に関しては……本編であれだけエンドロールで流れるほどに、大きく引用しているというのに、実は、そんなに本編と関係がないのです。一見、関係ありそうに見えるんですが、ちゃんと考えると、関係がないことに気付きます。
おそらく、この映画を鑑賞したほとんどの人が、引用されている感じからして「江戸川乱歩の小説に出てくる女怪盗・黒蜥蜴の気持ちとリンクするようなことが、この映画でも描かれているに違いない」と考えたのではないでしょうか。これがまったく違うのです。
江戸川乱歩の『黒蜥蜴』は、明智小五郎探偵シリーズの一作で、まだ素人時代の探偵・明智小五郎が、女大怪盗・黒蜥蜴と対決するという内容です。この小説には、好敵手として対決していくうちに、明智と黒蜥蜴の間に、淡い感情が生まれていくという描写があり、この部分を強調し、報われない恋というデカダンスな部分を前面に押し出して、三島由紀夫が恐怖恋愛劇として戯曲化したこともありました。
それが戯曲版『黒蜥蜴』――その戯曲が深作欣二の手によって映画化されたとき、主題歌として、美輪明宏が歌ったのが『黒蜥蜴の唄』なのですが。*1
……どうですか、この説明を受けた上で、本編を思い返してみてください。
関係あると思いますか?
このように、実は引用されている黒蜥蜴に、大した意味が無いんです。この映画。
『黒蜥蜴の唄』の歌詞の内容とも、大して関係ないです。
『黒蜥蜴の唄』とは、端的に言って、明智に惚れそうになっている黒蜥蜴の心情を表した唄です。
「明智のことが好きなんだけれども、それを表明したら、大怪盗・黒蜥蜴という”自分”が廃ってしまう。そんなことになるくらいならば、死を選ぶ。愛から逃げるために」という唄です。
やはり、あんまり関係はないでしょう。一見、歌詞を見ると関係ありそうにも見えるんですが、よくよく考えると関係がないのです。
では、なぜ、わざわざ黒蜥蜴が引用されているのか――なんでもこの「マジカル・ガール」の監督、新宿のゴールデン街とかで飲んでいるような人であるらしいです。ここに関係があると思います。
実はこの江戸川乱歩の『黒蜥蜴』(理由は、自分にはさっぱり分からないのですが)日本のサブカル方面の人たちにやたら引用されている小説なんです。*2人間椅子なんて、ロックバンドがありますが、この人間椅子という単語も実は、江戸川乱歩の『黒蜥蜴』が元ネタです。
そんな感じで、やったらに『黒蜥蜴』は大した意味もなく、サブカルに引用されがちなネタでして……と来ると、この映画で引用されている理由も察しがつくのではないでしょうか。
つまり、端的に言って、サブカルの衒学的な趣味で引用されているだけ、ということです。衒学的な趣味――ようするに”ひけらかし”です。「俺、こんなマニアックなこともちゃんと知っているんだぜ」というアピールのためだけに引用されているのではないでしょうか。
実は、そう考えると、この映画のいろんなおかしな部分にも、しっくり来るものがあります。わざわざ、魔法少女の話を持ってきたのも、長山洋子を使ったのも、ようするに、監督自身がサブカルな人で「俺、マニアックなこと知ってるんだぜ自慢」をしたかったから。
この映画は、そういう監督の自慢話を、本編の筋書きに合わせながら延々と聞かされるだけの映画。
例えば、サブカルな人と、呑みに行ったとき、彼らは大抵、和気藹々と喋りながら、自分の知識を端から端まで披露してきますよね。あんまり押し付けがましいとウザがられるので、会話の中で、さり気なく、さり気なく、そういうことを披露してくる――そんなことが、彼らと呑んでいるとよく起こります。
アレです。この映画の本質は、アレなのです。