映画感想:虐殺器官
恒例の手短な感想から
原作ファンは見ても良いんじゃないかな
といったところでしょうか。
まず、断っておきたいのですが、上記のように「原作ファンは見ても良い」と書きましたが、自分自身は伊藤計劃のファンでもなければ、「虐殺器官」自体も他の人のように崇め奉るような人でもありません。
そういう人の感想ですので、伊藤計劃以後のSFがどうたらこうたらとか、そういう愚にもつかないようなことを、ネットの片隅に書き込んでいるような人たちは、この記事を読まないほうが良いです。信者の人たちが思うような褒め方や貶し方はしないからです。
ただ、そんな自分からしても、本作の「虐殺器官」はそれなりにしっかりしてると感じました。少なくとも、以前、このブログで記事を書いた、「ハーモニー」よりかは遥かにマシです。やたら説明的なセリフが映画の半分を占めるようなこともありませんでしたし、ゼロ年代半ばによくあったリアル志向のアニメ絵も、本編の内容と違和感なく溶け込んでいました。
少し、原作からすると、なんというか、テーマの説明がしつこいような気もしますが。まあ、難しいテーマですし、仕方ないような気もします。
元々、監督の村瀬修功氏自体が、「レゾンデートルがどうだの」「うんたら計画がどうだの」という話から、最終的に漫画版ナウシカみたいな展開になる、エルゴプラクシーというSFアニメを監督するような人ですし、もっと難解にすることも出来たとは思いますが、現状でも及第点ではあるでしょう。
なので、原作ファンは、とりあえず本作を一見していいのではないでしょうか。
ただ……うーん。やはり、原作をそんなにものすごく好きというわけでもない人間から言わせると、映像化したおかげで余計に「やはりこの物語には無理があるよなー」という確信が増してしまったのも事実です。
まず、一つとして、原作を読んだときにも強く感じていたのですが――そして、ハーモニーにも似たような印象を持っているのですが――この物語はなんだかんだ言って珍説披露ショーなんですよね。そして、珍説を結構、安直に会話で説明してしまうので「こんな仮説があるのよ」「そーんな馬ー鹿ーなー」というやり取りが繰り返されたりするところも、如何ともしがたいです。
文字だから許されるだけで、映像として考えると絵面が信じられないほどショボいのです。事実、今回の映画も、前半は結構絵面がショボいです。
なにより、SF畑の人たちがこぞって絶賛する、本作のテーマなのですが……うーん。
個人的には原作を読んだ時点で「世界の真実を暴いた!」とか「我々に新しいビジョンを見せてくれた!」とは、あまり思えませんでした。……これを言うと、色んな人に石を投げられそうですが、伊藤計劃の世界観ってどことなく「純粋で幼い」気がするんですよね。
例えば、ハーモニーの話になりますが、あれって「意識がどうだのこうだの」という話で、いかにも崇高なテーマであるかのように偽装していますが、実質は「”本当の自分”探し」をしているだけの内容ではないでしょうか。
自分という存在にとって、本当の自分であると言い切れるのは、自分が自分だと認識できている、この”意識”だけです。つまり、それを求めようとしただけの――本当の自分を探したかっただけの物語であり、そういう「純粋で幼い世界観」が生み出した物語ではないかと。
同じように、虐殺器官の世界観も「純粋で幼い」ように思います。まず、主役の登場人物たちが、みんな純粋で実直です。虐殺だの、暗殺だの、内戦だのと汚い話をしていますが、それは議題としてそういう問題を扱っているに過ぎず、考え方や思想は常に純粋です。混じり気もなく、素直な人間ばかりが出てくるのです。
なにより、オチ自体も……とても純粋でしょう?
「平和な世界に、一つでも暗い影を落としたくない」という願いは、とても純粋な考えではないでしょうか。そして幼稚です。なぜなら、「暗い影とも上手く付き合っていく」のが大人だからです。それを毛嫌いするだけでは子どもの態度としか言いようがありません。
しかし、登場人物たちは、その可能性を考えることすらしません。むしろ、そんな世界が許せなくなって「逆襲」してしまう始末。とても幼い考え方でしょう。
虐殺器官は図らずも「大人になることを拒絶した子ども」の物語になっているのではないでしょうか。
そして、本作でもそれは現れています。映画の最後で、二人の男は、ある願いを叶えることだけを目指そうとします。彼らはなんの迷いもなく、躊躇いもなく、純粋な気持ちのみに突き動かされていました。
だからこそ、自分にはどうしても、この物語はどこか浮世離れしているように見えるのです。