雑記:最近の政治情勢で評価が変わった映画2
少し前に自分はこんな記事を書いたことがありました。
まあ、ようするに「自分の心理状態の変化とか、政治思想の変化とか、周りの状況の変化とかはともかくとして、”事実がハッキリした”ことで評価を変えなきゃいけない映画ってあるよね」という話をしているだけの記事なのですが……。
自分は最近、また、そういう文脈で評価を変えなければいけない映画があることに気づいてしまいました。
というわけで、今回はこの記事の第二弾となります。
さて、今回、評価を変えなければいけない映画とは、コチラになります。
パディントン
もともと、この映画はかなり嫌いで、原作のパディントンの雰囲気をぶち壊す銃撃アクションやら、支離滅裂で唐突すぎるキスシーンやら、この映画が世の中ではそれなりに評価されているのが信じられなくなるほどに酷い出来の映画なのですが……。
最近、自分はこの映画の評価を更に下げるべきではないのか、と感じているのです。
この映画には、感想記事を書いたときから「個人的にはおかしい気がするけど、自分の思い込みかもしれないからなぁ……」と、わざと見逃して減点評価に加えなかったポイントがありました。
それはパディントンの最後の締めです。
この映画、パディントンが最後、どんなことを言って締めるのか知っていますか?
「僕はロンドンが大好きだ。ロンドンの人たちは親切だ。ロンドンは親切な暖かい街だ」
実はパディントンは、そんな趣旨のことを言ってこの映画を締めるのです。ロンドンが暖かい街……この表現に、僕はとてつもなく大きな違和感を感じました。
当然の話です。少しでも、マトモにロンドンが舞台の作品を鑑賞したことがある人ならば、ロンドンと言えば「霧の煙る中、切り裂きジャックが暗躍する、心理も物理も冷たい街」というのが、普通のイメージだからです。
さらに言えば、パディントン公開当時から、イギリスが経済的に相当ヤバい状況であるらしい*1ことは、海を超えて伝わってきていましたから、なおのこと、暖かい街という表現に「本当にそうなのか……?」と疑問を感じられずには居られなかったのです。
そして、僕のこの違和感は違和感でも何でもなく、ただの事実であったことを今は痛感しています。真実として存在していたロンドンの姿は、やはり、僕が考えたとおりの冷たい街でした。
この映画、見てきました。
やはり、イギリスは経済的にかなりの難所を迎えているようです。政府や銀行が貸し出しの緩和や、お金の発行や、お金のバラマキや、事業の支援などを行わず、税制などを厳しくする"緊縮財政"によって、弱者は切り捨てられていく現実が存在しているようです。
ケン・ローチ監督の「わたしは、ダニエル・ブレイク」自体は、ニューカスルが舞台ですが、登場人物の中には、ロンドンで暮らせなくなって仕方なく、ニューカスルにやってきた親子も登場しています。つまり、ロンドンも、そういう点ではニューカスルと変わらないのです。
であるならば、パディントンの評価は下げるしかありません。
「ロンドンは暖かい街だ」――そんな大嘘をパディントンに言わせるなんて行為として醜すぎるでしょう。ちょっと前から、日本の「日本は凄い」系の番組が気持ち悪いと批判する人は多いですが、僕から言わせれば、パディントンの「ロンドンは暖かい街だ」はそれ以上に気持ちが悪いです。
しかも、そんな映画が平然と評価されてしまっている現状を鑑みると、禍根が深すぎると言わざるをえません。現実として、弱者を切り捨てるような、心底から酷い社会システムを構築し、それに加担する傍らで、映画上だけは「自分たちは優しくて、素晴らしい」と架空のキャラクターに褒めそやさせてご満悦とは、なんて酷い構図でしょうか。
だからこそ、自分はパディントンの評価を下げざるをえないのです。
ハッキリ言います。
パディントンは、クソ映画だ。