映画感想:ブレードランナー 2049
恒例の手短な感想から
エンキ・ビラルでやれ!
といったところでしょうか。
ブレードランナーといえば、サイバーパンク映画の金字塔です。リドリー・スコットによって作られたこの映画は、言ってしまえば「サイバーパンク」というジャンルを世の中に知らしめた映画と言えます。
東洋系の文化を積極的に取り入れ、既存のSFテイストと混合し、ある種の芸術にまで昇華させた斬新すぎる街の様相、細かい部分まで徹底して全体の雰囲気を損なわないように気を配った小道具、背景美術の数々、ハードボイルドとSFをかけ合わせたような話の筋書き、あえて濃い霧の中にライトを当て、ぼんやりとした光の筋して見せるというライティング手法。
書ききれないほど、この映画で出てきた数々の視覚的な効果や美術は「サイバーパンクとは、こういうものなのか!」と世界中に衝撃を与えました。その後、ブレードランナーのアレコレを真似する映画が多発し、多発し、未だに多発し続けていることからも、その衝撃がどれほどのものだったのかは想像に容易いと思います。
そんなブレードランナーの続編が出るーーこの話は、かなり前から映画ファンたちを賑わせていた話題だったのですが、これが待ちに待って、ついに公開されました。
ということで、自分も映画館に足を運んでみました。
……「見なければよかった」と激しく後悔しましたが。
本作が「ブレードランナー」というタイトルを冠している意味がさっぱり分かりませんでした。もうそこから決定的にダメだったと思っています。正直に言ってしまって、こういうおゲージツ映画がやりたいならば、別にブレードランナーじゃなくて良かったんじゃないでしょうか。
本作「ブレードランナー 2049」は、日本では今年公開された映画「メッセージ」のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督なわけですが……自分からしてみれば、監督の時点でお察しだったのは否めないと思います。「メッセージ」も、原作の良さなどを殺し、そこらへんの訳知り顔な評論家をドヤ顔で「こんな考察できる、俺って頭いいんだぜ?」と自慢させるためにあるような映画でしたから。*1
実際、自分はそこまで期待をして観に行ったわけではありませんでした。
ただ、自分の期待してない度合いから底を抜けてしまうほど、本作はつまらなかったのです。この映画は低い期待を下回ってきたのです。「そこまで下に抜けるか」と思うほどに。
まず、「メッセージ」のときも思いましたけど、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の「俺って頭いいんだぜ?」と言いたげな演出方向、演技の付け方の方向はことごとく、鼻につきます。特に、酷いのは本作で終始出てくる、敵ボスの言動です。
なにかといえば、詩的な表現で喋るレプリカントとして描かれているのですが、これがなんとも、ただ、ただ、うざったいだけで面白くもなんともありません。言っている内容も、言うほど高尚なことを言っておらず、正直、そこらへんの電波ゆんゆんが喋ってる妄言と大差がありません。
そして、なにかといえば、妙にゆったりとしたカメラワークが、映画全体のテンポを恐ろしいほど鈍重に感じさせており、特に映画の前半は、観客は睡魔との格闘を強いられることになります。
前半は話自体にも、大した起伏がなく観客からしてみれば「最初から予想ついてたわ、それ!」と言いたくなるような、分かりきった話を延々と無駄に引っ張って作られているので、フラストレーションの溜まり方も半端ではないわけです。下手すれば登場人物たちが馬鹿に見えかねないレベルで分かりきった話しかしないのです。
また、ブレードランナーの売りであるサイバーパンク的なビジュアルも、本作では、かなり後半になって発揮されます。前半はスターウォーズみたいな、ボロっちい小屋などが主体であるため、サイバーパンクを見ているという感触にも乏しいです。
ついでに言えば、後半になって出てくるサイバーパンク的なビジュアルも、また、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の本来の資質に近いと思われる、少しファンタジーを感じさせる巨大な像のビジュアルにしても、そうなのですが、全て既視感が半端ではないのです。
どっかのゲームやアニメや漫画で見たことあるようなものしか出てきません。
辛うじて、主人公とヒロイン(と思しき存在)のセックスシーンや、デッカードと主人公の戦闘シーンなどの演出は既視感がなく、面白かったのですが、本当にそこくらいしか価値を見いだせるシーンがないほどに、なんとも、陳腐なイメージに終始しています。
なにより、問題なのが本作の「話の筋書き」のお粗末さです。
逐一、思わせぶりで、象徴的な話にしようとするあまり、表層的な話の筋書きが、とてつもなくおかしなことになっています。ツッコミどころだらけなのです。
「なんで、あいつに、あの記憶があったという謎を『みんなそうなのよ』とか精神的な話で誤魔化して済ませているんだよ!」とか「結局、最後に出てきたあいつらなんだったんだよ。映画のプロット上、欠片も意味が無いだろ!」とか「そもそも、あいつらはなにがしたかったんだよ!革命起こして、なにをどうする気なんだよ!」とか「しかも、別に何一つ物事が解決してないだろ、このオチ。どこが大義だよ!」とか、キリがないほど疑問点しか出てこないのです。
そして、なによりも決定的なのが「こういう象徴的な話を、ブレードランナーでやる意味ってなに?」ということです。
ブレードランナーは、そもそも、公開当時からすればB級映画です。事実、内容としてもB級なテイストを孕んでいることは否定できません。殺しの警官「デッカード」がハードボイルドに、標的のレプリカントたちを容赦なく、一体ずつ殺害していく映画なのですから。
そのB級で、分かりやすくエンターテイメントなあらすじに、単なるエンタメで終わらない人生観や、「ないはずの、嘘かもしれない感情を持ってしまった、人造人間のレプリカントたち」という複雑なテーマや、芸術性を入れているのが「ブレードランナー」であるはずです。
こういうただ単に象徴的な話がやりたいのならば、ブレードランナーの、美術等の元ネタと言われている、エンキ・ビラルのバンドデシネ「ニコポル三部作」でやればいいでしょう。あちらは、結構象徴的な話が多いわけですし。
実際、本作は、全体的にもブレードランナーの続編というよりは、エンキ・ビラルの雰囲気にかなり近いです。背景的に宗教的なものを匂わせている美術などはモロにエンキ・ビラルと言っていいでしょう。
エンキ・ビラルでじゅうぶんです。
*1:詳しくは本ブログの「メッセージ」感想記事をお読みください。