映画感想:ペンギン・ハイウェイ
恒例の手短な感想から
まあ……どうでもいいよね
といったところでしょうか。
若干、巷で炎上気味な騒ぎが起きていた本作。別に自分としてはコロリドというアニメーション会社にも、もっと言えば、原作の「ペンギンハイウェイ」自体にも、大きな感心はなかったのですが、火事場の野次馬的な魂胆で見てきました。
感想としては上記の通り「まあ……その、そこそこ?」という感じの感想になっております。
なぜ自分がここまで、歯切れの悪いような感想を抱いているのかというと、端的に言って「出来自体が微妙だったから」に他なりません。別に巷で一部の人が騒ぐような問題点など、この映画には存在していませんし、かといって、貶すのもかわいそうだと言って擁護したくなるほど立派な作品でもありません。
強いて言うならば、コロリドは頑張ってアニメーションを作っていたとは思いますが、それ以上の感想は特に出てこないのです。
本作、ペンギンハイウェイはーー原作の時点でそうなのですが、そこそこ、ある種類の純文学的な要素を兼ね備えた作品です。
ある種類、と勿体ぶって書いていますが、これはようするに「村上春樹的な純文学」のことです。「夜は短し、歩けよ乙女」などの著作で知られる森見登美彦が、なにを思ったのか、村上春樹的な小説を書こうとして、書いた小説ーーそれが本作なのです。
この作品は、実は全てがそれで説明がつく作品です。
例えば、本作を巡って「幾原邦彦監督的な空気感を感じる」とか、そういった感想なども目にしますが、それは幾原邦彦監督の芸術性は、ほぼ村上春樹から影響を受けて出来たものだからです。元が同じなので、派生した本作と幾原作品が似ているように見えるのは当然なのです。
また、本作を巡っては、性的な要素が目につくような感想も一部囁かれていますが、それは「ノルウェイの森」などの村上春樹作品で見られた「性的なメタファー」あるいは直接的に描かれている性的モチーフを、森見流に真似しているだけに過ぎません。
本作とは、「自分がなぜおっぱいをずっと見てしまうのか、理解できなかった(つまり、性に目覚めていなかった)少年」が、「好きだから、おっぱいを見てしまうんだと理解し(つまり、自分の性に目覚めて)思春期を迎えようとしている」という、ただそれだけの話に過ぎません。
それらを、いかにも村上春樹的な隠喩としての動物やファンタジー描写を使い、七面倒臭く、回りくどく描いている作品が本作なのです。
そして、同時にこれが本作の問題点でもあります。村上春樹的な文学を森見登美彦が書いていること自体に、何らかの意味や新しい価値がないのです。
村上春樹的な「性、異性との触れ合い」を、村上春樹的な隠喩めいた動物やら、ファンタジー的描写に託し、物語全体を作り上げることで、物語全体に何らかの意味を施すという手法を森見登美彦が行ったところで「だから、なんだ。何が言いたいんだ。なにを見せたいんだ」としか言いようがありません。
ただでさえ、村上春樹本人の小説であっても、上記の手法は食傷気味で、作品を出せば出すほど、「ファンでさえ、呆れて離れていっている」始末だというのに。
そんなわけで、本作、ペンギンハイウェイはそもそも原作の時点で、相当に「どうでもいい作品」だったのです。そんな話を、かなり忠実にアニメ化してしまったせいで、どうでもいい作品がどうでもいい内容のまま出来上がってしまっています。
そこまでの作品なのです。