映画感想:寝ても覚めても
恒例の手短な感想から
まさか、ここまで見事に映像化するとは
といったところでしょうか。
本作の感想を書くにあたっては、まず何よりも、柴崎友香という作家について語らなければなりません。大抵の映画ファンは彼女のことを知らないだろうと思うからです。柴崎友香は文学畑の人間には、なかなか有名な純文学作家です。
数年前に芥川賞を受賞し、その、日常を的確に捉えた表現力や、またそんな表現力の上で生み出される独特の作風が印象的な作家であり、日常的な場面とその「日常的な場面」に内包された複雑なテーマを描き出す、その内容は「高度に発達した日常系」とでも言うべきでしょう。
自分などの浅い本読みなどは、"現実に、あり得たかもしれない可能性"の姿を描き出していく「わたしがいなかった街で」などに大変に関心したりする作家さんなのですがーーその小説家の小説が、まさか映画化されているなんて、と本作に対しては驚きしかないです。
「寝ても覚めても」
本作は、なんと「万引き家族」のパルムドール受賞で賑わった、今年のカンヌ映画祭でーー「万引き家族」の影に隠れて、実は好評を得ていた作品です。実際、受賞にこそ至らなかったものの、既に多くの国での配給が決まっているらしく、いかに本作が評価を受けていたかが想像に容易いと思います。
事実として、本作は極めて面白い映画です。原作である柴崎友香の「寝ても覚めても」に遜色ない、見事な作品となっています。
セリフを排し、人の仕草や行動や視線や、はたまたカメラワークなどの細かい妙技で演出された本作は、繊細な登場人物たちの心の機微を十二分に描き出すことに成功しています。早い話が本作「言葉がなくても、分かる」映画なのです。
その上、原作の、緻密でどこか美しい日常描写を、まったく原作通りに描き出している時点で、既に自分からすれば「素晴らしい」としか言いようがないでしょう。原作の日常描写は、とてつもなく映像化が難しいものだからです。
原作は文章のマジックによって魅力的に描かれているだけで、映像にするとだいぶ、シンプルというか、言ってしまえばショボい光景であったりすることもままあるからです。
また、本作はテーマ的な意味でも、極めて映像化が難しい作品でした。前述で、自分は、原作者である柴崎友香のことを「"現実に、あり得たかもしれない可能性"の姿を描き出していく「わたしがいなかった街で」などに大変に関心したりする作家さん」と書きました。
実は、これ、本作「寝ても覚めても」もまたそうなのです。
本作を鑑賞された方は、主人公のふわふわとした存在感に違和感を覚えた方も多いのではないでしょうか。これは意図的に演出として、このような存在感になっているのです。
ふわふわとした、何処と無く不安定な存在として主人公を描くことで、「主人公の未来や将来がまだハッキリと定まっていない感じ」を醸し出すためです。そうして、主人公の「あり得たかもしれない、もう一つの自分」と「現在の自分」の2つの間で揺れ動く姿を描き出すためです。
「え? そんな場面が、この映画にあったの?」と思われた方、あったじゃないですか。
同じ顔で、性格が正反対の二人の男が、同じ場面に居合わせる場面が。
本作の主題である、同じ顔をした二人の恋人という設定ーーそれはこの物語が単純な恋愛ドラマではないことをよく示しています。わざわざ同じ顔にしているのは、おそらく、本作の二人の恋人は、主人公のあり得る未来の姿、それぞれを表しているからでしょう。
主人公は二人の恋人のうち、どちらを選ぶかによって、その未来が大きく変わってしまうことは明白です。つまり、あの二人はある意味で「主人公のあり得る未来の姿そのもの」であったわけです。
その二人が同じ顔をしているーーこれは、喩えるなら量子力学の逸話であるシュレディンガーの猫のように「2つの未来が、同時に存在しており、重ね合った状態になっている」ことを暗に示しているのでしょう。
この映画のクライマックスは、まさにその「2つの未来が、同時に存在する状態」であり、そして、ふわふわとしている主人公は、その中でどちらの未来を選び、また、なぜその未来を選ぼうと決めたのかーー実は本作はそういう話であるのです。
これを、この映画は描くことが出来ています。
実際、二人の男が同じ画面内で出てきた瞬間の「ただの恋愛ドラマとは違う、異常なことが起きている」と観客に感じさせる描写の見事さは、語りつくせません。この場面で二人の男を演じ分けた東出昌大も、相当に素晴らしいです。
ここまでの映像作品として、映像化を出来てしまったことは驚嘆の一言に尽きるでしょう。