映画感想:永遠に僕のもの
【予告編#1】永遠に僕のもの (2018) - ロレンソ・フェロ,チノ・ダリン,メルセデス・モラーン 原題:EL ANGEL
恒例の手短な感想から
もはや、気狂いピエロを超えている
といったところでしょうか。
SNSに流れていた本作の予告編を見て「あれ、なんだかすごい映画なんじゃないか、これ」と直感的に思うところがあり、鑑賞してきました。アルゼンチン映画である本作は、アルゼンチンで実在した、シリアルキラー「カルロス・ロブレド・プッチ」をモデルにして、自由奔放に、自分の感情のままに怪物じみた少年が、次々楽しいままに、非道徳的な行為や、犯罪を犯していく姿を描いている――いわゆる犯罪映画です。
本編を鑑賞になった方も、あるいは予告編を見た方でさえ、「この映画はひょっとしてアレみたいな映画なのではないか……?」といくつかの映画や小説を思い浮かべたと思いますが、その連想はほとんど当たっていると言っていいでしょう。
本作は例えば、パトリシア・ハイスミス原作の映画「太陽がいっぱい」や石原慎太郎の小説「太陽の季節」や「完全な遊戯」など、あれらの作品に通じるテーマや描写、設定などが散りばめられており、あれらの作品が現代において復活したと言っても過言ではないでしょう。
いえ、むしろ、本作はその全てを足してしまった作品と言ってもいいです。つまり、本作は主人公が内面に抱えている「同性愛」を描いた作品でもあり、同時に、主人公がやはり内面に抱えている「衝動」を描いた作品でもあるのです。
この時点で、本作が相当に恐ろしいほどに素晴らしい映画であることは瞭然かと思いますが、実際の作品は、更にその上を行くとんでもない映画です。
はっきり言って、映画ファンならば今年、映画館で本作を絶対に見たほうが良いと思います。好みの激しい映画ではある気がするので、「合う/合わない」の差はあると思います。が、本作に関しては賛否に関わらず、みんながこう評することでしょう。
「なんだ、これは」と。
まるで、初めて、まったく知識がないときに、ジャン・リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」を見てしまったかのような衝撃を受けることだと思います。実際、自分はそれだけの衝撃を受けました。いえ、それ以上の衝撃を受けました。
この映画は、確かに上記で示した、様々な先行作品を連想させる「テーマ性」も確かに素晴らしいのです。しかし、それ以上に、この映画は、その筋書きや演出や撮り方や最後の終わらせ方に至るまでの全てが、あまりにも自由奔放で、異様な魅力を放っていることが何よりも素晴らしいのです。
主人公の、決められた道など歩みたくないとしている自由奔放さと、まるで共鳴するかのように話の筋書き自体も、自由奔放なのです。
例えば、自分は冒頭で「この映画は犯罪映画だ」と述べました。おそらく、本作を見ていない人のだいたいが、ここまで読んで「ということは、主人公がずっと犯罪を重ねていく映画なのだろう」と思ったのではないでしょうか。
それがまったく違うのです。
なんなら、映画の中盤では主人公たちはまったく犯罪をしません。主人公の相方に至っては犯罪以外の自分の道が見つかったために、「もう犯罪からは足を洗うのさ」なんて言い出したりしている始末です。そういった物語の定形や観客の思う「きっと、こういう映画だろう」という予測を、次々と裏切っていくのです。
この映画は常に「なにか良くないことが起こるんじゃないか」と不安にさせるような描写、不安を掻き立てさせられる暗示が多くあり、主人公は延々といわゆる”死亡フラグ”を踏み続けていて”常に思わせぶり”です。
しかし、観客の「きっと、このあとにこういうことが起こるんじゃないか」と「この話はこうなってしまうのではないか」という予感を、この映画は徹頭徹尾、最後の最後まで裏切り続けます。
「え、そこでそこを撮るのか」「え、そこでそんな展開になるのか」「え、そこで急にそんな音楽を流すのか」「え、そこで音楽を切るのか」――この映画を鑑賞された方は、きっと様々な場面で「えぇ?!」と困惑させられたはずです。
早い話がこの映画には「一体、この次に何が起こるのか全く分からない」という不安感が常にあるのです。
そして、その何が起こるか分からない不安の中で、超然的に存在している主人公の「圧倒的な安定感」にとにかく魅了されてしまうのです。
本当に、ここまで「自分が、なぜこれほどに鑑賞した後、興奮してしまっているのか理解できない映画」は久しぶりです。
本作は人生の記憶に残る名作だと言って過言ではないでしょう。
そして、本作で流れる「The House of the Rising sun」ほどカッコいいものは、絶対にないでしょう。