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儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画感想:夜は短し歩けよ乙女


『夜は短し歩けよ乙女』 特報映像

 恒例の手短な感想から

ひょっとすると、原作を超えているかも……

 といったところでしょうか。

 

 以前から森見登美彦の代表作として、下手すると四畳半神話大系よりも更に世の中に知れ渡っていたかもしれない本作ですが、湯浅政明監督が映画化するともなれば、当然これは相当に面白い内容になっているはずだと確信していました。

 もちろん、湯浅監督といえば、アニメ版の「四畳半神話大系」を作り上げた人でもありますし、なによりも「マインド・ゲーム」という傑作アニメ映画を作った人でもあるからです。これは映画として、相当に面白い内容になるはずだろうと。

 ただ、ここまで面白い内容になることまではさすがに予測できていませんでした。

 というよりも、マインドゲームを見てからだいぶ時間が経っていたので、湯浅政明監督作品が、どういうふうに面白いのかを自分が忘れてしまっていたのかもしれません。この映画は、"アニメ映画における湯浅政明監督の面白さ"を再認識できる内容となっています。

 

 もちろん、あくまで森見登美彦の小説の映画化であり、話の大筋はほぼ小説に忠実と言っていいくらいなのですが、それでも本作の面白さは湯浅政明監督の力が大きいと思います。

 森見登美彦氏の小説は……なんというか、面白いのですけれども、同時に話がすごく軽いことが多いのです。

 もちろん、かなり独特の――大正浪漫的というか、パブリックイメージの明治を煮詰めたような――過剰に装飾された文体で構築された、摩訶不思議な(というよりもマジックリアリズム的な)小説たちは魅力もあるのです。

 が、同時に絢爛すぎる、言ってしまえば気取りすぎたキザのような装飾は、作品のテーマを酷くぼかしていて「え、結果、なにが言いたかったんだ?」「言いたいことはそれだけなのか?」と思ってしまうことがあるのも事実なのです。これが悪い方向に作用している作品もあるくらいです。

 事実、小説の「夜は短し歩けよ乙女」も、伏線などを張り巡らせた構成や、奇天烈な面白いイマジネーション、京都大学周辺という、そんなことが実際起こっているのではないかと思わせる、絶妙な舞台設定などがよく効いていると同時に、読み終わった後の「うわー、なんも得るものはなかったなぁ」感も半端ではない作品です。

 落語の小話で済むような話を、やったら長く説明されたような感慨を覚えるのも事実です。

 

 しかし、本作、映画版夜は短し歩けよ乙女」はそのような感慨はありません。むしろ、学生時代には誰もが一度は抱いたことのある「若さゆえの孤独感」のようなものが、実はこの「夜は短し歩けよ乙女」のテーマとなっていることが、よく分かるように提示されていて、見終わった後で「自分もこんなことを考えていた時代も合ったな」と懐かしめる――かつ、おそらく学生の方ならば共感できるであろう――良い物語に本作は仕上がっていました。

 前述の通り、ほとんど内容は原作に忠実になっているのです。

 多少、場面を提示する順序を変えた程度でやっていることは、間違いなく小説版夜は短し歩けよ乙女」と同じなのです。しかし、その場面に遭遇した時に覚える印象がかなり違うのです。

 特に、終盤のとあるシーンは、原作を読んだときには「酷くありふれた表現で、陳腐」「こういう、二束三文の描写で主人公を、ちょっとウジウジ悩ませて物語を解決させようとか、やっぱり森見登美彦の小説は軽いな」としか思えないのに、本作では、むしろ「ここまで強烈に陰鬱で、主人公の心の沼を底からひっくり返すような描写を、畳み掛けられると共感を覚えてしまう」「あぁ、自分もこういうこと思ってた時期合ったなぁ」と正反対の感想を抱いてしまうほどに、まったく、小説とアニメ映画で感触が違うのです。

 

 やはり、ここらへんはさすが湯浅政明監督といったところなのでしょう。本作を全体的に俯瞰した上でのテーマを見抜き、「この作品の、どこが一番表現をハジケさせるべきポイントなのか」をきっちり考えて、自らの得意とする"湯浅節"を使っているのです。

 そして、この湯浅節が、まあ本当に今まで話題になってきた湯浅政明監督の諸作品や、参加作品のアレコレを思い出してしまうような、"濃縮された湯浅節"で、だからこそ、夜は短し歩けよ乙女」のテーマもより一層に際立つというか……。

 元々、「マインド・ゲーム」などでも見て分かるように湯浅節は、奇天烈なイマジネーションの連続であると同時に、それが登場人物の心理状態を示すメタファーとしても捉えられるような描写が多いんですよね。*1

 それが濃縮している状態なので、まあ、画面の隅々まであらゆる表現が、登場人物の心をよく表しています。ここまで、本作が良い出来に仕上がっているのは、間違いなく湯浅政明監督の功績でしょう。

 そして、そんな本作は、湯浅政明監督の魅力を再認識できる、良いアニメ映画となっているのです。

*1:ここらへんは、同じ亜細亜堂出身のアニメ監督たち、本郷みつる佐藤竜雄望月智充などなども得意にしているので、ひょっとすると芝山努小林治の薫陶なのかもしれませんが

映画感想:ムーンライト


アカデミー賞候補作!『ムーンライト』本国予告編

 恒例の手短な感想から

んー、惜しい映画過ぎて、頭が痛い……。

 といった感じでしょうか。

 

 第二章まではかなり面白い映画だったと思っています。第二章までは、アカデミー賞で、ラ・ラ・ランドを抑えた上で、しかもゲイ映画で初の作品賞受賞を達成した映画に相応しく、精緻な描写が備わった立派な映画だったのです。

 人よりも小柄な黒人の男の子が、イジメを受けながらも、ギャングのリーダーや唯一の親友に支えられながら成長していくものの、状況は一向に良くならず――どころか、ヤク中の母親は症状が悪化し、学校でのイジメもより一層に過激化、しかし、そんな中で自分がゲイなのだという自覚を覚えるようになり――。

 畳み掛けるように、複雑な問題とテーマが次々とこの映画で提示されるだけでも、相当に面白いのですが、その上、この映画は全体的に「実はシュールな」「実は抽象的な」表現が合間に挟まる構成となっており、それらの描写を手伝って、物語に強く引き込まれていく内容となっています。

 特に、主人公と親友のラブシーンは美しさと、性への生々しさが同居しており、ここは冗談抜きでかなり素晴らしいです。

 その後、主人公に訪れる――ネタバレになるので表現をぼかしますが――急転直下の展開も、人生の"らしさ"と言いますか、人間関係の複雑さや様々な想いが交錯する展開となっており、主人公と親友どちらに感情移入しても、心苦しさが残るものとなっています。

 この"展開"の部分は、撮影も素晴らしかったです。あの「グルグルと周囲をカメラが回ってるかと思えば――」という、見せ方の順序立てが上手く「すごい。考えたなぁ」と感心もするのです。

 

 しかし、それでも、この映画は非常に残念なことに、最終的には「えぇぇぇ……」と困惑せざるを得ないほどに、ガッカリとした展開になってしまいます。

 具体的に言えば、第三章の「ブラック」からは、本当にこの映画はどうしようもなく薄っぺらいのです。

 例えば、あれだけの複雑な問題が絡み合って、母親の、嫉妬とヤク中と息子への愛がグッチャグチャに混じり合って、最悪の方向に進んでいたあの状態を、映画上でなにか解きほぐすような場面も与えずに、それら全てをこの映画は「時間が解決してくれましたー」で終わらせてしまうのです。

 いくらなんでも、これはないでしょう。

 もう一つ、例えば、主人公が非行に走った原因です。この原因には、映画を見た方なら誰でも分かるとおり、親友も加担しているのです。同調圧力への恐怖があったとはいえ、事実としてこの親友は主人公が、麻薬の売人になってしまう原因をつくった一人であるわけで――では、そんな親友を、主人公は「憎い!」と思うと同時に「でも、お前が好きなんだ!」という気持ちが交錯するシーンがあるかというと、これもほぼ無いのです。親友がそれを後悔することもないのです。

 ひたすら、映画の終わりまでその問題をフワーとした雰囲気で誤魔化して「観客にバレる前に逃げちゃえ!」と言わんばかりに話を強引に終わらせているだけなのです。

「一体、第一章・第二章の奥深さはどこへ行ったんだ?」と思うほどの浅さです。

 

 で、なぜ、このようなことになっているのかというと、答えは簡単で「ウォン・カーワイ」のせいです。

 第三章は見る人が見れば、すぐに分かるほどにウォン・カーワイの「ブエノス・アイレス」がオマージュされています。どうやら、監督が好きなんだそうです、ウォン・カーワイ。

 確かに、ウォン・カーワイは画面上のこだわりや美しさには定評があります。それをオマージュして真似するだけなら、全然、個人的には大丈夫だと思うのです。

 が、ウォン・カーワイはそれと同時に「とにかく話が薄っぺらい」「無神経」という巨大な欠点も抱えていまして――ようするに、ウォン・カーワイのそういう部分まで真似してしまった結果、こうなっているのです。

 いやー、本当に惜しいというかなんというか……。

 ウォン・カーワイは、画面を真似するだけなのが一番理想的なのです。本当に、あの人の話作りとかは真似しちゃいけないのです。

 

 本当に惜しい映画です。

3月に見た映画

では、3月に鑑賞した映画を上げていきます。

 

・忍者部隊月光

忍者部隊月光

忍者部隊月光

 

 ・ラ・ラ・ランド


「ラ・ラ・ランド」本予告

・劇場版 宝島

・狂気のクロニクル

狂気のクロニクル(短編「プロコウク氏 発明の巻」) [DVD]

狂気のクロニクル(短編「プロコウク氏 発明の巻」) [DVD]

 

 ・ホコリと幻想

ホコリと幻想 [DVD]

ホコリと幻想 [DVD]

 

 ・残穢

 ・モアナと伝説の海


映画『モアナと伝説の海』日本版予告編

・わたしは、ダニエル・ブレイク


『麦の穂をゆらす風』などのケン・ローチ監督作!映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』予告編

・ソーセージ・パーティー

 ・ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険


[のび太の南極カチコチ大冒険]予告編

キングコング髑髏島の巨神


ドクロ島デスマッチ開始!篇/映画『キングコング:髑髏島の巨神』15秒スポット予告5

 

ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」が、ラブクラフトの「狂気の山脈にて」をオマージュしているらしい、との話を聞いて、恥を忍んで観に行ったんですが……確かに「狂気の山脈にて」ではあるんですけど、「狂気の山脈にて」をオマージュしたからと言って映画が面白くなるわけじゃないんですよね……

 あと、宝島が最高でした。シルバーが「魅力ある悪役」として描かれていることをまったく知りませんでした。モアナと伝説の海が好きな人って、実は、出崎監督の「宝島」を観て、グッと来るんじゃないかなと思うんですが……いかがでしょうか?

 それと、ソーセージ・パーティですが……うーん。いや、内容が過激なだけで映画を評価してしまう人たち以外には、そこまで面白くない作品だと思います。

 

 映画鑑賞数は11本。執筆記事は5本。

 3月はちょっと本気を出しました(笑)

映画感想:キングコング 髑髏島の巨神

映画『キングコング:髑髏島の巨神』VR映像【HD】2017年3月25日公開

 恒例の手短な感想から

まさか、こんな出来になっているとは……。

 といったところでしょうか。

 

 まさか、こんな出来の映画になっているとは……。

 上記の予告編を見て、自分は非常に期待をしていたわけです。巨大生物が生息する幻の島「髑髏島」で、怪獣たちが大迫力の激闘を繰り広げ、その激闘にひたすら戸惑い、流されていくばかりの人間たち――もう怪獣映画のツボをここぞとまでにおさえた予告編を見て、自分は今年公開の映画の中でも、トップレベルでの過剰な期待をしていたわけです。

 ギャレス・エドワーズ版のゴジラシン・ゴジラ巨神兵東京に現わるパシフィック・リム等々――それらの特撮を見ても、どこか「僕が見たい怪獣映画はこれじゃないんだよ」というモヤモヤを、ようやく解消してくれる究極の一作が誕生したのではないか、と。

 そんな期待を寄せて、映画を見に行ったわけです。

 

 まさか……それがまさか……

 この過剰な期待を、余裕で上回るなんて……。

 

 信じられないです。本作「キングコング 髑髏島の巨神」は、間違いなく、今年の映画の中でもトップレベルに位置する大傑作です。

 基本的な話の筋書きや、テーマは単純で、ともすればテンプレ的とも言われかねないほどにベタなハリウッド映画でしかないのです。*1どれほどに単純かというと、もう最初らへんの人物の造形などから、「どいつが死んで、どいつが生き残るのか」がなんとなく分かってしまうほどに単純です。

 ベタな、いわゆる「死亡フラグ」が立っていたり、ありがちな設定が押し並べられていたり、ありがちなクライマックスがあり、怪獣の扱いもありがち――この映画は、話の筋書きだけを見ればありがちとしか言いようがないほどにありがちな出来なのです。

 しかし、それを分かっている自分さえ――いえ、それを分かっている自分だからこそ、本作は「とんでもない一作だ」と断言できます。

 

 ここまで単純な話とテーマでありながら、本作は、そんな単純な話を見たとはとても思えないような強い感慨が、胸に残るのです。

 

 これは一重に、撮影や演出の上手さに起因していることは確かでしょう。

 怪獣映画には、一つだけ、とても重要な”表現しなければならない”描写が存在しています。こう書くと、頭の痛いことに映画ファンほど「戦争批判の描写」だとか、「うんちゃらのメタファー」だとか言い出す傾向がありますが、自分が言いたいのはそういう意識高そうな話ではありません。

 もっとシンプルな話です。

 怪獣映画は、怪獣映画であるかぎり、怪獣はとてつもなく強くて、大きくて、こいつは倒せないんだ。人間にはどうしようもないんだという、荒唐無稽なまでに人間の矮小さを観客にまざまざと分からせる表現が、必要なのです。

 つまり、ただ怪獣がぎゃわーんと咆哮して、グシャングシャンと街を破壊していくのが、怪獣映画なわけではないのです。「人間と比較して、怪獣がいかに優位な存在か」「人間と比較して、怪獣はいかに巨大なのか」――これを実感させる表現が、必要なはずなのです。

 

 本作、キングコングはこの表現が完璧なのです。パシフィック・リムや、シン・ゴジラでさえ、キチンと描くことができなかった「うわ、でっけぇ!」「うわ、強すぎる!」を実感させる描写が、この上ないほどに上手いのです。

 怪獣同士が巨大なスケールで戦闘をする様子を、その足元で闘いつつ逃げつつ翻弄されていく人間の視点から描いており、だからこそ、「本当にそこに怪獣がいて、闘っているような」錯覚を覚えてしまうのです。

 

 そして、その"人間の矮小さ"が表現できているからこそ、本作がどれほど単純なテーマと筋書きだろうと、気にならないのです。キングコング自身が、怪獣たち自身が、話と関係なく「人間はちっぽけだ」「人間を超えた大きな視点・大きなスケール・大きな世界というものが存在するんだ」という強烈なテーマを発しているからです。

 むしろ、単純なテーマであるほど、怪獣たちが放つテーマが際立っているとも言えます。

 

 これが出来ているだけで、近年の怪獣映画としては最高の出来と言ってもいいくらいです。

 

 その上、本作は更に、怪獣映画以外の側面も有しているのだから……とんでもないというか――つまり、大傑作としか言い様がないのですが。

 

 そうです。本作、キングコングには怪獣映画以外の魅力もふんだんに入っています。それは例えばクトゥルー神話的な魅力なども入っていたりするのです。本作は、太古に地球を支配していた邪悪な生物たちの存在を匂わせています。

 しかも、なにが素晴らしいって、この映画の美術が本当に素晴らしいのです。

 大昔の、廃墟と化した戦艦が神殿となっている様子や、髑髏島に住む島民たちの様相など、怪獣映画だけではなく、一種のダークファンタジー映画としても楽しめるほどに、美術が耽美な魅力を放っているのです。

 また、実はどことなく「進撃の巨人」っぽいところもあったりします。*2

 

 これらもネタバレにならない範囲で、言及しているだけで、正直、本編にはもっと細かくいろんな映画を思い出すような場面が仕込まれています。これほどに多数のジャンル映画の魅力を内包している作品は、かなり珍しいくらいです。

 以上ですが、いや、それにしても素晴らしい作品でした。

 ちなみに、4Dでの鑑賞はかなりオススメです。

*1:過去の怪獣映画たちを巧みにオマージュしてはいるのですが……

*2:というか、進撃の巨人が好きな人が見たかったものが、本作にはあるはずです。

映画感想:わたしは、ダニエル・ブレイク


『麦の穂をゆらす風』などのケン・ローチ監督作!映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』予告編

  恒例の手短な感想から

 日本よ、これが向こうの現実だ!

 といったところでしょうか。

 

 ここ二年ほど、自分はネット上のある風潮に辟易させられていました。それは「日本は後進国で、真の先進国である欧米諸国は素晴らしいのだ。社会制度も素晴らしいのだ」というトンデモな言説と、それを平然と知識人と呼ばれている人たちが喜んで言い出し、日本に住む人を愚民とみなす風潮です。

 自分は日本がなんの問題もない国だとは到底思っていません。PKO活動さえ儘ならない、このふざけた国を良いと思えるはずがありません。しかし、それと同時に欧米諸国もまったく良い国だと思ったことがないのです。

 それは当然で、日本以上に厳しい「学歴で就ける職業が予め決まってしまうような」ガチガチな学歴社会だったり、「制度を少しでも崩すことは秩序を崩壊させることだ」と信じてやまない"愚かな共和主義"社会であったり、自分の子供を問答無用で家から追い出し若年のホームレスを量産する社会だったり、女性だろうと誰だろうと働かない人を「人間じゃないやつ」扱いする社会だったりする国々を素晴らしいと思えという方が無理なのです。

 

 特にここ十数年は、EUのユーロとかいう、世界的な経済学者がこぞって酷評するような、お馬鹿な経済政策まで行ってしまい、自ら、どんどんと経済難に陥っていく姿は「下手すれば、日本以下なのではないか」とさえ思える場面もあり……とてもではないですが、「アレらを良い国と思え」とは無理難題過ぎて、目眩がしていたのです。

 

 しかし、映画で、本で、テレビで、ネットでさえも、都合のいいように切り取られた架空の欧米像しか流されない現状では、そんなことを訴えたところで虚しいものです。だからこそ、自分はそんな言葉を胸のうちにしまって来たのですが……。

 

 とうとう、その胸のうちを明かせる映画と出会いました。

 本作、「わたしは、ダニエル・ブレイク」は、イギリスがいかに、現在とんでもない状況に陥っているか――経済状況は、制度設計は、いかに醜悪なものと化しているかを、まざまざと見せつけてくる怒りの一作です。

 この映画には、自分がこの記事の冒頭で述べた社会が、余すことなく描かれています。弱者の目から見て、イギリス社会はどのような社会と感じるのか、どこまで息苦しい社会と思えるのかが、この上なく分かる一作となっているのです。

 あれこれと難癖に近い文句を付けては減点し、給付金を意地でもカットさせてこようとする行政の態度や、酷い就職難で就職口などロクに見つからない状況――これらは全てイギリス政府が方針として定めた、いわゆる「緊縮政策」と呼ばれる、締め付けの政策に起因するものです。

 緊縮政策とは「金融を締め付け、税金を高くし、政府の財政出動を減らし、生活保護などの給付金をカットする」ことで、政府の財政赤字等々を健全化させようという政策方針です。

 言ってしまえば「いかに国の借金やら赤字やらを減らせるか」――それのみを追求した政策と言っていいでしょう。政府の収支こそが第一で、それ以外のものは全てどうでもいい、という政策です。

 

 だからこそ、その国に住む人々さえも苦しい状況で、この政策を選択すると、必然的に「人が苦しむ制度」を生み出すハメになるのです。

 

 この「緊縮財政によって生み出された制度」は弱者を容赦なく、人間として扱わない、融通も効かない、まさに狂った代物であり、監督のケン・ローチはこの制度に対する大きな怒りを表現したかったのでしょう。

 というより、ほぼ、直接セリフで表現しているのですが……。

 しかし、ケン・ローチは、おそらく政府によって生み出された"制度"自体を批判したいわけではないのだと思います。それはココナッツとサメの問いかけにもよく現れています。

 劇中、ダニエルが「ココナッツとサメ、どちらのほうが死亡率が高いか?」というなぞなぞを出します。まあ、答えは「ココナッツ」なのですが、なぜココナッツなのか。

 ココナッツは、熟れるとヤシの木から落ちてくる事があります。それに偶然当たって死ぬ確率は、海で泳いでサメに食われて死ぬ確率よりも多い、ということなのです。

 実際に多いのかは知りません。

 ただ、確実に言えるのは、このなぞなぞが「海で泳いでサメに食われて死ぬこと=自ら危険に飛び込んで不幸を追うこと」と「偶然落ちてきたココナッツに当たって死ぬこと=本人にはなんの過失もないのに不幸を追うこと」の比喩である、ということです。

 つまり、人間は、理由もなく不幸を追うのです。どんなに不幸を避けて生きようとしても、避けようもなく不幸がやってくるのです。そして、そういう人たちのほうが多いのです。それが人生なのですから、これは仕方のないことでしょう。しかし、だからこそ「そういった不幸に見舞われた人たちを助ける受け皿」が必要なのです。

 経済学的には、これらは「セーフティネット」と呼ばれるものです。まさに劇中で描かれている「給付金」などは、セーフティネットとして用意されている制度の典型例です。

 このなぞなぞを映画に仕込んでいる、ケン・ローチは、制度自体は必要であることも分かっているはずです。

 

 ただ、用意された制度が正常に機能しない――制度を機能させないための制度が存在してしまっている、それがひたすらバカバカしく、怒りを感じて仕方ないのでしょう。

 ケン・ローチの怒りが現れた本作は、本当に傑作です。正直、「天使の分け前」などは、その内容の薄っぺらさに辟易していましたが、見直しました。

雑記:最近の政治情勢で評価が変わった映画2

 少し前に自分はこんな記事を書いたことがありました。

harutorai.hatenablog.com

  

 まあ、ようするに「自分の心理状態の変化とか、政治思想の変化とか、周りの状況の変化とかはともかくとして、”事実がハッキリした”ことで評価を変えなきゃいけない映画ってあるよね」という話をしているだけの記事なのですが……。

 

 自分は最近、また、そういう文脈で評価を変えなければいけない映画があることに気づいてしまいました。

 というわけで、今回はこの記事の第二弾となります。

 

 さて、今回、評価を変えなければいけない映画とは、コチラになります。

パディントン

harutorai.hatenablog.com

 

 もともと、この映画はかなり嫌いで、原作のパディントンの雰囲気をぶち壊す銃撃アクションやら、支離滅裂で唐突すぎるキスシーンやら、この映画が世の中ではそれなりに評価されているのが信じられなくなるほどに酷い出来の映画なのですが……。

 最近、自分はこの映画の評価を更に下げるべきではないのか、と感じているのです。

 

 この映画には、感想記事を書いたときから「個人的にはおかしい気がするけど、自分の思い込みかもしれないからなぁ……」と、わざと見逃して減点評価に加えなかったポイントがありました。

 それはパディントンの最後の締めです。

 この映画、パディントンが最後、どんなことを言って締めるのか知っていますか?

僕はロンドンが大好きだ。ロンドンの人たちは親切だ。ロンドンは親切な暖かい街だ

 実はパディントンは、そんな趣旨のことを言ってこの映画を締めるのです。ロンドンが暖かい街……この表現に、僕はとてつもなく大きな違和感を感じました。

 当然の話です。少しでも、マトモにロンドンが舞台の作品を鑑賞したことがある人ならば、ロンドンと言えば「霧の煙る中、切り裂きジャックが暗躍する、心理も物理も冷たい街」というのが、普通のイメージだからです。

 さらに言えば、パディントン公開当時から、イギリスが経済的に相当ヤバい状況であるらしい*1ことは、海を超えて伝わってきていましたから、なおのこと、暖かい街という表現に「本当にそうなのか……?」と疑問を感じられずには居られなかったのです。

 

 そして、僕のこの違和感は違和感でも何でもなく、ただの事実であったことを今は痛感しています。真実として存在していたロンドンの姿は、やはり、僕が考えたとおりの冷たい街でした。


わたしは、ダニエル・ブレイク - 映画予告編

 

 

 この映画、見てきました。

 やはり、イギリスは経済的にかなりの難所を迎えているようです。政府や銀行が貸し出しの緩和や、お金の発行や、お金のバラマキや、事業の支援などを行わず、税制などを厳しくする"緊縮財政"によって、弱者は切り捨てられていく現実が存在しているようです。

 ケン・ローチ監督の「わたしは、ダニエル・ブレイク」自体は、ニューカスルが舞台ですが、登場人物の中には、ロンドンで暮らせなくなって仕方なく、ニューカスルにやってきた親子も登場しています。つまり、ロンドンも、そういう点ではニューカスルと変わらないのです。

 であるならば、パディントンの評価は下げるしかありません。

「ロンドンは暖かい街だ」――そんな大嘘をパディントンに言わせるなんて行為として醜すぎるでしょう。ちょっと前から、日本の「日本は凄い」系の番組が気持ち悪いと批判する人は多いですが、僕から言わせれば、パディントンの「ロンドンは暖かい街だ」はそれ以上に気持ちが悪いです。

 

 しかも、そんな映画が平然と評価されてしまっている現状を鑑みると、禍根が深すぎると言わざるをえません。現実として、弱者を切り捨てるような、心底から酷い社会システムを構築し、それに加担する傍らで、映画上だけは「自分たちは優しくて、素晴らしい」と架空のキャラクターに褒めそやさせてご満悦とは、なんて酷い構図でしょうか。

 

 だからこそ、自分はパディントンの評価を下げざるをえないのです。

 ハッキリ言います。

 パディントンは、クソ映画だ。

 

*2

*1:ちなみに、この懸念は後に当たってイギリス経済は大崩落。2016年6月に"部分的にはリーマンショック級と呼べる"世界経済へのダメージを生み出しました。

*2:「わたしは、ダニエル・ブレイク」については、もうちょっとで感想記事を書き上げますので、少々お待ち下さい…。

映画感想:モアナと伝説の海


映画『モアナと伝説の海』日本版予告編

 恒例の手短な感想から

冒険心をくすぐる、傑作!

 といったところでしょうか。

 

 いつ頃くらいだったでしょうか。確か「アーロと少年」に同時上映としてくっついてきた短編映画を見たあたりくらいから、だったと思います。なんとなく、ディズニー/ピクサー作品のデザインセンスが、任天堂のゲームのデザインセンスに似てきているなぁ、と感じ始めたのは。

 なんとなくですが、ディズニーは今までの剣と魔法のファンタジーを卒業しはじめ、欧米的ではないファンタジー――つまり、民俗的な神話のファンタジー要素を取り込み始めているのではないかと。その結果、任天堂などが描いてきたファンタジーに近いものを作り始めているのではないか、と。

 自分はそう思ってきたのです。

 

 そう思っていたのは間違いではありませんでした。

 本作、「モアナと伝説の海」はこの上なく、民俗的な神話のファンタジーを取り入れた一作となっています。いえ、むしろ、それがようやく結実した一作と言うべきかもしれません。

 苔むした遺跡や、深海のダンジョン、物語のきっかけを与える太鼓の音――まるで「ゼルダの伝説 風のタクト」のような、大海原を旅する冒険譚がそこにはあったのです。

 大昔から伝えられている伝説から生まれた呪いが、主人公たちの村に襲いかかり、その呪いを解く旅路に向かう、一族の長の子息――物語のあらすじ自体は、ロード・オブ・ザ・リングなどに代表される典型的な『行きて帰りし物語』ですが、今作は、あれらの北欧神話などの神話とは、明らかに違う神話を取り込んでいます。

 それはマウイなどの登場人物の名前が示すとおり、ハワイに伝わる神話です。*1

 

 であるからこそ、本作は、任天堂的なデザインセンスであると同時に、実は日本のあるアニメ映画と非常に近い内容になっています。

 それは、もののけ姫です

 もののけ姫行きて帰りし物語のフォーマットに、日本の民俗的な神話を取り入れた一作でした。本作と、コンセプトとしては、かなり近いものを持っています。

 実際、この映画は様々な箇所で「あーこれ、もののけ姫を意識してるんだなぁ」と感じられるものが登場していますし、映画の作り手たちもコンセプト的に本作が近いことを自覚しているのでしょう。*2

 ディズニーは、去年、実写の「ジャングルブック」でも、もののけ姫の真似をしており、そちらはこのブログでは酷評しているのですが、本作の「もののけ姫」オマージュはまったく気になりませんでした。おそらく、本作はちゃんと「一神教的ではない神」が描かれているからでしょう。

 

 今までのディズニーは、この「一神教的ではない神」の感覚をなかなか取り入れることが出来ず、苦戦してきました。それは今までの短編映画を見ても明らかなことです。ハワイの火山島を擬人化させた短編やら、上記のジャングルブックやら「本当に分かってないんだなぁ……」と言わざるをえない描き方をしがちでした。

 それがようやく、この映画で結実したと言えるでしょう。

 

 つまり、

 民俗的な神話と、大海原を舞台にした大冒険。

 この二つこそが、この映画の本質なのです。

 

 マッドマックスやゴジラへのオマージュが――世間ではここをやたらクローズアップして騒いでいるきらいがありますが――もちろん、ジョークとしては面白いのですが――この映画の魅力なわけでも、面白さなわけでも、本質なわけでもないのです。*3

 傑作短編「ひな鳥の冒険」から、ここまで心浮き立つ冒険譚に話を膨らませられたことは、本当に素晴らしいと思います。

 

*1:マウイとは、ハワイ諸島にある島の名前

*2:アレとか、ほぼデイダラボッチと同じという……

*3:ちなみに、マッドマックスオマージュとして出てきたアレですが、彼らの姿からして、アレ、もののけ姫の「こだま」もオマージュされているように見えるのですが……。というか、物語的には、こだまオマージュであることのほうが重要な気がします。

 だって、彼らが「こだま」みたいな存在だからこそ、モアナたちからテフィティの心を奪おうとしていたんだと考えると、ものすごく面白いじゃないですか。

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