儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画感想:初恋


窪田正孝主演×三池崇史監督作品『初恋』特報

 恒例の手短な感想から

ついに”完成”した三池映画

 といったところでしょうか。

 

 ネットでは、大して作品を見てもいないくせに、知ったかぶりたがるネット民から叩かれがちな三池崇史監督ですが、無限の住人といい、本作といい、本気を出した時は毎回毎回バッチリ面白いことが多いです。

 

 そして、予告編の時点で「あーこれ、本気出してないやつだわ」「あーこれは本気出してるやつだわ」という判別が付きやすいのも三池崇史の特徴かもしれません。ともかくとして、本作は久々の三池監督の本気がにじみ出ている一作となっておりました。

 

 本作がいかに見事なのか、ということに関しては枚挙に暇がないのですが、特に本作の特徴としては「三池監督らしい描写があまりないのに、異常に濃い内容である」ことが挙げられると思います。

 例えるならば「藁の楯」並みに三池節は鳴りを潜めているのです。

 しかし、藁の楯」のときのような「あぁ、三池監督、世の中に迎合しちゃったのね」とがっかりする部分がありません。

 

 これは、非常に興味深いことではないでしょうか。

 言ってしまえば、今まで、当人でさえバランスの取り方がよく分かっていなかった三池節が、とうとう完璧なバランスで発揮できるようになった、とも言えるからです。

 

 バランスが見事だからこそ、従来の三池節にあった「違和感」が少なく、違和感がないからこそ、この映画の味をどんどんと濃くしてしまえたわけです。

 

 実際、冷静に考えてみると本作「鑑賞後の三池節はなりを潜めていたな」という感想とは裏腹に、結構、瞬間的に三池節がザクっと混ぜられている箇所が多いのです。

 

 言うまでもなく、内田聖陽演じる、高倉健的な極道の男なんていかにもVシネマから成りあがってきた三池監督らしい要素ですし、それ以外にも、ガソリンで燃え盛る部屋で気絶してたのに速攻で起きて窓を割って脱出するベッキーやら、シャブが効きすぎて痛み感じなくなってる染谷翔太やら、隻腕のショットガンで無双しまくる中華チンピラやら、思わず「なんじゃそりゃー」と言いたくなる三池監督らしい要素がとても多いのです。

 しかし、それでも、本作には今までの三池監督作品に感じられた「逸脱さ」がなく、綺麗に作品が収まっている印象があるのです。

 

 三池監督に対して、苦手意識を持つ人でも、本作はすんなりと鑑賞できてしまったとの声も多いようですが、それも頷けることだと思います。

 これほどに無茶苦茶な要素をふんだんに詰め込みながらも、本作は極めて「一つの作品として、よくまとまっている」のです。

 お陰で、本作はとてつもなく見やすい印象があります。なぜでしょうか。

 

 実は、自分、本作を見て「三池監督、ひょっとして、ある意味で吹っ切れたのでは?」と睨んでいます。個性的な監督のように見られていますが、実のところ、三池監督って今までは「自己顕示と照れ隠し」が同時に出ているから、あんな変なことをしてしまっていたのかなと。

 

 本作は「照れ隠し」の部分が、明らかに消えているように見えるのです。

 

 たとえば、アクションシーン一つを取っても、本作は、今までの三池作品よりも圧倒的に「顔のアップが異常に多い」のです。もう殺陣なんてどうでもいいよと言わんばかりに、"戦い合う漢たち"の苦悶に満ちた表情を食い入るように撮っています。

 こういったある意味でホモホモしい描写を、真っ当にホモホモしく描いてしまっているのです。こういったところに、三池監督の「吹っ切れ」が実感できます。

 

 今まで三池監督作品といえば、シリアスなシーンの変なタイミングで唐突に変な描写を入れてきて、観客を戸惑わせることが多いものでした。

 自分たち映画ファンは、あれを三池監督の反骨心だとか、そういった思想なのだろうと納得して消化してきました。実はそれが違ったのかもしれません。ひょっとすると、あれはシリアスと正面切って向き合えず、ある種の照れ隠しで入れていたのではないかと思うのです。

 

映画感想:ジュディ 虹の彼方に


【公式】『ジュディ 虹の彼方に』3.6公開/本予告

 恒例の手短な感想から

誠実な、あくまで誠実な

 といったところでしょうか。



 伝記映画というのは、極めて難しいジャンルだと常々思っています。何が難しいのかというと「人の一生をたかだか二時間に収めるのは無理がある」ということです。

 当たり前ですが、人間の経験した時間は、二時間なんかでは替えの効かないものです。

 中には、無為に過ごした時間も多くあることだと思います。他人が大スクリーンでポップコーン片手に鑑賞できるレベルではない、くだらない些末な出来事さえ起きます。

 

 しかし、そういう無為な出来事と時間があるからこそ、人生の急転直下は「より急転直下として」感じられるのです。

 

 その、人生の急落ぶり、その人の生き方の面白さを上手く引き出そうとなると、どうしても嘘をふんだんにつかざるを得なくなります。

 そして、嘘をつきすぎた結果、描きたかったはずの人物のパーソナリティと映画で描かれているパーソナリティが「なんだかズレて」しまい、「え、あの人、こういう人だったっけ?」というモヤモヤを漂わせて終わってしまうことも多いわけです。

 

 例えば、ボヘミアン・ラプソディは、まさにその典型の映画です。

 この映画はなんとクライマックスの部分で、ほぼ事実ではないことを描写し続けるという「伝記映画としてはどうなんだ」と言いたくなる演出がなされており、映画として面白くても、伝記映画として当人のパーソナリティを描き切ったとは言えないものでした。

 

 いかに伝記映画というジャンルが誇張しがちなのかが分かることでしょう。

 

 そういう意味では、本作は、この上なくジュディ・ガーランドというパーソナリティに対し、誠実な描き方をしていることがよく分かります。

 正直、LGBTに理解を示していたという一点のみで、ネット上ではなぜか聖人君主か、時代を先駆する革命者かのような扱いを受けているジュディ・ガーランドを題材にして、ここまで濁らずに「本人らしさ」を残せているのは感服します。

 

 普通ならば、世間に媚びてもっと「実は素晴らしい内面を持っていました」という描き方をしがちですから。

 

 ですが、本作はそこを避けているのです。

 本作のスタンスは、あくまで「ジュディ・ガーランドがなぜこのような複雑なパーソナリティになってしまったのか」という原因の追究を軸にしており、「そんな彼女の人生をあなたはどう捉えますか」と問いかけるのみに留まっています。

 

 そして、この映画で描かれる彼女のパーソナリティは素晴らしい面もあれば、和田アキ子のようなパワフル姉ちゃんの側面もありつつ、がなり声の老害めいた面もあり、かつ、少女のような幼稚さなども垣間見え――つまりは、まさに人間らしい描き方がなされているのです。

 

 おそらく、この映画を見た人の感想は十人十色で変わることでしょう。「彼女はショービジネスの世界になど来るべきではなかった」と考える人がいてもおかしくはないです。

 

 実際、自分は、上辺だけしか見ない人たちがジュディ・ガーランドを持ち上げるたびに、彼女の人生やパーソナリティに思いを馳せ、似たような思いを抱いていました。

死んだ後で、レインボーなんて持ち上げられない人生こそが、彼女の、本当の幸せになったのではないか。そんな不幸かもしれなかった人生を、ただ主張のためだけに、持ち上げるのはどうなのだろう」と。

 

 しかし、自分は今回、本作を鑑賞して、更に考え方が変わりました。

 

ジュディ・ガーランドは、どこかで根っからにショービジネスが好きだったのかもしれない」と考え直すようになったからです。

 もともと、ジュディ・ガーランドは家族の経営する映画小屋で、幼いころから幕間のショーとして歌を披露していたような人間です。*1

 音楽で表現したい何かを、幼いころからずっと持っていたとしてもおかしくはないのです。

 そんなことを、本作は自分に思わせてくれたのです。

 

 こういう映画こそ、当人に対して誠実な、良い伝記映画と呼ぶべきでしょう。おそらく、この映画を見た大半の人は、ジュディ・ガーランドという人物が、そう容易く持ち上げられるような軽い人生ではないことを実感できたのではないでしょうか。

*1:実は、本作の幕開けからのシーンは、彼女のそんな幼少期を「オマージュ」した場面となっています。

映画感想:1917 命をかけた伝令


サム・メンデス監督作!映画『1917 命をかけた伝令』予告

 恒例の手短な感想から

やはり、力業の見事な一作!

 といったところでしょうか。



 全編ワンカットという、映画好きとしてはとても興味をそそられる宣伝文句が踊っていた本作でしたが、実際の中身はその期待に応えるであったかというと……映画の内容のうち8割は期待に応える出来足り得ていました。

 逆に言うと2割ほど「え、この映画でそれをやったら興ざめじゃないの?」という箇所も存在しているのですが……。

 

 ともかくとして、本作「1917」は間違いなく戦争映画として、いえ、映画として斬新な出来であることは間違いないでしょう。

 やはり、なんと言っても白眉なのは宣伝にもある通り、全編ワンカットというその強引すぎる力業で成立させられた映画の内容そのものです。全てがワンカットということは「時系列を区切る」ことがないわけであり、つまりは「観客と映画の一秒の長さが常に一致している」ということでもあります。そのため、常に観客にリアルタイムが過ぎていく焦燥感・実感を味合わせることが出来るわけです。

 本作の「タイムリミットが刻々と迫る中で、最前線の戦場を駆け回る兵士」というシンプルな物語はまさにこの全編ワンカットという映像手法がぴったりと言っていいです。

 

 ……まあ、正直、本編を見たところ、全編ワンカットというのは「だいぶ盛った話」のようにも見えますが*1……ただ、とてつもない長さの長回しが使われているのは間違いなく、たとえ全編ワンカットが嘘だったとしても、映画として十二分に素晴らしいものであることは否定できません。

 

 その点については本作は間違いなくいい映画だと言っていいでしょう。そして、戦争映画としても、まったく悪くないです。

 決戦前夜の小康状態という戦場をリアルに描いていく本作には、戦争映画としても十二分な魅力があり、また戦争の過酷さというものを生々しく感じさせることも出来ています。

 

 もちろん、本作よりよほど戦争を上手く感じさせてくれる作品も勿論あります。ただ、本作の場合は戦争を感じさせるだけではないのです。同時に戦争のない社会での仕事だとか、責務だとか、そういったものにも通じる何かを内包しているのが特に素晴らしいのです。

 これは伝令兵という「人を殺しに行け」と直接命令されているわけではない兵士だからこそ、感じられる要素なのかもしれません。

 最初は上司の命令を受けた友人の付き添いで嫌々ながら伝令を届けようとしていた主人公が、様々な段階を経て自分の伝令を届ける任務を全うするのだという使命に目覚めていく姿は仕事の寓話のようでもあります。

 友の兄を助けるために、多くの人を犠牲にさせないために、必死で駆ける主人公の姿には人生の悲喜こもごもを感じられるのです。

 

 社会に出て人の役に立とうとしていると、大なり小なり、本作の主人公のように必死で駆けまわる瞬間は必ずやってきます。

 そんな瞬間を経験してきたであろう観客にとって、主人公はこの上なく感情移入しやすい存在なのです。

 実際、自分もこの点で非常に共感をしていました。

 最初は半ば人から押し付けられたはずの仕事を、最後は誰よりも自分が拘っている――そんなありふれた人生の縮尺に本作はなっているのです。

 

 ただ、本作は同時に残念なところも見受けられます。

 クライマックス少し前あたりから幻想的な描写が入ってしまうのは、さすがにその手の前衛的な映像が好きな自分でさえ戸惑いました。

 今までの「リアルな時間の流れ」を感じさせ「自分の人生に重ねてしまうリアルさもあった」内容からすると、前衛芸術のファンタジーのような照明とCGによる映像美は明らかに食い合わせが悪いのです。

 映画ではなく、自分事のように感じていた画面の中を、一瞬で「あ、これ、映画だったわ」と目覚めさせてしまう――言わば興ざめのシーケンスになっています。

 

 ここが無ければ、もっと良かったんだけどねぇ……という感想を抱いたのは自分だけではないはずです。

*1:何か所か「あれ?そこでカットを切り替えられるよね?てか、普通その撮り方はワンカットっぽい感じでカットを繋ぐときの撮り方だよね?」というシーンがあるんですよね……この映画

映画感想:ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密


映画『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』 予告編

 恒例の手短な感想から

見事なアガサパスティーシュ映画

 といったところでしょうか。

 

 パスティーシュというのは、既存の探偵小説やミステリー小説などを模倣して作り上げる二次創作のことを指すのですが、まさに本作「ナイブズ・アウト」は、そのパスティーシュ映画にあたる作品だと言えるでしょう。

 実にアガサ・クリスティらしい、要素が多く散りばめられた作品であり、彼女が確立させたいわゆる「探偵もの」のフォーマットを上手いこと踏襲しながら、「探偵もの以外のアガサクリスティ作品」で描かれた要素を混ぜ、実に器用な手腕で一つの斬新なミステリー映画を作り上げています。

 

 そうです。この映画はパスティーシュ映画でありながら、若干、パスティーシュの域を超えています。

 アガサ・クリスティへのリスペクトに満ち溢れながらも、同時に彼女の作品を超えている内容にもなっているのです。

 

 本作品、序盤は撮り方から、話の構成から何もかも全てを緻密に”アガサ・クリスティ映画作品風に”仕上げており「あぁ、この映画はアガサ・クリスティ的な探偵ものなんだなぁ」という強い安心と信頼があります。

 たとえ、探偵役がジェームス・ボンドダニエル・クレイグだったとしても、それがノイズにならない程度には、キチンとアガサ・クリスティ風味を出すことが出来ているのです。いえ、むしろ、本作序盤のアガサ・クリスティ探偵もの風味な映像表現は、ダニエル・クレイグの紳士的な一面を引き出すことに成功しており「探偵としての説得力」すら帯びています。

 

 そして、そこまで高いクオリティで探偵ものを描いていきながら、中盤以降で徐々に同じアガサ・クリスティ作品でも、ノワール系のダークな作風が顔を出していくるところが、なんとも本作は素晴らしいのです。

 

 この映画の大胆な構成に自分は度肝を抜かれました。そして、同時にハッとさせられたのです。言ってしまえばポアロ」的な犯人を追い詰めるタイプの推理探偵ものと、ノワールが実は表裏一体の存在なのだということを、この作品はまざまざと見せつけているからです。

 

 その意味で、アガサ・クリスティは多彩な作品を作っているようで、実は同じ作品を作っていたのです。この視点を持って彼女の作品を鑑賞したことは、少なくとも自分にはありませんでした。

 

 ――つまり、本作はとても優秀な「アガサ・クリスティ評論」でもあるのです。

 彼女が執筆した一連の作品たちにある共通点を見出し、これらの作品にある本質的な部分を曝け出すことに成功しているのです。この時点でも、本作はとても優秀なパスティーシュ映画だということがよく分かります。

 

 もちろん、ただのパスティーシュではありません。

 本作はパスティーシュであると同時にパロディのコメディ作品でもあります。この点については言うまでもないでしょう。セリフの一つ一つにまで趣向を凝らし、伏線を張り、巧みに観客の心を惹きつけている本作の脚本はギャグもよく出来ています。

 

 この巧みなギャグセンスと、元ネタを丁寧にリスペクトした内容は、まさに「次世代のメル・ブルックス」といって過言ではありません。

 ここまでの見事な作品ならば映画館で見る価値は絶対にあります。

映画感想:パラサイト 半地下の家族


第72回カンヌ国際映画祭で最高賞!『パラサイト 半地下の家族』予告編

 恒例の手短な感想から

これ、ポン・ジュノにしては微妙だろ

 といったところでしょうか。

 

 

 アカデミー賞の監督賞まで獲得した本作ですが、端的に言ってこの感想が似合うと思います。「前評判だけで過大評価されてしまった」と。「ポン・ジュノという天才監督が居るらしい」「見てみたけど、なんかよく分からないところあったなー、でも天才らしいし、高評価した方がいいよね」というその風潮だけでここまで行ってしまった映画が、本作「パラサイト」です。

 

 ハッキリ言って本作は、今までのポン・ジュノ映画の中でも、下の方から1、2番目の出来です。スノーピアサーよりかはマシかなと言う程度で、それ以上では決してありません。

 

 登場人物がカメラに向かって、これみよがしに「ニヤッ」て笑うシーンを入れたり、映像上の比喩をわざわざセリフで説明している場面があったり、と映像表現の様々な面が「本当にあの『母なる証明』のポン・ジュノなのか?」と疑いたくなるほどにレベルが低くなっています。

 その上、脚本もレベルが低く、伏線はいちいち全部セリフで「はい。これ伏線ですから、みなさん理解してくださいね」と解説してくれる傾向の――いわゆるバカ向け映画となっています。

 

 しかし、なによりも本作がおかしいのは、各登場人物の設定でしょう。

 よくよく考えると「なにその、ご都合な設定」としか言いようがない設定だらけであり、本作を挙げて「韓国の貧困を描いている」などとドヤ顔している人たちは、この違和感だらけの貧困家庭に疑問を持たなかったのでしょうか。

 

 まあ、世界的に流行っている貧困に気遣っているポーズだけがしたいだけの「リベラルという名を冠した貴族様たち*1からしたら、こんな薄っぺらい程度に貧困を捉えてくれている映画の方が、同情しているポーズを取りやすくて便利なのかもしれませんが……。

 だからこそ、ここまで、すんなりと賞を取れたのでしょうし。

 

 少なくとも、自分には「カブスカウトに通っていた過去を持つ息子、美大を目指していた娘、完璧なドライビングが出来る父親、メダルを持っているアスリート母親」なんてトンデモ設定の家庭から貧困を描かれても、それが貧困を描いたことになるとは到底思えません。

 同じ金獅子賞の「万引き家族」のほうが遥かにちゃんと貧困を描いていました。

 

 また本作は登場人物たちの行動の動機や、感情が酷く単純です。そこも今までのポン・ジュノ映画を堪能してきた身からすると、まったく納得がいきません。クライマックスも「あぁ、ムカついたから殺したのね」という酷く単調な感情があるのみです。「母なる証明」のクライマックスと比べると、なんと陳腐な話で終わっていることでしょうか。

 今までの流れなんて全部無視して、バカにされてると分かったから怒って、好かれてると分かったから好いて――一事が万事、そんな感じで感情が単純なので、見ていて登場人物全員がバカに見えてきます。そして、その部分を「コメディだから」とごまかしているわけです。

 

 そんな映画の、そんな登場人物に感情移入など、当然、全く出来ないです。

 

 正直、ポン・ジュノ監督は「格差」やら「階級闘争」の話をテーマとして選んではいけない気がします。

 ポン・ジュノ監督、この手の話をテーマにすると「昔の左翼小説か!」と言いたくなるほど紋切り型で薄っぺらい描写しか出来てないのです。スノーピアサーのときも、そうでした。

 

 そんな、ガッカリ映画がパラサイトでした。自分としては母なる証明」見たほうがどう考えても面白いよ、とただそう思います。

*1:いわゆる、「21世紀の資本論」を著したトマ・ピケティ言うところの『バラモン左翼』

映画感想:テリーギリアムのドン・キホーテ


全世界賛否両論、カルトか?傑作か?映画『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』予告編

 恒例の手短な感想から

うわぁ、なんだこれ…

 といったところでしょうか。

 

 アレハンドロ・ホドロフスキーだの、カレル・ゼマンだのの、シュールとしか形容しようのない芸術映画を度々嗜んでいる自分ですが、その自分でも、さすがに本作に関してはこの感想しか出てきませんでした。

 

「うわぁ……これ……どう捉えたらいいんだろう」と。

 

 本作はそれほど見ている人の感慨やら感情やらを吹き飛ばしてしまう、強い力のある映画であることは間違いないでしょう。

 内容がシュールすぎるとか、そういう話ではないのです。むしろ、テリーギリアムの映画としては本作はだいぶ「奇抜な設定がない」映画だと言えます。

 

 元々は、テリーギリアムが20年近く前から撮ろうとしては失敗し続けていた映画なのですが、数々の失敗を重ねるに連れ、どうもテリーギリアムは、この映画に対する捉え方がだいぶ変化してしまったようです。

 

 証拠にテリーギリアムが本作を撮ろうとしては失敗し続けた様子を捉えたドキュメンタリー映画「ロスト・イン・デ・ラ・マンチャ」の中でチラッと描かれていた本作と、実際の本作にはびっくりするほど設定に違いがあります。

 

「ロスト・イン・デ・ラ・マンチャ」の中での本作は、主人公が実際にドン・キホーテのいる過去にタイムスリップしてしまうという、いかにもテリーギリアムっぽい奇抜でシュールな設定でした。

 ですが、本作ではその設定は排され、一度「ドン・キホーテを殺した男」を撮った男が、時を経てその自分が撮った作品自体と対峙するような内容となっています。

 

 ちなみに、本作「テリー・ギリアムドン・キホーテ」の原題は「ドン・キホーテを殺した男(The Man Who Killed Don Quixote)」です。そして、かつて失敗して露と消えた映画のタイトルも「ドン・キホーテを殺した男」でした。

 

 これはもう狙っていると考える他ないのでしょう。テリーギリアムは「ドン・キホーテを殺した男という映画を撮れなかったテリーギリアム」という現実そのものを、本作「ドン・キホーテを殺した男」の中に押し込んでしまっているのです。

 

 だからこそ、この映画はとてつもなく解釈が難しいです。そして、同時に湧き上がってくる感情も複雑です。鑑賞した後の帰り道で「それで良かったのかな」「それが正しいのかな」と反芻する――反芻せざるをえない映画となっているのです。

 

 この映画はある面では、コーエン兄弟の「バートン・フィンク」です。そして同時にある面では今敏の「千年女優」のような面も持っています。

 つまり、作家がクリエイティブを発揮する者たちが、やがてそのクリエイティブ自体に飲み込まれていく様子を物語っているところもあり、同時に映画を作ることの恐ろしさ、それを人に演じさせるという行為の功罪を語っている面も存在しているのです。

 

 そして、それらの面をある場面では肯定し、そして、ある場面では否定もします。この作品は「人が作品に染まって何が悪い」と言いながら、同時に「人が作品に染まったら悲しい」とも言っているのです。

 

 そして、その2つのメッセージは何より「ドン・キホーテを殺した男」という映画に、長い年月ずっと振り回され、作品の中で溺れ続けたテリーギリアム自身に向けられているものです。

 

 そんなメッセージを見せられては……簡単な感想やら感慨なんてものは吹き飛ぶに決まっています。

 

 それくらいにこの映画は傑作なのです。

映画感想:メイドインアビス 深き魂の黎明


劇場版「メイドインアビス 深き魂の黎明」本予告

 恒例の手短な感想から

度し難く、ファンタジーの傑作

 といったところでしょうか。

 

 メイドインアビスは2017年に巷で話題になっていたアニメシリーズでした。極めて特徴的で作品をよく象徴している音楽のクオリティや、想像力豊かで残酷なアビス内部の様相、原作の漫画そのものの完成度の高さ、作画の良さ、そして、その苛烈な内容から話題となり、2019年には総集編の映画が公開されるにまで至った、そんな作品です。

 

 そのメイドインアビスの最新作が、本作「深き魂の黎明」となります。公開前後から各所でいろんな意味で話題となっており、個人的にも内容が気になっていたため、鑑賞してきました。

 

 結論から言って、本作は間違いなくファンタジー映画の傑作でしょう。大穴・アビス内部の狂気の沙汰としか言いようがない、奇妙な世界をこの上なく堪能することが出来る作品になっており、グロテスクで幻想的なイマジネーションの数々は、まるでヤンシュワンクマイエルの芸術映画のような魅力を放っています

 

 それどころか、アビス内の原生生物たちが繰り広げる、残酷で容赦がなく、合理的な生態系と、どこか可愛げがありながらも、不気味さを感じさせる造形などはジム・ヘンソンの芸術性にも近しいものを感じられます。

 

 これだけでも十二分に素晴らしいのですが、なおかつ、本作にはその独特な話運びにも大きな魅力があるのは言うまでもありません。

 アビスという酷薄な世界の中を生き、進んでいくために、心を歪ませてしまった――あるいは元から歪んでいた――登場人物たちが繰り広げるストーリーは、複雑な事情と複数の事実、複雑な感情が絡み合っており、一つ一つが「こいつが一方的に悪い」「こいつはこいつが嫌いなんだ」などとは言い切れない内容となっています。

 

 特に自分は、この映画内だけでもストーリーが多重的に絡み合うように作られていることにだいぶ感心しました。

 

 例えば、映画冒頭で描かれていた、クオンガタリがトコシエコウの花畑に化け、探検者や原生生物たちを生きたまま捕らえていたエピソードは、アビス内部の残酷な生態系を示すと同時に映画の重要キャラクターである「ボンドルド卿の正体」も暗喩しているのです。

劇中でのボンドルド卿の行動なども冷静に考えてみると、クオンガタリのやっていたこととあまり変わりがないのですから。

 

 このようにメイドインアビスは、ただ残酷で奇妙なイマジネーションを垂れ流すだけには至らず、そのストーリーの構成なども非常に計算されており、エピソード一つ一つが重なり絡み合い、メイドインアビスという作品の世界に厚みを持たせているのです。

 

 その多層的なストーリーが、奇譚なく発揮されるのが本作の中心エピソードである、プルシュカとボンドルド卿の関係性であり、その二人の顛末でしょう。

 この、「単純な愛憎では決して片付かない関係性」が見事に描かれているだけでも、本作はとても重い価値があると言えます。

 

 ぜひ、劇場でご覧になることをオススメしたいです。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村