映画感想:リメンバー・ミー
恒例の手短な感想から
手堅い!面白い!…面白いんだけどもねぇ…
といった感じでしょうか。
イルミネーション・エンターテイメントのアニメーション作品に圧され気味で評価も売上も人気でありながらも、、子ども向けとして、最近、今一つ伸びないディズニーピクサー作品。ディズニー自体もその状況からの脱却を図りたいようで、近年の作品は、今までのディズニーイメージを覆すような作品が多く作られてきました。
特に「ディズニーのパブリックイメージとは違う、エスニックな伝統文化を取り入れ、オールドディズニーを異なる視点から切り取っていこう」とするような作品が多く、本作もまたそのような試行錯誤の一作であることは間違いがないでしょう。
本作は音楽をテーマに作られているのですが、昔のディズニーほど音楽に対する深い尊敬を抱いていたアニメーション会社はないでしょう。これは音楽にイマジネーション豊かな映像を付け加えた「ファンタジア」は、もちろんのこと、ウォルト・ディズニーが作曲家に作らせた数々の名曲を見ても明らかなことです。
そんな音楽をテーマにしてきた、ということからして、ディズニーの必死さと奮闘が伺えます。
そんな本作の出来ですが、非常に手堅い出来であると言えるでしょう。
音楽を伝統的に嫌悪している一家に生まれてしまった、音楽が好きで好きで仕方ない少年。彼が、家族と自分の夢の板挟みの中で葛藤し、実に思春期的な反抗などをしながら、音楽の出来る道を模索しようとする姿は、おそらく、同じような反抗期を経験したことある人たちならば、必ず感情移入できるものだろうと思います。
南米に伝わる「死者の日」をモチーフとし、あくまで現実と地続きの世界での出来事にしていることも、本作の話の設定などによくマッチしており、現実と地続きであるからこそ、夢や現実を語ることに説得力が出ています。
また、作中に出てくるラテン系音楽の面白さなども目を見張るものがありました。最近のジャズシーンで微妙にこの系統のラテン系音楽等をレアグルーヴとして、再評価している向きがありますが、それも納得のことでしょう。
ただ、手堅い出来で面白い本作ですが、それ以上のものがない、と言ってしまうとそれは事実かもしれません。もちろん、映画としては面白いだけで十分な話であり、それ以上は贅沢な話です。
それでも、本作はディズニーが大切にしてきた「音楽」をテーマにしているからこそ、もう少し「音楽」に対しての深い尊敬や、音楽への強い想像力が欲しかったのです。本作は、音楽が話の主軸になっていますが、そのわりに「音楽とはなんなのか」という部分を掘り下げることが出来たかと言われると極めて疑問があります。
比較してしまうのは心苦しいのですが、同じ音楽をテーマとした近年のアニメーション映画としては、イルミネーション・エンターテイメントの「SING/シング」の方が遥かに音楽について深い尊敬と、そして、「音楽とはなんなのか」という問いへの深い掘り下げを描けていたのではないでしょうか。
掘り下げ、と書いてしまうと難しいことを述べているように思えてしまうかもしれませんが、要はこの映画を見たあとで「あぁ、心底からいろんな音楽を自分も聞いてみたいっ。こんな音楽の世界を体験してみたい」と思えないのです。
これは話自体が「音楽を大きくフィーチャーしていながら、実のところ、話の核心で言いたいことが『音楽と関係なくなってしまっている』」ことが原因なのでしょう。実際、映画のラスト、エピローグで音楽を奏でる主人公の姿は、少し違和感があります。
この話の流れで、それまで音楽を許していなかった主人公の一家が、音楽を許容するようになるのも「それは話として、ちょっとご都合が過ぎる」ように思えますし……本作、近年のディズニー作品の中では、小粒感が強い作品となってしまったのではないでしょうか。
そこだけが惜しい作品でした。
3月の見た映画
・壊れかけのオルゴール
・百日紅
・ガールズ&パンツァー 劇場版
・ちはやふる ―結び―
・カイト/KITE
・ テイキング・チャンス
以上、8本を鑑賞。
今月の、自宅鑑賞映画ラインナップは「ちょっと前に話題だったけど、なんか嫌な予感がして見なかった映画」を重点的に見ました。結果、あんまり良い収穫は無かったのです。予感は当たっていたようです。
原恵一は相変わらず、キザな演出を入れて寒いことしてくるし、『ガルパンは言うほどいいものじゃないぞ』って感じだし、カイトは原作を汚したとかそれ以前のレベルの産業廃棄物……うーん。
映画感想:ちはやふる ―結び―
恒例の手短な感想から
驚嘆の一作
といったところでしょうか。
確かに「ちはやふる 上の句」は間違いなく、近年の実写化映画において珍しいほどにエンターテイメントとして、この上なく誰でも楽しめる内容になっており、素晴らしい映画であったことは間違いないのです。
しかし、言っても邦画の悪い癖が抜けきれていなかったり、下の句になると若干、低調になっていたりもしたのです。
面白いといっても「邦画としては面白い」というレベルの映画であったことも事実です。まだまだクオリティの詰められそうな映画シリーズでした。
まさか、その「ちはやふる」がこんな頭抜けた傑作になってしまうとは……。
一体、この映画シリーズになにが起こったのでしょうか。競技かるたの多彩な演出、あの手この手でクライマックスを盛り上げる一転集中した話の筋書き、効果的に使われるアニメーション……この映画は、なにもかもが、「上の句/下の句」の遥か上を行く出来で完成されています。
ハッキリ言って、本作、現在同時期に上映されているディズニーピクサー映画と、真っ向から勝負しても構わないほどの出来です。「上の句/下の句」にあったキズは、ことごとく解消され、それどころか上出来な内容に修正が施され、カメラワークも、演技の付け方も、コメディシーンの入れどころと、そこからのシリアスに持っていく流れの上手さも、誉めどころにしかなっていないのです。
ここまで映画の作り手たちが大きく成長を見せるとは、まったく予想もしていませんでした。
本作は、とてつもなく素直な映画です。演出や脚本や演技の全てがストレートで、ひねくれていないのです。もちろん、ひねくれているから良い悪いという話ではないのですが、やはり、本作のようなカラッとした分かりやすい青春映画には、ストレートで素直な演出が似合います。
昨今ブームになっている将棋報道の過熱ぶり、三月のライオンの演出、最近のラブコメ映画の演出、いろんな映画やアニメの表現をとにかく取り入れていこうという、作り手たちの姿勢は、まさに素直そのものです。
おそらく、ここまで素直な演出は、何かとひねくれがちな、才能ある邦画の著名監督たちでは出来なかったことでしょう。
本作をここまでの面白さに出来たのは、間違いなく作り手たちの努力と研鑽によるものだと言えます。
そして、そんな素直にいろんな表現を取り入れ、この映画をとにかく面白いものにしようとした作り手の姿勢そのものが、本作のメインテーマと見事に噛み合っており、映画のテーマ自体の説得力にもなっているのです。
ちはやふる原作ファンも、下の句だけならばあれですが、本作が「完結編」であるならば、大満足でしょう。鼻が高いでしょう。自分が好きな漫画がここまでの素晴らしい映画を産み出せたのだという事実は、とても心地が良いものでしょう。
その感覚は間違っていないです。それほどの傑作が、本作です。
唯一、ニコニコ動画の演出だけ、素直に取り入れすぎててどうなのか、と言われかねないものでしたが、自分からすれば、あの程度は愛嬌と考えればいいと思っています。
映画感想:シェイプ・オブ・ウォーター
恒例の手短な感想から
高尚なフランス映画を見るような…
といったところでしょうか。
特撮とそしてホラーの監督として辣腕を振るい、もはやコアな映画ファンでなくても名前を認知する人が多くなってきたであろう、ギレルモ・デル・トロ監督の最新作にして、アカデミー賞総舐め作品、それが本作、シェイプ・オブ・ウォーターです。
ギレルモ・デル・トロが幼い頃に見た特撮映画を基盤とした、オリジナル作品である本作の出来は一言でいってしまうと、「これ、ハリウッド映画って嘘でしょう?」としか言い様のないものになっております。良くも悪くも素晴らしくも、本作はまったくハリウッドらしさを感じない作品です。
元々、ギレルモ・デル・トロの監督作品は、全体的にハリウッド映画らしくない、象徴的なガジェットやシーンなどが挟まれがちで、なおかつ映画の雰囲気もゴス気味な気配を漂わせていることも多かったのですが……とはいえ、パシフィック・リムやヘルボーイなど「言っても、ハリウッド映画の監督」であったのが、ギレルモ・デル・トロでした。
話の盛り上げ方や演出の分かりやすさ、高尚な内容にしようとしてもイマイチなんだか高尚にならないところ含めて、良くも悪くもギレルモ・デル・トロは「欧州映画とハリウッド映画の合の子を作る監督」という領域を決して出ない監督でした。
しかし、本作は明確にそれが異なっています。
アカデミー賞であれだけ賞を取れたことが不思議なくらいに、本作はまったくハリウッドらしくない映画となっております。まず、なんといっても、話の筋書きが恐ろしくシンプルです。
この手の話のテンプレートをそのまま用いたような筋書きになっており、シンプルすぎて、あまり話に起伏がありませんし、先の読める展開しかやってこない内容となっています。ハッキリ言って退屈に感じる人が居てもおかしくないくらいに、シンプルすぎる筋書きです。
そして、そのシンプルな筋書きをひたすらに、ギレルモ・デル・トロのイマジネーションと撮影技術、VFX技術で磨きあげ、映画としての魅力を発揮させている映画──それが本作なのです。
文学で言うならば純文学に分類されてしまうような映画であり、本作の本質は話自体のテーマそのものよりも、「シンプルなテーマを、いかに豊潤なイメージで描くかという芸術性」に重きが置かれていることは明らかです。
映画冒頭から延々と強調される水中のイメージなどがまさにそれを表しています。主人公の住まいをまるで海底の底に沈んでいるかのように演出し、淡い光だけが差し込む世界としてしまう、このイマジネーションです。
それ自体がこの映画の魅力であり、価値です。
ギレルモ・デル・トロがここまでヌーヴェルヴァーグめいたイマジネーションを抱えた監督であったとは……。
本作はハッキリ言って、特撮技術等々を駆使しながらも、内容は極めて大人です。子供じみたところが一つもありません。イノセントな登場人物がいたとしても、そのイノセントな人物の視点のみに偏らず、その他の人物たちの視点を絡め、あくまで客観的に登場人物たちを見つめています。
今までのギレルモ・デル・トロであれば、ここぞとばかりに特定の人物に寄り添い、他の人物の事情などまったく映しもしませんでした。映画の視点そのものが純粋で、残酷なほどにイノセント――それがギレルモ・デル・トロ映画であったのです。
が、本作はそれを避けているのです。子供の気持ちだけを描く映画に留まっていないのです。
何もかもが、今までのギレルモ・デル・トロ映画とは、明らかに異なる映画です。実際、ギレルモ・デル・トロ自身、この映画を撮って以降、自分の心境に変化があったということを方々で語っています。
様々な点において、ギレルモ・デル・トロの諸作品の中でも最も異端であり、彼の内面の大きな変化を見ることが出来る作品――それが本作なのです。
映画感想:15時17分、パリ行き
恒例の手短な感想から
これが現実さと、イーストウッドは乾いた笑みを浮かべる
といったところでしょうか。
本作はかなり変な作品となっています。
正直、クリント・イーストウッドを映画監督としてそれなりに尊敬している自分であっても「これはキツイ」と思わざるを得ない映画でした。つまらないというよりも、色々とおかしい作品なのです。
既に様々な人から指摘されていますが、映画として本作は構成やら演出やら編集やらがおかしいのです。特に巷では、中盤のまったく意味がない上に長過ぎる観光シーンがよく取り沙汰されていますが、実はこの映画、それ以外もかなりおかしい映画です。
本来、こういった題材で映画を作るとなれば、それなりにテロ事件のあった列車内での出来事に焦点をなるべく絞り、それを救った主人公たちをそれなりにドラマチックに描いていくはずです。
「母子家庭で学校などでも落ちこぼれ、軍隊でも落ちこぼれだった青年が、テロ犯を倒し、フランスから勲章を授与される」というこの映画全体のストーリ-からすれば、主人公たちを、それなりに格好良く、あるいは誠実な人間性などに脚色して描いたりするものです。
しかし、本作はそれを避けています。
むしろ、本作での主人公たちの姿は、軍隊で自分の荷物を盗まれてしまったり、しょうもない寝坊をしたり、観光でクラブに入ってはしゃいだり――まったく脚色がなされていないのです。むしろ、驚くほどに「現実そのまま」を描いていると言っていいでしょう。
実際、主人公たちを演じているのは"本人"です。徹底的に現実だけを映画に封じ込めようとしていると言って過言ではないでしょう。
このことでよく分かるのは、イーストウッドは、この事件のことをなんとも思っていないということです。
「アメリカ兵がたまたま乗り合わせて、テロ犯を倒した――だから、なんなんだ? 誇りに思えってのか? 思うわけないだろ」
そう言いたげなイーストウッドの言葉が暗に聞こえてくるような映画になっています。
実際、肝心のテロシーンも驚くほどにあっさり解決してしまいます。観客の「さぞかし、立派な英雄ショーが始まるのだろう」という期待を裏切るように、本作の主人公たちはテロ犯を軽々と倒してしまうのです。
むしろ、犯人を捕まえるために行った、主人公たちの一連の攻撃をかなり痛々しく描写しており、その痛々しさはあえてリンチまがいの行為に感じられるよう、描いたのではないかと思うほどでした。
その後も、イーストウッドはまったく主人公たちを善人に描く気がなく、むしろ、テロ犯よりも主人公たちの方がよっぽど怖い存在として描かれています。
アサルトライフルを抱えながら、横柄な態度で他の車両の乗客に声掛けする主人公たちなどの姿は、それをよく象徴しています。乗客たちが一瞬、主人公たちをテロ犯だと間違えてましたが、間違えるのも納得してしまうほど、この主人公たちに「人間としての異常な面」を感じるように撮っているのです。
クリント・イーストウッドは、本作を「面白い映画」として撮る気がないです。むしろ、映画の出来を犠牲にしてでも、浮ついた世の中に冷水をかけようとしています。現実なんてものはこんなものだ、と。
映画感想:祈りの幕が下りる時
恒例の手短な感想から
これは本当に面白い
といったところでしょうか。
予告編の段階で、この映画から「明らかに面白い映画の匂い」がしていたことに驚いた人は僕だけではないでしょう。新参者シリーズは東野圭吾ファンでもなんでもない――ただの映画ファンからすれば「所詮、テレビ屋が『どうだこれ、面白いだろう?』とどや顔で出してくるつまらない映画」の一つに過ぎなかったからです。
ですが、本当に本作「祈りの幕が下りる時」には、確かに面白い映画の匂いが漂っていました。予告編の断片的な映像の中にある、撮影照明や背景美術、ロケーション等々からひしひしと「作り手たちの本当にやりたいことが実現できている」印象を受けたのです。
映画ファンでない人には「他の映画と何が違うんだろう?」と首を傾げるかもしれません。しかし、何百本と酸いも甘いも噛み分けた映画ファンには、この映画は面白くなっているかもしれないと予感を感じる予告編でした。
実際、本作は相当に良くできた映画です。かなり映画にうるさい自分でさえ、納得させられるほどのクオリティを持ったミステリー映画となっています。
少なくとも本作を見て、退屈することはまずないでしょう。
まずなんといっても、本作は冒頭からとてもテンポがいいです。今まで邦画がやりがちだった説明的な台詞を排し、テロップと組み合わせながらタンタンと気味の良いリズムで、複雑な話の中に観客を巻き込んでいるのですが、これがかなり上手いのです。
情報の出し方に過不足がありません。見れば分かることは言わず、見ても分からないことは言う。至極当たり前ですが、これが出来ているのと出来ていないのでは映画の出来は大きく変わります。
そして、本作は間違いなく、それが出来ています。
この時点でだいぶ感心したのですが、次に感心したのは撮影のクオリティです。残念ながら、最高の出来の撮影、というわけではありません。が、しかし映画としては申し分のないクオリティであることは間違いないです。
さりげない僅かな視点の移動や、些細なズームアップが画面を飽きさせない工夫として活きていますし、要所要所でのレイアウトもしっかりしていました。真相を明かしていくパートで、舞台の様子を窓に反射させ、そこ越しに二人を撮すのも象徴的で感心しました。なによりも途中、主人公・加賀恭一郎が橋の名前を次々言い当ててくシーンのカメラワークは見事です。あそこでメモ帳にだんだんと焦点を合わせていくのは完璧としか言いようがありませんでした。
さらに本作は細かい演出等への配慮も、かなりしっかりしていました。
特に自分が感心したのは、今回の真犯人が犯行に至るまでの描写です。正直、あの状況であの犯行を行うこと自体は、下手な描き方をすれば「サイコパスな、自分勝手な犯人が、自分勝手な納得で殺してしまった」ようにも受け取られかねない状況なのです。
しかし、本作ではそう受け取られないように、本作の肝であるメインテーマに反しないように、丁寧に気を使って描写をしていました。それは台詞も、もちろんそうなのですが、細かい演技でもそうなのです。あの人は、そうなることを望んでいたのだ、と感じられるようにちゃんと配慮をしているのです。
だからこそ、本作は本当に心置きなく、感動ができます。
実のところ、まったくこの手の物語で感動しない――どころか、冷ややかな目で見がちな自分でさえ、このクライマックスでは目が潤んでしまいました。音楽の盛り上げかたといい、非常に上手かったです。
本作はここの描写を完璧に描けたことが、今までの東野圭吾映画化作品とは一線を画しています。
ファンには申し訳ないですが、僕が見てきたかぎり、東野圭吾の映画化作品の最大のネックはこういう箇所だったからです。
東野圭吾は良くも悪くも典型的な直木賞作家です。ベッタベタで読んでいて背中が痒くなるような、頭の悪い高校生が大人ぶって喜んでそうな、読者に媚びまくった、そんな感動シーンを織り混ぜがちですし、しかも、それを無駄に強調しがちな作家です。
文章で読む分には、まだ"文章というマジック"が効いているので良いのですが、実際に映像にしてしまうと「なんか、うすら寒いぞこれ」と冷めてしまうことも多々ある作家なのです。
そこを見事に映像化出来ている本作は、なるほどシリーズ最高傑作とファンの方々が褒め称えるのも納得できます。