映画感想:コウノトリ大作戦!
映画『コウノトリ大作戦!』本予告【HD】2016年11月3日公開
恒例の手短な感想から
ピクサー!…じゃない!だが、面白い!
といったところでしょうか
自分としても、まったくチェックしておらず、映画館へ足を踏み入れて「見るものないなー」と迷っていたところ、偶然、気まぐれに観ただけだったのですが……それにしては、随分、大きな収穫があったと感じています。
本作、コウノトリ大作戦!は「かつての、もはや懐かしいとさえ言えるようなピクサー」がこの上なく完璧に継承された映画と言って過言ではありません。具体的に言えば、まだディズニーと統合される前のピクサーのテイストを、この映画は見事に踏襲しています。
悪く言えば、ピクサーのパチもん映画です。ただし、非常に良質なパチもんです。もう、いろんな箇所がピクサーにかなり似ているのですが――いえ、似ているというレベルではありません。
正直、ピクサーの新作と偽って公開した場合、「相当なピクサーファン、ですら、本作がワーナーブラザースの映画だと気づかないのではないか」と思われるレベルで、いろんな部分がよく似ています。作品の軽い雰囲気や、親と子の信頼関係を修復する物語であるところや、「子育ての大変さ」などをメタファーにしつつ、全体的な話を展開するところなど、表層的な部分だけでなく、テーマ的な部分まで「実はピクサーが作っているんじゃないか」と疑うレベルで、同じなのです。
そう思ってしまうのも当然のことで――調べて分かったのですが、本作、かつてピクサーで監督を務めたこともあった、ダグ・スウィートランドが監督を務めている作品であるようです。
かつて、90年代~00年代に、ディズニーではない映画会社が「当時のディズニーの雰囲気と、やたらそっくりなアニメ映画*1」をつくり上げたことがあったのですが、これらの映画はドン・ブルースという、ディズニーの中核を担ったアニメーターが関わっているから成立できたものでした。
それと同じ現象が、この2010年代後半に、ピクサーで、また起こっているようです。つまり、本作はピクサーという看板がないだけで、中身自体はピクサーと同じ人材が使われている映画なのです。
だからこそ、本作はもう……「かつてのピクサー」のテイストが堪能できるようになっています。
まず、映画の始まり方からして、いかにもピクサー的と言いたくなります。
「ポスターから想像していた観客の『こんな感じの話だろ』という印象を、わざと少し裏切っていく、意外なストーリー展開」を大胆に見せ、観客の興味を引きつけてから、主人公、コウノトリの会社の中でも、エリートな稼ぎ頭のコウノトリ「ジュニア」を登場させ――彼に昇進の誘いなんて話を舞い込ませ――同時にコウノトリの世界が、既に赤ちゃんを運ばなくなってしまったことも観客に説明しつつ……と、いかにも、ピクサー的、というか、設定がほぼモンスターズインク。
あまりネタバレしたくはないので、これ以上は、仔細には語りませんが、ここからの物語の展開もピクサー的としか言いようがない「論理的な話の展開」と「同時に大胆すぎるほどの、急展開」の連続が待っています。
もちろん、ここまで、自分は散々にピクサー的と連呼してきましたが、「だからといって、この映画が完全にピクサーと同じか」と言われると、また違います。
まず、全体的にピクサーよりも、ブラックさが目立っています。あくまで仄めかす程度ですが、きわどいエロギャグが混ざっていたり、もう一人の主人公である「ハンター」という女の子が、序盤は完全に頭のおかしい子として描写されていたり(で、実際、途中で変に母性本能に目覚めて、ハイになってるシーンがあったり……)と、ピクサーと比べるとブラックジョーク的……というよりも、悪ふざけがすぎる部分が目立っています。*2
また、映画としては、わりとその状態でも面白いので気にはならないのですが、脚本の構成が微妙に雑だったりもします。おそらく、映画を観た人は中盤あたりで「あ、その問題、コウノトリが来る前に解決しちゃうんだ」と驚いたはずです。実際、自分は驚きました。これがピクサーだったら、もうちょっと問題を引っ張って、主人公たちコウノトリのおかげで解決した的な展開にしそうなものですが……。
それ以外にも「それって説明になってないんじゃ……?」とか「で、結果、あの人はなんであんな行動取ったんだ……?」とか、疑問が浮かぶような箇所がいくつかあります。
ただ、正直、この映画は「全体の大きなテーマ」や「立派な筋書き」があってどうだ、という内容ではなく、明らかに上記の悪ふざけと、同時にちょっと「子育ての大変さ」みたいなものを描写することが目的の映画なので、全体の話が多少雑でも、面白さが損なわれてはいませんが……。
そして、ここも少し言及しておきたいのですが、この映画はピクサーよりも少し保守的……とは少し違うのですが、「キリスト教」の趣が強めの作品にもなっています。
終盤、コウノトリがコウノトリとして、赤ん坊を運ぶことを決意するシーンで、「天が、自分たちを赤ちゃんを運ぶ鳥として作ったのだから、赤ちゃんを運ぶのだ」と主人公が、コウノトリたちを奮い立たせるシーンがあります。
これ、日本人には分かりづらいかもしれませんが、キリスト教的な「この世の生物は、全て、神様が作り、役割を与えてくださったものなのだ」という考え方が前提に入っているセリフなんです。
映画中、同性愛者の手元にも、コウノトリが赤ちゃんを運んでいたりしたため、そこまでキリスト原理主義等の保守的な考えが反映された映画ではないと思いますが、ただ、若干、そういった「キリスト教の教義」に寄ってもいる映画なのです。
そういった面も読み取って、本作を鑑賞すると、実はより発見があるのかなと思います。
ともかくとして、期待していなかった分、非常に楽しめた一作でした。
映画レビュー:王将
時は明治。将棋界ではそろそろ家元制の名人から、実力制の名人への移行を考える機運もあるような、そんな時代。
坂田三吉は関西の将棋ファンの間では、名を轟かせている人物だ。普段は、長屋住まいで草履を拵えるくらいのことしか出来ず、妻の小春には「子どものような人だ」と言われてしまうような彼だが、小さい将棋大会に顔を出せば「あの坂田三吉さんですか」と周囲から感心されてしまうほどの強豪将棋指し。
事実、坂田三吉はそれほどの将棋が好きであり――普段なら、深々と頭を下げて、どんな人とも丁寧に接するような誠実な人なのだが――将棋に出るためならば、家財はおろか、仏壇や、娘の着物まで質に入れてしまう始末。しかも、最近、三吉は目が見えなくなってきていて、家業の草履づくりも禄にできない状態で、妻の小春は、そんな三吉に振り回されてばかり。
そんな中、ある棋戦で坂田三吉は関根という、プロの七段棋士と対局し、千日手を指してしまって、規則により負けてしまう。将棋で負かされたのではなく、規則に負かされたことに納得がいかない三吉は、関根を打倒することに闘志を燃やし、更に将棋にのめり込むようになってしまう。
とうとう、うんざりした小春は――――
もうそろそろ「聖の青春」が公開される頃です。「聖の青春」は、かつて七冠を取り、今でもなお将棋界のトップを争い続ける現・羽生善治三冠と、並び称された西の天才――村山聖の物語です。「東の天才」に対して「西の天才」も実は存在していたのだ、という。
……実はこの「王将」も、全く同じ映画なのだ、ということは殆どの人がご存じないと思います。
元々、坂田三吉は棋士の中では、あまり有名な棋士ではありませんでした。(もとより、棋士という存在を知らない人も昔は多かったのですが……)事実、彼の死亡記事は新聞の片隅にちょっと載っただけです。当時の世の中では、そんな程度の人。
しかし、そんな彼が「実は、東の名人・関根金次郎とライバル関係にあるほどの男だったのだ」と世に知らしめたのが、この映画――もとい、映画の原作である戯曲――なのです。
関根金次郎……という男は、簡単に説明して「明治の羽生善治」です。東側で名人を襲名した男であり、家元制の、誰かが代々次ぐことになっていた名人を、実力制の、実力の闘いで勝ち取るものに変えた男であり、その後、彼の弟子である木村義雄が、常勝将軍として名人の座に就くことになるのです。
そんな男に対する「西の天才」を描いた物語が、実は「王将」なのです。
こう言われると、おそらく、殆どの人はこの映画に対する見方が変わるのではないでしょうか。殆どの人は、漠然と「破天荒な将棋指し」の物語で「なんだか、爺さん世代が好んでた古臭い映画だったな」とか、そんな認識で覚えていたはずです。
そんな認識のいる人ほど、一度でもいいからこの、阪東妻三郎版の「王将」は見たほうがいいです。
まず、主人公がまったく破天荒ではありません。むしろ、主人公はとても腰が低く、なんだかお馬鹿でどうしようもないのだけど憎めない、無邪気な人物像となっています。
そして、映画に詰まった様々な要素の数々は、どれもが現代でも通じるほどの普遍的な内容で……例えば、関根と坂田の関係性は、もう殆ど少年漫画の原型といっていいくらいです。
初顔合わせで「千日手(=事実上の引き分け)」で終わったところから、関根と坂田、お互いにお互いをライバルと意識するところ。ライバルの中で、熾烈な一戦を交える二人、時に情けない手で卑怯に、相手から勝ってしまったという、苦い勝利の味を覚えることもあり……そして、最後に「あんたが居なければ、自分はここまで強くなれなかった」と互いに互いを認め合う姿……全て含めて少年漫画のフォーマットをなぞったかと思うほどの展開が入っています。
なおかつ、この映画は長屋の貧乏暮らしの男が、色んな人の手に支えられながら、社会を勝ち上がっていく映画でもあります。あまり普段は頭の良い様子でもなく、目の病気を負い、今にも失明するんじゃないか、仕事もできなくなるんじゃないか、と思われていたような男が、将棋を通じて、だんだんといい暮らしを手にしていく過程――なんて、現代こそ、特に好まれている描写ではないでしょうか。
しかも、この映画は、そんないろいろな要素を兼ね備えながらも、主軸としては、あくまでトンデモナイダメ夫を持ってしまった妻の、並々ならぬ苦労記なわけです。つまり、女性からの視点というものも、多く入っているわけです。
なおかつ、そんな夫婦の、とても簡単には言い表せない関係性を描いた映画でもあるのです。
正直、自分も鑑賞するまで、本作がこれほどまでに、現代でも通じるような内容のある映画とは到底、思っていませんでした。聖の青春が公開されるとか、将棋を知っているとか知らないとか、そんなことは関係なく、本気でオススメ出来る一作です。
映画感想:聲の形
恒例の手短な感想から
予想を裏切って素晴らしい!!
といったところでしょうか。
正直、最初に京都アニメーションがアニメ化すると聞いたときは、かなり不安になりました。聲の形は、そこらへんのネット世界にどっぷりな人たちに、ありがちな「イジメ、ゼッタイ、ダメ」的な解釈も――「報われない主人公たちのうんたらかんたら」的な解釈も――いわゆるリア充的な側からの「障害のある恋、かわいい」的な解釈も――「障害、かわいそう」的な解釈も――あるいは、イジメ経験側からの「イジメたやつはとにかく悪いんだ」的な解釈も――全てやったら、一発アウトという、ものすごく難しい案件だからです。
それを果たして「けいおん」や「たまこまーけっと」の山田尚子監督が、映像化出来るのかと考えたら……当然、疑問しか浮かびません。
が、不安に反して、本作は聲の形が抱えている「いくつものテーマ」の中から、見事に「本筋のテーマ」を見出すことに成功しています。本編中、観客が単純に「こいつ悪いやつ。良いやつ」と解釈しそうになる心を、何度も裏切り続け、延々と惑わせていくストーリーと演出の数々に、誰もが「これはとても難しい問題を突きつけてきている」と感じたはずです。
考えさせられる、という感想を並べる人も多いことでしょう。
そう感じざるをえないほどに、この映画が的確に「聲の形」の全てを描いているからです。全てを描いているとは、つまり、上記のような幼稚な解釈たちを俯瞰できる、一つの大きな解釈を提示している、ということです。
ハッキリ言えますが、聲の形は「障害の話」でも「恋の話」でも「いじめの話」でもありません。それらは「そういう現実」という舞台として用意されたものに過ぎないのです。
耳の聞こえない人も、イジメた人も、イジメられた人も、現実としてどこにだって存在しています。イジメられた人が、かつてはイジメた人でもあった――そんなことだって、別に珍しいことではありません。誰もハッキリ言わないだけです。そんな現実は陳腐なほどに存在しています。
ですから、実はこれらをテーマにしたところで、特段、胸に訴えるような作品にはなりえませんし、作品としての意義もありません。
事実、イジメをテーマにしたものも、障害をテーマにしたものも、散々ありますが――大体にして、見ている人の「こんなのに同情できる私ったら良い人ねぇ」という自己満足を誘って、なにも意識を変えずに終わり、という、ゴミみたいな結果しか生み出してきませんでした。
聲の形がそれらと一線を画す存在になっているのは、それらの上を行く話を描いているからです。
本作は、「そういう自分の周りにある、圧倒的な、取り返しなどつかない、変えようもない、どうしようもない現実という暗中で、もがきながらでも成長する――しなければならない理由を描いた話」なのです。
ここに気が付いて、ちゃんと映像化しているからこそ、聲の形は、非常に意義のある一作となっていると言えるでしょう。
予想を裏切って素晴らしい作品でした。
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……蛇足ですが、立川談志という噺家が言った「よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。」という言葉はご存知ですか?
まあ、人によっては「なんて酷いことを言うんだ」なんて言われたりする、冷たい現実を突きつけた言葉なんですが……実は、この言葉、続きがあるんです。
よく覚えとけ。現実は正解なんだ。
時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。
現実は事実だ。
そして現状を理解、分析してみろ。
そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。
現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。
その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う
映画感想:無垢の祈り
[Innocent prayer ]Movie Trailer#1.1「無垢の祈り」予告篇#1.1
恒例の手短な感想から
うーん……評価に困るなぁ……
といったところでしょうか。
『無垢の祈り』という映画は、一部の映画ファンをだいぶヤキモキさせた映画でした。平山夢明の同名短編小説を原作としているこの映画は、2015年に完成した後、公開してくれる映画館がまったく決まらなかったのです。せっかく商業監督が、自主制作で作り上げた映画だというのに、後悔しないまま、お蔵入りになるかもしれないとも囁かれていました。
なぜ、そのような事態に陥っていたかというと……一言で言って「原作が平山夢明だったから」です。
平山夢明とは、一部ではそれは有名なホラー作家であり、ミステリー作家です。どう有名なのかと言えば、その内容のあまりの苛烈さで有名なのです。
残酷描写や汚物描写が、所狭しと並び、その一つ一つが異様にリアルで気味が悪いという、トンデモナイ作家が平山夢明なのです。
彼の著作には、内容自体が、どろっとした血の泥を背中に流し込まれるような不快感、不穏さ、不安感、幻惑感を読者に叩き込んでくる小説も多く――例えば、「片足が義足である障害者の女性が、突然自宅に押しかけてきた、頭のおかしいプロレス野郎どもに、理由もなく、次々拷問のようにプロレス技をかけられて体の部位をもぎ取られて殺される話」などという、いろいろと酷すぎる話があったりする小説家なのです。*1
そんな人の著作を、実直に映画化してしまったら、どうなることか。
想像に容易いと思いますが、本作、内容がかなり苛烈なことになっています。そのせいで、この映画は公開を危ぶまれていたのです。倫理から考えても酷薄な内容の映画を、公開したがる映画館がなかったのです。
と、まあ、上記のような事情があり、非常に公開が危ぶまれていた本作ですが、個人的には非常に見たかった一作でした。なにせ、自分は、本当にコアな人ほどではないまでも、それなりに平山夢明の新作が出れば買って読み漁ってしまうくらいには、彼の著作が大好きだからです。
確かに残酷描写や汚物描写、及び下町の廃れた描写に関しては不快になるほどの強烈さを持つ作家ですが、同時に悪夢かと思うほどの奇天烈なアイディアや、シーンの数々、残酷描写からふとやってくる感動的な展開など、ただ残酷なだけではない奥深さのある内容に、かなりヤラれてしまっていまして…。
そういうこともあって、非常に映画化されるという話を聞いたときから、見たくて仕方なかったのです。10月14日までの短い上映期間ですが、なんとしても見たいと。
そうして、期待に期待を重ねて観に行った本作ですが……。
う、うーん……。
いえ、本作の全てがダメだと言うつもりはありません。かなり、原作の――というよりも、平山夢明の――テイストを上手に引き出している部分もあり、ラストの改変も悪くないと思っています。*2
平山夢明という作家は、例えば腕を引きちぎられる場面を、読んだ読者が本当に自分の腕が引きちぎられたのではないかと錯覚を覚えさせるほどに、リアリティある描写の上手い人なのですが、同時にそこはかとなく、作品に常にシュルレアリスティックな雰囲気が漂っている作家でもあります。非常に抽象的な場面も多いのです。
なので、リアル一辺倒な描き方では決して映像化の出来ない作風の作家とも言えるでしょう。本作も、そこに気づいていて、抽象的と言わざるをえないある”仕掛け”が映画に施されています。
この"仕掛け"は、この映画において最も成功した部分でしょう。おそらく、初めて「とある人に見立てられたアレ」を見た瞬間、観客はギョッとさせられるはずです。同時に、否が応にも、従うしかないその人物の境遇をよく象徴してもいて……だからこそ、ああいうオチになってしまうんだ……という説得力の補強にもなっており、いろんな効果を映画に与えています。絵面としても、ある種、ヤン・シュワンクマイエル的なセンスに近いものを感じられて素晴らしいのです。
そういうところは良いのですが……。
如何せん、どうにもこの映画は、あちこちで監督の力量不足が見え隠れしています。例えば、初めて耳を見つけるシーンは……これはちょっと、無駄に尺を水増ししているようにしか見えないでしょう。主人公が、長回しのカメラであんな歩きまわる意味って一体……? せめて、一瞬でも良いから、観客に「あれ、あそこに、なんかあるぞ…? なんだあれは…?」と思わせるようなカメラワークを入れるべきでしょう。それだけでも、だいぶ変わったはずです。
このように、この映画は、なんだか無意味に映しているシーンが多すぎるんです。暗い絶望的な日常の描写のために入れているにしても入れすぎですし、水増ししているような印象もあって、結構、中盤は苦痛です。
他にも、原作者の平山夢明氏が、カメオ的に出演しているシーンがあるのですが……これも困ったものです。いえ、自分としては、確かに平山夢明氏が動き回っている姿を見るのは好きなのです。とはいえ、出すタイミングがおかしすぎでしょう。正直、平山夢明氏が出てくると、ちょっと笑いそうになってしまうので、このタイミングで出すのは、やめてほしいです。
あと、ちょいちょい説明的なセリフが気になります。しかも、言ってることが結構陳腐なのも「なんだかなぁ」と。
そういうわけで、この映画は困るんですよね。手放しで褒めたいのですが、うーん、それは無理かなと。
映画感想:ハドソン川の奇跡
C・イーストウッド監督×トム・ハンクス主演『ハドソン川の奇跡』予告編
恒例の手短な感想から
これが良い映画だろ!
といった感じでしょうか
正直、さすがに不安も大きかったのです。いくらクリント・イーストウッドといえども、今回の題材を一体どうやって映画化するのか、と。「ハドソン川の奇跡」といえば、近年でも有名な飛行機不着水事故です。遠く離れた日本でも、大々的に報道され、その後の顛末も含めて、当時、かなり仔細なことまでキッチリ報道されていました。
つまり、ハッキリ言って「観客として見に行く人々は、主人公のサリーがどうなったかなんて百も承知」の状態なわけです。だから、予告編の内容を見ながら「え、『ハドソン川の奇跡』のそこを映画化するって、結構、無理がないか?」という心配がどうしても出てきてしまいます。
果たして、映画として見れるものになるのか、と。
その状態で、クリント・イーストウッドはどんな手を打って、本作を映画化するのか非常に気になっていたのですが……。
クリント・イーストウッドは、真正面から、ストレートに映画化していました。
この映画、まったく余計な”味付け”をほとんど行っていません。ハドソン川の奇跡を起こしたパイロット・サリーと例の事故調査での一件を中心に、非常に、淡々と当時起こったことを、そして、騒動に巻き込まれる中で、サリーがどのような心境に陥っていたかを、シンプルな演出で描いていくのです。
例えば、航空機パニックものを意識したような、パニック描写や事故描写等々の過剰な演出を入れることもありません。乗客がギャーギャー喚いたりすることもないのです。
そして、過剰にサスペンス的に魅せようともしていません。一応、最低限の映画を面白くするための要素として「ハドソン川の奇跡のとき、パイロット室では何が起こっていたのか?」という謎を残したりしてはいます。が、過剰に観客をドキドキさせるような、思わせぶりな演出は避け、事故調査も、誰かが過剰に声を荒らげることもなく、あくまで淡々と進んでいくのです。
本当に、まったく味付けがされていないのです。
しかし、不思議なことに本作は、とてつもなく面白いです。
淡々としている映画なのですが、いえ、むしろ、淡々としているからこそ、この映画はなんとも味わいの深い一品となっています。
なにも過剰さのない映画です。徹底的に抑制を利かせている映画です。しかし、そのおかげで、画面上にある細かい情報や、監督の意図まで観客が読み取れるように出来ているのです。
だからこそ、『ハドソン川の奇跡』が、ただハドソン川の奇跡を描いただけの映画ではないことに、観客も気づくのです。
まず、この映画は『ハドソン川の奇跡』と、ある出来事を重ね合わせていることが随所で読み取れるように作られています。
それは911です。主人公のサリーは、事故の後、ショックから何度か『あのハドソン川の奇跡で失敗して墜落してしまう幻覚』を見るのですが、この墜落する飛行機の様子が、完全にニューヨークのビルに飛行機が突っ込んでいった、あの悲劇を思い起こさせるような描写にあえてしています。
事実、セリフ上でも、しれっと911のことを暗に言っている場面が存在しています。
つまり、クリント・イーストウッドは『ハドソン川の奇跡』と『911』が表裏の存在であると考えているのです。少なくとも、ニューヨークという街にとっては、そうなのだと。
そして、どうして『ハドソン川の奇跡』が『911』と表裏と言えるのか、ということを、この映画はサリーの騒動を中心にしながら少しずつ描写していくのです。
――話は少し変わりますが、この映画、予告編を見た段階では…あるいは記事をここまで読んだ段階では、サリーのみを主人公とした映画だと思うのではないでしょうか。実は違います。
この映画は、確かにサリーを中心としてはいるのですが、彼のみが主人公というわけではないのです。実はこの映画は、彼を中心とした群像劇となっています。
特に『ハドソン川の奇跡』が起こった当日の様子は、沿岸警備隊や、管制塔や、乗客や、様々な人の視点から『ハドソン川の奇跡』を描写しており、サリーの視点もその中のあくまで一つ、という扱いになっており、群像劇としか言いようがない描き方をしているのです。
ようするに、これこそが『ハドソン川の奇跡』が『911』の表裏と言える根拠なのでしょう。あの瞬間を中心に、様々な人が次々に動きを見せたことが――たとえ、その一つ一つの中に、結果的に無駄骨な苦労があったとしても、全員がその瞬間にとっての最善を尽くそうとしたことが、表裏と呼べる要因なのだと。
それをほぼ、説明なしに(最後にちょっと字幕が入る程度)で画面だけで伝えようとしてくる、この映画はまさに「上品な良い映画」でしょう。
テーマに限らず、細かい描写でも、この映画はほとんど説明を入れません。ただ、人々の視線の動きや、表情や、座り方などで、状況や感情を描写してくるのです。これが良い映画でしょう。
劇中に出てくるジョークも、とても気が利いていてオシャレでした。最近の、幼稚にもほどがある洋画のギャグには、うんざりしていたのですが、本作で久々に、頭の良い笑いを聞けたことにも満足しています。これが良い映画でしょう。
これが良い映画なのです。