儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

雑記:世界の中心で愛を持たぬ葦はいない

bylines.news.yahoo.co.jp

 

 ツイッター等々では、あいも変わらずシン・ゴジラの話題で盛り上がっているわけですが、そんな中で映画ファンたちが、上述の記事を引きながら、なんだか「こんな取締役がいるから邦画がダメになったんだ」などと罵っていましたので、気になってちょっと拝読しました。

 なかなか興味深い記事です。そして、笑える記事でもあります。

 庵野監督はゴジラへの愛情など皆目なかったことや、庵野監督を起用した経緯、製作の経緯など、その顛末は思わず笑えて面白いのです。それを明け透けに話してしまっている市川氏の度量の大きさ――というか、悪く言ってガサツさ(笑)も含めて非常に笑えます。

 

 で、読み終わった後で自分はよく分からなくなりました。

「なぜ、ネットの人たちはこんな人を必死で叩こうとしているのか?」と。

 どうやら、ツイートなどを見るかぎりこのインタビューにある、この一節が気に食わなかったようなのです。

我々としては恋人がいたほうがいい、長谷川博己さんと石原さとみさんは元恋人にしましょうとか言ったんですけど、庵野さんはそういうのどんどん排除していって、人物たちのバックボーンは描かない脚本になりました。 

  自分としては「まあ、それは商売としては、そういうこと言うだろうな」と思うのですが、この一文が気に食わなかった様子なのです。そして、大体「恋愛要素を入れようとしたコイツらは無能の凡才で、庵野監督は有能の天才。こいつらがいるから邦画が面白くなくなる」といった旨のことが言いたくて、罵っているようなのです。

 中には「ゴジラには、恋愛要素は余計」などという言葉も散見されますから。

 

 だからこそ、なおのこと、自分はわけが分からなくなりました。

 

 この人達の言ってることを照らし合わせると、つまり、一作目の「ゴジラ」が駄作で、本多猪四郎監督は無能の凡才ということになってしまうからです。なぜなら、それは簡単な話でゴジラ一作目は、恋愛要素がガンガンに入っている映画だからです。

 

 ゴジラという映画は、長らくいわゆるボンクラ映画ファンのものとされてきたため、非常に内容が誤解されているところが多い映画です。ハッキリ言いますが、この映画の筋書きは「原爆」と「三角関係」と「科学」の柱で出来ています。この三本の柱で観客の興味を引っ張り続けている映画なのです。*1

 ゴジラを倒す兵器・オキシジェン・デストロイヤーを開発した有名な芹沢博士。彼を映画評論家たちは孤高の科学者のように表現することが多いと思いますが、彼、実は主人公・秀人の恋人である恵美子と元婚約者の関係です

 この時点で分かると思いますが、芹沢博士と秀人と恵美子は三角関係になっています。そして、ゴジラという映画は、この「三角関係に揺れる人間模様」が話の軸の一つになっていたりします。恵美子と秀人、芹沢と恵美子、そして、芹沢と秀人。それぞれの大人な関係性があってこそ、盛り上がる筋書きなのです。

 そして、だからこそ、芹沢博士が単身でゴジラを倒しに行くことに、ある種のカタルシスが得られるのではないですか。

 その芹沢の姿が「自身と浮世を唯一、繋いでいた婚約者さえも、とうとう本当に自分から離れてしまったからこそ、世を捨てようとした」ようにも「たとえ人のものであったとしても婚約者を守ろうとした」ようにも捉えられる、どちらにも捉えられる――いや、むしろ、その両方を選択したかのようにさえ見える――それほどに、人間の深い部分を描き出しているラストだからこそ、ゴジラは感動できたのではないでしょうか。

 彼の行動が、愛も厭世も含まれた行動だったからこそ、素晴らしかったのではないでしょうか。

 

 ゴジラに恋愛要素は要らない――まあ、そういう価値観もありでしょうが、残念ながら一作目のゴジラは恋愛要素もある映画なのです。

*1:『戦争の英霊が云々』という話は、後に評論家たちが解釈として付け足したものであって、”筋書き自体”はこの三つで構成されています。

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