儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画感想:ジョン・ウィック:パラベラム


映画『ジョン・ウィック:パラベラム』特報

 恒例の手短な感想から

前半は駄作、後半は良作

 といったところでしょうか。

 

 映画の前半と後半でこうも中味が違う映画も珍しいです。ハッキリ言って「前後を二つに分けて、それぞれ別の映画として鑑賞するべきではないか」と感じるほどに、映画としてのタッチが違うのです。まるで別々の監督同士で二本連作映画を作っているような違和感が本作にはあります。なぜ、このようなことになってしまったのでしょう。

 

 ハッキリ言って、映画の前半はどう見ても救いようがないほどに駄作です。

 古くさいボンドガールを連れるキアヌ・リーヴスが、ぐだぐだと台詞で、シュールだった前作までの物語を整合性を取ろうとあれこれ言い訳しているだけの内容です。当然、前作までの鈴木清順を感じさせるケレン味溢れるシーンなども特にありません。

 しかもジョン・ウィックシリーズ特有の「様々な映画をオマージュしすぎて訳が分からなくなっているシュールさ」もなく、ジョンウィックのアクションは妙に残酷な上に「それ実質、ただの死体蹴りだよね?」と言いたくなる箇所もあり、あげく「奥さん一筋、愛情と仁義通しきります」という人物像だったからこそ憎めなかったジョン・ウィックが他の女をベタベタ頼っていくストーリー展開は、見ていて嫌悪感しか覚えないでしょう。

 

 一作目のジョン・ウィックは殺し屋たちの組織構造にしろ、ジョン・ウィック本人にしろ、その場で思い付いたような設定がじゃんじゃん出てくる上にそのどれもがシュールで説明が全くないから面白かったのです。

 そのシュールな説明不足さが、ツッコミどころとして笑うこともでき、そして時には感心するような芸術性も帯びていたから、鑑賞してなんとも満足感のある映画になっていたはずです。そのシュールな部分をわざわざ、全部説明してしまっている本作の前半なんて、俳句を読んだ後で口早に説明を垂れるようなものでしょう。野暮すぎる。

 

 そんな前半を越え、後半に差し掛かり、シュールな板前の殺し屋集団が登場するようになって、各登場人物の行動がどんどん意味不明になっていくに連れて、本作は面白さを取り戻していきます。

「お前ら、瞬間移動でもしてんのか」といいたくなるほど、不思議な場所からにゅるっと現れて、サクサクと雑魚を殺しながらターゲットに向かっていく彼らの姿に「そうそう。それだよ、それ」と言いたくなった人は多いことでしょう。実際、この後からジョン・ウィックもまったく説明なく瞬間移動したり、「いや、普通に水から上がって撃てば良いだろうが」とツッコミたくなる*1水中戦があったり、どんどん各人物の行動も「細けぇこたぁいいんだよ」とばかりに整合性がつかなくなっていきます。

 しかし、おかげでこの映画の後半は面白いのです。いかにジョン・ウィックからシュールを抜いたら、ただのダメな映画になるかが如実に現れているといえるでしょう。

 一作目の時点で当ブログは指摘していましたが、ジョン・ウィックとは任侠映画や時代劇映画、カンフー映画とガンアクション映画を足して、そこに芸術映画を掛けようとしている、なんかよく分からない鵺みたいな映画であり、それこそが魅力なのです。

 二作目はストーリーまで小難しくしてしまったために、この魅力が半減していましたが、だからといって本作の前半のように、ストーリーを小難しくするために、シュールさを抜いたらダメなのです。むしろ、後半のようにストーリーは極限まで分かりやすくして、シュールさをつぎ込みまくる方が遥かに良いのです。

 

 ジョンウィックシリーズは、これ以降も続いていくようですし、続くならばぜひ作り手はそこを忘れないで欲しいところです。

*1:でも、あのプールでの撃ち合い映像としてはとてもシュールで芸術性高いから個人的には好きです。なお、このシーンはおそらく座頭市のオマージュです。座頭市シリーズのどれかは忘れてしまいましたが、同じように風呂の中で市がバサバサ人を斬るシーンがあったはず……

映画感想:見えない目撃者


【本予告】映画 『見えない目撃者』/9月20日(金)公開

 恒例の手短な感想から

かなり面白いけど、かなり怖い

 といったところでしょうか。

 

 韓国のサスペンス・スリラー映画を元に作り上げた映画ということで、本ブログとしては「22年目の告白-私が殺人犯です-」をどこか思い出すような過程を経ている映画だなぁと思いながらの鑑賞となりましたが、いやー、本作「22年目の告白-私が殺人犯です-」とは、印象がまったく異なります。

 

「22年目の告白」はアクションや残酷描写を軽めにしつつ、謎解き部分をより面白くしていくという、いかにも日本人らしいやり方でのリメイクを図っていましたが、本作、見えない目撃者はその逆を行っています。

 端的に言って、向こうの映画らしい残酷表現やスリラー部分を、違和感なく日本に置き換え、とにかく観客に「恐怖の殺人犯がいる」というリアリティを感じさせることに注力しております。これでもかと言うほどに血塗れた映画となっており、なんなら、犯人の凶悪さと不気味さは、元の韓国映画版よりも酷くなっているという始末であったりします。

 

 本当に「園子音や三池崇史でもないのに、よくここまでやりますね」と言いたくなるほどに死体の描写も殺人の描写も、ものすごく恐ろしい描き方がなされている映画となっており、そっちの方面に振り切って日本リメイクさせたプロデューサーの野心的すぎる判断が光る一作と言って過言ではありません。

 

 

 しかし、おかげで本作は本当に面白い映画になっております。多少、「え、その演出は安いでしょ」と言いたくなる部分も数箇所あるのですが、本当にそれは数箇所だけの話です。

 それ以外はまったく手を抜いていない映画であり、おかげで映画の始まりから終わりまで、吐きたくなるほどの緊張感とハラハラをまとっていて、一瞬も目が離せない映画となっています。

 特に個人的には「本当に日本映画なのか、これは」と言いたくなるほど、カメラワークが素晴らしかったです。邦画っぽい撮り方を徹底的に排し、代わりに照明からスローの使い方から構図に至るまでが韓国の映画っぽい撮り方に変わっているのです。これは感心しました。

 

 プロデューサーとして向こうの人が関わっているので、そのため、このようなカメラワークを可能に出来たのかもしれませんが、それにしても、邦画の中で本作が特異な出来となっていることに変わりはありません。

 

 この特異なカメラワークのおかげで、観客は「この映画はなにか雰囲気が違う」「なんだか雲行きが怪しい」と予感することが出来、その予感があるからこそ、後に来る恐怖が一層引き立ってくれるのです。

 

 そして、その引き立った恐怖感の中で、犯人役を演じた浅香航大さんの怪演としか言いようがないサイコパスっぷりや、巧みに論理的に主人公たちを「そうせざるをえない状況」に追い込んでいく脚本の構築などが、観客にガンガンとキツイ一撃を加えていくわけです。

 あまりにもキツイ一撃が多いので、怖がりな自分なんて、この映画を鑑賞した帰り道は「道路脇から殺人犯とか急に出てこないよな」と警戒しながら帰ってしまいました。それくらい、本当にこの映画にはシャレにならないものがあります。

 

 ただ、惜しむらくは、若干鑑賞していて気になったのですが……犯人が主人公を捕まえたときに言っていた「俺とお前は同じだ」って言う犯人の独白――あれ、この映画に要りました?

 セリフとして、ちょっと説明的すぎる点も問題あるのですが、それ以上に、この物語ならば、そもそも主人公と犯人を対比する必要性がないのでは……。あと、犯人に切りつけられた盲導犬の姿も「犬に、そんな微妙な特殊メイクしか施せないんなら、そのカットを入れないほうが良かったんじゃ……?」と気になりました。

 

 その二点だけ惜しいのですが、それ以外は本当に素晴らしい映画だと思います。

映画感想:この素晴らしい世界に祝福を!紅伝説


『映画 この素晴らしい世界に祝福を!紅伝説』本予告第1弾

 

 恒例の手短な感想から

ふざけているようで、ちゃんとしてる!

 といったところでしょうか。



 本作に対してこのような感想を書くことはかなり意外かもしれませんが、自分が鑑賞したかぎり、この「この素晴らしい世界に祝福を!紅伝説」は、かなりちゃんとした面白い映画でした。

 

 もともとTVシリーズの時点で、昔の90年代前後にあったファンタジーアニメやライトノベルの薫陶を受けたことが分かる内容で、とても好感を持っていたのですが、その好感を決して裏切らない内容になっていると言えます。

 90年代のファンタジーアニメの薫陶とは、ズバリ言って「既存の真面目なファンタジーに対する、強烈な皮肉であり、パロディ」という面です。簡単に言ってしまえば「おふざけファンタジーです。

 

 この素晴らしい世界に祝福を!――通称「このすば」は、90年代のファンタジーアニメにあった「おふざけファンタジー」という要素を、見事に2010年代のいわゆる「異世界転生ものなろう小説」の形式に違和感なく混ぜることが出来ており、そこが何よりも優れています。

 フォーチュン・クエストなどのライトノベルと、本作の比較をしてみれば「このすば」が、いかに上手くそれらの要素を「なろう小説」に巧妙に溶け込ませたか、よく分かることでしょう。

 

 そして、本作、劇場版「このすば」も、おふざけファンタジーの点がとても素晴らしいクオリティで出来上がっております。

 凶悪なはずの魔王軍が逆にボコボコにされているという観客の予想を裏切る展開や、金勘定と己の欲に目ざとく異様に俗っぽいファンタジー世界住民の姿など、従来のシリーズ以上に本作はおふざけの面が強くなっており、単純に見ていて楽しいのです。

 

 最初の展開こそ「おいおい、そのテンションで映画をやられても困るぞ」と言いたくなる瞬間もあるのですが、そんなものはあっという間になくなり、あれよあれよと話が次々に転がって、主人公であるカズマはいろんな酷い目にあったり、逆に酷いことをしようとしたりと、飽きない展開が続くようになっています。

 本当におふざけファンタジーとして、よく出来ているのです。

 

 そして、おふざけファンタジーだからと言って決して魔法などの描写に手を抜かないのも好感が持てます。TVシリーズでも、この点に感心していましたが、劇場版はそれ以上に手を抜いていません。

 

 なにせ「なるほど、この迫力ならば劇場版として映画にするのも当然だな」と思わせるだけの、迫力ある豪勢な画づくりでバンバンと魔法が飛んでいくのですから。



 実は劇場版にあたって、本作、製作するアニメ会社が変更したりしているのですが、まったく違和感がないほどによく出来た仕上がりです。むしろ「え、そこまでやります?」と言いたくなるほどに、作画などで過去シリーズのオマージュを入れているくらいです。

 

 その上、前述したように「わざわざ長い尺で、デカイ音響を用い、巨大スクリーンを使う映画にするだけの」内容にブラッシュアップすることも出来ているのです。

 正直、エンタメ映画としては、十二分に満足な内容と言って間違いありません。

 

 しかも、本作はそれだけに飽き足らず、「ちゃんと一本の物語として」まとめる工夫も行っています。

 わざわざ原作から話の流れを変えてまで、映画の冒頭に「めぐみんの爆裂魔法でカズマが困っている」シーンを出し、最後に対比として「めぐみんがカズマに『爆裂魔法だけじゃ困るでしょ?』と尋ねさせ、カズマが『爆裂魔法だけで行けよ』と言う」シーンを入れることで、一つの物語として綺麗にテーマをおさめたことは、本当に英断だと言えます。

 

 おかげで映画として、かなり綺麗でしっかりとした作品になったと言えます。おふざけファンタジーにも関わらず、この作品は「しっかり」しているのです。

 

 このシリーズを知らない人でも、初見で楽しいと思える映画にすらなっているのではないでしょうか。

 いろんな人にオススメできる、素晴らしい映画です。

映画感想:ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -


『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』予告

 恒例の手短な感想から

面白いが、とてつもなく歪な出来。

 といったところでしょうか。

 

 

 今の京都アニメーションの状況を鑑みると、このようなレビューを書くことは大変に心苦しいのですが……しかし、本作が作品として歪な出来になっていることは指摘せざるを得ない状態です。

 面白いことは面白い映画でした。しかし、その面白さよりも本作はテーマや、話の構成のヘンテコさが異様に目立つのです。

 

 これは決して、京都アニメーション自体が抱えている問題ではありません。

 このブログでも、何度か京都アニメーションの映画は取り上げていますが、そのいずれも「映画という形式に対して、明らかに話の構成がおかしい」などという内容ではなかったからです。

 

 つまり、本作の問題点はどちらかというと、ヴァイオレット・エヴァーガーデンという作品自体が抱えている問題点が露呈している結果だと言えます。



 白状しますが、自分はそもそもヴァイオレット・エヴァーガーデンというシリーズ自体が苦手です。

 京都アニメーションが製作されているヴァイオレット・エヴァーガーデンというアニメシリーズ――確かにクオリティは高いアニメシリーズであることは疑いようがないのですが、根本的な話のテーマや、筋書き、設定など、どうしても自分の中でモヤモヤするものところがあり、どうしても「苦手だなぁ」という印象を拭えないのです。

 

 いわゆる西洋文化の古典的な作品をリスペクトしたいのか、あるいはそれを破壊したいのかよく分からないどっちつかずの雰囲気を作品全体がまとっているところ、変に感動的な話にしようとするところ、自立した女性を描きたいのか描きたくないのか中途半端なところなど、このシリーズは一体なにがしたいのでしょうか。



 本作も、やはりそのような作品になっており、自分としてはとてもモヤモヤした感覚を覚えるのです。

 

 特に本作に対してモヤモヤとした感覚を覚える理由は、その話の構成のヘンテコさ加減です。

 90分以上も尺のある映画で、その前半が過去の回想という構成は、相当に異様な構成です。ハッキリ言って、前衛芸術系の映画かと言いたくなるようなおかしな構成となっています。

 

 詳しく内容を解説すると、前半の話は、ほぼシェイクスピアの喜劇「じゃじゃ馬ならし」の話をオマージュしているだけの話となっています。ただ、「じゃじゃ馬ならし」は今の時代的には女性をバカにしているとも受け取られる内容なので、不味いと判断されたのか、本作は喜劇というよりは女性同士の愛情に限りなく近い友情劇となっています。

 そして、喜劇じゃなくなり、いわゆる百合的なエンタメになった「じゃじゃ馬ならしの話が駆け足気味で一通り紡がれ、話が終わったところで、後半になって話が現代に戻って、新しい話が始まるわけです。

 

 前半をわざわざ「じゃじゃ馬ならし」オマージュにしたんですから、この後半の話も、前半の「じゃじゃ馬ならし」と似通った話になって、前半と後半を対比させたり、あるいは別にシェイクスピア劇のオマージュでもするのかな……と思いきや、後半はまったく違う話になってしまいます。

 

 後半の話は、シリーズのキャラクターたちが話に大きく関わり、手紙をキーにした話の展開になるのです。

 これは、ヴァイオレット・エヴァーガーデンシリーズ定番の形式です。

 

 そうです。本作、なんと、この後半になってから、ようやく本編の「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」が始まるのです。

 

 言ってしまえば、本作は「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝」本編の前に、微妙に繋がりがある、短編アニメが45分も付いているような状態の構成だと言えます。

 さすがに変でしょう!

 

 

 このように、本作はあちこちが変に歪な作品なのです。

 

 

 また、ネタバレになるので詳しくは言えませんが、個人的には「そのオチで、あの半分幽閉されているような生活をしているあの子に対して、『手紙があるから、生きていけるね!これで良かったね!』って、何が良い話なの? 誤魔化してるだけじゃん!」とも思います。

 

 正直、ヴァイオレット・エヴァーガーデン、そもそもコンセプトというか、原作者の考え方がズレてるんじゃないか、という気がするのですが……。

映画感想:永遠に僕のもの


【予告編#1】永遠に僕のもの (2018) - ロレンソ・フェロ,チノ・ダリン,メルセデス・モラーン 原題:EL ANGEL

  恒例の手短な感想から

もはや、気狂いピエロを超えている

 といったところでしょうか。



 SNSに流れていた本作の予告編を見て「あれ、なんだかすごい映画なんじゃないか、これ」と直感的に思うところがあり、鑑賞してきました。アルゼンチン映画である本作は、アルゼンチンで実在した、シリアルキラー「カルロス・ロブレド・プッチ」をモデルにして、自由奔放に、自分の感情のままに怪物じみた少年が、次々楽しいままに、非道徳的な行為や、犯罪を犯していく姿を描いている――いわゆる犯罪映画です。

 

 本編を鑑賞になった方も、あるいは予告編を見た方でさえ、「この映画はひょっとしてアレみたいな映画なのではないか……?」といくつかの映画や小説を思い浮かべたと思いますが、その連想はほとんど当たっていると言っていいでしょう。

 

 

 本作は例えば、パトリシア・ハイスミス原作の映画「太陽がいっぱい」や石原慎太郎の小説「太陽の季節」や「完全な遊戯」など、あれらの作品に通じるテーマや描写、設定などが散りばめられており、あれらの作品が現代において復活したと言っても過言ではないでしょう。

 いえ、むしろ、本作はその全てを足してしまった作品と言ってもいいです。つまり、本作は主人公が内面に抱えている「同性愛」を描いた作品でもあり、同時に、主人公がやはり内面に抱えている「衝動」を描いた作品でもあるのです。



 この時点で、本作が相当に恐ろしいほどに素晴らしい映画であることは瞭然かと思いますが、実際の作品は、更にその上を行くとんでもない映画です。

 

 はっきり言って、映画ファンならば今年、映画館で本作を絶対に見たほうが良いと思います。好みの激しい映画ではある気がするので、「合う/合わない」の差はあると思います。が、本作に関しては賛否に関わらず、みんながこう評することでしょう。

 

 「なんだ、これは」と。

 

 まるで、初めて、まったく知識がないときに、ジャン・リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」を見てしまったかのような衝撃を受けることだと思います。実際、自分はそれだけの衝撃を受けました。いえ、それ以上の衝撃を受けました。

 この映画は、確かに上記で示した、様々な先行作品を連想させる「テーマ性」も確かに素晴らしいのです。しかし、それ以上に、この映画は、その筋書きや演出や撮り方や最後の終わらせ方に至るまでの全てが、あまりにも自由奔放で、異様な魅力を放っていることが何よりも素晴らしいのです。

 

 主人公の、決められた道など歩みたくないとしている自由奔放さと、まるで共鳴するかのように話の筋書き自体も、自由奔放なのです。

 例えば、自分は冒頭で「この映画は犯罪映画だ」と述べました。おそらく、本作を見ていない人のだいたいが、ここまで読んで「ということは、主人公がずっと犯罪を重ねていく映画なのだろう」と思ったのではないでしょうか。

 

 それがまったく違うのです。

 

 なんなら、映画の中盤では主人公たちはまったく犯罪をしません。主人公の相方に至っては犯罪以外の自分の道が見つかったために、「もう犯罪からは足を洗うのさ」なんて言い出したりしている始末です。そういった物語の定形や観客の思う「きっと、こういう映画だろう」という予測を、次々と裏切っていくのです。

 

 

 この映画は常に「なにか良くないことが起こるんじゃないか」と不安にさせるような描写、不安を掻き立てさせられる暗示が多くあり、主人公は延々といわゆる”死亡フラグ”を踏み続けていて”常に思わせぶり”です。

 しかし、観客の「きっと、このあとにこういうことが起こるんじゃないか」と「この話はこうなってしまうのではないか」という予感を、この映画は徹頭徹尾、最後の最後まで裏切り続けます。

 「え、そこでそこを撮るのか」「え、そこでそんな展開になるのか」「え、そこで急にそんな音楽を流すのか」「え、そこで音楽を切るのか」――この映画を鑑賞された方は、きっと様々な場面で「えぇ?!」と困惑させられたはずです。

 

 早い話がこの映画には「一体、この次に何が起こるのか全く分からない」という不安感が常にあるのです。

 そして、その何が起こるか分からない不安の中で、超然的に存在している主人公の「圧倒的な安定感」にとにかく魅了されてしまうのです。



 本当に、ここまで「自分が、なぜこれほどに鑑賞した後、興奮してしまっているのか理解できない映画」は久しぶりです。

 本作は人生の記憶に残る名作だと言って過言ではないでしょう。

 

 そして、本作で流れる「The House of the Rising sun」ほどカッコいいものは、絶対にないでしょう。


The House Of The Rising Sun The Animals 4K-HD {Stereo}

映画感想:ドラゴンクエスト ユア・ストーリー


「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」予告②

 恒例の手短な感想

いつもの山崎貴

 といったところでしょうか。

 

 デビルマン級に酷い等々の、散々な巷での評価を聞きつけまして「ならば、テンペスト3D*1を見て、映画館で悶絶した経験から、ネット上に映画の評価を書き込むようになった、自分としては見ないわけには行かないなぁ」と思いまして、見に行きました。

 「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー

 最近、妙に日本のゲーム業界が「映画化、映画化」と活気づいていますが、本作もまさにその活気の一つに数えられると思います。なにせ、あの大御所ファンタジーRPGドラゴンクエストが――しかも、その中でもストーリーが特に濃いとされているドラゴンクエストⅤが、こうして映画という形になっているのですから。

 

 

 ただし、このゲーム業界の"活気"ですが――正直、映画ファンからの評判はそこまで良くはないです。当ブログでも、感想記事を書いた「名探偵ピカチュウ」などを筆頭に、全体的に「あれ?」と言いたくなってしまう出来の映画が多いのは事実です。

 そして、本作「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」も案の定、巷の評判はよくありません。いえ、それどころか、「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」はこのゲームコンテンツ映画化の波の中でも、最も評判が悪い映画です。

 デビルマン級――という形容がついてしまっているあたりからして、その評判の悪さが伺えるでしょう。

 

 前置きが長くなってしまいましたが、自分が鑑賞した感想を述べたいと思います。

 

 デビルマン級は明らかに言い過ぎですね。

 デビルマンを見たことがないくせに、いい加減なことを言っている人たちが、こんなにもいるとは困ったものです。デビルマンは本作より遥かに酷いです。

 ただ、面白くないのも事実ではあります。

 クソ映画と言うほどではないけれども、面白くもない映画だとは確実に言える――そんな出来の映画が、本作になっております。

 

 なぜ、そんな出来の映画になっているかというと……巷では、この映画の、しょーもなさすぎるメタ展開について、いろんな人からの酷評が見受けられますが、正直、そこの部分だけが問題というわけでもないのです。

 

 メタ展開自体は、上手く使えばそこまで大きな問題にはなりません。例えば、レゴを題材にした映画で「レゴザ・ムービー」という子供向けの映画がありますが、こちらでも、メタ展開というのは普通にありました。

「レゴザ・ムービー」は伏線すら貼っていないまま、急にメタ展開に入るため、扱い方としては、下手すれば「ドラクエよりも酷い」と言われてしまいそうです。*2

 それでも、レゴザ・ムービーのメタ展開を悪しざまに言う人はそこまでいません。

 

 つまり、メタ展開になった事自体や、そこに対する伏線を与えたこと自体が問題なわけではないのです。

 では、本作は何が問題なのでしょうか。

 それは、この映画の最初から最後まで延々と存在している問題であり、同時に山崎貴監督作品に、毎回のように見られる問題でもあるのですが「一貫性のなさ」が問題なのです。

 

 端的に言ってしまえば「いや、お前、さっきまで『大人になれ』って話なんか、一瞬もしてなかったじゃん……」ということです。

 

 

 例えば、本作のリュカが「息子が生まれているにも関わらず、ずっとパパスのことばかりを考えていて、息子のことなど知らん顔している。息子を育てる気が全然ない」というような描写を入れていれば、「大人になれ」というメッセージにそれなりの説得力が出たことでしょう。

 あるいは、メタ展開にするだけの理由があるテーマを提示出来れば、それもありです。前述の「レゴザ・ムービー」はまさにその、メタ展開にするだけのテーマを提示することが出来ていました。

 

 が、しかし、本作はそんな「大人になる」というテーマに合わせて物語を整える――などの工夫など、ちっともやっておらず、ただただ、最後に急に「大人になれよ。それはともかくとして、ゲームって偉大だね」と言い出しているだけなのです。

 それくらいに一貫性がなく、ようは作り手が、このドラクエという話の何を魅力に感じているのかサッパリ分からないのです。映画に限らず、エンターテイメントにおいて、この「自分がとりあげようという題材に対して、自分が魅力に感じるポイントへの注力」というのは、とても大事なことです。

 

 その「魅力に感じるポイント」を、絶対、他の人にも感じてほしいと思って、様々な工夫や、演出の緩急をつけ――そして、それらによって、観客が言葉では伝えきれないはずの、その魅力と感じた感情や、感慨や、尊さを共鳴して感じれるからこそ、エンターテイメントに痺れるほどの感動や、胸を掻き毟りたくなるほどの価値が生まれるのです。

 

 そして、この映画は――というより、山崎貴監督には、毎回「この物語にある、この魅力を絶対に観客に伝えたい!」という一貫性が、なんだか無いのです。自分の好きな映画の場面や、設定や、お話を真似して、部分的に撮ったら、それで満足してしまうのです。

 本作、ドラゴンクエストも、全編に渡って「ドラクエ5という長い物語の、どこを重点的に描きたかったのか」がサッパリ分かりません。ほとんどのシーンや演出、全てが等間隔で区切られ、時間の進み方に緩急がつくこともなく、ただただ、だーっとダイジェストしていくばかりではないですか。

 

 その上で、あんな唐突に「大人になれ」などと、それまでしてもいなかった話を急に始めたら――そりゃあ、色んな人から反発も食らいますよ。

*1:おそらく、邦画において数少ない、デビルマンよりも酷い映画の一つです

*2:しかも、レゴザ・ムービーの方も暗に「大人になれよ」と言っているのです。

映画感想:トイ・ストーリー4


「トイ・ストーリー4」日本版予告

※今回はネタバレを結構している感想になります。

 

 恒例の手短な感想から

意外なオチでもないし、普通に面白かった

 といったところでしょうか。



 いきなり、真っ向から巷の評判を覆すようなことを書きますが、本作、「トイ・ストーリー4」を意外なオチだとか、今までとは違う作品であるというような感じ方をするのは、かなりおかしいです。

 まず「意外なオチ」という点についてですが、いくらなんでもこの内容で、ウッディが外の世界に残っていくオチになることについて「意外だ!」と感じてしまうのは、受け取る側の方の問題かと思います。

 

 この映画の冒頭に、わざわざ過去の回想という形で「ボー・ピープと別れることになったウッディがボー・ピープについていこうと、箱に入ろうと一瞬決断する」シーンが入れられている時点で、どう読み取っても、この映画は「それがテーマの映画」でしょう。

 はっきり言ってしまって、この映画の作り手たちは最初からフォーキーやボニーことなど、どうでもよく、ウッディのことしかテーマにする気がないのです。

 

 そして、エンタメ映画の定形で言ってしまえば「冒頭で事情があって添い遂げられなかったカップル」のシーンがあったら、普通、「じゃあ、オチで何らかの形でカップルが添い遂げるんだろうな」と思うはずです。

 

 また、冒頭に限らず、映画本編中でも再会したボー・ピープとウッディが惹かれ合っていく様子を、しつこいくらいに何度も描写し、様々な登場人物の口から「外の世界がいかに素晴らしいか」という話を語らせているのです。ならば「作り手たちは、そういうオチにしたいんだなぁ」と読み取れて当然ではないでしょうか。

 

 なので、この映画のオチは意外でもなければ、なんでもありません。むしろ、この手の映画としては、驚くほどに普通のオチに収まったといって過言ではありません。

 

 意外に感じてしまう人がいるのは、これほどの描写を入れてもなお、受け取る側が頑固な思い込みで縛られてしまっているのではないでしょうか。

 あるいは自分がぬいぐるみやおもちゃ好きであるために、「何が何でも、そう合って欲しくない」という強い思いがあるか、のいずれかでしょう。

 

 巷では、この映画のオチを「今までのトイ・ストーリーを否定する話」と受け取っている人も多いようですから。

 

 

 しかし、自分からすると、その受け取り方もまたおかしいと思うのです。本作の一体、どこが「今までのトイ・ストーリーを否定している」というのでしょうか。むしろ、今までのトイ・ストーリーが言っていた「子どもに愛されることはおもちゃの幸せ」という幻想を強固なまでに守ったようにしか見えませんが……。

 

「だって、ウッディがボニーのもとから離れてしまったじゃないか」と思っているのでしょうが、冷静に考えてください。ボニーは別にウッディのことを、好きでも何でもありません。というか、劇中ではっきり示されていないだけで、ほぼボニーにとって、ウッディはただのゴミです。

「ゴミのフォーキーは、ボニーが必要としているから玩具になった」という事実は裏を返せば「玩具だけどボニーが必要としてないウッディは、ゴミである」という事実になります。

 

 僕から言わせれば、あのままウッディがボニーのもとに戻る展開にした方が、よっぽど「今までのトイ・ストーリーを否定する」ヤバい映画が完成していたと思います。

 

 なぜなら、映画中のウッディは、別にボニーに再び気に入られるようなことを何一つしていませんから、あのままボニーのもとへ戻れば、やはりクローゼットの中で押し込まれっぱなしで終わりです。

 

 そうして、観客たちに薄々と「ゴミから作り上げられ、おもちゃになっていくフォーキー」「おもちゃだったはずなのに、役割を失い、だんだんゴミとして扱われていくウッディ」という姿の二つの皮肉げな姿を想像させてEND――という、そんなヤバ過ぎるオチになったはずです。*1

 

 それと比べて、なんとこの映画は「トイ・ストーリーの幻想」を健気に守っていることでしょう。この映画のオチならば、ウッディは「愛されなくなったから、別の愛してくれる子どもを探しに行った」とも取れますし、実際、エンドロールでもウッディはおもちゃたちが子供の手に行き渡るように奮闘している姿が描かれているので、「子どもに愛されることはおもちゃの幸せ」という価値観の否定なんてまったくしていないわけです。

 

 だからこそ、自分としては「普通の、面白い映画だったなぁ」というのが、本作への感想になります。

 若干オタク臭いパロディギャグはもちろん、全体的に人形ホラー映画へのオマージュも見られるあたりもなかなか良かったですし、玩具たちのロマンスをギャグ抜きで、エロティックに感じられるものに演出しようと様々な工夫を凝らしているのも面白かったです。



 別に意外な作品でも、衝撃的な作品でも、なんでもありません。

 本作は普通の内容です。

 

 

*1:というか、ゴミから出来たフォーキーの存在を鑑みるに「最初は、そういうオチにするつもりで、作っていたけど、さすがに子どもに見せるのは、残酷すぎてやめた」のではないでしょうか?

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