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儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画感想:風立ちぬ


【ジブリ新作】風立ちぬ 劇場予告 完全版 "The Wind Rises" Trailer Full Ver ...

※いつものごとくネタバレ全開。

 今回は見てからすぐ感想を書くのではなく、少し間を置いて公開させていただきました。さすがに、ということで。

 

 

 手短に感想をいうと、

 人を選ぶ映画だったなという感じです。(僕は今までの宮崎駿映画の中では一番好きですが)

 

 まず、もう既に各方面から色々言われていますが前半がかなり難解というか、不思議なことになっています。時間操作が独特でいきなり話が10年後に跳んだりする内容になっています。この時点で苦手という人も多いことだと思います。

 また、前半がこれほど不思議な時間操作で、言ってしまえば話が無茶苦茶なのに、後半は、びっくりするほど「どっかの映画で見たような場面」の連発で、陳腐といっていいほど単調な内容になっています。前半が好きだった人もこの後半でガッカリしてしまうかもしれません。

 そして、ついでにいうと、話が今までの宮崎駿映画の中でも、特に酷くご都合主義が全開です。登場人物が、さっきまでやっていた行動と、微妙に矛盾してるような行動を取ったり、いつの間にか物語から消えちゃっている登場人物が居たり、唐突な超展開を挟み込んだり、とミスがかなり多いです。今までの宮崎駿映画でもそういったことはありましたが、「風立ちぬ」はありすぎです。ポニョか、あるいはそれ以上のレベルで多いです。

 ご都合主義、で言わせてもらえば、後半繰り広げられる堀越二郎と菜穂子の恋愛描写も、ものすごいです。ご都合主義が極まりすぎて「二人が感動の再開を果たす」というシーンが二人の間になにかあるたびに挿入されるという、とてつもなく狂った構成になってしまっています。

 そもそもの恋愛描写自体も「本当に堀辰雄が好きなんだろうか?」と疑問に思うほど、描写がベタすぎだと思います。堀辰雄は確かにベタな恋愛話を書く作家ではあります。が、ベタな恋愛話であっても、それの「描写の仕方」が他のベタな恋愛小説とはかなり違います。どちらかというと描写自体は淡々としています。日常の何気ないところをかなり濃密に細かく描き、それでベタな雰囲気を中和している作風です。そこから考えると、宮崎駿の「風立ちぬ」は堀辰雄が濃密に描いていたところを全部切り捨てて、ただのベタな恋愛話にしてしまった、といえるでしょう。かろうじて、僕が良かったなと思ったのは「タバコをここで吸っていい」と菜穂子が堀越二郎にいう場面くらいでしょうか。あそこの場面の蚊帳の感じとかは堀辰雄に近いと思います。

 しかも、ここに更に重ねて言わせれば、この映画の恋愛描写は、フェミニズム的な観点からも最悪と言わざるをえません。異常なほどに神格化されている菜穂子という存在や、自分の綺麗な面だけを好きな人に全て見せて、自分は二郎に対して何一つ文句も言わずに去っていくという、その話の流れからどうしても読み取れてしまう*1「女は男の前でこうあるべきだ」という、宮崎駿の思想。オチの「堀越二郎の妄想の中に出てきて、二郎に『生きて』と頼む菜穂子」なんてワンシーン。全て含めて激怒の果てに、酷評されても仕方のないことだと思います。この映画の女性像は、女性を奴隷扱いはしていませんが、神扱いしてしまっていて、人間扱いは決してしていません。僕は、最後のラストシーンを観て「まるで、新藤兼人が脚本した『君に捧げし命なりせば』みたいな女性像だ」と少し恐怖を覚えるところもありました。

 

 ただ、前述したようにそれでも僕は「風立ちぬ」が宮崎駿の映画の中で一番好きです。これほどまでに狂っている映画も、そして、狂っていることをまったく隠す気がない映画も珍しいからです。いえ、隠す気がないどころか曝け出すつもりでいるんじゃないかと思えます。それくらいにある種の「潔さ」がある映画でした。この潔さは、どちらかというと西村賢太の小説を読んだときに感じる潔さに近いかもしれません。つまり、「自分(宮崎駿)はとんでもないクズ野郎だ」ということを晒して晒して晒しまくった先にある覚悟に僕はグッと来たのだと思います。

 実際、話もそう読み取れるようにできています。たとえば、さきほどフェミニズム的観点から批判した際に挙げた、ラストの二郎が菜穂子に「生きて」と言われるシーン。ごくごく標準的な、深読みなど決してしない、当たり前の見方をすると、確かにこのシーンは「フェミニズム的にも、それ以外の(戦争等を含めた)あらゆる視点から見ても、狂っているエンディング」としか言いようがありません。しかし、ここが狂っているエンディングであることは、劇中でほとんど明かされてもいます。堀越二郎ははっきりとあそこの場所が「自分が見ている夢」であることを認識していますし、観客にもそれを認識させています。そして、二郎の夢が狂っていることは、冒頭の夢でちゃんと示されています。開き直っているんです。ここは狂ったエンディングが流れますよと、告白してから、本当に宣言通りに狂ったエンディングを見せつけてくるのです。

 宮崎駿は、この映画によって「世界を滅ぼしてでも、僕は美しいものが欲しい」という、自らの願望を高らかに宣言したことは間違いないです。それは劇中の「ピラミッドのない世界とある世界なら、僕は美しいものを探したい」というやりとりにもよく現れています。美しいものとはつまり、零戦であり、この映画に描かれたものであり、菜穂子であるわけです。だからこそ、ラストの夢の中に菜穂子も現れるのです。では、菜穂子とは一体なんだったのか、なんのことを指していたのか。これは映画中盤の貧しい子どもにシベリアを分けようとするシーンから、なんとなく読めてきます。

 この「貧しい子どもに食料を分け与える」というシーン、宮崎駿はすでに別の作品で描いていました。シュナの旅です。シュナの旅でも同じように、主人公のシュナが街のとても貧しい少女たちに食料を分け与えようとするシーンがあります。シュナの旅ではその「貧しい少女」とは、ヒロインのテアでした。シュナの旅では、最後、シュナはテアと恋仲になります。「風立ちぬ」中盤、堀越二郎がシベリアを分けようとしたあの子、あれはひょっとすると、もう一人のヒロイン、つまりもう一人の菜穂子なのかもしれません。

 二郎の欺瞞を見抜いた彼女は、シベリアを拒絶し、どこかへ行ってしまいます。宮崎駿も現実ではああだったということなのではないでしょうか。つまり、宮崎駿もまたこの僕達が生きる現実で二郎のように”菜穂子”に"シベリア"を差し出し、その欺瞞ゆえに、拒絶されてしまったのではないでしょうか。それでも"菜穂子"を手に入れることを望んでいた彼が、夢のなかで創りあげた美しい理想であり、狂った幻想こそが”この映画の菜穂子”なのではないかと思うのです。

 そして、菜穂子と、零戦はラストで夢の中で一つに繋がります。あの夢のシーンは宮崎駿にとって、トーマス・マン魔の山」の第六章「雪」であり、あそこは「魔の山」に出てきた雪山そのものなのでしょう。雪山は僕らが暮らす現実とは、明らかにかけ離れた、しかし美しい世界です。つまりはあの世界こそが宮崎駿にとっての"ピラミッド"が存在する世界だったのではないでしょうか。

 宮崎駿に現実というこの世界なんて要らないのでしょう。むしろ、あったら困るんです。現実があると菜穂子が手に入らないという現実と向きあわなければならないわけですから。だからこそ、あのラストになったのだと思います。あのラストならば、永遠に菜穂子に拒絶されないで済みます。

 はっきり言って、僕は宮崎駿が毎回、映画でそこはかとなく漂わせてくる思想自体はかなり嫌いです。魔女の宅急便でさえ、化粧している女に対する異常な嫌悪とか、森の中で「ほとんど外こもり」状態の人を精神的な大人とみなしている人間観などが引っかかったりします。それどころか、そもそも宮崎駿の趣向自体が僕はまったく合いません。*2そんな僕でも、ここまではっきり開き直られると、認めたくなります。(宮崎駿の狂った一面を全開にしているので、僕の狂ったもの好きなセンサーが反応しているだけかもしれませんが)

 やっていることは最悪です。人としては大きく間違っています。ですが、僕はこの映画、好きです。

 

 

*1:誤読してしまう、かもしれませんが。

*2:譬えば、宮崎駿はエンフィールドMkⅠが好きなようですが、僕はウェブリーリボルバーMkⅥの方が全然好きなんですよねぇ、とか。

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