映画レビュー:雪の女王〈新訳版〉
ある国に住む少年少女・カイとゲルダは幼なじみで、とても仲良しだ。互いにプレゼントするために育て上げたお花を一緒の鉢に植え、ずっと仲良しでいようと誓い合うほどの。
夏は屋上の庭で過ごし、雨が降ったり、長い冬の時期などはお婆さんから一緒に話を聞いたりする。
ある日、二人はお婆さんから、外の雪がどこからやってくるのかを語り聞く。お婆さん曰く、雪たちは全て遠くにある雪の女王からやってきている、彼女の家来なのだというのだ。雪の女王はとても美しい氷の女王で、常に輝きを放っている不思議な女王だ。美しさの反面、心は冷たく、常に領地を見張っており、女王は夜の道を走り抜けて、家の窓を覗くのだという。
話の最中、ゲルダは雪の女王が鏡の向こうから見ていると叫ぶ。雪の女王が家の中にやってきてしまうのではないかと不安がるゲルダ。カイはへともせずに、暖炉で温めてしまえばいいのさと、ゲルダを笑わせる。
その様子を鏡を通じて見ていた雪の女王は、怒り心頭。雪たちに二人の心に氷の欠片を刺すよう命じる。そして、カイの目に、雪の女王が放った氷の欠片が刺さってしまう。
途端、カイはゲルダに冷たく接するようになり……
え、アナもエルサもいないんだ、と驚いた人も少なくないのではないでしょうか。雪の女王は、御存知の通り、ディズニーでもかなりのヒット作となった「アナと雪の女王」の原作です。その原作である、雪の女王はこのようなストーリーとなっているのです。
「雪の女王が実は悪役だった」という部分までは知っている方も多いと思いますが、上記のような内容であることまで把握している方は少ないかと思います。ですが、本作は素晴らしい出来の映画です。
なにせ、宮﨑駿でさえドハマリしているほどの出来ですから。実際アニメーションの動きなどは、要所要所で宮崎アニメの動きに影響を与えているような部分が見受けられます。特に、カイとゲルダが仲良くしているときの描写は、ジブリアニメの原点と言っていいでしょう。
ですが、なによりも本作の最大の魅力は、雪の女王という童話への解釈でしょう。本作は「思春期の始まり」というものをメタファーにしている映画です。舞台となる冬という時期は、言い換えれば「春、夏へ向かう前の時期」とも言えます。つまり、これは主人公ゲルダと、幼なじみのカイがイノセントな関係から少し大人な関係へと変化していこうとしている物語なのです。
事実、数々の描写がそれを裏付けています。
例えば、ゲルダは連れ去られたカイを追う過程で、もう少しでカイに会えるかもしれないとなった場面で「ドキドキする」と言い出したりするのです。お城に潜入し、兵隊から隠れたときに出てくるセリフなのですが、果たしてゲルダは隠れていることにドキドキしているのでしょうか。カイに会えると思ってドキドキしているのでしょうか。……暗示的な場面だと言えます。
また、カイが徐々にゲルダに冷たくなっていく過程と、雪の女王に惹かれていく過程も、思春期の始まりを感じさせるものになっています。
例えば、ゲルダに冷たくする描写といえば、一緒に遊ぼうとするゲルダをイチャモンつけて追い返したり、お花を踏んづけたり……まるで少し成長して気恥ずかしさから、女の子を遠ざけようとする男の子のようです。
そして、雪の女王に惹かれる過程も、雪の女王に美しい人工物を見せられ、その魅力を教えられる中で雪の女王に惹かれ、連れさらわれてしまう姿は、大人の女性の魅力にべったりになってしまおうとする少年のようです。
このように、本作、「雪の女王〈新訳版〉」では数々の描写から、それとなく思春期という要素を感じ取れるように作られており、極めて、暗示的な内容なのです。だからこそ、クライマックスに訪れる雪の女王の顛末は、雪の女王が象徴的なものであることを表すような不思議なラストとなっているのです。
変則的映画感想:エンドレス・天体観測。"君の名は"知らないが、彗星の名は「イマ」
巷で「君の名は。」が大ヒット中だそうです。「君の名は。」とは、今までずっと自主制作で、そして主にはアニメファンやらSFファンやらのむっさい野郎どもの間で、評価されていた新海誠監督が手がけた最新作なのですが、まあ、これの内容が非常に素晴らしいのだとか。
特にいろんなところで聞こえる声は「今までの新海誠とは違う」という声です。エンターテイメントに徹した内容で、新海ファンも「これは一般層にもウケますわ」と言い出す内容なのだとか。
なるほど。
特別に新海ファンでもないのですが、一応、気になったので自分も見に行ってみました。「果たして、今までの新海誠と違うとは、どういうことなのか」「エンターテイメントに徹したとは」「確かに予告編を見るかぎり、なんか今までの新海と違う気もする」「ということは、とうとう新海も”あの曲”っぽいことをやるのはやめたのか」
いろんなことを考えながら鑑賞した結果。
自分がぼんやりと思ったのは、
これ、今までどおりの新海誠映画じゃないっすかね……。
ということでした。
確かに、表層的には演出や、恋愛の展開がかなり違うとは思いますが……しかし、それ以外、深層的なものは普通に今までの新海誠映画との違いがあまりないような……。
なぜ、僕がそう思ったのか、それは僕が見てきたかぎり、新海誠の恋愛映画は、毎度毎度、同じようにテーマ等が「ある曲」に妙に似てしまう傾向があるのです。鑑賞後「なんか、これ、あの曲っぽいこと言ってるよな」という印象がどうしても残ってしまうのです。
そして、「君の名は。」もやはり鑑賞後は「相変わらずあの曲っぽいこと言うな」としか言いようがありませんでした。だからこそ、自分には今までどおりの新海誠監督作品にしか思えなかったのです。
では、一体自分が思い浮かべる曲とは一体何か。
その曲の名は。
「BUMP OF CHICKEN/天体観測」
嘘だろう、と言いたくなる人も多いかもしれません。しかし、どういうわけか、新海誠は、なぜか知らないけれども、よくこの曲に出てくるモチーフと同じモチーフを使って、話を描き、この曲に書いてあるような内容を話にしてしまうことが多いのです。
新海誠監督のデビュー作「ほしのこえ」からしてそうなのです。こちらの作品は、かなり基本設定からしてSFです。一見すると、天体観測とは関係ないように思えるでしょう。簡単に言ってしまえば「相思相愛で淡い恋心を抱く15歳の主人公とヒロインが、世の情勢のために、二人は離れ離れになってしまう。最初はメールでやり取りしていたものの、徐々に距離が離れ、互いのメールが届く時間が長くなっていく。とうとう、何年も掛けないと届かないような距離になる。主人公とヒロインは、そんな中、遠く離れた相手のメールを待ち続ける」という内容なのですが。
この映画、天体観測のブリッジ部分の歌詞にある――
背が伸びるにつれて 伝えたいことも増えてった
宛名のない手紙も 崩れる程 重なった
僕は元気でいるよ 心配事も少ないよ
ただひとつ 今も思い出すよ
と同じようなことを内容に、大仰なSFをくっつけた上でメタファーにして描いている、ということでしょう。
天体観測で「僕」が「今も思い出す」のは、二人で天体観測に行こうとしたが、雨に降られたために天体観測できなかったという、少年時代の思い出です。「ほしのこえ」の主人公もまた、同じように「二人でいたときの思い出」を、頼りにしています。遠く離れたヒロインもまた、「二人でいたときの何気ない時」だけを求めています。
主人公がヒロインと離れ離れになり、8年経過した後で、
あの夏の日、8年という月日が永遠に思えたことをよく覚えている。
それから今まで、決して迷いなく生きてきたわけではないけど、
あの日に決めた目標だけは、今も変わっていない。
という主人公のモノローグが入り、離ればなれになると決まった日を堺に、目標に向かって生きてきたことを吐露するわけですが、これもつまり、天体観測の、
予報外れの雨に打たれて 泣き出しそうな
君の震える手を 握れなかった あの日を
(中略)
そうして知った痛みが 未だに僕を支えている
「イマ」というほうき星 今も一人追いかけている
と、同じことを実は言っています。天体観測でカタカナ表記にされている「イマ」とは、二人で天体観測を行ったときに「僕」が感じたその瞬間の「イマ」であることは、一番の歌詞から読み解いても明白です。
その昔あった「イマ」を未だに自分が追いかけているというこの歌詞は、ぴったり「ほしのこえ」の主人公が吐露したモノローグと一致するのです。
そして、「ほしのこえ」ラストで二人は互いに心の中だけで、相手に話しかけ合います。
「ねえ、ノボルくん? わたしたちは遠く遠く、すごくすごーく遠く離れているけど」
「でも想いが、時間や距離を越える事だって、あるかもしれない」
「ノボルくんはそういうふうに思ったことはない?」
「もし、一瞬でもそういうことがあるなら、ぼくは何を想うだろう。ミカコは、何を想うだろう」
つまり「遠く、時間さえ離れてしまった二人でも、どこか一瞬でも"あの時と同じような瞬間"があるかもしれない」=「「イマ」というほうき星 君と二人追いかけている」ということです。
このように、代表作「ほしのこえ」からして、相当に「天体観測」と実は内容が似ているわけです。
新海誠映画は、この後も「ほしのこえ」で出ていたテーマをある種、変奏させるような形で、作品を作っていくわけですが、となると当然「天体観測にそっくりな内容」がどんどん変奏されていくので、不思議と「天体観測」に似ている話になってしまうのです。
例えば「ほしのこえ」のデビュー以後で、おそらく一番有名な作品である「秒速5センチメートル」は「踏切で約束を交わした主人公とヒロインが、いくつもの経験を経ながら、成長していき、最終的に主人公は約束した踏切へと向かう」という内容で、同じように最後は思い出のフミキリへと"僕"が向かっていく「天体観測」と、やはりどうしても重なって見えます。
……実際オチも、
もう一度君に会おうとして 望遠鏡をまた担いで
前と同じ午前二時 フミキリまで駆けてくよ
始めようか天体観測 二分後に君が来なくとも
ですし……。
(秒速5センチメートルの重大なネタバレのため、白字で表示しています)
で、本作、「君の名は。」はどうだったのか。
言うまでもないでしょう。
とうとう、主人公二人の「イマ」を繋ぐ要素がほうき星になってしまいました。
しかも、彗星が接近している間だけ、二人が入れ替わり、ズレているはずの時間が二人の間だけで一致すること、冒頭のモノローグで提示されている「忘れてしまった何かが、記憶に覚えていない、しかし何かハッキリとした感覚が人に残っていて、それをいつまでも追っている」というテーマ、総じて言ってしまえば「「イマ」というほうき星 を追いかけている」ということでしょう。
天体観測の歌詞では
気が付けばいつだって ひたすら何か探している
幸せの定義とか 哀しみの置き場とか
生まれたら死ぬまで ずっと探してる
さあ 始めようか 天体観測 ほうき星を探して
という箇所でも明らかなとおり「ほうき星」自体が、探し求めている何かのメタファーとして扱われています。それは本作でも同様で、主人公は劇中の終盤、一連の出来事を忘れていながらも、彗星の情報を収集していたとモノローグで語ります。記憶の中で漠然とした状態になっている何かを求めるために。
そして、やはり今までと同様に数年の時を経る構成からの、相変わらず男女の出会いの要素として使われる「電車」のモチーフ。クライマックス付近でしれっと挿入される、望遠鏡を使って、彗星を天体観測する人たちの様子。挙句に、劇中の音楽を担当するのは、しょっちゅうBUMP OF CHICKENとの類似性を指摘されるRADWIMPS。
狙ってるのかは微妙ですが、やはり今回もなんだか「天体観測」を連想せざるをえません。
以上からも分かる通り、新海誠監督は僕からすると「なんだか、ずっと天体観測を繰り返している監督」にしか見えないのです。特に代表作とされる「ほしのこえ」と「秒速5センチメートル」そして、本作は、天体観測の変奏といって差し支え無いです。なぜか、新海誠は新しいことをやろうとやろうと努力はするのですけど、結果的に、いつも結局「天体観測みたいな話」に戻ってしまうのです。
つまり、言ってしまえば新海誠の恋愛映画は『エンドレス・天体観測』アハーン。
これは新海誠監督と、藤原基央は人間としてかなり近いメンタリティの持ち主ということなのでしょうか。
ともあれ、新海誠監督の「君の名は。」は、非常に今までどおりの新海誠映画だと自分は思います。こんな一般ウケするのは今までの新海映画ではなかった、という、反応のファンも多いようですが、でも、天体観測ってヒットソングですし、一般層に届いてしまえば一般ウケするのは当たり前といえば当たり前ではないかなと思います。
*1:どうでもいい余談ですが、映画冒頭のモノローグ「目が覚めたら泣いていた」に対して『それまんま「世界の中心で、愛をさけぶ」じゃん……』と思ったのは僕だけでしょうか…?
映画感想:ゴーストバスターズ
恒例の手短な感想から
こんな出来の映画を平然と出してきたことが恐怖だよ!
といった感じでしょうか
いやー、まさか、この映画がこんなに酷い出来になっているとは…。最初の予告編の「ひょっとして、まだ映画、撮ってすらいないんじゃないのか?」と思わせるような時点で嫌な予感は漂っていたとはいえ、前評判的には悪くない声も聞かれたりしていたのので、まさか、こんなに、ありとあらゆるところがダメだとは想像していませんでした。
なにからなにまで、ダメなところだらけなので、具体的にどこから突っつけばいいのか分かりません。それくらい酷いです。
まず…そうですね。3D版についての話からしましょう。
はっきり言いますが、本作、3D版での鑑賞は絶対にやめたほうが良いです。本作の3Dは専用のカメラで撮ったものではなく、最初に普通のカメラで撮ったものを、無理やり3Dにしているだけのもので、しかも、3Dがかなりクオリティの低いものです。
3D映画初期くらいのクオリティで、場面によっては「そもそもあんまり3Dが働いてない」ことも多いです。(実際、3Dメガネを外しても、ほとんど人物等がボヤけない場面が、かなりあります)これに3D料金を払うことは、ほぼボッタクられているのと同義なので、注意してください。
そして、本編なのですが、これを見るくらいなら、元々の「ゴーストバスターズ」をレンタル店で借りて見たほうが、全然良いです。というか、この映画を見るときに「ゴーストバスターズ」を見るつもりで見てはいけません。「モテない女版セックス・アンド・ザ・シティ」か「かなり劣化したアリーマイラブ」か「恋愛要素のないブリジット・ジョーンズの日記」を見たいという人だけが見るべき映画です。
なぜなら、この映画、ほとんどゴーストバスターズがゴーストをバスターしている場面がないからです。というか、バスターズがゴーストを捕獲するシーンは、二回しかありません。最初の捕獲と、クライマックスのみです。しかも、最初にゴースト捕獲するシーンさえ、映画が始まってから1時間以上も経ってから、ようやく出てくる始末で、明らかにそもそも映画の作り手たちは、ゴーストバスターズを作るつもりがありません。
作りたいのは、頭のおかしい(モテない女性を非常にバカにしているような)女4人組と、頭空っぽのイケメン男との、くだらないギャグだけです。だから、ゴーストバスターズを見るつもりで見てはいけないのです。
では、ギャグは面白いかというと、これがちっとも面白くありません。吹き替えの翻訳が悪いのか、元々がつまらないのか、あるいは両方なのか、とにかく繰り返されるのは、お下劣な(主に女性器に関係する)下ネタやら、頭ゆるふわのメタネタギャグやら映画ギャグやら……「これなら、日本のギャグアニメ見てたほうが面白いわ」と思えるレベルのやり取りがずぅっと続きます。
唯一面白かったのは、オジー・オズボーンが「ヤク抜いたのに、幽霊見える!」と叫ぶシーンくらい。
そして、脚本も言わずもがな。相当に低いクオリティで――というよりも、そもそも元の脚本なんて無かったのではないかと思われるレベルで整合性がついておらず、投げっぱなし、やりっぱなしで、その後まったく触れられないものだらけ。大学の研究とか、最初の館の人々とか、その他諸々「おい、あれどうなったんだよ?!」という観客の全ての疑問を無視して、自分勝手に話が邁進していく始末です。
なによりも、この映画にはテーマというものがありません。一つ、ハッキリとしたものがないのです。そんな明確で、偉そうなテーマでなくても良いのです。友情でも、平和でも、なんでもいいから、何か一つハッキリと、この映画が描きたいもの――それがこの映画には決定的に欠けているのです。
なんとなくパロディっぽい場面になって、なんとなくギャグっぽい場面になって、なんとなくミステリーっぽい場面になって、なんとなくアクション映画になって……しかも、その全てがまったく伏線もなく唐突に始まる状態の、この映画にテーマがあるわけもないのですが。
あえて言えば、辛うじて唯一、テーマっぽいのは、ダメ女同士の友情なのですが……普通、そういう友情を描こうとなったら、それなりにメンバー間で褒め事が起こって、ちょっと人と人が距離を置いたりして、あるいはバスターズをやめる人間が出たりして――からの、クライマックスで最後に登場!くらいの、筋書きにするものです。
が、この映画はそういうことは一切やっていません。だから、本当につまらないのです。まったく見ていて、興味を惹かれないのです。「あれどうなるの? これどうなっちゃうんだ?」というハラハラやドキドキがないのです。
なによりも、この映画のなにが一番許せないって、放射性物質です。
打ち間違いではありません。
一番許せないのは、放射性物質についてです。
確かにゴーストバスターズは元々の映画の時点で、原発ギャグや、原子力ギャグが多数入った映画でした。*1
とはいえ元の映画では「原子炉とかは怖い」ということを利用したギャグをかましており、基本的には「原子力系のエネルギーは扱いが難しいんだ、怖いんだ」ということを前提にしていました。
が、本作はまったくそこが正反対で、平然と登場人物が「放射線のせいで体が温まってるんじゃないの」だの「核反応後の匂いがする」だのと言いまくっており、原子力エネルギーは扱いが簡単だと言わんばかりに、登場人物たちが原子力エネルギーに対してラフな反応をし続けるのです。
挙句にラストでガイガーカウンターを出して、一時間以上いると危険だの、くしゃみをすれば爆発するレベルだの言い出したり、卒倒しそうな内容です。
この映画がやっている無神経すぎる放射性物質への扱いは、放射脳とか、ああいう人達が嫌いな僕でさえ、かなり頭に来ました。
2016年、ワースト。
そう断言してもいいかもしれません。
*1:元の映画、1984年の「ゴーストバスターズ」クライマックスの引き金となる、バスターズが幽霊を封じていた機械の爆発は、過程がチェルノブイリ事故に似せた過程になっており、かなり意識しています。
映画感想:ジャングル・ブック
恒例の手短な感想から
ジャングルブッ……誰だ貴様!!!
といったところでしょうか。
いや「なんだ、そのふざけた手短な感想は?!」と思うかもしれませんが…。
冗談抜きで、ジャングルブックという原作及び、ディズニーのアニメ映画を知っている人たちは、この映画を見終わった後で必ず、こう感じるはずなのです。「あれ? ジャングルブックって、こういう話だった?!」と。
そう思うのも当然です。なぜなら、この映画、ジャングルブックの皮を被った、まったく違う映画ですから。
ジャングル・ブックという小説は、言わずと知れた流離譚の一種です。人間の子どもが動物として動物に育てられながらも、やがて、その子の本来生きるべき場所、人間の社会に戻されていくという、シンプルなストーリーです。
そして、なぜか、しつこいほどにディズニーが映画化したがっている不思議な小説でもあります。ディズニーがジャングルブックを映画化するのは……もうかれこれ、何度目になるでしょうか。アニメ映画にもしましたし、実は今回よりも前に実写映画も作ったりしています。
更に、ジャングルブックを元に作り上げられた小説「ターザン」までアニメ映画化しており、どういうわけか、どの時代でも、不思議とディズニーが手をつけようとする物語が「ジャングルブック」なのです。
なので、正直、実写化の話を聞いたときは「またかよ!」と思ったのは否めません。今度のジャングルブックは、少年以外は全てCGという手の入りまくったものらしいのですが、映像技術が上がったからといって、映画の中身が劇的に変わるわけではありません。
当然、自分はどうせ、また同じ話をやるのだろうと思っていました。
それが。まさか。
ここまで悪い意味で、違う映画に変わってしまうとは…。
そうです。悪い意味で言っています。この映画は、序盤こそそれっぽいものの、だんだんとジャングルブックという物語から相当に逸脱するようになり、最終的にまったく違う映画に化してしまうわけですが、この改変した部分が、ことごとく改悪です。
正直、これなら元のまま、なんにも変えずに作ってくれたほうが遥かに良い映画になったはずです。そのレベルの酷い作品に仕上がっているのです。
まず、物語が開始してしばらくしてから、じわじわ分かってくるのは「あ、もののけ姫だ」ということです。とある動物が、異様に神格化されたものとして登場するのですが、この様相がどこからどう見ても、もののけ姫に登場する「シシガミ様」とか、あの手のものを真似しているだけにしか見えないのです。
しかも、この真似の仕方が酷すぎます。もののけ姫の場合、動物を神格化していたのは、それが日本人の独特な宗教観を描くうえで重要なことだったからです。事実、あの映画はそこをテーマとして徹底していました。
しかし、こっちのジャングルブックはただ真似しているだけで、その特殊な宗教観を貫いているわけではありません。むしろ、西洋的な一神教の、”信仰するもののためにある神”の感覚で描いているから、いろいろおかしいのです。善も悪もなく、ただ存在する神の感覚ではないのです。
つまり、本作はなんだか表面だけ真似した「なんちゃってもののけ姫」なのです。
しかも、「なんちゃってもののけ姫」の状態でも相当に低評価を下せる状態なのですが、この上、この映画、更に話が進むに連れて「あ、これなんちゃってスターウォーズだ」ということにも気がつくのです。
それもよりにもよって、なにを考えているのか、プリクエルのスターウォーズを劣化コピーという正気を疑う行動をしています。それが、よく分かるのは、新しいデザインのキングルーイや、クライマックスでの主人公とシア・カーンの対決場面です。
新しいデザインのキング・ルーイ……言っちゃあなんですが、もう見るからにジャバ・ザ・ハットなのです。ジャバ・ザ・ハットでなかったとしても、スターウォーズでジェダイをあしらう、成金大富豪として出てきてもまったく違和感がないデザインになっています。
そして、主人公とシア・カーンの対決場面。ジャングルが一面火の海と化した中で、木の枝を伝いながらの対決となっているのですが――まあ、まず、このジャングルが火の海になった経緯の時点で「お前、アホか!」と言いたくなるほどツッコミどころが多いのですが、それを置いておいても、辺り一面が火の海で真っ赤で、その上で細い枝に乗っかっている絵面が、どう見てもSW3のアナキンとオビ=ワンの溶鉱炉での決闘なのです。
で、またもや、この溶鉱炉での決闘も、絵面を表面的に真似しているだけです。その実、やっていることは、小学生しか関心しないようなレベルの罠で、シア・カーンを自滅させる簡単なお仕事を遂行しているだけ。かっこいいアクションとかは一切ありません。
本当になんちゃってスターウォーズなのです。
しかも、この映画、原作のジャングルブックとオチが180度変更されてます。だから、この映画の物語はジャングルブックではないのです。
つまり『ジャングルブックの皮を被った、もののけ姫とスターウォーズを猿真似したような、中途半端な映画』というわけです。
個人的には「ひな鳥の冒険」で自分がアレほどに感心した、リアルと擬人化の絶妙なバランスを取った動物の姿というのが、まったくこの映画には活かされていないのも、ガッカリしました。
そして、なにより、全体的に言ってしまって、話の出来が明らかに悪いです。主人公を育てた母オオカミの「あなたがどんな名前で呼ばれることになっても、あなたは私の息子よ」ってセリフも――これ、原作通りのストーリーじゃなければまったく意味が無いセリフでしょう。
クライマックス付近のご都合全開の展開も、うんざりです。
いやーまさか、ここまでひどい映画を出してくるとは思いませんでした…。
雑記:世界の中心で愛を持たぬ葦はいない
ツイッター等々では、あいも変わらずシン・ゴジラの話題で盛り上がっているわけですが、そんな中で映画ファンたちが、上述の記事を引きながら、なんだか「こんな取締役がいるから邦画がダメになったんだ」などと罵っていましたので、気になってちょっと拝読しました。
なかなか興味深い記事です。そして、笑える記事でもあります。
庵野監督はゴジラへの愛情など皆目なかったことや、庵野監督を起用した経緯、製作の経緯など、その顛末は思わず笑えて面白いのです。それを明け透けに話してしまっている市川氏の度量の大きさ――というか、悪く言ってガサツさ(笑)も含めて非常に笑えます。
で、読み終わった後で自分はよく分からなくなりました。
「なぜ、ネットの人たちはこんな人を必死で叩こうとしているのか?」と。
どうやら、ツイートなどを見るかぎりこのインタビューにある、この一節が気に食わなかったようなのです。
我々としては恋人がいたほうがいい、長谷川博己さんと石原さとみさんは元恋人にしましょうとか言ったんですけど、庵野さんはそういうのどんどん排除していって、人物たちのバックボーンは描かない脚本になりました。
自分としては「まあ、それは商売としては、そういうこと言うだろうな」と思うのですが、この一文が気に食わなかった様子なのです。そして、大体「恋愛要素を入れようとしたコイツらは無能の凡才で、庵野監督は有能の天才。こいつらがいるから邦画が面白くなくなる」といった旨のことが言いたくて、罵っているようなのです。
中には「ゴジラには、恋愛要素は余計」などという言葉も散見されますから。
だからこそ、なおのこと、自分はわけが分からなくなりました。
この人達の言ってることを照らし合わせると、つまり、一作目の「ゴジラ」が駄作で、本多猪四郎監督は無能の凡才ということになってしまうからです。なぜなら、それは簡単な話でゴジラ一作目は、恋愛要素がガンガンに入っている映画だからです。
ゴジラという映画は、長らくいわゆるボンクラ映画ファンのものとされてきたため、非常に内容が誤解されているところが多い映画です。ハッキリ言いますが、この映画の筋書きは「原爆」と「三角関係」と「科学」の柱で出来ています。この三本の柱で観客の興味を引っ張り続けている映画なのです。*1
ゴジラを倒す兵器・オキシジェン・デストロイヤーを開発した有名な芹沢博士。彼を映画評論家たちは孤高の科学者のように表現することが多いと思いますが、彼、実は主人公・秀人の恋人である恵美子と元婚約者の関係です。
この時点で分かると思いますが、芹沢博士と秀人と恵美子は三角関係になっています。そして、ゴジラという映画は、この「三角関係に揺れる人間模様」が話の軸の一つになっていたりします。恵美子と秀人、芹沢と恵美子、そして、芹沢と秀人。それぞれの大人な関係性があってこそ、盛り上がる筋書きなのです。
そして、だからこそ、芹沢博士が単身でゴジラを倒しに行くことに、ある種のカタルシスが得られるのではないですか。
その芹沢の姿が「自身と浮世を唯一、繋いでいた婚約者さえも、とうとう本当に自分から離れてしまったからこそ、世を捨てようとした」ようにも「たとえ人のものであったとしても婚約者を守ろうとした」ようにも捉えられる、どちらにも捉えられる――いや、むしろ、その両方を選択したかのようにさえ見える――それほどに、人間の深い部分を描き出しているラストだからこそ、ゴジラは感動できたのではないでしょうか。
彼の行動が、愛も厭世も含まれた行動だったからこそ、素晴らしかったのではないでしょうか。
ゴジラに恋愛要素は要らない――まあ、そういう価値観もありでしょうが、残念ながら一作目のゴジラは恋愛要素もある映画なのです。
*1:『戦争の英霊が云々』という話は、後に評論家たちが解釈として付け足したものであって、”筋書き自体”はこの三つで構成されています。
変則映画感想:ひな鳥の冒険
『ファインディング・ドリー』と同時上映される短編アニメ『ひな鳥の冒険』本編映像
恒例の手短な感想から
これのために1800円払ってもいい、大傑作!
といったところでしょうか。
この映画『ひな鳥の冒険』は、さきほど感想記事を書いた『ファインディング・ドリー』で併映される短編アニメーションです。
このブログでは、普通の場合、こんなことはやらないようにしているのですが、今回は、作品の出来がかなり良かったため、特例としてこの記事を書くことにしました。
この手のディズニー/ピクサー作品に併映される短編アニメーション。一時期はかなりのクオリティと意欲的な作品が多く、非常に面白かったのですが、正直、ここ3年ほどはクオリティ的にも話の構成的にも、また意欲という意味でも薄っぺらい作品が多く、感心することはあまりありませんでした。
しかし、本作『ひな鳥の冒険』は、久しぶりにピクサーの本気を見ることが出来る傑作です。端的に言って最高でした。話自体は極めてシンプルな、大きな出来事など何一つない子どもの成長譚なのですが、しかし、その物語を支える描写や、表現のクオリティがずば抜けて素晴らしいのです。
まず、上映始まってすぐに分かるのは、CGのクオリティが高すぎるということです。あの海岸の様子……一瞬、誰もが実写かと錯覚してしまったはずです。それくらいに波の泡立ち方といい、光の反射といい、砂の濡れ方といい、全てがよく実際の海岸を観察して描写しているのがよく分かるのです。
そして、そのリアリティ高い海岸にやってくる、主役となる海鳥達の様子もまた素晴らしいものでした。まず、今までのディズニー・ピクサー的な、もっと言えばCGアニメ的な、デフォルメがなされた動物像を完全に覆す、リアルな鳥の様子を描き出しています。
しかも、この短編において、鳥はほぼ擬人化されていないのです。上記の本編を見てもわかると思いますが、完全に動物です。今までは、この手のCGアニメでは、なるたけ動物はデフォルメと擬人化で、ある程度中和をするのが基本でした。
もちろん、CGの技術が上がるに連れて徐々に擬人化とデフォルメの程度は軽くなっていくのですが、それでも、まだまだ「あぁ、中に人が入ってる感じがあるな」と思える瞬間がありました。
本作には、それがほとんどありません。鳥なのです。仕草も行動も、全てが鳥にしか見えないのです。しかもすごいのは、行動の一挙手一投足が鳥にしか見えないにもかかわらず、主役たちの行動の意味がパントマイムのみで理解できるのです。
パントマイムということは、つまり、人間的な行動でもあるのですが、本作はそのパントマイムの細かい塩梅が素晴らしいおかげで、パントマイムであるのに、まったく人間が入っている感じには見えません。
これは、なぜかというと、動物たちも稀にですが人間に見えるような仕草を取るからです。人間っぽく、迷って動きまわったり、驚いて仰け反ったりすることは、よく知られていることでしょう。
本作の鳥達のパントマイムは、全てその「動物が取る、人間っぽい仕草」の範疇におさまるようにしてあるのです。
そのため、鳥達の行動は非常にリアルであるにも関わらず、物語は人間的な『日常での成長譚』を描けているのです。
この絶妙なバランスに、本気で唸ってしまいました。しかも、擬人化が得意なディズニー・ピクサーで、こんな短編が見られるとは……。この短編は、擬人化でも、野生化でもない、第三の新しい動物表現を見出した短編と言えるかもしれません。