変則的映画感想:エンドレス・天体観測。"君の名は"知らないが、彗星の名は「イマ」
巷で「君の名は。」が大ヒット中だそうです。「君の名は。」とは、今までずっと自主制作で、そして主にはアニメファンやらSFファンやらのむっさい野郎どもの間で、評価されていた新海誠監督が手がけた最新作なのですが、まあ、これの内容が非常に素晴らしいのだとか。
特にいろんなところで聞こえる声は「今までの新海誠とは違う」という声です。エンターテイメントに徹した内容で、新海ファンも「これは一般層にもウケますわ」と言い出す内容なのだとか。
なるほど。
特別に新海ファンでもないのですが、一応、気になったので自分も見に行ってみました。「果たして、今までの新海誠と違うとは、どういうことなのか」「エンターテイメントに徹したとは」「確かに予告編を見るかぎり、なんか今までの新海と違う気もする」「ということは、とうとう新海も”あの曲”っぽいことをやるのはやめたのか」
いろんなことを考えながら鑑賞した結果。
自分がぼんやりと思ったのは、
これ、今までどおりの新海誠映画じゃないっすかね……。
ということでした。
確かに、表層的には演出や、恋愛の展開がかなり違うとは思いますが……しかし、それ以外、深層的なものは普通に今までの新海誠映画との違いがあまりないような……。
なぜ、僕がそう思ったのか、それは僕が見てきたかぎり、新海誠の恋愛映画は、毎度毎度、同じようにテーマ等が「ある曲」に妙に似てしまう傾向があるのです。鑑賞後「なんか、これ、あの曲っぽいこと言ってるよな」という印象がどうしても残ってしまうのです。
そして、「君の名は。」もやはり鑑賞後は「相変わらずあの曲っぽいこと言うな」としか言いようがありませんでした。だからこそ、自分には今までどおりの新海誠監督作品にしか思えなかったのです。
では、一体自分が思い浮かべる曲とは一体何か。
その曲の名は。
「BUMP OF CHICKEN/天体観測」
嘘だろう、と言いたくなる人も多いかもしれません。しかし、どういうわけか、新海誠は、なぜか知らないけれども、よくこの曲に出てくるモチーフと同じモチーフを使って、話を描き、この曲に書いてあるような内容を話にしてしまうことが多いのです。
新海誠監督のデビュー作「ほしのこえ」からしてそうなのです。こちらの作品は、かなり基本設定からしてSFです。一見すると、天体観測とは関係ないように思えるでしょう。簡単に言ってしまえば「相思相愛で淡い恋心を抱く15歳の主人公とヒロインが、世の情勢のために、二人は離れ離れになってしまう。最初はメールでやり取りしていたものの、徐々に距離が離れ、互いのメールが届く時間が長くなっていく。とうとう、何年も掛けないと届かないような距離になる。主人公とヒロインは、そんな中、遠く離れた相手のメールを待ち続ける」という内容なのですが。
この映画、天体観測のブリッジ部分の歌詞にある――
背が伸びるにつれて 伝えたいことも増えてった
宛名のない手紙も 崩れる程 重なった
僕は元気でいるよ 心配事も少ないよ
ただひとつ 今も思い出すよ
と同じようなことを内容に、大仰なSFをくっつけた上でメタファーにして描いている、ということでしょう。
天体観測で「僕」が「今も思い出す」のは、二人で天体観測に行こうとしたが、雨に降られたために天体観測できなかったという、少年時代の思い出です。「ほしのこえ」の主人公もまた、同じように「二人でいたときの思い出」を、頼りにしています。遠く離れたヒロインもまた、「二人でいたときの何気ない時」だけを求めています。
主人公がヒロインと離れ離れになり、8年経過した後で、
あの夏の日、8年という月日が永遠に思えたことをよく覚えている。
それから今まで、決して迷いなく生きてきたわけではないけど、
あの日に決めた目標だけは、今も変わっていない。
という主人公のモノローグが入り、離ればなれになると決まった日を堺に、目標に向かって生きてきたことを吐露するわけですが、これもつまり、天体観測の、
予報外れの雨に打たれて 泣き出しそうな
君の震える手を 握れなかった あの日を
(中略)
そうして知った痛みが 未だに僕を支えている
「イマ」というほうき星 今も一人追いかけている
と、同じことを実は言っています。天体観測でカタカナ表記にされている「イマ」とは、二人で天体観測を行ったときに「僕」が感じたその瞬間の「イマ」であることは、一番の歌詞から読み解いても明白です。
その昔あった「イマ」を未だに自分が追いかけているというこの歌詞は、ぴったり「ほしのこえ」の主人公が吐露したモノローグと一致するのです。
そして、「ほしのこえ」ラストで二人は互いに心の中だけで、相手に話しかけ合います。
「ねえ、ノボルくん? わたしたちは遠く遠く、すごくすごーく遠く離れているけど」
「でも想いが、時間や距離を越える事だって、あるかもしれない」
「ノボルくんはそういうふうに思ったことはない?」
「もし、一瞬でもそういうことがあるなら、ぼくは何を想うだろう。ミカコは、何を想うだろう」
つまり「遠く、時間さえ離れてしまった二人でも、どこか一瞬でも"あの時と同じような瞬間"があるかもしれない」=「「イマ」というほうき星 君と二人追いかけている」ということです。
このように、代表作「ほしのこえ」からして、相当に「天体観測」と実は内容が似ているわけです。
新海誠映画は、この後も「ほしのこえ」で出ていたテーマをある種、変奏させるような形で、作品を作っていくわけですが、となると当然「天体観測にそっくりな内容」がどんどん変奏されていくので、不思議と「天体観測」に似ている話になってしまうのです。
例えば「ほしのこえ」のデビュー以後で、おそらく一番有名な作品である「秒速5センチメートル」は「踏切で約束を交わした主人公とヒロインが、いくつもの経験を経ながら、成長していき、最終的に主人公は約束した踏切へと向かう」という内容で、同じように最後は思い出のフミキリへと"僕"が向かっていく「天体観測」と、やはりどうしても重なって見えます。
……実際オチも、
もう一度君に会おうとして 望遠鏡をまた担いで
前と同じ午前二時 フミキリまで駆けてくよ
始めようか天体観測 二分後に君が来なくとも
ですし……。
(秒速5センチメートルの重大なネタバレのため、白字で表示しています)
で、本作、「君の名は。」はどうだったのか。
言うまでもないでしょう。
とうとう、主人公二人の「イマ」を繋ぐ要素がほうき星になってしまいました。
しかも、彗星が接近している間だけ、二人が入れ替わり、ズレているはずの時間が二人の間だけで一致すること、冒頭のモノローグで提示されている「忘れてしまった何かが、記憶に覚えていない、しかし何かハッキリとした感覚が人に残っていて、それをいつまでも追っている」というテーマ、総じて言ってしまえば「「イマ」というほうき星 を追いかけている」ということでしょう。
天体観測の歌詞では
気が付けばいつだって ひたすら何か探している
幸せの定義とか 哀しみの置き場とか
生まれたら死ぬまで ずっと探してる
さあ 始めようか 天体観測 ほうき星を探して
という箇所でも明らかなとおり「ほうき星」自体が、探し求めている何かのメタファーとして扱われています。それは本作でも同様で、主人公は劇中の終盤、一連の出来事を忘れていながらも、彗星の情報を収集していたとモノローグで語ります。記憶の中で漠然とした状態になっている何かを求めるために。
そして、やはり今までと同様に数年の時を経る構成からの、相変わらず男女の出会いの要素として使われる「電車」のモチーフ。クライマックス付近でしれっと挿入される、望遠鏡を使って、彗星を天体観測する人たちの様子。挙句に、劇中の音楽を担当するのは、しょっちゅうBUMP OF CHICKENとの類似性を指摘されるRADWIMPS。
狙ってるのかは微妙ですが、やはり今回もなんだか「天体観測」を連想せざるをえません。
以上からも分かる通り、新海誠監督は僕からすると「なんだか、ずっと天体観測を繰り返している監督」にしか見えないのです。特に代表作とされる「ほしのこえ」と「秒速5センチメートル」そして、本作は、天体観測の変奏といって差し支え無いです。なぜか、新海誠は新しいことをやろうとやろうと努力はするのですけど、結果的に、いつも結局「天体観測みたいな話」に戻ってしまうのです。
つまり、言ってしまえば新海誠の恋愛映画は『エンドレス・天体観測』アハーン。
これは新海誠監督と、藤原基央は人間としてかなり近いメンタリティの持ち主ということなのでしょうか。
ともあれ、新海誠監督の「君の名は。」は、非常に今までどおりの新海誠映画だと自分は思います。こんな一般ウケするのは今までの新海映画ではなかった、という、反応のファンも多いようですが、でも、天体観測ってヒットソングですし、一般層に届いてしまえば一般ウケするのは当たり前といえば当たり前ではないかなと思います。
*1:どうでもいい余談ですが、映画冒頭のモノローグ「目が覚めたら泣いていた」に対して『それまんま「世界の中心で、愛をさけぶ」じゃん……』と思ったのは僕だけでしょうか…?