儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画レビュー:王将

  

王将 [DVD]

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 時は明治。将棋界ではそろそろ家元制の名人から、実力制の名人への移行を考える機運もあるような、そんな時代。

 坂田三吉は関西の将棋ファンの間では、名を轟かせている人物だ。普段は、長屋住まいで草履を拵えるくらいのことしか出来ず、妻の小春には「子どものような人だ」と言われてしまうような彼だが、小さい将棋大会に顔を出せば「あの坂田三吉さんですか」と周囲から感心されてしまうほどの強豪将棋指し。

 事実、坂田三吉はそれほどの将棋が好きであり――普段なら、深々と頭を下げて、どんな人とも丁寧に接するような誠実な人なのだが――将棋に出るためならば、家財はおろか、仏壇や、娘の着物まで質に入れてしまう始末。しかも、最近、三吉は目が見えなくなってきていて、家業の草履づくりも禄にできない状態で、妻の小春は、そんな三吉に振り回されてばかり。

 

 そんな中、ある棋戦で坂田三吉は関根という、プロの七段棋士と対局し、千日手を指してしまって、規則により負けてしまう。将棋で負かされたのではなく、規則に負かされたことに納得がいかない三吉は、関根を打倒することに闘志を燃やし、更に将棋にのめり込むようになってしまう。

 

 とうとう、うんざりした小春は――――

 

 もうそろそろ「聖の青春」が公開される頃です。「聖の青春」は、かつて七冠を取り、今でもなお将棋界のトップを争い続ける現・羽生善治三冠と、並び称された西の天才――村山聖の物語です。「東の天才」に対して「西の天才」も実は存在していたのだ、という。

 

 ……実はこの「王将」も、全く同じ映画なのだ、ということは殆どの人がご存じないと思います。

 元々、坂田三吉棋士の中では、あまり有名な棋士ではありませんでした。(もとより、棋士という存在を知らない人も昔は多かったのですが……)事実、彼の死亡記事は新聞の片隅にちょっと載っただけです。当時の世の中では、そんな程度の人。

 しかし、そんな彼が「実は、東の名人・関根金次郎とライバル関係にあるほどの男だったのだ」と世に知らしめたのが、この映画――もとい、映画の原作である戯曲――なのです。

 関根金次郎……という男は、簡単に説明して「明治の羽生善治」です。東側で名人を襲名した男であり、家元制の、誰かが代々次ぐことになっていた名人を、実力制の、実力の闘いで勝ち取るものに変えた男であり、その後、彼の弟子である木村義雄が、常勝将軍として名人の座に就くことになるのです。

 そんな男に対する「西の天才」を描いた物語が、実は「王将」なのです。

 

 こう言われると、おそらく、殆どの人はこの映画に対する見方が変わるのではないでしょうか。殆どの人は、漠然と「破天荒な将棋指し」の物語で「なんだか、爺さん世代が好んでた古臭い映画だったな」とか、そんな認識で覚えていたはずです。

 

 そんな認識のいる人ほど、一度でもいいからこの、阪東妻三郎版の「王将」は見たほうがいいです。

 まず、主人公がまったく破天荒ではありません。むしろ、主人公はとても腰が低く、なんだかお馬鹿でどうしようもないのだけど憎めない、無邪気な人物像となっています。

 そして、映画に詰まった様々な要素の数々は、どれもが現代でも通じるほどの普遍的な内容で……例えば、関根と坂田の関係性は、もう殆ど少年漫画の原型といっていいくらいです。

 初顔合わせで「千日手(=事実上の引き分け)」で終わったところから、関根と坂田、お互いにお互いをライバルと意識するところ。ライバルの中で、熾烈な一戦を交える二人、時に情けない手で卑怯に、相手から勝ってしまったという、苦い勝利の味を覚えることもあり……そして、最後に「あんたが居なければ、自分はここまで強くなれなかった」と互いに互いを認め合う姿……全て含めて少年漫画のフォーマットをなぞったかと思うほどの展開が入っています。

 なおかつ、この映画は長屋の貧乏暮らしの男が、色んな人の手に支えられながら、社会を勝ち上がっていく映画でもあります。あまり普段は頭の良い様子でもなく、目の病気を負い、今にも失明するんじゃないか、仕事もできなくなるんじゃないか、と思われていたような男が、将棋を通じて、だんだんといい暮らしを手にしていく過程――なんて、現代こそ、特に好まれている描写ではないでしょうか。

 しかも、この映画は、そんないろいろな要素を兼ね備えながらも、主軸としては、あくまでトンデモナイダメ夫を持ってしまった妻の、並々ならぬ苦労記なわけです。つまり、女性からの視点というものも、多く入っているわけです。

 なおかつ、そんな夫婦の、とても簡単には言い表せない関係性を描いた映画でもあるのです。

 

 正直、自分も鑑賞するまで、本作がこれほどまでに、現代でも通じるような内容のある映画とは到底、思っていませんでした。聖の青春が公開されるとか、将棋を知っているとか知らないとか、そんなことは関係なく、本気でオススメ出来る一作です。

映画感想:聲の形


映画『聲の形』 本予告

恒例の手短な感想から

予想を裏切って素晴らしい!!

といったところでしょうか。

 

 正直、最初に京都アニメーションがアニメ化すると聞いたときは、かなり不安になりました。聲の形は、そこらへんのネット世界にどっぷりな人たちに、ありがちな「イジメ、ゼッタイ、ダメ」的な解釈も――「報われない主人公たちのうんたらかんたら」的な解釈も――いわゆるリア充的な側からの「障害のある恋、かわいい」的な解釈も――「障害、かわいそう」的な解釈も――あるいは、イジメ経験側からの「イジメたやつはとにかく悪いんだ」的な解釈も――全てやったら、一発アウトという、ものすごく難しい案件だからです。

 それを果たして「けいおん」や「たまこまーけっと」の山田尚子監督が、映像化出来るのかと考えたら……当然、疑問しか浮かびません。

 が、不安に反して、本作は聲の形が抱えている「いくつものテーマ」の中から、見事に「本筋のテーマ」を見出すことに成功しています。本編中、観客が単純に「こいつ悪いやつ。良いやつ」と解釈しそうになる心を、何度も裏切り続け、延々と惑わせていくストーリーと演出の数々に、誰もが「これはとても難しい問題を突きつけてきている」と感じたはずです。

 考えさせられる、という感想を並べる人も多いことでしょう。

 そう感じざるをえないほどに、この映画が的確に「聲の形」の全てを描いているからです。全てを描いているとは、つまり、上記のような幼稚な解釈たちを俯瞰できる、一つの大きな解釈を提示している、ということです。

 

 ハッキリ言えますが、聲の形は「障害の話」でも「恋の話」でも「いじめの話」でもありません。それらは「そういう現実」という舞台として用意されたものに過ぎないのです。

 

 耳の聞こえない人も、イジメた人も、イジメられた人も、現実としてどこにだって存在しています。イジメられた人が、かつてはイジメた人でもあった――そんなことだって、別に珍しいことではありません。誰もハッキリ言わないだけです。そんな現実は陳腐なほどに存在しています。

 *1

 ですから、実はこれらをテーマにしたところで、特段、胸に訴えるような作品にはなりえませんし、作品としての意義もありません。

 事実、イジメをテーマにしたものも、障害をテーマにしたものも、散々ありますが――大体にして、見ている人の「こんなのに同情できる私ったら良い人ねぇ」という自己満足を誘って、なにも意識を変えずに終わり、という、ゴミみたいな結果しか生み出してきませんでした。

 

 聲の形がそれらと一線を画す存在になっているのは、それらの上を行く話を描いているからです。

 本作は、「そういう自分の周りにある、圧倒的な、取り返しなどつかない、変えようもない、どうしようもない現実という暗中で、もがきながらでも成長する――しなければならない理由を描いた話」なのです。

 

 

 ここに気が付いて、ちゃんと映像化しているからこそ、聲の形は、非常に意義のある一作となっていると言えるでしょう。

 予想を裏切って素晴らしい作品でした。 

 

 

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 ……蛇足ですが、立川談志という噺家が言った「よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。」という言葉はご存知ですか?

 まあ、人によっては「なんて酷いことを言うんだ」なんて言われたりする、冷たい現実を突きつけた言葉なんですが……実は、この言葉、続きがあるんです。

 よく覚えとけ。現実は正解なんだ。

 時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。

 現実は事実だ。

 そして現状を理解、分析してみろ。

 そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。

 現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。

 その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う

 

*1:正直、ネットで正義面して「イジメられている子どもたちに手を差し伸べましょう」とか言っている人たちだって、過去がどうだったかなんて、分かったもんじゃありません。個人的に、聲の形の主人公と似たような経験(そんなに悪い行動はなかったんですが…なおかつ仕打ちをもうちょっとマイナスにした方向ですが……)をした僕から言わせると「胡散臭く感じる」とだけ言っときます……

映画感想:無垢の祈り


[Innocent prayer ]Movie Trailer#1.1「無垢の祈り」予告篇#1.1

恒例の手短な感想から

うーん……評価に困るなぁ……

といったところでしょうか。

 

 『無垢の祈り』という映画は、一部の映画ファンをだいぶヤキモキさせた映画でした。平山夢明の同名短編小説を原作としているこの映画は、2015年に完成した後、公開してくれる映画館がまったく決まらなかったのです。せっかく商業監督が、自主制作で作り上げた映画だというのに、後悔しないまま、お蔵入りになるかもしれないとも囁かれていました。

 

 なぜ、そのような事態に陥っていたかというと……一言で言って「原作が平山夢明だったから」です。

 

 平山夢明とは、一部ではそれは有名なホラー作家であり、ミステリー作家です。どう有名なのかと言えば、その内容のあまりの苛烈さで有名なのです。

 残酷描写や汚物描写が、所狭しと並び、その一つ一つが異様にリアルで気味が悪いという、トンデモナイ作家が平山夢明なのです。

 彼の著作には、内容自体が、どろっとした血の泥を背中に流し込まれるような不快感、不穏さ、不安感、幻惑感を読者に叩き込んでくる小説も多く――例えば、「片足が義足である障害者の女性が、突然自宅に押しかけてきた、頭のおかしいプロレス野郎どもに、理由もなく、次々拷問のようにプロレス技をかけられて体の部位をもぎ取られて殺される話」などという、いろいろと酷すぎる話があったりする小説家なのです。*1

 そんな人の著作を、実直に映画化してしまったら、どうなることか。

 想像に容易いと思いますが、本作、内容がかなり苛烈なことになっています。そのせいで、この映画は公開を危ぶまれていたのです。倫理から考えても酷薄な内容の映画を、公開したがる映画館がなかったのです。

 

 と、まあ、上記のような事情があり、非常に公開が危ぶまれていた本作ですが、個人的には非常に見たかった一作でした。なにせ、自分は、本当にコアな人ほどではないまでも、それなりに平山夢明の新作が出れば買って読み漁ってしまうくらいには、彼の著作が大好きだからです。

 確かに残酷描写や汚物描写、及び下町の廃れた描写に関しては不快になるほどの強烈さを持つ作家ですが、同時に悪夢かと思うほどの奇天烈なアイディアや、シーンの数々、残酷描写からふとやってくる感動的な展開など、ただ残酷なだけではない奥深さのある内容に、かなりヤラれてしまっていまして…。

 

 そういうこともあって、非常に映画化されるという話を聞いたときから、見たくて仕方なかったのです。10月14日までの短い上映期間ですが、なんとしても見たいと。

 そうして、期待に期待を重ねて観に行った本作ですが……。

 う、うーん……。

 

 いえ、本作の全てがダメだと言うつもりはありません。かなり、原作の――というよりも、平山夢明の――テイストを上手に引き出している部分もあり、ラストの改変も悪くないと思っています。*2

 平山夢明という作家は、例えば腕を引きちぎられる場面を、読んだ読者が本当に自分の腕が引きちぎられたのではないかと錯覚を覚えさせるほどに、リアリティある描写の上手い人なのですが、同時にそこはかとなく、作品に常にシュルレアリスティックな雰囲気が漂っている作家でもあります。非常に抽象的な場面も多いのです。

 なので、リアル一辺倒な描き方では決して映像化の出来ない作風の作家とも言えるでしょう。本作も、そこに気づいていて、抽象的と言わざるをえないある”仕掛け”が映画に施されています。

 この"仕掛け"は、この映画において最も成功した部分でしょう。おそらく、初めて「とある人に見立てられたアレ」を見た瞬間、観客はギョッとさせられるはずです。同時に、否が応にも、従うしかないその人物の境遇をよく象徴してもいて……だからこそ、ああいうオチになってしまうんだ……という説得力の補強にもなっており、いろんな効果を映画に与えています。絵面としても、ある種、ヤン・シュワンクマイエル的なセンスに近いものを感じられて素晴らしいのです。

 

 そういうところは良いのですが……。

 

 如何せん、どうにもこの映画は、あちこちで監督の力量不足が見え隠れしています。例えば、初めて耳を見つけるシーンは……これはちょっと、無駄に尺を水増ししているようにしか見えないでしょう。主人公が、長回しのカメラであんな歩きまわる意味って一体……? せめて、一瞬でも良いから、観客に「あれ、あそこに、なんかあるぞ…? なんだあれは…?」と思わせるようなカメラワークを入れるべきでしょう。それだけでも、だいぶ変わったはずです。

 このように、この映画は、なんだか無意味に映しているシーンが多すぎるんです。暗い絶望的な日常の描写のために入れているにしても入れすぎですし、水増ししているような印象もあって、結構、中盤は苦痛です。

 他にも、原作者の平山夢明氏が、カメオ的に出演しているシーンがあるのですが……これも困ったものです。いえ、自分としては、確かに平山夢明氏が動き回っている姿を見るのは好きなのです。とはいえ、出すタイミングがおかしすぎでしょう。正直、平山夢明氏が出てくると、ちょっと笑いそうになってしまうので、このタイミングで出すのは、やめてほしいです。

 あと、ちょいちょい説明的なセリフが気になります。しかも、言ってることが結構陳腐なのも「なんだかなぁ」と。

 

 そういうわけで、この映画は困るんですよね。手放しで褒めたいのですが、うーん、それは無理かなと。

*1:ちなみに、最近映画化された小野不由美の『残穢』。佐々木蔵之介が演じていた人物は、原作では、名前が平山夢明となっています。そうです。あの人です

*2:正直、個人的には、こういう場面があるメディアを鑑賞しすぎているせいでオチが読めてしまったのですが……まあ、それは、自分が特殊すぎるのでだいたいの人にとっては衝撃的なオチだと思います

映画感想:ハドソン川の奇跡


C・イーストウッド監督×トム・ハンクス主演『ハドソン川の奇跡』予告編

 

恒例の手短な感想から

これが良い映画だろ!

といった感じでしょうか

 

 正直、さすがに不安も大きかったのです。いくらクリント・イーストウッドといえども、今回の題材を一体どうやって映画化するのか、と。「ハドソン川の奇跡」といえば、近年でも有名な飛行機不着水事故です。遠く離れた日本でも、大々的に報道され、その後の顛末も含めて、当時、かなり仔細なことまでキッチリ報道されていました。

 つまり、ハッキリ言って「観客として見に行く人々は、主人公のサリーがどうなったかなんて百も承知」の状態なわけです。だから、予告編の内容を見ながら「え、『ハドソン川の奇跡』のそこを映画化するって、結構、無理がないか?」という心配がどうしても出てきてしまいます。

 果たして、映画として見れるものになるのか、と。

 

 その状態で、クリント・イーストウッドはどんな手を打って、本作を映画化するのか非常に気になっていたのですが……。

 クリント・イーストウッドは、真正面から、ストレートに映画化していました。

 この映画、まったく余計な”味付け”をほとんど行っていません。ハドソン川の奇跡を起こしたパイロット・サリーと例の事故調査での一件を中心に、非常に、淡々と当時起こったことを、そして、騒動に巻き込まれる中で、サリーがどのような心境に陥っていたかを、シンプルな演出で描いていくのです。

 例えば、航空機パニックものを意識したような、パニック描写や事故描写等々の過剰な演出を入れることもありません。乗客がギャーギャー喚いたりすることもないのです。

 そして、過剰にサスペンス的に魅せようともしていません。一応、最低限の映画を面白くするための要素として「ハドソン川の奇跡のとき、パイロット室では何が起こっていたのか?」という謎を残したりしてはいます。が、過剰に観客をドキドキさせるような、思わせぶりな演出は避け、事故調査も、誰かが過剰に声を荒らげることもなく、あくまで淡々と進んでいくのです。

 

 本当に、まったく味付けがされていないのです。

 しかし、不思議なことに本作は、とてつもなく面白いです。

 

 淡々としている映画なのですが、いえ、むしろ、淡々としているからこそ、この映画はなんとも味わいの深い一品となっています。

 なにも過剰さのない映画です。徹底的に抑制を利かせている映画です。しかし、そのおかげで、画面上にある細かい情報や、監督の意図まで観客が読み取れるように出来ているのです。

 だからこそ、『ハドソン川の奇跡』が、ただハドソン川の奇跡を描いただけの映画ではないことに、観客も気づくのです。

 

 まず、この映画は『ハドソン川の奇跡』と、ある出来事を重ね合わせていることが随所で読み取れるように作られています。

 それは911です。主人公のサリーは、事故の後、ショックから何度か『あのハドソン川の奇跡で失敗して墜落してしまう幻覚』を見るのですが、この墜落する飛行機の様子が、完全にニューヨークのビルに飛行機が突っ込んでいった、あの悲劇を思い起こさせるような描写にあえてしています。

 事実、セリフ上でも、しれっと911のことを暗に言っている場面が存在しています。

 

 つまり、クリント・イーストウッドは『ハドソン川の奇跡』と『911』が表裏の存在であると考えているのです。少なくとも、ニューヨークという街にとっては、そうなのだと。

 

 そして、どうして『ハドソン川の奇跡』が『911』と表裏と言えるのか、ということを、この映画はサリーの騒動を中心にしながら少しずつ描写していくのです。

 ――話は少し変わりますが、この映画、予告編を見た段階では…あるいは記事をここまで読んだ段階では、サリーのみを主人公とした映画だと思うのではないでしょうか。実は違います。

 この映画は、確かにサリーを中心としてはいるのですが、彼のみが主人公というわけではないのです。実はこの映画は、彼を中心とした群像劇となっています。

 特に『ハドソン川の奇跡』が起こった当日の様子は、沿岸警備隊や、管制塔や、乗客や、様々な人の視点から『ハドソン川の奇跡』を描写しており、サリーの視点もその中のあくまで一つ、という扱いになっており、群像劇としか言いようがない描き方をしているのです。

 

 ようするに、これこそがハドソン川の奇跡』が『911』の表裏と言える根拠なのでしょう。あの瞬間を中心に、様々な人が次々に動きを見せたことが――たとえ、その一つ一つの中に、結果的に無駄骨な苦労があったとしても、全員がその瞬間にとっての最善を尽くそうとしたことが、表裏と呼べる要因なのだと。

 

 それをほぼ、説明なしに(最後にちょっと字幕が入る程度)で画面だけで伝えようとしてくる、この映画はまさに「上品な良い映画」でしょう。

 テーマに限らず、細かい描写でも、この映画はほとんど説明を入れません。ただ、人々の視線の動きや、表情や、座り方などで、状況や感情を描写してくるのです。これが良い映画でしょう。

 劇中に出てくるジョークも、とても気が利いていてオシャレでした。最近の、幼稚にもほどがある洋画のギャグには、うんざりしていたのですが、本作で久々に、頭の良い笑いを聞けたことにも満足しています。これが良い映画でしょう。

 

 これが良い映画なのです。

9月に見た映画

いつもどおり、9月に見た映画を書き出します。

 

・君の名は

・春のめざめ

雪の女王<新訳版>

・スーサイドスクワッド

長靴をはいたネコ

・怒り

 

以上、6本となっています。

 

 8本くらい見たつもりになっていましたが、振り返ってみると案外、9月は映画を見ていなかったようです。10月はちょっと予定的にちゃんと映画を見れるか不安なのですが、なんとか、8本くらいは見たいかなと思います。

映画感想:怒り


「怒り」予告

恒例の手短な感想から

意外に良い出来。ただ、過大評価されそう。

といった感じでしょうか。

 

 正直、李相日監督の作品の中では最高の作品だと思っています。これが、本作「怒り」に対する率直な感想です。李相日監督が、それほどに良作を連発してきた監督だから言っているのではありません。正直、自分が見てきたかぎり、李相日監督は「え、なにこれ?」と言いたくなるような、微妙な出来の映画を作る監督だったからそう言っているのです。

 一応、酷い出来の映画を撮ることはまずないのです。撮影とか脚本とか「映画として最低限これくらいはあって欲しいよね」という部分はクリアしてはいるのです。が、全体的には「ちゃんと考えてないまま、作ってるよね」という部分が多く、結果、面白くもなんともないという作品が多い監督でした。

 

 例えば「スクラップ・ヘブン」――この映画の内容を一言で言い表すなら「ファイト・クラブを何も考えないでパクると、お察しな出来の映画になってしまう、という典型例の映画」と言えます。

 もうやることなすこと「あーファイトクラブに影響受けたのね」って感じのことを延々とやる映画で、その上、編集が強烈にダサいんです。スプリットスクリーンの使い方などは、まるで「ライフカードのCMか!」と言いたくなるほどに酷いものでした。

 

 そして、この監督が作った映画の中で、一番許せないのが「許されざる者」です。これはクリント・イーストウッドの名作を、改悪につぐ改悪の挙句に「薄っぺらい差別・被差別」の話に落とし込んでしまった駄作リメイクです。

 クライマックスで、無意味にスローモーションを使いまくるところも含めて、本気で「李相日監督は自分の能力を過大評価している」と感じた一作でした。

 

 このように、李相日監督はなんだか、毎回作る作品が微妙なのです。で、その李相日監督にしては、本作は相当面白いです。まあ、実のところ、原作をなんにも考えずに、そのまま映像化している感は少し否めないのですが……。

 それでも、原作が面白かったせいか、偶然にも相性が良かったのか、本作はそれなりに面白い映画として成立しています。

 ミステリーものなので、詳しいネタバレとかは避けますが、(もっとも、この映画、あまりミステリーとしての結末が、本題と関係ない感じもするのですが)内容は、原作の吉田修一が定番とする群像劇で、様々な人の様相が描かれていき、最終的にそれらがどうなることで、その中から一つのテーマが浮かび上がってくる、という形式の作品です。

 それらを、それなりにリアルに李相日監督は映像化していると思います。それなりに、なのですが……。

 また、ミステリーらしく、本作にはミスリードさせるための要素が大量に仕込まれているので、冒頭を見たあとは、引き込まれて最後まで見たくなってしまうのは間違いないでしょう。本作は選ぶ題材が、センセーショナルなこともあり、映画鑑賞後に様々な感想を述べる人が出るのは間違いないはずです。

 

 ただ、過大評価もされそうだな、というのも、自分の正直な感想です。

 選んでいる題材が題材なだけに、ここぞとばかりに、この映画を利用して「自分たちに主張がいかに正しいか」と言い出す人たちが居そうだな、と。そして、その人達が「自分たちがいかに正しい側の人間か」という箔付けをするために、この映画を過剰に評価しそうだな、と。

 

 逆に行ってしまえば、自分はそこまで「傑作級」みたいに評価する映画でないとも感じています。

 正直、この物語……ミステリー的なミスリードのために用意した様々な話のせいで、肝心のテーマが結構ボヤケていませんか

 

 例えば、映画を最後まで見た上で、この映画が最終的になにをどう言いたかったのか、ちゃんと理路整然と言える人って居ますか。

 なんとなく題の「怒り」について「悔しさ」について「人と人が共感できない何かについて」がテーマになっているんだなとは分かると思います。が、そう考えると「あのゲイカップルの話とかなんだったんだろう?」ってなりませんか。「大事なものは少なくなっていく」って、この全体の話と関係ない話ではありませんか。

 

 この物語、本来ならば「殺人犯だったあの男の周辺の話」だけで、テーマとしては成立しているんですよね。そこらへんを映画化する際に、ちゃんと整理しないまま映画化してしまっています。

 つまりは、やっぱり「あまり、考えないで映画を作ってしまっている」感は否めないのです。偶然にも、テーマが「人と人は分かり合えない」とか「人の整然としてない感情をどう伝えるのか」とか、そんなことが言いたげな雰囲気の物語なので、理路整然としていない出来栄えでも成立できたというだけで……。

 

 なので、ハッキリ言って、今後も李相日監督の作品に期待することは、無いと思います。

映画感想:スーサイド・スクワッド


映画『スーサイド・スクワッド』日本版最終予告編

恒例の手短な感想から

観客の望み通りのハーレー・クイン萌え映画

といった感じでしょうか。

 

 まあ、予告編の段階で正直僕としては、かなり酷い出来になる可能性さえ考えていたので、そこからすると「時間を潰せる程度には、楽しめる普通の映画」だったので、いいんじゃないかなと思っています。

 自分が特に予告編の段階で眉を顰めたのは、ボヘミアン・ラプソディです。確かにボヘミアン・ラプソディって、表面的な歌詞は殺人者のことを描いた歌詞なのですが、それはあくまで表面的な話です。中身としては殺人者が「死にたくないよー。やだー。ママーママー」と嘆いている歌詞なんですね。そういうものって、スーサイドスクワッドのような、「悪党で組んだ部隊もの」の格好良さとかからすると的外れもいいとこの選曲でしょう。

 それをこの映画に付けている時点で「あ、これは作り手たち、あんまり考えて、この映画作ってないぞ」ということが明白なわけです。

 

 で、実際、この映画はあんまり深いことを考えて内容が作られていません。とりあえず、観客の喜びそうなものを目白押しにしておこうぜという魂胆がありありと見える映画で、まあ、色んなものを突っ込んでいるのですが、色んなものを突っ込みすぎたせいで、リアリティラインが相当おかしなことになっています。

 

 特にヘンテコなオカルト要素と、ジョーカー的なサイコパス要素は、ものすごい食い合わせの悪さを誇っています。

 なぜなら、ジョーカーがどんな悪事やら、残忍なことをやっても「マジな邪神様と比べれば、どうでもいい」としか思えないからです。「どうでもいいレベルの性悪小悪党がなんか余計なやってるなー。邪魔だなー」くらいにしか思えず、完全にマイナス方向に作用してしまっているのです。

 作り手たちも、一応そこらへんのおかしさには、気づいているのか、画面上でジョーカーと、今作の敵の一団が、絶対に鉢合わせないように扱ってはいるのですが、そう扱えば扱うほど、あれほどの大事を察知してない、ジョーカーが相当な間抜けにも見えてしまい、やはり、食い合わせが悪すぎると言わざるを得ません。

 

 とはいえ、ハーレー・クインを出すためには、ジョーカーを出さざるをえないからしょうがないのでしょうが……。しかも、ハーレー・クインを出さなかったら、もっと普通につまらない映画になっていたでしょうし。

 

 そうです。この映画の魅力の7割近くは彼女であり、この映画は彼女のためにあると言って過言ではないです。実際、観客だって「エロかわいいハーレー・クインが自由奔放にかわいく活躍してくれたらいいなぁ」という淡い期待を持って観に行く人が多いのでしょう。*1

 そういった人たちの期待に見事に答えてくれる映画にはなっています。

 映画全体の流れとか「本来の筋書き的にはあいつが主役のはずじゃ……」とか、そういうことは一切無視して、とにかく脈絡なくハーレー・クインが大活躍します。他のキャラはない、彼女だけ単独で行動して闘うシーンが用意されていたり、クライマックスで彼女がアレしたりなど、とにかくハーレー・クイン推しの一品となっています。

 一人で勝手に行動するハーレー・クイン。ジョーカーとの過去を思い出してヤンデレ気味なハーレー・クイン。なんだかんだで仲間想いなハーレー・クイン。あぁ、ハーレー・クイン。ハーレー・クイン。ちょいちょい描写を挟まれるデッドショット。ハーレー・クイン。ハーレー・クイン。ハーレー・クイン……。

 とまあ、このように見事にハーレー・クインのいろんな表情が見れる、ハーレー・クイン萌え映画となっているわけです。

 

 なので、ハーレー・クインが見たい人は見に行けばいいのではないでしょうか。映画自体は、本当に「うわー、普通だなー」っていう出来ですし、そんな感じの鑑賞で別に問題ないかと。

*1:分かります。みんな好きですからね。ああいう、藤異秀明の漫画に出てきそうな女の子キャラ。ああいうの、意外と女性の中にも、どっぷりハマる人が居たりして、もう男女問わず大好きですから。

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