儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画感想:ナイスガイズ!


『ナイスガイズ!』幻のTVスポット

 恒例の手短な感想から

続編が今すぐ見たい!

 といったところでしょうか。

 

 自分としては本当に久しぶりでした。映画を見ていて「あぁ、この登場人物たち、すごく好きだなぁ」と思えたのは。この映画、ナイスガイズは基本的には非常に良く出来たハードボイルドパロディ・コメディなのですが、しかし、単なるパロディで一笑いして終わりの映画ではないのです。

 まず何と言っても、登場人物たち全員がキャラクターとしてよく作り込まれています。敵役から、脇役に至るまで、様々な登場人物がインパクトに残らずをえないほどに、強烈なキャラクターばかりで、しかも、それを演じる役者たちが、まあ、このキャラクターによく似合っていること……。

 特にライアン・ゴスリングの、主人公のダメダメ探偵役へのハマリっぷりは今までの彼にあったイメージを覆しかねないほどであり、風貌といい、仕草といい、情けなく裏声の悲鳴を上げるところといい、「ライアン・ゴズリングってコメディ役の方が上手いのか!」と衝撃を受けること間違いないです。

 

 そして、そのドハマリしているライアン・ゴズリングがいるというのに、他の主演二人も負けないくらいに存在感を発揮しているのだから、なんと言っていいのか……。

 行き過ぎた暴力正義漢のラッセル・クロウはもちろんのこと、アンガーリー・ライス演じる、主人公の娘もキャラクターとして素晴らしいものでした。

 彼女は、例えるなら、カートゥーンの「ガジェット警部」におけるベニー的な役回りの――”ダメダメな中年を裏で支える、少しマセたしっかり者の少女”という、90年代的なキャラクターとなっているのですが――このキャラクターの作り込みが素晴らしくて、見ているコチラは、80年代~90年代によくあった、単純で面白かったサスペンスエンターテイメント映画を思い出してしまうのです。

 

 しかし、この映画はあくまで今の映画です。70年代のアメリカを舞台にしたりしていますが、それを描く視点や、描写の仕方や、話の展開などはキッチリと現代的なエッセンスが効いており、だからこそ、ちゃんと笑える映画になっています。変に白けることがないのです。

 映画自体は、主に、陰謀論系のサスペンス映画をパロディにしているのですが、このパロディの方向性が、ある種、ポール・トーマス・アンダーソンの「インヒアレントヴァイス」に近いような視点からのものなので、実は「インヒアレントヴァイス」と比較してみるのも面白い一作かもしれません。

  話の筋書きもしっかりしており、コメディであるところを上手く活用しながら、巧みに話を転がしていっています。また、全体的にセリフで過剰に説明するのを避け、なるべく画面で描写するのも上手く、普通にコメディ関係なく、描写の上手さに唸ってしまうところもあります。

 その上、意外なところが伏線になっていて、後々で回収されていったり、ちゃんと主人公二人が「人間的に成長したんだ」と思える描写を入れていたりと、全体的に抜け目なく話が構築されており、結構、誰もが問題なく楽しめるエンターテイメントになっています。

 おそらく、鑑賞後はスッキリとした気持ちで映画館を後にすることが出来るでしょう。

 

 ここまで曇りなくエンターテイメント然とした映画は、本当に久々です。

 いや、本当に続編が作られればいいのに!

映画感想:虐殺器官


「虐殺器官」新PV

 恒例の手短な感想から

原作ファンは見ても良いんじゃないかな

 といったところでしょうか。

 

 まず、断っておきたいのですが、上記のように「原作ファンは見ても良い」と書きましたが、自分自身は伊藤計劃のファンでもなければ、「虐殺器官」自体も他の人のように崇め奉るような人でもありません。

 そういう人の感想ですので、伊藤計劃以後のSFがどうたらこうたらとか、そういう愚にもつかないようなことを、ネットの片隅に書き込んでいるような人たちは、この記事を読まないほうが良いです。信者の人たちが思うような褒め方や貶し方はしないからです。

 

 ただ、そんな自分からしても、本作の「虐殺器官」はそれなりにしっかりしてると感じました。少なくとも、以前、このブログで記事を書いた、「ハーモニー」よりかは遥かにマシです。やたら説明的なセリフが映画の半分を占めるようなこともありませんでしたし、ゼロ年代半ばによくあったリアル志向のアニメ絵も、本編の内容と違和感なく溶け込んでいました。

 少し、原作からすると、なんというか、テーマの説明がしつこいような気もしますが。まあ、難しいテーマですし、仕方ないような気もします。

 元々、監督の村瀬修功氏自体が、「レゾンデートルがどうだの」「うんたら計画がどうだの」という話から、最終的に漫画版ナウシカみたいな展開になる、エルゴプラクシーというSFアニメを監督するような人ですし、もっと難解にすることも出来たとは思いますが、現状でも及第点ではあるでしょう。

 なので、原作ファンは、とりあえず本作を一見していいのではないでしょうか。

 

 ただ……うーん。やはり、原作をそんなにものすごく好きというわけでもない人間から言わせると、映像化したおかげで余計に「やはりこの物語には無理があるよなー」という確信が増してしまったのも事実です。

 まず、一つとして、原作を読んだときにも強く感じていたのですが――そして、ハーモニーにも似たような印象を持っているのですが――この物語はなんだかんだ言って珍説披露ショーなんですよね。そして、珍説を結構、安直に会話で説明してしまうので「こんな仮説があるのよ」「そーんな馬ー鹿ーなー」というやり取りが繰り返されたりするところも、如何ともしがたいです。

 文字だから許されるだけで、映像として考えると絵面が信じられないほどショボいのです。事実、今回の映画も、前半は結構絵面がショボいです。

 

 なにより、SF畑の人たちがこぞって絶賛する、本作のテーマなのですが……うーん。

 個人的には原作を読んだ時点で「世界の真実を暴いた!」とか「我々に新しいビジョンを見せてくれた!」とは、あまり思えませんでした。……これを言うと、色んな人に石を投げられそうですが、伊藤計劃の世界観ってどことなく「純粋で幼い」気がするんですよね。

 

 例えば、ハーモニーの話になりますが、あれって「意識がどうだのこうだの」という話で、いかにも崇高なテーマであるかのように偽装していますが、実質は「”本当の自分”探し」をしているだけの内容ではないでしょうか。

 自分という存在にとって、本当の自分であると言い切れるのは、自分が自分だと認識できている、この”意識”だけです。つまり、それを求めようとしただけの――本当の自分を探したかっただけの物語であり、そういう「純粋で幼い世界観」が生み出した物語ではないかと。

 

 同じように、虐殺器官の世界観も「純粋で幼い」ように思います。まず、主役の登場人物たちが、みんな純粋で実直です。虐殺だの、暗殺だの、内戦だのと汚い話をしていますが、それは議題としてそういう問題を扱っているに過ぎず、考え方や思想は常に純粋です。混じり気もなく、素直な人間ばかりが出てくるのです。

 なにより、オチ自体も……とても純粋でしょう?

「平和な世界に、一つでも暗い影を落としたくない」という願いは、とても純粋な考えではないでしょうか。そして幼稚です。なぜなら、「暗い影とも上手く付き合っていく」のが大人だからです。それを毛嫌いするだけでは子どもの態度としか言いようがありません。

 しかし、登場人物たちは、その可能性を考えることすらしません。むしろ、そんな世界が許せなくなって「逆襲」してしまう始末。とても幼い考え方でしょう。

 虐殺器官は図らずも「大人になることを拒絶した子ども」の物語になっているのではないでしょうか。

 

 そして、本作でもそれは現れています。映画の最後で、二人の男は、ある願いを叶えることだけを目指そうとします。彼らはなんの迷いもなく、躊躇いもなく、純粋な気持ちのみに突き動かされていました。

 だからこそ、自分にはどうしても、この物語はどこか浮世離れしているように見えるのです。

1月に見た映画

今回から、予告編やアマゾンのリンクも張ってみることにしました。文字だけだと分かりづらいので……。

 

・クラバート

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ブルーに生まれついて


Bunkamuraル・シネマ11/26(土)よりロードショー「ブルーに生まれついて」

悪魔の発明

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 ・ネオン・デーモン


『ネオン・デーモン』予告編

砂時計

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 ・ほら男爵の冒険

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 ・ドント・ブリーズ

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鳥の島の財宝

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以上、8本が1月に鑑賞した映画でした。今月は、見て分かる通り、カレル・ゼマン鑑賞月間でした。ちなみに、2月も鑑賞月間は続きます。

映画レビュー:砂時計

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 異様な雰囲気の漂う列車の中、車掌に揺り起こされてヨーゼフは目を覚ました。「到着します」と告げる車掌。列車はもうすぐ、ヨーゼフが降りる駅に近づいているという。

 「駅からは?」と、ヨーゼフは駅から先の道のりを尋ねる。ヨーゼフの父、ヤコブが療養中のサナトリウムは駅を降りた先だから、である。

 「道順ならご自分で見つけるはず」

 そう車掌に返され、怪訝そうな表情をしながらも、席を立ってヤーコブは列車を降りていく。

 雪景色を歩いて行くと、ヨーゼフはサナトリウムへと付いた。どこか殺伐とした建物には、巨大な黒い扉があるが、開けても中には入れない。仕方なく、横の窓から足を踏み入れた。

 サナトリウムの中は、埃まみれで荒れ放題だった。

 まるで廃墟のような建物をヨーゼフは歩き回る。と、廊下の扉から、胸をはだけた看護師が出てきた。ヨーゼフは彼女に「長旅でね。部屋を予約したものだ。誰に会えば?」と尋ねる。看護師は「睡眠の時間です。先生は後ほど」と答えた。

 だが、サナトリウムはまだ夜でもないはず。不思議に思うヨーゼフに、看護師は「常に睡眠中よ。ご存じない? 夜も昼もない場所なの」と言った。

 ヨーゼフは仕方なく、サナトリウムのレストランで待つことにする。

 やがて、看護師がやってきた。「先生がお待ちです」

 

 先生と対面するヨーゼフ。当然、ヨーゼフは父が生きているかどうかを尋ねるが、先生からはなんとも曖昧な返事が返ってくる。

 ヨーゼフの父は、サナトリウムの外界からしたら、手の施しようのなく死んでいる状態で既に故人なのだという。しかし、サナトリウムの中では父は生きているというのだ。

 ヨーゼフは、先生に案内され、父の寝ている部屋まで向かう。確かに、そこにはヤコブが生きていた。

 先生曰く、このサナトリウムは時間を戻しているのだという。一定の間隔を空けて、時間を戻すことで、外からすれば、既に死んでいる彼がサナトリウムの中では生きていることになっている……と。

 

 なんとも、レビュー冒頭のあらすじ紹介だけでも、これほどに文章を割いてしまうとは……。ですが、仕方のないことです。本作、ヴォイチェフ・イエジー・ハス「砂時計」のあらすじを説明しようとなると、これくらいの分量は絶対に必要です。

 いえ、むしろ、これでも、まったく足りないのです。本作品は、それほどになんとも説明し難い内容です。まず、冒頭の列車の様子からして異様なのです。列車のわりには、蔦が車内に蔓延っていたり、裸の人があちらこちらで寝ていたり、その美術の強烈さは、一瞬で見ている人を幻惑の世界へと叩き込んでしまいます。

 原作は、一応、ブルーノ・シュルツの短編「砂時計サナトリウム」なのですが……いえ、他のブルーノ・シュルツの短編が混じり合ったりしていますし、そもそも、描写とかいろいろな面が、大胆に変えられてしまっているので原作と呼んでいいのかどうかすら分かりません。

 喩えとして通じるのかは微妙ですが、本作と原作の関係性は、鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」と内田百閒の「サラサーテの盤」のようなものと理解して頂けるといいかと思います。

 

 実際、ヴォイチェフ・イエジー・ハスの美術と鈴木清順の美術には、どこか通ずるものがあるような気もしますし……無いような気もしますが。

 

 ともかくとして、鈴木清順を喩えに挙げたことからも分かるように、本作は、非常に前衛的な内容となっています。時系列を弄っているという、登場人物の説明にもあるように、本作は目まぐるしく時間が錯綜する構成となっています。いえ、錯綜するだけではありません。「時代そのもの」も錯綜するように作られているのです。

 冒頭の展開からは、とても想像していないような、壮大な世界がこの映画には詰まっています。まるでモンティ・パイソンのスケッチかのように、トントン拍子で時代や登場人物や背景が様変わりしていくのです。しかも、その一つ一つがとても作り込まれていて、なおかつ、なんとも不気味で美しいのです。

 しかも、なにが素晴らしいって、この映画は明らかに「観客の安直な解釈」を拒否しているところが素晴らしいのです。言うまでもないですが、主人公のヨーゼフとヤコブの名前を見たら、誰もがうっかりと「聖書関連」の読み解きをしてしまおうとするはずです。

 しかし、実はそれを映画本編中のあるシーンで、ハッキリと否定するんです。この映画は。冗談めかしたようなやり方で。

 おかげで、全然この映画を読み解くことが出来ません。ここまで何も分からない映画も珍しいです。そのわりに、これだけゴチャゴチャした構成の映画だと言うのに、「伏線」が貼ってあって、終盤で急に回収しだしたりするんですから、いや、「とんでもない」という一言しか出てこないでしょう。

 そんな、ヴォイチェフ・イエジー・ハスの傑作が「砂時計」なのです。

映画感想:ドント・ブリーズ

 

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 恒例の手短な感想から

えっと、その……なにこれ…?

 といった感じでしょうか。

 

 いやー、あの……一体、サム・ライミフェデ・アルバレスは、本作を通じて何がしたかったんでしょうか。確かに、エンターテイメントとして論理的に構築された話作りや、見るものを引き込む上手いカメラワークなど、この映画は、非常に高い技術が注ぎ込まれていることがよく分かります。

 分かるんです。

 しかし。

 それでも、あの……なんなんでしょう。この映画の、なんとも表現し難い不快感は。

 それも映画が不快な内容、というわけではないのです。まあ、ホラーなので不快なのは当たり前です。問題はそこではなく、作り手であるサム・ライミフェデ・アルバレスの傲慢さが透けて見えるところが、非常に、なんとも不快な映画なのです。

 

 まず、この映画は必ず問題になるところが一点あります。言うまでもないですが、視覚障害者をホラーの怪物に仕立て上げるという、とてつもなく大きな問題です。当然ですが、目が見えないだけの人を化け物扱いにするのは、かなり酷い話です。本作も、そこは気を使っていて、一応、殺人鬼役となるお爺さんには、様々な設定が凝らされています。

 イラクで失明した元軍人であったり、途中で明かされる秘密などによって、「視覚障害者じゃなくて、この”お爺さんが”怖いんだぞ」ということを前面に押し出しているのです。

 なるほど、確かにこうすれば、視覚障害者をホラーに持ってきても問題にはならないでしょう。……一見すると。

 

 しかし、同時にそうやって、お爺さんに設定を足せば足すほど「……え、じゃあ、なんでお爺さんを盲目にしたの?」という疑問が出てこざるをえないのです。「元軍人で、性格がアレなお爺さんが怖い話」なら、わざわざ視覚障害者なんて設定を足す必要がないでしょう。

 それも「盲目になった分、嗅覚が優れている」なんて、偏見丸出しなクソファンタジー設定までぶち込んでまで、お爺さんを盲目にした意味って……なんですか?

 

 主人公たちが、極限まで音を出せないという、その恐怖を描きたかった、とか、そういう理由なのでしょうか……?

 しかし、この映画、そのわりには主人公たちは、普通にバンバン激しく息してるんですよね。こそこそ話し合ったり、スマホバイブ鳴らしながら通信しあったり、音出しまくりなんですよね。むしろ、息に関しては普通のホラー映画と比べてもちょっと多すぎやしないか、と疑問に思うくらいです。ハッキリ言って、酷評された、実写版「進撃の巨人」の「音を出さないで移動しろ」シーンと同じくらいか、それ以上に酷い出来です。

 

 というわけで、「声が出せない状態を生み出すために視覚障害者を――」という言い訳をするにも、映画の内容が杜撰すぎるのです。で、話が戻りますが、わざわざ視覚障害者なんて設定を足した意味ってなんですか?

 盲目で、ウロウロ動き回るお爺さんが面白いからですか?

 あるいは、盲目だと、"怖さが増す"んですか?

 ……どちらも、自分にはまったく理解できない感覚ですが。

 

 ハッキリ言いますが、意味は無いですよね。

 ただ、見世物小屋的に「そうしたほうが、みんな興味持つから」という理由で、設定を出しただけでしょう?……いやぁ、スペルを撮ったサム・ライミが、こんなガッカリするような映画を作ってしまうなんて、本気で残念です。

 

 こういう映画を作る場合、普通は「視覚障害者に対する、世の中が思う偏見」を上手いことを利用しながら、ホラーに仕立て上げたりするものじゃないんですか?

 例えば「世の中の人たちは、視覚障害者のことを一律でまったく視覚がないと思いこんでいるけど、実はそうじゃない」ということを利用して、ある種、ゾッとする瞬間を生み出すとか。そういう作りにしないと、視覚障害者の設定を入れた意味がないでしょう。

 

 今回は、かなり世の中の反応と違う感想になっていると思います。が、どうしても自分は「視覚障害者をどこかで、軽蔑したり、偏見で見ている視点がないと、こんな映画は撮れない」と思うのです。

映画感想:ネオン・デーモン


『ネオン・デーモン』予告

 恒例の手短な感想から

ダサいよ。レフンマジダサい。

 といったところでしょうか。

 

 いや、これが本当にあのニコラス・ウィンディング・レフンの作品だというのでしょうか。信じがたいほどに、なんなんでしょう。この陳腐な比喩表現と、どっかで見たことあるような画面のオンパレードな映像集は……。

 粋がった、知ったか二流監督が撮る、どうしようもない芸術映画によくありそうな感じのイマジネーションが、所狭しと並ぶばかりのこれを、どうやって褒めろと言うのでしょうか。

 しかも、この映画は映像がダサいと言うのに、音楽も……なんの工夫もない、二束三文のトランス系の音楽が、ぴこぴこだらだら流されるだけで、ちっとも格好が良くないのです。フライング・ロータスなどの”イマドキの音楽”を知っている人が、これを先進的と見る向きはないでしょう。ニコラス・ウィンディング・レフンこんなに音楽のセンスがない人でしたっけ?

 

 まあ、所詮は映画音楽なので、そこまで先進的なものを求めてもしょうがないのは分かります。映像と物語のために、音楽があるのですから。しかし、この映画の場合、肝心の映像と物語がどうしようもないから、音楽のダサさまで光ってしまいます。

 で、肝心の映像と物語ですが、ニコラス・ウィンディング・レフンらしい感じは確かにあります。照明の独特さや、作風の雰囲気などは極めてニコラス・ウィンディング・レフン的ではあります。今回は「やたら真っ白な部屋」とかそういう画面づくりが多いので、鈴木清順の「東京流れ者」あたりでも意識してるんでしょうか。*1

 それ自体は嫌いではないのです。むしろ、好きな方です。

 実際、このブログでも過去作の「オンリー・ゴッド」などを扱ったりしたこともありますし、彼の作品の方向性は自分好みではあります。しかし、本作のこれは……繰り返しになりますが、ダサいのです。

 

 例えば、序盤、とある人が、とある女性の付けている口紅の名前を「レッドラム」だと言います。レッドラム。この時点で、「あー」と頭を抱えたくなった映画ファンも多いことと思います。REDRUMは逆さに読むとMURDER(殺人者)。スタンリー・キューブリックの「シャイニング」で出てきた”有名なネタ”ですね。

 このネタ……もう、いろんな映画で散々やり尽くされたネタなんですよね。ハリウッドのくだらない二束三文ホラー映画等々で、やったら引用されまくっていて、もはや「だ、ダセー……」としか言いようがないものとなってしまった表現です。「シャワーシーンで殺人が起こる」くらいに繰り返されすぎた、もはやギャグにしか使えないネタです。

 これを今更、堂々とやってしまう、ニコラス・ウィンディング・レフンって……。

 

 まあ、あえて言うならば、わざとシャイニングを引用することで「この映画の主人公は、そういう邪悪な意思に感応する性質がある」ということを、暗に示そうとしたのかもしれませんが……。

 そうです。どうもこの映画は「実際の世界で起こったことを映しているシーン」と「少女が感応して人の意思を幻視しているシーン」が交錯しているようなんです。*2実際、本編のクライマックスあたりに「彼女が夢でこれから起きることを幻視して、起きたら隣の部屋で実際に……」なんてシーンがありましたし。

 本編の途中、主人公のことを評して「彼女には光っているものがある」なんて感じの字幕のついたセリフがありましたが、あれ、原語では「彼女は"The thing"を持っている」って表現してるんですよね。ようするに、単に「スター性がある」と言っているのではなく、「なにか」を持っていると言っているんです。

 で、その、彼女の持つ"The thing"を奪い合おうとする、モデル業界の人達を描いた作品が本作、ということなんでしょう。写真に撮るという行為も、セックスも、カニバリズムも、ようは彼女のThe thingを自分のものにしようとしている、という意味では同じです。(ネタバレになりそうな部分だけは白字で表記)

 そして、"The thing"を奪い合おうとしている人たちーーそれ全体を含めた業界自体が、シャイニングにおけるホテルのような場所であり、様々な光で彼女の誘う姿はまさに「ネオンデーモン」なんだという。

 ようするに、そういう映画なのでしょう。

 そんな映画を、女優である奥さんのリブ・コーフィックセンのために作ったと。(なにがあったんだか、知らないですけど)

 

 ここまで。

 ここまで読み取った上で自分は言いますが、本作はダメです。

 アレハンドロ・ホドロフスキーの表現を究極にしょぼくしたような、ネオンライトの三角形ーーおそらくは、ネオンデーモンの象徴なんでしょうが、なんというか、ネオンライトの三角形自体が、そもそも、面白くもなんともないのです。

 鏡の使い方も、ちっとも面白くありません。たまに「あ、このシーン、実は鏡を撮っているんだー」と驚かされることはありますが、「で、だから?」と言いたくなってしまうところも事実です。実相寺昭雄の「鏡地獄」とか、世の中には鏡を利用して、なんとも面白い映像を取った作品なんてウジャウジャありますから。

 いやー、ホント、ニコラス・ウィンディング・レフン……どうしちゃったんでしょうね。

*1:追記:レフンが東京流れ者のオマージュをするのは、いつものことですけどね。それでも、今回は"濃いめ"にオマージュされている感じがするのです……というのを、書き忘れていました。

*2:もちろん、あくまで自分の憶測ですが…

映画感想:ブルーに生まれついて


Bunkamuraル・シネマ11/26(土)よりロードショー「ブルーに生まれついて」

 恒例の手短な感想から

語り尽くせぬ、大傑作

 といったところでしょうか。

 

 去年見ていたら、2016年のランキングに食い込んでいたであろうことは間違いないです。それくらいの傑作映画となっていました。ジャズトランペッター、チェット・ベイカーを描いた本作なのですが、いや、まさかここまでの傑作になっているとは。

 ある種、2015年に公開された傑作「セッション」と対極に存在するジャズ映画と言って過言ではないでしょう。セッションは「音楽の真髄」「ジャズの真髄」を結果的に見出だせない映画*1でしたが、本作は逆で「音楽の真髄」「ジャズの真髄」を見出す映画なのですから。

 まず、この映画は何が素晴らしいといっても、冒頭でしょう。メタ的な演出とも考えられる、この映画、冒頭に出てくる"ある仕掛け"は、言ってしまえばこの映画が「所詮は映画なのだ」ということを観客に強く印象づけるものとなっています。所詮、映画であり、チェット・ベイカーという人間の「ドキュメンタリー映画」や「伝記映画」を描くつもりはないのだと。

 チェット・ベイカーは、そのイケメンなマスクとトランペットの演奏技術、そして甘ったる~い歌声で人気を博しながらも、(ジャズ・ミュージシャンにはありがちですが)ドラッグで身をやつしていった、そんなジャズ・ミュージシャンです。

 そんな彼を「事実に脚色等を加えて」描くことにしたーーそう宣言するかのような"仕掛け"が映画冒頭に仕込まれているのです。実際、この映画は、あたかもチェット・ベイカーの実人生を追っているかのような映画ですが、その実、チェット・ベイカーの人生にかなり嘘を加えています。詳しい人が見たら「あれ?」と首をかしげるのは間違いないでしょう。確かに大枠では、チェット・ベイカーの人生を描いているのですが、細部を見ていくと「おかしい。そんなはずは……」と言いたくなるような部分があるはずです。

 

 しかし、そうしてでも、「チェット・ベイカーを使って描きたい物語」がこの映画にはあったのです。

 どん底まで堕ちた男が、再生し、どん底に堕ちたその男にしか出来ない「その男なりの本当の音楽」を獲得する……そんなシンプルなストーリーを描きたかったのです。チェット・ベイカーは、確かにその物語に入れる主人公として、最適な人物でしょう。

 

 チェット・ベイカーは「有名なプレイヤーは、ほぼ黒人しかいない」ーーそんな"ブラック音楽ネイティブ"しか通用しないような、バップの世界において*2明らかにネイティブとは言い難い白人でした。

 そんな彼が主人公だからこそ、彼にしか獲得できない「彼だけの音楽の真髄」があるのだという物語に、説得力が生まれ、何とも言えない感動が生まれるのです。……実在のチェット・ベイカーも、晩年になって「なんとも言えない何か」を音に獲得していたような気がしますし……。

 

 しかも、この映画はそんな「ただ心の音楽を手に入れて、ハイおしまい」という映画でもないところが素晴らしいのです。それと並行して、語られるある女性との愛の物語や、ドラッグ依存との葛藤が、なんとも切なく響くように作られてもいるのです。「彼だけの音楽」を獲得した先で、果たして彼は幸せであったといえるのか。

 普通の音楽映画ならば「本当の音楽を獲得したジャズ・ミュージシャンがいた」という話、あるいは「ドラッグにまみれたジャズ・ミュージシャンがいた」という片面だけを描いた話で終わってしまうものです。

 この映画はその両方を、同時に描いているのです。

 つまり、チェットベイカーを通じて、より様々な角度から見た「本当の音楽の姿」を描写しているのです。だからこそ、観客に「ミュージシャンが掴みたがっている、本当の音楽とは、一体なんなのか」ということを伝えることが出来ています。それは、感動したとか、泣けるとか、美しいとか、かっこいいとか、上手くできるとか、速く弾けるとか、正確に弾けるとか、音楽への愛とか、そんなものではないのです。

 もっと漠然とした、なにかなのです。

 それがハッキリと掴み取れる本作は、本当に素晴らしい音楽映画だと言えるでしょう。

*1:一応、誤解がないように付け加えると、セッションは見出すことができなかった視点からしか語れない「音楽に存在する恐ろしい事実」をまざまざと見せつけ、「音楽なんて死ね」と叫んでいる映画なのですが…

*2:バップとは、BEBOPのこと。ジャズの更に一ジャンル。一般的に言われている”小難しいジャズ”は、ほぼバップ、ビーバップのことを指している。チャーリー・パーカーマイルス・デイビスは、このジャンルの開拓者と言われている

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