映画感想:殺さない彼と死なない彼女
恒例の手短な感想から
これほどに相性のピッタリな実写化映画は奇跡
といったところでしょうか。
小林啓一監督のことは「ももいろそらを」から、当ブログでは延々と作品が出るごとに評し続けてきましたが、今回の映画化については特に楽しみにしていました。「殺さない彼と死なない彼女」については、事前に原作を読み込んでいたのですが、内容からして「これを小林啓一監督に映画化させるのは、名采配だろう」と言わざるを得ないものだったからです。
青春をテーマにしつつも、ただ単に「青春が良い」とも「青春の恋愛って素敵」とも言おうとしない、ひねくれたストーリーとひねくれた性格の登場人物たち、本人たちは至って真剣なのに思わず笑ってしまうヘンテコな会話と行動、そして、そんなやり取りの中でときどき浮かんでくる哲学的なテーマと背後に漂い続ける死の影――それらの要素は、今までの小林啓一監督作品で、小林監督が描き続けていたものと間違いなく同じです。
ここまで小林啓一と同じことを描く人がいたのか――と、原作を読んだとき自分はとても感心しました。同時に、本作の公開が待ち遠しいな、とも思いました。
そして、案の定、本作は極めて今までの小林啓一的な映画作品を連想でき、余すところなく原作の魅力を映像化したと言える映画になっていました。
原作は「リストカット」という要素を、青春と日常の中に溶け込ませているところがとても印象的で「あぁ、そうか。リストカットも日常の行いなんだ。非日常的行為ではないんだ」と気づかされてハッとするところがあります。
今までの小林啓一作品でも「同性愛」や「売春行為」を「あくまで日常の一つ」として描いていましたが、本作でもここをキッチリと掬い上げ、リストカットを過剰にシリアスにも過剰にコミカルにも、肯定的にも否定的にも見せず、ちゃんと青春と日常の中に存在しているんだと意識させるようにシンプルに演出して描いているのです。
おかげで、観客にとって「とても異質な存在」であるはずの主人公たちのことを、次第に自然と受け入れられるようになっています。
本来ならば、こういった要素をシンプルに撮るのが、いかに難しいことかは説明するまでもないでしょう。どこかで過剰にクローズアップしたり、逆に過剰に引いて撮ってしまうのが普通です。しかし、本作にはそれがないのです。
姿勢として「あくまでリストカットは、日常の一つ」というスタンスを崩さないのです。
それは本作の筋書きが、リストカットしている女子高生のみをクローズアップしない姿勢からもよく読み取れます。原作でも「殺さない彼と死なない彼女」はあくまで短編であり、同書にはリストカットしている女子高生の話以外にも、微妙に話の繋がりがある、他の青春の短編が描かれているのですが、本作はそこもちゃんと再現しております。
「自己愛の強くて愛を求め続ける女の子の話」「ある男子が好きすぎてその人にずっと告白し続ける女の子の話」――それらの、一見すると「殺さない彼と死なない彼女」という話とは関係がなさそうな恋愛話たちを、リストカットしている女の子の話と同じくらいにちゃんと描いているのです。
決しておまけ扱いではなく、それぞれの登場人物たちが個人的に抱えている悩みや気持ちや考え方を丁寧に描き、それぞれの登場人物が作品内で起こったことをどう捉えるのか、どう理解するのかというところまで見せ、様々な角度と様々な価値観から全体像が見えるように「殺さない彼と死なない彼女」を描いているのです。
そして、それら全てを等価で描き、一つの要素にウェイトを置かないからこそ、本作がリストカットという行為の裏――つまり「死というもの」自体を主眼に置いているのはなく、ましてや2000年代の恋愛映画のような、ただ「人が死んで悲しい」と言うことをテーマにしたい映画でもなく「それよりも大きななにか」を浮かび上がらせようとしている映画であることがよく分かるのです。
小林啓一監督で映画化させたことがこれほどに正解な漫画もないでしょう。
映画感想:オーバー・エベレスト 陰謀の氷壁
映画「オーバー・エベレスト 陰謀の氷壁」本予告(60秒)11/15全国公開!
※今回はネタバレ満載のレビューです。
恒例の手短な感想から
間違いなく、ヘンテコ映画
といったところでしょうか。
そうです。ヘンテコ映画。
それ以外に表現のしようがない一作ではないかと思います。
本作、日中合作でエベレストを舞台にした壮大なサスペンス映画という時点で、90年代くらいにあった、昔の邦画ーー例えば「ホワイトアウト」だとか、ああいった映画を彷彿とさせる面があったのですが、やはり、その想像を裏切らない出来になっています。
観客の誰もが「なんじゃそりゃ」と心の中でツッコミを入れたであろうほどにヘンテコな描写が満載であり、本作は映像の比喩的表現にしても、台詞の表現にしても、話の筋書きにしても、全てが極端で大袈裟で大雑把なことになっています。
例えば、映画の冒頭で役所広司とヒロインが思いっきり雪崩に飲み込まれているのに、なんの説明もなく普通に次のシーンでは生還していたり、ヒロインがはくちょう座を見つめていると急に星が集まり巨大な白鳥となって、わーっとヒロインの周りを飛び回ったり、高所から突き落とされて頭を打ったヒロインがなんの説明もなく息を吹き返したり――全ての表現が異常に大袈裟で説明的でツッコミどころだらけという、真面目に見ているとだいぶ頭痛のする映画となっています。
これらは「マジックリアリズム」と言い訳すれば高等な表現にも見えますが、ようは過剰な映像的説明とご都合主義のなれの果てであり、映画として到底誉められたものではありません。
あげくに肝心の雪山登山に関しても、考証はいい加減で、民間救助隊に志願しているようなヒロインが普通に雪山で乾いた喉を潤すために雪を食べて、雪で顔を洗っていたり、エベレストの山頂付近で登場人物がどいつもこいつも大声張り上げているわ、と「せっかくエベレストを舞台にしたのに、この映画はなにがしたいの……」と絶句したくなるほどです。
ひょっとすれば、この映画の作り手からすれば、ヒロインが雪を食べるくだりあたりは「それより前の高所からヒロインが突き落とされた時点で、実はヒロインは死んでいて、霊的な存在になっていたから雪を食べている」的なつもりで描いたのかもしれません。
映画全体の描かれ方からすると、その可能性も若干仄めかされてはいるのです。
しかし、この映画、前後のシーンではヒロインのために大怪我して「俺を見捨てて下山するべきだった」と号泣している同僚やら、ヒロインのために自ら命を捨てた役所広司がいるんですよね。
ヒロインがとっくに死んでいるとすると、彼らの行動の意味って一体……?
ヒロイン死んでる前提だとしても、やっぱり「この映画って何がしたいんだ……」という疑問はまったく解消できません。
いえ、それどころか、そのヒロインのために命を捨てた役所広司でさえ、その前に殺されてる描写があるんです。その後、何事もなかったようにヒロインを助けているので、つまり「幽霊が幽霊を助けるために幽霊の自分を犠牲にして死んでいる」というわけです。
全てにまったく意味がありません。
狐に摘ままれていた方がマシなレベルで無意味です。
マジックリアリズムにマジックリアリズムを重ねたせいで、本当に「この話って、結局なにがしたいの……?」という疑問が出てこざるを得ないのです。そして、この異様すぎるマジックリアリズムの重ねがけぶりに、真面目に考えれば考えるほど「結局、ただのご都合主義じゃねーか!」というツッコミがどうしても頭に浮かんできてしまうのです。
そして、仮にもし、上記のヒロインと役所広司、幽霊説が間違っているならば、それはそれでこの映画がただ単に描写が杜撰な映画であることを示しているだけですし、どっちにしても「アレな映画」であることは間違いありません。
もちろん、まったくつまらない映画ではないのです。一応、サスペンス部分のおかげで飽きることはないのですが、異常に多い愁嘆場の数々、謎の描写と投げっぱなしだらけの伏線描写に「絶対良い映画でもないな!」と断言できてしまうところが本当に残念な映画です。
映画感想:ブラック校則
恒例の手短な感想から
良いんじゃない?
といったところでしょうか。
いえ、決してずば抜けていい出来の作品だというつもりは毛頭ないのですが、そうだとしても本作が面白い作品であることは事実でしょう。タイトルにもあるとおり、本作は若干前に世間で騒がれた古臭い「意味が分からない校則」――ブラック校則のことを、描いた作品です。
センセーショナルな話題を安易に追って作られたと思しき本作は、主役二人がジャニーズアイドルで、しかもテレビのドラマとの連動企画で作られた映画という時点で普通の映画ファンの食指はまず届かないものと思われますが、これを見に行かないのは少し勿体ないです。
なぜなら、本作、この手の学園もの――例えば「グレッグのダメ日記*1」や「志乃ちゃんは自分の名前が言えない*2」などと比べても、結構良い出来の作品であることは、間違いないからです。
少なくとも自分は、前述の映画より、この映画の方が掲げたテーマに対してだいぶ誠実な態度で作られているように思います。特にブラック校則という問題を単に「校則がムカつく」という話だけでは済まさず、ブラック校則は最終的に一人一人が別に持っている「価値の否定」になっている、というところまで掘り下げて物語を描いているのは、なかなか良いです。
「この作り手たちは、ちゃんとテーマと向き合っているのだなぁ」と感心しました。
特に自分は、地味に教育指導の体育教師は「生徒たちを見下している」のに対し、校長先生は「ビジネスライクに割り切っていて、生徒などどうでもいいと思っている」と、同じ学校側で校則を強いている人でもスタンスが違うところが、結構考えられているなと感心しました。
また、映画の作り手たちがこの「一人一人の価値」という根本的なテーマに対して、決して映画自体の描き方が矛盾を起こさないように気を付けているのも、だいぶ良かったです。自分はちょっと前に「閉鎖病棟」の感想記事で「自分たちが提示したテーマと実際に描いている物語が自家撞着している」と指摘したことがあります。
閉鎖病棟の作り手たちは、本作の作り手たちから爪の垢を取って煎じて飲むべきではないでしょうか。
いかに本作が自家撞着に陥ってないかを示すのは、なによりも本作のヒロインのキャスティングでしょう。モトーラ世理奈さんというファッションモデルの方なのですが、この方、パッと見ても分かるくらいに、顔のそばかすがとても目立つモデルです。
ちょっと昔だったならば「モデルとして欠点だ」と言われかねないレベルのそばかすなのですが、さすが今の世代というべきか、そのそばかすを、むしろチャームポイントとして活躍している方なのです。
まさに「一人一人の価値」というものをテーマにする本作としては、この上なくベストなキャスティングだと言えるでしょう。
そして、その主役の脇を飾る――いろんなところに欠点があり、性格の悪いところもあり、しかし同時に良いところもあったりする登場人物の数々。これら登場人物の善悪のさじ加減も絶妙で「完璧に悪い人も居なければ、良い人も居ない」というバランスに仕上がっております。*3やはり、ここもちゃんとテーマを体現することが出来ているのです。
その上、脚本は様々な過去の「学園もの映画」を参照しながら丁寧に作っており、「あ、これあの映画のアレか」と言いたくなる箇所がいろんな箇所で見られます。例えば前述した「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」や有名な作品でいえば「桐島、部活辞めるってよ。」「リンダリンダリンダ!」などの映画を思わせる撮り方や描写がそこかしこに潜んでいるのです。
あえて言うなら、若干、描写のいくつかが中二病めいているところもあるのですが――なんというか、この映画の青臭さの場合、そこもまた良い味になっているように思います。自分がそれくらいオジサンになったのかもしれませんが(まだ30にもなってないのに、こんなこと言ってたら怒られそうな気もしますが……)この映画で中二病めいた「安っぽい大人への反抗」的な描写があっても、「青春だからねぇ」ということで良いのではないでしょうか。
映画感想:閉鎖病棟―それぞれの朝―
※注意 ネタバレ全開の記事になっています。
恒例の手短な感想から
手放しで褒めるにはノイズ多すぎ…
といったところでしょうか。
一部で好評を博しつつある本作の話題を聞きつけて鑑賞したのですが、自分としては、本作に対して「確かに感動できる内容にはなってるけど、これを手放しで褒めるのは不味くないか?」という感想を抱いています。
上記で評したように、まさに本作は「ノイズ」が多すぎです。本来の話の筋書きからすると「え、その話、そんな雑な処理でいいの?」と言いたくなるような箇所がチラホラとあり、それが無駄なノイズとなって本作の鑑賞を妨げる要因となっています。
特にノイズの中でも、決定的に「おいおい。それはないだろう」と言いたくなるのは、中盤まで主人公に近い扱いをされていた、小松菜奈演じる由紀の中盤以降の扱いでしょう。
元々、義理の父親から性的暴力を受け挙げ句そのことで母親から逆恨みされている、という重い設定を彼女に課した上で、物語のターニングポイントとして彼女が同じ閉鎖病棟の男にレイプされてしまう話を設けるところまでは物語の筋立てとして理解できます。
世の中にはそういう残酷な話が本当にあったりしますから、多少不快でもそれを描くことには意義があるでしょう。その後の描き方さえ間違えなければ、女性的な視点にも富んだ良い物語にもなりえます。
しかし、本作はその後の描き方が全て間違っています。
いえ、それどころか、レイプシーンの後、彼女が忽然と閉鎖病棟から居なくなり、しかも登場人物の誰も彼女の行方を気にしていないという描き方は、この手の話の中でも最低最悪レベルの描写だと言えます。
例えば、この映画の登場人物たちが彼女がレイプされた事実を知らないとしても、忽然と居なくなった彼女を探さないのは変です。
しかも、この映画の場合、それどころか登場人物たちの中に由紀がレイプされた事実を知って、男を殺害までしている人がいるのに由紀のことを気にしないから尚の事おかしいです。「いや、そうはならないだろ」としか言いようがないのです。
一応、映画の終盤で由紀は再登場するのですが、そこでも誰も忽然と居なくなった彼女を気にしなかった件には触れません。
「どこ行ってたんだ」「心配してたよ」とかの一言すらないのです。
しかも、レイプされ忽然と去った由紀が閉鎖病棟を去った後でどうしていたのかという回想でさえ……「レイプ後、街をさまよってたらホステスに罵倒されたので号泣して綺麗な夕日を眺めました。ちゃんちゃん」とかいう「だから、なんなんだよ!」としか言いようがないふわっとした話で終わり、彼女の口からも「今は看護師見習いやってます」という証言が出てくるだけです。
なんじゃそりゃ! ふざけてんのか!*1
これでは映画の作り手たちが、この由紀という登場人物を物語上の盛り上がりとしてレイプされるだけの役として存在させていて、そのレイプされる役目が終わったからどうでもいいと思っているかのようです。
こういった扱いの女性をアメリカンコミック界隈では「冷蔵庫の女」なんて呼ぶのですが、まさにこの映画の由紀は「冷蔵庫の女」そのものでしょう。*2
このように本作は大変にノイズが多い作品なのです。それも本筋に対してどうでもいい要素ではなく「本筋にとってその要素って重要じゃないのか」「この作品のテーマにとって、そこは重要じゃないのか」という箇所に限ってノイズが混じっているのです。
散々、作中でどんな人にも事情があるんだと説いておきながら、あの覚醒剤中毒者や統合失調症者の妹にもあったはずの過去や事情を描かず一方的に悪者扱いし、そのわり元・死刑囚の男は浮気されていたという理由だけで妻と間男を惨殺しているのにそれは仕方ないことと言わんばかりだったり……かと思えば、海の見える公園で亡くなった閉鎖病棟患者は、家族いない寂しさから自殺したのかそれとも偶然の自然死だったのかさえ誰一人として不自然に言及せず、焼きそばパンを頬張っているシーンだけ回想で描かれて「はい、死にました」という扱いだったり……「この作品のテーマにとって、そこが重要な話じゃないのか」という点がなんだかところどころ軽んじられているのです。
ただのサスペンスエンターテイメントならば、ただの悪者扱いがいても、よく分からないまま死んだ人がいてもいいでしょう。しかし、そこをテーマにしたはずの本作でこれを平然とやってしまうのは自家撞着にも程があります。
はっきり言って、この作品は、結局「ボクかわいそうだなぁ。あぁ、かわいそう。かわいそう。なんて、かわいそうなんだろう。他の人? ボクがかわいそうなんだから、他なんてどうでもいいだろ!」という、"悲劇のヒーロー"イズムを開陳する映画にしか見えないのです。
本作はそれを堪能するだけのエクスプロイテーション映画に成り下がっているだけではないでしょうか。
*1:そもそも、医療免許制度である看護師で"見習い"っていう表現も、かなり変なのですが。しかも、刑事裁判の証言台で”看護師見習い”って……。普通は"看護助手"って表現するはずです
*2:冷蔵庫の女とは……グリーン・ランタンにて、主人公の恋人が殺されたことで主人公・カイルが変身能力に目覚めるくだりの後、ちっとも主人公が殺された恋人のことを想いもしないし、なんならまるで初めから恋人なんて存在していなかったかのような扱いになってしまう話の流れが問題視されて出来上がった言葉です。
一連の流れが、まるで恋人が主人公を変身能力に目覚めさせるためだけに存在し、殺されたように見えるので「それは女性軽視じゃないのか」と問題視した人たちは言いたかったんですね。そこから、雑な扱いで主人公が覚醒するためのキーとして女性が死ぬことをこう呼ぶようになりました。
本作の場合、由紀がレイプされたことをきっかけに、鶴瓶演じるチュウさんが覚醒剤患者を殺し、そのことで閉鎖病棟内の患者たちから英雄視されたりしています。そして、当の被害者である由紀自身は本記事で書いたとおりの扱いなわけです。
これは極めて「冷蔵庫の女」に近い扱いでしょう。女性が死んでいない、というだけです。
雑記:相似、そして双極――「ジョーカー」と「永遠に僕のもの」
映画ファン間で密かに話題になっている事柄がある。それは今年公開された映画、「ジョーカー」についてだ。
――というと、まるで、ジョーカーに関しての考察だのどうだのという話をこれから、この記事で行うように見えてしまっているかもしれない。だが違う。今回の記事ではアメコミのみならず様々な映画を見漁る映画ファンの間で話題になっていることを取り上げたい。
それは今年公開された二つの犯罪映画についてである。
片方はもちろん「ジョーカー」――もう片方は「永遠に僕のもの」である。
一部の映画ファンの間で、この二つが実に話題になっているのである。この二作品、様々な要素がとても似通っている。しかも、互いの作品の作り手は、おそらく別に互いの作品のことなど意識していないのだ。しかし、やたらに似ている。
例えば、主人公の妄想がTVショーと混ざっていくシーンなどがそうだ。「ジョーカー」でアーサーは古臭いTVショーを見ながら優越感とともに自分がそのTVショーに混ざっている妄想を抱く。同じように「永遠に僕のもの」でもカルリートスが自分の相棒が出ているTVショーを眺めながらうっとりと自分もそのTVショーに混ざっている妄想を夢見る。
犯罪を起こした後で陽気に踊りだす姿もよく似ている。アーサーもカルリートスも普段はそんな行動など欠片もしないのに、犯罪を犯したときだけまるで自我が解放されたように、無我に、一心に踊る。
「ジョーカー」と「永遠に僕のもの」、両方の作品を見た人は「この作品は二つ並べて鑑賞したい」という欲求に駆られたことだろう。実際、自分もこの二つは丁寧に比較して鑑賞したいと思っている。
それもただ似ているから比較したい、という話ではない。
実はこの両者の作品、明らかに決定的な違いも存在しているのだ。この二つの作品は、それぞれとても似ている内容でありながら、その間には、まるで雪山のクレバスのような深い溝が横たわっている。
二つの作品は「正反対の方向を向いて作られている」と言って過言ではない。
そして、その決定的な違いこそが「ジョーカー」と「永遠に僕のもの」それぞれの作品の分厚い表層の下に潜んでいる”何か”を浮き彫りにもしているのである。
その深い溝の正体は――おそらく二つの作品を鑑賞した人はすぐに気づいたと思うが、「アーサー」と「カルリートス」という、それぞれの作品で描かれた殺人鬼の姿である。どちらも、そもそも存在的に危うく今にも何かをしでかしそうな青年で、そして、そんな青年が転がるように犯罪の道を落ちていく点は変わらない。
社会の「こうあるべき」という倫理観を嫌悪し、その倫理観の破壊に惹かれている点も同じだ。
が、それ以外の要素は、二人はまるで示し合わせたかのように「正反対」を向いている。
これがなんとも興味深いのだ。
貧しい家でそもそも家庭に問題を抱えていたアーサーと、家庭に問題はなくむしろ優良な家庭であったカルリートスというだけでも、相当に違う両者で、他にも様々な要因に差異が存在しているのだが、総じて言ってしまうと「作り手が、観客に主人公を共感してほしいと思っているか、いないか」というその点が決定的に違うのである。
アーサーは極めて共感しやすいキャラクターだ。認知症を患っているらしき親がいて、差別され、偏見を受けているし、実際どこか不気味さを感じさせることもあり不幸な目に合う。そして、不幸な目に合う中で徐々に変貌していく。だからこそ、怒りを表現し抑えきれない衝動を原動力として犯行を犯す姿に共感を覚えられる。その姿に、一抹の不安と一緒に加担したくなる感覚を覚える。
カルリートスはまったく共感を得るつもりがないキャラクターだ。親は裕福で、作中で天使と自称するのも納得なほどの容姿であり、独特の死生観を持ち、悲劇が起きようと何もスタンスを変えない。しかも、怒りなど露ほども表さず、まるでたまたま手元が滑っただけのような感覚で犯行を行う姿は、共感以前に動機すら理解できない。しかし、その姿に、圧倒的な魅力が存在している。
この二つの違いが、それぞれの作品のスタンスの違いをよく表している。
「ジョーカー」は陳腐な言葉で言えば承認欲求の物語だ。より大きな枠で言えば「人と人とのコミュニケーション」――つまり社会性の物語である。経済活動にしろ、福祉にしろ、怨嗟にしろ、それらは結局のところコミュニケーションの一種であることは間違いない。良いにしろ悪いにしろ「人と人が関わり合った」結果で起こっている物事だ。
「ジョーカー」でアーサーは、自分が存在していないように感じている、と言っていた。そう感じるのは、まさに彼が「人と自分の距離感」によって、自己というものを見出そうとしている人間だからだ。
ラスト、彼が自分を支持する人間たちに囲まれ、讃えられる中で終わることからもそれはよく現れている。
言ってしまえば、ジョーカーはコミュニケーションが生み出す俗っぽい怪物であり、変わった個性を持つ人間が得たかった社会性を得られず、怪物に変貌した物語なのである。
社会性の物語だからこそ、共感しやすく作られており、彼に加担したくなる。
一方「永遠に僕のもの」は自己実現の物語だ。大きな枠組みに当てはめると「自分の中にある価値観」――つまり、個性の物語だ。綺麗な容姿や、独特の死生観も、圧倒的に備えた魅力も、全ては彼自身が勝手に自分の中で強固に抱き続けている価値観の発現であり個性である。
カルリートスは冒頭で、みんなは同じ道を歩くが、自分は道の途中で垣根をくぐって隣に行くのさ、という趣旨のことを述べていた。カルリートスは見いださなくても自己があるので、社会性を必要としない。だから、強烈な個性のために社会性を払い除けたがっていたのである。
ラスト、彼は大勢の警官たちに囲まれているにも関わらず、家の中で平然と踊っていた。
言ってしまえば、カルリートスは個性の怪物なのである。その個性の怪物を社会性が蓋と錠をして、どうにか抑えていた物語だ。そして、その蓋と錠を少しずつ外し、怪物が目覚めていく物語だ。
個性の物語だからこそ、共感させる気がなく、しかし魅力を感じてしまう。
これほどまでに似通った作品が、これほどまでに正反対かつ互いに傑作足り得ているなど驚きに値するだろう。
映画感想:ジョーカー
『ジョーカー』心優しき男がなぜ悪のカリスマへ変貌したのか!? 衝撃の予告編解禁
恒例の手短な感想から
もはや、一つのデカダンスな犯罪映画
といったところでしょうか。
巷での評判も相当なものになっており、自分としても興味を抱くところがありましたので、「ジョーカー」鑑賞してきました。いや、これかなり素晴らしいですね。とてもハングオーバーのトッド・フィリップスが監督脚本したとは思えない、上品なデカダンス映画となったのではないでしょうか。
個人的にはダークナイトより本作のほうが遥かに好きです。
象徴的な話に終始し、善も悪も全てが「お空の上の出来事」という描かれ方でしかなかったあの作品とは違い、本作「ジョーカー」はなんとも地に足の着いた作品だと言えるでしょう。
鑑賞前はジョーカーという、過去のバットマン映画たちによって若干超然とした存在にまで昇華してしまったキャラクターの微細な生い立ちを見せてしまうことは、彼のキャラクターを破壊しかねない危険なことなのではないかと危惧もしていたのです。が、それは杞憂に終わりました。
それほどにジョーカーという本作が、強烈に新しいジョーカー像を描けていた――というわけではありません。むしろ、本作は新しいジョーカー像を描くことをやめているといえます。本作は、その代わりに、彼がジョーカーになる前の姿に力強いキャラクター性を与え、そこでストーリーを生み出しているのです。
早い話が、ジョーカーという便利なアイコンでありキャラクターを、本作はほぼ放棄したのです。ジョーカーなしでも成立できる物語を紡ぎ、その物語の強度で今までのジョーカー像に対抗しよう、という「ドラマ映画」として真っ当な手段で、真正面から今までのジョーカー像に殴り込みをかけたのが本作だと言えます。(同時に、これはアメコミ映画の文脈としては「ある種の反則技」でもあります。キャラクターという枠組みの中で映画を作る、お約束事を捨てているのですから)
実際、本作はジョーカーというキャラクターや、バットマンの設定もろもろを、別の設定に置き換えたとしても成立する話になっています。極端なことを言ってしまえば、本作はハッキリ言ってアメコミ映画ではなく、もはや一つのデカダンスな文芸の犯罪映画になってしまっているのです。
奇妙な生い立ちを持ち、脳の障害を抱えた主人公が、歪んでいく世の中で徐々に歪みに飲み込まれたようにも、あるいは生来の本性がだんだんと現れてしまったようにも見え、そして、救いといえるものなのかさえ、よく分からないものを掴んでしまった映画――あらすじだけ聞いても、本作がダダ的な文芸の薫陶を受けた映画であることは瞭然です。
そういった類の映画であることは間違いがないでしょう。
実際、作り手にもこれが文芸的である自覚があるのか、極めて、各々の描写に映像的な比喩が多用されています。例えば本作、主人公のアーサーが、なにか一つ悪に染まっていくたびに、必ずアーサーが階段を降りていく描写が入るようになっています。
嘘だろうと思った人は、ジョーカーとして目覚めた後、刑事たちが後ろで待ち構える中アーサーが踊っていた印象の深いシーンを思い出してください。――あのシーンでも、アーサーは「階段を降りて、その先の踊り場で」踊っていましたね。
これは日本人的に分かりやすく言うなら、芥川龍之介「羅生門」のラストと同じ意味合いの描写です。アーサーは階段を降りるたびに、一つ一つ、人間として”堕ちても”いたのです。
そして、様々な箇所で話題になっているアーサーが突如として、冷蔵庫の中に入ってしまうシーン――このシーン、噂ではホアキン・フェニックスがアドリブで急にやりだしたことで作り手としても意図していないシーンかもしれないそうですが、それでも、一つだけ確実に言えることがあります。それは、ホアキン・フェニックスのアドリブにしろ、作り手の意図にしろ、本作には「こういった抽象的、比喩的な行動のアドリブが必要な作品なのだ」と感じていたということです。
本作がいかに文芸的な作品として、意識した作りになっているのかは、この点でも非常によく分かります。
そして、その文芸的な作品として、本作はとても完成度が高いのです。脚本は緻密で、一つ一つの細かいやり取りが後々の描写と結びつくように作られており、そして、そこに描かれている人間のドラマはとても複雑な感情を覚えます。
撮影も見事で「カメラのピントをどこに合わせ、どの深度で撮るか」というそんな細かいところまで、よく計算され、映画のそのシーンをより深められるように構築されています。
演出も抜け目がなく、一瞬違和感を覚えるような変な演出も、実は後々のシーンで「あぁ、そのためにわざわざおかしな演出にしたのか」と納得できるような仕掛けがいくつも施されています。
冗談抜きで、普通に映画として飛びぬけた出来の傑作です。
映画感想:クロール ―凶暴領域―
映画「クロール -凶暴領域-」予告編(出演:カヤ・スコデラーリオ )
※若干、ネタバレありです
恒例の手短な感想から
主人公、ゴリラかな……?
といったところでしょうか
サム・ライミ製作の映画については、正直、前回の「ドント・ブリーズ」といい、なんだか最近は「うーん、それでいいのか?」と言いたくなることが多いのですが、本作のおかげで「うーん、それでいいのか?」と言いたくなる例が増えてしまいました。
いや、本当にこれでいいんでしょうか、サム・ライミ。
わざわざ、アレクサンドル・アジャなんて素晴らしいホラー映画の才能を使ってまで、やりたいことがこれなのかと。こんな書き方をしていると、この手のパニック映画が好きな方から「ケッ B級映画だからって馬鹿にしやがって……」なんて、思われる方もいるかもしれませんが、むしろ、正反対です。
B級のホラー映画でワニを題材にした映画って、普通に面白い作品が多いのです。それらの作品と比べて、本作が抜きん出た内容――つまり、アレクサンドル・アジャを使うだけに足る内容の映画になっていたかというと、明らかになっていません。
確かにホラー演出は見事なものです。怖がらせ方はさすがアジャ監督というべきか、一つ一つの描き方が上手く、特にときおり出てくる三人称視点は「ワニの視点」にも見えるし、そうでないようにも見える――という絶妙なバランスのカメラワークであり、これは白眉です。
おかげで常に「ワニが水中にいるんじゃないか?」とドキドキさせることには成功しているのです。
しかし、全体的には見ていて頭が痛くなるほどに、内容が馬鹿っぽくてなんだか感情移入が出来ないのです。
一見すると論理的に構築された脚本のようでいて、実際のところ、本作の脚本はなんだか各登場人物たちが行動する動機が「バカすぎる」のです。
例えば、映画クライマックス付近で主人公の父親がワニに襲われるシーンです。
当然、父親が襲われたから、上の階にいる主人公が父親のことを心配するまでは良いとして――で、次のシーンで、主人公が「お父さんどうした?」って言いながら水面に飛び込んでくるのは、いくらなんでも行動としておバカすぎでしょう。
しかも、この主人公、それまでに散々ワニと対峙して怖い目に合い、なんなら水面に手を出して腕を噛まれたりしているのに「お父さん、だいじょーぶー?」と言いながらボチャンです。……この主人公、ゴリラかな?
そのあと、当たり前のように、主人公は、主人公へと矛先を変えたワニとチェイスする羽目になるのですが……もうスクリーンの前にいる自分は「えぇー……」と内心で呆れるしかないでしょう。
一事が万事、こんな調子であるため、「あ、今、窓にちょっとヘリが見えたわ!」って言いながら、水族館のケース並に水位が上がった窓に平然と駆け寄ってワニに襲われたりする主人公に「ゴリラなのかな?」という印象をどうしても抱かざるを得ないわけです。
実際、堤防が決壊したことによる激流の中でも雨樋を掴んでその場に留まれるほどの握力があるみたいですし、この主人公、ゴリラなのではないでしょうか。劇中でしばしば、主人公は猿座りからの膝立ちで水面を覗いていましたし、ゴリラでしょう。
しかも、主人公の決め台詞が「Apex Predetor,All day!(訳:私は食物連鎖の頂点だ!)」ですからね。実際、昔の生物学では頂点捕食者とされたワニに絡めたセリフなのですが、*1……いや待てよ。霊長類で他の動物を倒せそうな動物……やっぱり、ゴリラじゃないか。
そんなわけで、本作はつまり「ファッションモデルが、なぜかゴリラを演じながら、ワニと対決する映画」なわけです。
真面目に評価するのがバカバカしいですね。
Bruno Mars Gorilla Lyric (OFFICIAL LYRIC VIDEO)
あ、ちなみに、本作でお披露目されたワニ知識ですが、端から端までデタラメしか言ってないので、本気にしないようにお願いします。そもそも、ワニって地上でも結構速く走れますから。一応、人間の全速力と同じくらいには走れます。
本作は、そういういい加減なバカ映画にしたいのか、真面目なホラーにしたいのかどっちつかずなところが、本当に評価に困ります。
*1:現在の生物学では、そもそも頂点捕食者という考え方が古いとされています。