雑記:相似、そして双極――「ジョーカー」と「永遠に僕のもの」
映画ファン間で密かに話題になっている事柄がある。それは今年公開された映画、「ジョーカー」についてだ。
――というと、まるで、ジョーカーに関しての考察だのどうだのという話をこれから、この記事で行うように見えてしまっているかもしれない。だが違う。今回の記事ではアメコミのみならず様々な映画を見漁る映画ファンの間で話題になっていることを取り上げたい。
それは今年公開された二つの犯罪映画についてである。
片方はもちろん「ジョーカー」――もう片方は「永遠に僕のもの」である。
一部の映画ファンの間で、この二つが実に話題になっているのである。この二作品、様々な要素がとても似通っている。しかも、互いの作品の作り手は、おそらく別に互いの作品のことなど意識していないのだ。しかし、やたらに似ている。
例えば、主人公の妄想がTVショーと混ざっていくシーンなどがそうだ。「ジョーカー」でアーサーは古臭いTVショーを見ながら優越感とともに自分がそのTVショーに混ざっている妄想を抱く。同じように「永遠に僕のもの」でもカルリートスが自分の相棒が出ているTVショーを眺めながらうっとりと自分もそのTVショーに混ざっている妄想を夢見る。
犯罪を起こした後で陽気に踊りだす姿もよく似ている。アーサーもカルリートスも普段はそんな行動など欠片もしないのに、犯罪を犯したときだけまるで自我が解放されたように、無我に、一心に踊る。
「ジョーカー」と「永遠に僕のもの」、両方の作品を見た人は「この作品は二つ並べて鑑賞したい」という欲求に駆られたことだろう。実際、自分もこの二つは丁寧に比較して鑑賞したいと思っている。
それもただ似ているから比較したい、という話ではない。
実はこの両者の作品、明らかに決定的な違いも存在しているのだ。この二つの作品は、それぞれとても似ている内容でありながら、その間には、まるで雪山のクレバスのような深い溝が横たわっている。
二つの作品は「正反対の方向を向いて作られている」と言って過言ではない。
そして、その決定的な違いこそが「ジョーカー」と「永遠に僕のもの」それぞれの作品の分厚い表層の下に潜んでいる”何か”を浮き彫りにもしているのである。
その深い溝の正体は――おそらく二つの作品を鑑賞した人はすぐに気づいたと思うが、「アーサー」と「カルリートス」という、それぞれの作品で描かれた殺人鬼の姿である。どちらも、そもそも存在的に危うく今にも何かをしでかしそうな青年で、そして、そんな青年が転がるように犯罪の道を落ちていく点は変わらない。
社会の「こうあるべき」という倫理観を嫌悪し、その倫理観の破壊に惹かれている点も同じだ。
が、それ以外の要素は、二人はまるで示し合わせたかのように「正反対」を向いている。
これがなんとも興味深いのだ。
貧しい家でそもそも家庭に問題を抱えていたアーサーと、家庭に問題はなくむしろ優良な家庭であったカルリートスというだけでも、相当に違う両者で、他にも様々な要因に差異が存在しているのだが、総じて言ってしまうと「作り手が、観客に主人公を共感してほしいと思っているか、いないか」というその点が決定的に違うのである。
アーサーは極めて共感しやすいキャラクターだ。認知症を患っているらしき親がいて、差別され、偏見を受けているし、実際どこか不気味さを感じさせることもあり不幸な目に合う。そして、不幸な目に合う中で徐々に変貌していく。だからこそ、怒りを表現し抑えきれない衝動を原動力として犯行を犯す姿に共感を覚えられる。その姿に、一抹の不安と一緒に加担したくなる感覚を覚える。
カルリートスはまったく共感を得るつもりがないキャラクターだ。親は裕福で、作中で天使と自称するのも納得なほどの容姿であり、独特の死生観を持ち、悲劇が起きようと何もスタンスを変えない。しかも、怒りなど露ほども表さず、まるでたまたま手元が滑っただけのような感覚で犯行を行う姿は、共感以前に動機すら理解できない。しかし、その姿に、圧倒的な魅力が存在している。
この二つの違いが、それぞれの作品のスタンスの違いをよく表している。
「ジョーカー」は陳腐な言葉で言えば承認欲求の物語だ。より大きな枠で言えば「人と人とのコミュニケーション」――つまり社会性の物語である。経済活動にしろ、福祉にしろ、怨嗟にしろ、それらは結局のところコミュニケーションの一種であることは間違いない。良いにしろ悪いにしろ「人と人が関わり合った」結果で起こっている物事だ。
「ジョーカー」でアーサーは、自分が存在していないように感じている、と言っていた。そう感じるのは、まさに彼が「人と自分の距離感」によって、自己というものを見出そうとしている人間だからだ。
ラスト、彼が自分を支持する人間たちに囲まれ、讃えられる中で終わることからもそれはよく現れている。
言ってしまえば、ジョーカーはコミュニケーションが生み出す俗っぽい怪物であり、変わった個性を持つ人間が得たかった社会性を得られず、怪物に変貌した物語なのである。
社会性の物語だからこそ、共感しやすく作られており、彼に加担したくなる。
一方「永遠に僕のもの」は自己実現の物語だ。大きな枠組みに当てはめると「自分の中にある価値観」――つまり、個性の物語だ。綺麗な容姿や、独特の死生観も、圧倒的に備えた魅力も、全ては彼自身が勝手に自分の中で強固に抱き続けている価値観の発現であり個性である。
カルリートスは冒頭で、みんなは同じ道を歩くが、自分は道の途中で垣根をくぐって隣に行くのさ、という趣旨のことを述べていた。カルリートスは見いださなくても自己があるので、社会性を必要としない。だから、強烈な個性のために社会性を払い除けたがっていたのである。
ラスト、彼は大勢の警官たちに囲まれているにも関わらず、家の中で平然と踊っていた。
言ってしまえば、カルリートスは個性の怪物なのである。その個性の怪物を社会性が蓋と錠をして、どうにか抑えていた物語だ。そして、その蓋と錠を少しずつ外し、怪物が目覚めていく物語だ。
個性の物語だからこそ、共感させる気がなく、しかし魅力を感じてしまう。
これほどまでに似通った作品が、これほどまでに正反対かつ互いに傑作足り得ているなど驚きに値するだろう。