映画感想:獣は月夜に夢を見る
恒例の手短な感想から
安心してください。つまらないです。
といったところでしょうか。
この映画を見た方の中で、こう思っている方も多いのではないでしょうか。「どうしよう、この映画をつまらないと思っているのは自分だけだったら……」「実際、なんだか小難しそうな見た目をしているし、見る人によってはこの映画、面白いものだったりするのだろうか」なんてふうに。
安心してください。そこそこ、小難しい映画を見てきて、それなりにこのブログで小難しい映画の感想やらを書いてきた僕が断言します。この映画は普通に、映画として出来が悪いです。
一応、宣伝では「ぼくのエリ」などを引き合いに出しつつ、「それと肩を並べる映画の上陸だ」くらいのことを、一説ぶっていましたが、正直、これと「ぼくのエリ」を比べるのは、ぼくのエリに失礼なレベルです。
監督は、ラース・フォン・トリアーのもとで、美術アシスタントを行っていたというヨナス・アレクサンダーで、”ラース・フォン・トリアーと関係のある人”ということで、それなりに映画クラスタ(というか、ハッキリ言ってシネフィル)に注目させたりもしているのだろうと思います。
しかし、むしろ、そうやって錦を着せてしまったことが、余計にこの映画を見たときのガッカリ感を増幅してしまっています。それくらいに、見終わってから「見るんじゃなかった……」と肩を落とす映画となっているのです。
まず、この映画、とてつもない誤解があることを最初に述べておきます。邦題です。「獣は月夜に夢を見る」――本編を見れば分かりますが、月夜はまったく内容と関係ないです。実際、原題は日本語で表現するなら「獣の夢のとき*1」とでも呼ぶべきタイトルであり、「月夜」は配給会社が勝手に付け足した単語になっています。そうです。月夜は勝手に足した単語なのです。
このように、邦題の時点から既になんだか嫌な予感が漂っているわけですが、内容はまさかまさか、この邦題よりも論外の出来です。
まず、なんとしても言及したいのは、この映画、ラース・フォン・トリアーに関係ある人という看板からは似つかわしくないほど、異様なほどに演出が紋切り型だということです。ラース・フォン・トリアー――代表作のダンサー・イン・ザ・ダークを筆頭に言わずと知れた、ヘンテコな、人をとにかく不快にさせる、なんだこれはと言いたくなるような演出とカメラ撮りをずっと、ずっと観客に浴びせ続ける頭のおかしい監督です。
その人の看板で宣伝しておきながら、この映画は”ラース・フォン・トリアーみたいなもの”を感じられる要素が少ないのです。少ないというレベルではないです。冒頭の、なんだか不穏さを感じさせる数カット以外は、なんの工夫も、面白みも感じられない普通の映画で、後半に至っては、ハリウッドで作ってそうな、つまらないホラー映画をそのまま真似したような演出がひたすら目白押しという、「どこがラース・フォン・トリアーだ?!」と暴れ回りたくなるような状態で、これでは、いくらなんでも、宣伝に利用されたラース・フォン・トリアーの名がかわいそうです。*2
そして、「ぼくのエリ」――宣伝で、なぜこれを引き合いに出しているのかは、本編を見れば分かりました。こういう内容ならば、宣伝としては「ぼくのエリ」を引き合いに出すのも仕方ないと思います。*3なぜなら、この映画、終盤になってから、急に取ってつけたように、「ぼくのエリ」を真似しているような展開がやってくるのです。
その取ってつけた度合いが、どれだけ酷いかというと、その「ぼくのエリ」的な展開をこの映画にもたらす、主人公の恋人にあたるダニエル――彼はとあるシーンから、一切、映画の画面上に登場しなくなり、「え?あいつ、どこに行ったんだ?」と疑問に思っていると、終盤の寸前になってから、ひょっこり再登場するのです。そのレベルの取ってつけた度合いです。
総じて、この映画はとにかく「セオリー」の映画だという一言に尽きると思います。ホラーの場面は、どっかのそこまで面白くないホラー映画で見たような演出を持ってきて、クラブの描写も、どっかのホドホドにダサい映画で見たようなクラブ描写を当てがい、恋愛のやり取りも、二束三文の恋愛映画から持ってきたような会話を並べ、女性の心理描写も、中途半端にフェミニズムを騙るような映画にありがちな描写を入れていき――つまり、一事が万事、既視感しかない映画で、とにかく、映画のセオリーを忠実に守っているのです。
終わり方も、当然セオリー通りです。ネタバレになるから詳細は言えませんが、まさかのどんでん返しとか、そういうものはなく「とにかく、どうでもいい」の一言で終わることだけは確実に保証します。
そんな映画が本作でした。