儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画感想:オリエント急行殺人事件(ケネス・ブラナー版)


映画『オリエント急行殺人事件』予告編

 恒例の手短な感想から

神アピールがうざすぎる

 といったところでしょうか。

 

 自分はこの映画が公開される前から、この映画の情報を聞いて、こんな感想を漏らしたことがありました。

 「え、ケネス・ブラナーが自分主演で、オリエント急行殺人事件を映画化とか、ケネス・ブラナー、正気なのか?」と。正気なのか?――というのは、巨匠であるシドニー・ルメットの傑作に挑むのは無謀だとか、アガサ・クリスティの名作を穢すなとか、そういう意味で言っているわけではありません。

 ひたすらに、これを自分で監督して、自分で主演するという「ヤバさ」について言っているのです。

 なぜなら、オリエント急行殺人事件は原作の時点で、ポアロにかなりの神格を授けている作品だからです。言ってしまえば、この作品におけるポアロとは「神様そのもの」だと言っていいです。

 12人の乗客は、キリスト教の12人の使徒のメタファーです。そんな、彼らの行った罪とその懺悔を聞き入れ、寛大な心を持って受け入れ、許しを与えられる存在――それは神様しか居ないでしょう。ポアロ=神だからこそ、そして、ポアロが許したからこそ、彼らの罪が問われることはない――それがオリエント急行殺人事件という作品なのです。

 

 ここまで読んでいただければ、ケネス・ブラナーに対して「正気か?」と思った僕の心境は理解できるでしょう。そうです。そんなオリエント急行殺人事件を、自分がポアロ役で演じるのを自分が監督する、ということは、つまり、自分で監督して神様を演じているということです。

 正気なのか、と思うのも当然です。

 ――で、そんな正気なのか?という疑問をいだきながら本作鑑賞しましたが……。

 

 見事に、ケネス・ブラナーの正気ではない、「俺は神様だ」アピールが充満した。なんとも恐れ多く、傲慢な作品が誕生していました。そういう意味で、この映画はすごいです。

 シドニー・ルメットやら、ドラマ版やら散々映像化されているオリエント急行殺人事件の映像化の中で、最も出来が悪いのは言うまでもありませんが、そんなことがどうでも良くなるほど、この映画にはケネス・ブラナーの「ポアロケネス・ブラナー)はGOD!!」というドヤ顔とナルシズムで充満しているのです。

 

 映画冒頭、わざわざエルサレムを舞台に、よりにもよって嘆きの壁で、挙句の果てに一神教の三大宗教・キリスト教イスラム教・ユダヤ教の敬虔な信徒を相手に、ポアロが推理と言う名の裁きを行うシーンを入れただけでも、十分を遥かに超えるレベルで「俺様は神様だ」アピール出来ているというのに、そのあとも、まあ次々と原作の隙間を縫っては「俺様は神様だ」ということを言いたいシーンが、出てくること、出てくること……まったくケネス・ブラナーが謙虚になる気配がないのです。

 映画冒頭からちょいちょい、出てくるゆで卵はイースターエッグなどのキリスト教の風習に由来するものですし、原作にある、ポアロ=神様を匂わせているセリフも――他のシーンとかはいい加減だったり、捜査のパートは虫食い状態の穴あきにしてるくせに――ここだけは、バッチリ原作どおりに入れていたり、と、この映画に追加されている要素の全てがケネスの「I am GOD」という自己顕示欲に満ちています。

 

 挙句にクライマックスの12人の乗客たちを裁くシーンは、どう見てもダビンチの「最後の晩餐」をオマージュしています。ここまでして、ケネス・ブラナーは「自分が神様だ」と言い張りたいのでしょうか。本当にどうしようもないと言わざるをえません。

 この傲慢な作品とケネス・ブラナーこそが、神に裁かれるべきでしょう。

 キリスト教徒でもなんでもない自分ですが、そう思います。

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