映画感想:逆光の頃
恒例の手短な感想から
感想屋の完敗!魅力を文章で伝えることが出来ない!
といったところでしょうか
小林啓一監督のことはご存じない方も多いと思いますが、実はディープな映画ファンの間では既にかなり高い定評を持っている映画監督です。
いかにすごい定評を持っているかというと、処女作「ももいろそらを」の時点で、世界各地の新鋭監督・インディーズ監督向けの映画祭で受賞するわ、絶賛を浴びるわというトンデモナイレベルでの定評を持っており、挙句、二作目の「ぼんとリンちゃん」はラジオで山本晋也監督のお墨付きで紹介され、MCの伊集院光まで大絶賛したという、もう各方面で出せば賞賛を浴びてしまうという、そんな高すぎる定評を持っている監督なのです。
実は、当ブログが一番初めにレビュー記事を書いた映画も、実は小林啓一監督の「ももいろそらを」であったりします。二作目の「ぼんとリンちゃん」は、当ブログの2014年の年間映画ベストテンで一位にしました。
そうです。自分も小林啓一監督の大ファンです。
そのドキュメンタリックなカメラワークや芝居、ある種日常系のアニメなどにも通じる、独特な空気感などを醸し出す演出、そして、その空気感の中で見せていく、絶妙にギスギスしたりする人間模様など、全てがもう大好物すぎて堪らないのです。
そんな小林啓一監督が、今回はタナカカツキの漫画「逆光の頃」を映画化すると聞いたときは、なんとも不安で楽しみな気分になりました。特に原作である「逆光の頃」を読んだ後はなおさらでした。
「逆光の頃」ーー失礼を承知でいいますが、自分はこの漫画をまったく知りませんでした。小林啓一監督が映画化すると知って、初めて知ったクチです。
そして、予習として読んでみたのですがーーまあ、なんというか、端的に言ってしまって非常に時代を感じる漫画でした。「あぁ、90年代くらいに、こういうなんかフワッとした漫画、どの国でも流行ってたよね」という漫画なわけです。正直、それ以上でも以下でもない印象が強い漫画でした。
逆光によって誰なのか分からない状態と、中学生の主人公が、周りの人間をーーもっというと自分さえもーーなんだか誤解している状態を掛けて、そういう成長期の曖昧な心理状態の頃を「逆光の頃」としている漫画なのですが、まあ、発想としてはありがちで初めて読む漫画なのに既視感がすごいなと。
そのため、小林啓一監督がどこまでこの漫画を映像化出来るのか、楽しみで不安になっていたのです。
今までの小林啓一監督作品は、実は日常系な雰囲気を兼ね備えながらも、結構、登場人物の性格が多少極端だったり、話の筋書きや設定自体が面白そうなものだったりと、そもそも話からして面白くなるであろうことは想像できたのです。
しかし、本作は違います。原作の「逆光の頃」は、ハッキリ言ってタナカカツキ氏の独特の絵がなければ、かなりアレな作品になってしまいかねないほど、話自体は既視感の塊です。
つまり、純粋に小林啓一監督の力量が問われていたのです。
こんなシンプル過ぎる物語にもなってないような物語の中で、いかにどこから魅力を引き出せるかーーその手腕が問われていたと言えます。
まあ、結果、この映画は「小林啓一監督がやはり、トンデモナイ才能の、トンデモナイ手腕を持った監督」であることを見事に証明してしまったわけですが……。
ともかくとして、この映画は凄いです。映画本編自体は、原作以上に断片的な描かれ方をされており、ともすれば、原作以上に話は薄くなっています。映画の冒頭や序盤では「いやいや、大丈夫か。小林啓一監督」と思ってしまうほどなのです。
しかし、そうやって「大丈夫かよ」と思いながら、じっと画面を見つめているうちに
……見つめているうちに……気づくと、この映画をじっくりと魅入っている自分に気づいてしまうのです。
一体、何が胸を打っているのかも分からないまま、どうでもいいような話を、なぜか夢中で見つめている自分に気づいてしまうのです。そして、そんな自分に気づいた頃から、全てのカットを絵葉書のような美しい構図とライティングで彩っている撮影技術に圧倒され、「この映画は一体、なんなんだ」と混乱しながら、とにかく感動してしまうのです。
それはまさしく、逆光の頃にいる、思春期の学生のように。
本作は、比較的短い尺の映画なのですが、その尺の間はずっと夢の中にいるかのような感覚がするのです。実際、他の観客たちもそうだったのか、エンドロールを流し終えてからしばらくするまで、誰もがぼーっとしていました。
逆光を見せられたように、みんな、フワフワと自分が何をしているのか分からなかったのです。映画が終わったあの一瞬間だけは。
なにが、どう素晴らしくてこんなことになっているのか、今、自分は文章にしたいのですが、まったくそれを文章にすることが出来ません。というより、文字にして伝えようとすると絶対に歪んで伝わってしまうほど、繊細な感覚なのです。
この映画が放っている魅力は、それほどに特異でした。
相変わらず、役者への芝居の付け方も上手いですし、主題歌の「CEREMONY」ーーNew Orderの名曲をカヴァーしたものなのですが、なんとこれが、Yes But Noという、Sound Cloudのバンドの曲が使用されている*1という斬新な試みも素晴らしいです。そして、また、この主題歌が本編とよく合っていること……。
小林啓一監督の最新作ということもあり、かなり期待と不安の入り混じった中で鑑賞したのですが……いやー、なんということでしょう。自分の高すぎる不安と期待の、遥か上の雲を飛び越えていきましたよ、小林啓一監督は!
映画感想:三度目の殺人
恒例の手短な感想から
んー。ちょっと極論過ぎだなー。でも映画としては良作。
といったところでしょうか。
是枝裕和監督の中では、かなり意欲的な作品と言っていいと思います。
本作、三度目の殺人はそれくらいに今までの是枝裕和監督作品からすると、かなり路線を変えた作品です。それまでの是枝裕和監督作品と言えば、どちらかというと日常的な人間模様の中で、どこか笑えたり、ゾッとする瞬間など、人間の心の有様を重点的に描いていくヒューマンドラマが主な作品ばかりでした。
ですが、本作は殺人事件を主体とした、サスペンスになっています。もちろん、是枝裕和監督らしさが損なわれていることはないのですが、今までの諸作品と比べるとだいぶ異質な作品であることは間違いないと思います。
作品の雰囲気も、前作「海よりもまだ深く」では島尾敏雄の小説を意識している様子が取れましたが、本作はどちらかというと、ドフトエフスキーとヘルマン・ヘッセを足して割ったような雰囲気が滲み出ており、明確に何もかもが違うと言えます。
まあ、この路線変更自体は良いことでしょう。前作「海よりもまだ深く」は、結構、設定や話の筋書きが、今までの作品にやたら似ている部分が多く「もうネタが無いのかな」ということを伺わせる出来でしたから、路線変更も仕方ないのかなと。
ただ、今までの是枝監督作品が好きな方は、少し合わないと感じられることもあるかもしれません。
自分としても、あまりにもドフトエフスキーすぎるというか、ドーンととにかく暗い雰囲気なうえに、裁判の厳かな感じや、それに関連したテーマなどの出し方などから「いやー、なんか小説にしたら相当に古いなーこれ。古すぎてちょっとダサいなー」という印象を覚える部分もあります。
意外と是枝監督、前作の「海よりもまだ深く」でもその気がありましたが、考え方がなんか古いんですよね。90年代とか2000年代っぽい考え方をしてしまう人なんです。2010年代からしてみると「いやいや、それちょっと極論すぎでしょう」という考え方をしてしまうのです。
それはこの映画の「訴えたいこと」にもよく現れています。本作を鑑賞した人たちは、おそらく誰もが「え、こんな終わり方で終わるの?」と驚いたはずです。物語としてはだいぶ、消化不良というか、不完全燃焼のまま終わってしまう物語だからです。
これは、明らかにあえてそうしています。
この映画を見終わった後、おそらく、あなたはこう考えるはずなのです。「あの犯人はきっとこうだったに違いない。そして、この映画はこういうことを言いたかったに違いない」と。
人によっては、この映画は裁判の理不尽さを訴えている話であるように感じるかもしれません。あるいは、卑劣な殺人犯にみんなが騙されている話であるように感じるかもしれません。あるいは、正しい人が過去の過ちのせいで理解をされない話であるように感じるかもしれません。
とにかく、言えるのは人によってこの映画の解釈は千差万別になるだろう、ということです。
そして、そのあなたがこの映画に対して「この映画はこうに違いない」と考えている姿ーーそれはまさしく、この映画に出てきた殺人犯に対しての、周りの人間たちの様相と一致します。
「あの人は絶対やったに決まっている」「やってないに決まっている」「あの人は自分を守ってくれたに違いない」ーー映画中の登場人物たちは、証言を二転三転させる殺人犯に対して、様々なことを考え、様々に「自分がそう思いたいこと」を彼に押し付けてきます。
この映画の登場人物たちは「あいつはこういう殺人犯であってほしい」と思っていることを、ただ言っているだけに過ぎないのです。
映画の最後に出てくる「あなたは器なんだ……」というセリフにも、それはよく現れています。
そして、この映画もそうなのです。この映画も器なのです。
「この映画に対して思ったことは、あなたがそういう映画であってほしいと思っているに過ぎない」ーーつまり、この映画はそういうことが言いたいのです。
そして、この僕の感想も同じです。この映画で最後に主人公が「あなたは器なんだ」と言い放つと、殺人犯はこう答えます。
「器ってなんですか?」
つまり「器だと思うことさえ、器だと思いたい自分を表しているに過ぎない」ということです。
で、自分からすると、こういうトートロジー的な何かで「だから真実なんて誰も分からないんだよ」と斜に構えるのが、まあ、ちょっと古いなと思うのです。
確かに物事は、時にそうなってしまうこともあります。しかし、そればかりでもないでしょう。別に自分の言ったことや考えたことが、自分の思いや心理を表していない、「そう思いたいなんて思ってない」ことも多々あるわけです。
まさに本作の訴えたいことは極論が過ぎるわけです。
ただ、それでも本作は良い映画でした。なんだかんだ言って、是枝監督らしい細かい気配りの聞いた演出などは、相変わらずよく出来ています。特に主人公がだんだんと逮捕された殺人犯に共感していってしまう描写などは本当に巧みです。
また、一体何が真実なのかまったく分からなくなっていく筋書きも、なかなか良かったかなと。*1
前述のテーマも……まあ、ちょっと厳し目なことを書きましたが、一理ある事はあります。それも事実です。なので、普通に鑑賞していて、そこまで気になるものでもないのかなと。
*1:……ただ、最近、わりとこういう物語って、小説等々のメディアでありがちなんですけどね。
映画感想:スキップ・トレース
恒例の手短な感想から
ジャッキー、もう限界なんじゃ……?
といったところでしょうか。
いや、それなりに期待して観に行ったんですけどねー。思った以上に酷い映画でした。いえ、面白くないと言うつもりはありません。それなりに面白い部分もあったことはありました。
ただ、この映画の面白い部分というのが……もうジャッキー映画としては致命的にダメな状態なんです。
ジャッキー・チェン映画といえば「ポリス・ストーリー」や「ラッシュ・アワー」などに代表されるように「ポリス・サスペンス・カンフーアクション」が売りでした。
もちろん、若手の頃はクンフー主体の映画が目立っていましたが「ハリウッドスターになった後のジャッキー・チェンの映画」といえば、もう誰もが脳裏に、上記のサスペンス・アクション映画を思い浮かべるはずです。
どんな作品にしても、どんなに基本設定や会話場面の演出がつまらない作品であっても「サスペンス・アクション」だけは抜群に面白い!――それがジャッキー・チェン映画であり、むしろ、それを抜いてしまったらジャッキー・チェン映画じゃないだろうと思えるほどでしょう。
だからこそ、本作、スキップ・トレースはかなり致命的なのです。
実は、本作、「サスペンス・アクション」の部分が致命的につまらないのです。映画において、サスペンス的に、あるいはアクション的に盛り上がりやすい、序盤や終盤がとにかくつまらない出来であることからも、それは断言できます。
数分前の会話とさえ、整合性が合わないダメすぎる筋書きはもちろんのこと、サスペンスを盛り上げる演出や、それを撮っているカメラのショボさなど、ありとあらゆる要素が、本作のサスペンス・アクションをつまらなくしています。
その上、ジャッキー・チェンのアクション自体、全盛期や往年の勢いがまったく感じられない状態となっていることが、状況の悪さに拍車をかけています。本当に「ジャッキーも歳なのだなぁ」と思わざるをえないほどで、例えば、蹴り一つを入れるだけでも、かなりヨロヨロしているのです。
アクション自体もクオリティがかなり下がっており、今までのジャッキー映画を劣化コピーしたような内容がずっと続くのみ。実際、制作現場でもジャッキーだけではアクションを盛り上げるのは無理だと判断されたのか、クライマックスはあんまり話と関係ないキャットファイトやら、銃撃戦でかなり誤魔化しています。
この状態なので、正直、この映画で「ジャッキー映画を見た」という気分になるのは無理です。どれくらい無理かというと、「まだツインズ・エフェクトを見た方がジャッキー映画を見たという気分になれるだろう」というレベルです。
このように、まあ、ジャッキー映画としては、かなり限界の見えている本作なのですが、冒頭でも言ったように一応面白さもあることはあるのです。
それは、野郎二人がいろんな場所へと旅していく、珍道中映画としての面白さです。かなり内容としては、馬鹿馬鹿しい場面とギャグが多いのですが、まあ、この部分は普通に面白いかなと。
正直、どうでもいいサスペンス部分と「お前、整形しすぎだろ」と言いたくなるような顔をしている女優さんを取り除いて「ハングオーバー」みたいな映画にしたら、もっと面白かったんじゃないかなぁ、これ………。
映画感想:スターシップ9
恒例の手短な感想から
微妙
といった感じでしょうか。
初めからそんなに期待して観に行ってなかったのですが、やはり、そんなに大した内容ではなかったことに、軽くガッカリしています。今はそんな気分です。
「スターシップ9」
タイトルからしてSFの映画で9という数字を冠しており、とても嫌な予感を感じていた*1のですが、中途半端に嫌な予感は的中してしまいました。
ゴミと言うほどゴミではないけれども、1800円払ってみるだけの内容かと問われると、全くその価値はないと断言できる――そんな感じの微妙なSF映画でした。
まず、この映画には、明かしてしまうと確実にネタバレになる”展開と設定”が序盤に仕込まれています。同時にこの展開そして、設定こそがおそらく、この映画の最大のウリとなっているわけですが……この"展開"がとてつもなく陳腐なんですよね。
これを言ってしまうと、映画ファンならば確実に、どういう内容か分かってしまうので言いたくないのですが、ハッキリ言って「これ、キャビンをSF映画に置き換えただけだよね」という内容なんですよね。あとは、シャマランの「ヴィレッジ」とか。まあ、探せばいくらでも見つかるような、大変に陳腐な展開が待っているわけです。
低予算映画にはありがちな設定がそのまま、何の考えもなく使われてしまっているわけです。
しかも、それを勿体ぶるとか、引っ張るとか、そういうこともせずにわりと、すんなり序盤で明かしてしまうわけです。おかげで、この"意外な展開"になっても「な、なんだってー!?」とか、ちっとも思えないのです。「あ、ふーん。そうなんだー。ふーん」と流してしまう程度の感慨しか沸かないのです。
もっと、このネタバラシの場面を引っ張って、主人公たちの仲を濃密に描くとか、恋愛描写を深めるとか、伏線を張るとか、いろいろやれることはあるはずです。
しかも、ネタバラシした後の展開も、変にチンタラしていて、ちっとも面白くありません。もっと、意外な展開から更に意外な展開を引っ張ってきて、次々に話を進めていくとか、いろいろやれることはあるだろうに、画面では、主人公がウジウジ悩んでいるだけのシーンが続いていくわけです。
この時点で、相当にこの映画はつまらないわけですが、ここから先も結構につまらないわけです。まず、この映画、あんまり意味のないシーンが多すぎなんですよね。あの主人公を担当してたカウンセラーとか、初めから最後まで「一体、なんのためにこの人出てきたんだ?」と疑問に思わざるをえないほどに、話とあんまり関係がないのです。
バーで会話している主人公の友人の医者も、わざわざ、話の主軸となっている「計画」に反対している、という描写を入れているのに、これもまったく活かされていません。
途中、主人公がスラム街っぽいところに立ち寄っているシーンもまったく後のシーンと関係がなく「あのロケーションで撮った映像が勿体なくて、とりえず、どうでもいいシーンにねじ込んでおきました」感が半端ではないのです。
まあ、辛うじて、主人公がとある人を逃したことがバレて「捕まえろ!」という展開になってからは、それなりにサスペンスもあり、面白くなったりもするのです。が、同時にこのサスペンスシーンの登場人物の言動は、どいつもこいつも「お前、微妙にさっきと言ってること違うじゃねぇか!」という状態だったりして、面白いシーンですら変なのです。
オチも、なんというか……「あのさ、作り手の人たち、そいつが人殺しだってこと忘れてない?」とツッコみたくなってしまいました。あれに感動しろというのは、相当に無理があると思うのですが。
普通に考えたら、あの子、あそこから銃殺される未来しか見えないんですが。
あと、仮に人殺しであることを忘れて、百歩譲っても、あの子も母親と同じで「あの部屋の中でしか生きられない体質」なんじゃないでしょうか。
ともかく、それくらいツッコみどころだらけで、しかも、何も解決してないオチなわけです。うーん、この映画はもうちょっと構成などを、全体的に見直すべきではなかったのでしょうか。
映画感想:スパイダーマン:ホームカミング
恒例の手短な感想から
素晴らしい!
といった感じでしょうか
久しぶりに見たマーベル映画のような気がしますが、久しぶりに見たものがこれで本当に良かったと思っています。正直に言いますが、最近、アメコミ映画に結構うんざりしていたからです。
確かにどの映画もコンスタントに、それなりに面白い内容なのですが、それと同時に妙なほどに暗かったり、変なほどにヒロイズムに浸りすぎていたり――なんだか同じような内容が多すぎじゃなかったでしょうか。
いえ、もっと僕の勝手なイメージを言ってしまうと、見ている観客層がそういう人たちばっかりなのか、やたら理系やら経済系の用語を頻発しまくって、「俺様、頭いいんだぜ?(キリッ」と言いたげな雰囲気が漂っている映画ばっかりじゃないかと。
それが僕にとっては本当に嫌だったんです。なぜなら、僕は別に映画を見て「こんな映画を見れる自分は頭が良い!」とか、そんな感慨に浸りたくはないからです。むしろ、映画中に出てくる理系用語が、明らかに誤用なことが気になって悶絶してしまう始末なわけです。*1
そんな状況の中では、今作のスパイダーマンは大変に珍しい試みであると言えます。まず、なんといっても、予告編を見ても分かる通り、明らかに本作は10年代前半に流行った「ポストヒーローもの映画」の流れを汲んでいることがとても珍しいです。
分かりやすく言ってしまえば「キックアスを、正統的なマーベルヒーローコミック映画が取り込んでみた」という映画なわけです。まさか、マーベルからこんな映画が出てくるとは想像していませんでした。その結果、本作は今までのアメコミ映画と比べても、非常に地に足がついているのです。
物語に生活感があるのです。主人公が15歳で学校に通っているということもあってか、日常があり、人々の営みがあり、その上でヒーローの戦いがあるということが映画のあちらこちらで強調されています。
実際、主人公が通う学校の生徒達の描写は、ヒーロー映画というよりは、他のコメディ映画やドラマ映画に出てくる描写に近いです。妙に搾取がどうだのと言い出す同級生や、人種の違うヒロイン、太った親友、ホームカミングパーティを話の主軸の一つに持ってくる構成などは「ハリーポッター*2」や「グレッグのダメ日記*3」「スーパー・バッド童貞ウォーズ*4」を思い出してしまうくらいです。
そのおかげで、本作、なんとも主人公の周りの人間模様が面白いのです。この手のヒーロー映画では珍しく「これからこの人はどういう人生を送っていくのだろう?」と思いを馳せてしまう内容になっているのです。
アントマンでも、こういう"登場人物の実在感"はありませんでした。あれらの映画で「まあ、言っても遠いどこかの、パラレルワールドでの、どうでもいい話だろ?」と思ってしまっている自分がいるわけです。しかし、本作は違います。
そして、その結果、サム・ライミ版のスパイダーマンを見た時に感じた「このスパイダーマンを応援したい!」と思う気持ちが久々に芽生える映画となっていました。今のようなアベンジャーズとか立ち上げてないときの、一作目のアイアンマンを見たときの「頑張れ!」と思う気持ちが芽生える映画になっています。
映画鑑賞後に、珍しく「この映画の続編が見たい!」と本気で思えた映画だったのです。*5
本当に久々に良いヒーロー映画を見ました。
*1:誤解のないように言っておくと、アメコミ映画以外でも、結構この「用語の誤用」に悶絶しています(笑) 例えば、今年公開された映画なら、メッセージの「非ゼロサム」という用語の誤用には悶絶しました。ゲーム理論を理解していないのに、なぜ出すのかと。いえ、確かに両者得も非ゼロサムなんですが、両者損も、片方損で片方得でも、非ゼロサムなケースはあるんです。なのに、なんで、両者得の言い回しで非ゼロサムとか言い出しちゃったかなと。
*2:まー、僕自身はハリポタそんなに好きじゃないんですが……
*3:映画版は……クロエ・グレース・モレッツ以外魅力がないですけど
*4:これは本気で好きです
*5:去年のナイスガイズ以来です!
映画感想:ウィッチ
恒例の手短な感想から
監督がノスフェラトゥのリメイクに抜擢されるのも納得
といった感じでしょうか。
これからどんな作品を撮っていくのか、楽しみなホラー映画監督が誕生しているような気がします。本作、「ウィッチ」はそれほどに今のホラーからすると特異な作品となっています。
現在、ホラーというジャンルは、往々にして「上手なびっくり箱」であることが多いと思います。もちろん、人を怖がらせるかぎりは多かれ少なかれ「びっくり箱」的な要素を入れざるをえないのですが――しかし、それにしても、だいぶ「びっくり箱」の要素に傾きすぎているのではないかと思うのです。特に洋画のホラーに関してはその傾向が異様に強い感じがします。
例えば、最近のホラー映画監督の中でも、最も有名であろう、ギレルモ・デル・トロ。彼が監督や製作総指揮した諸作は確かに優秀なホラーが多く、過去のホラーへのオマージュや、ゴシックな雰囲気などの見せ方も上手いのです。
が、そんな彼でさえ、いざ内容を見るとかなり「びっくり箱」要素が多いのです。パンズ・ラビリンス以外は、ほぼ観客の注意を惹きつけつつ「ワーッ!」といきなり驚かすシーンが必ず入っており、むしろ、それの目白押しとなっている作品もあるくらいです。
それくらいに、現代のホラー映画は「びっくり箱」の要素が強くなってしまっているわけなのですが、本作「ウィッチ」はそんな時代の流れに真っ向から挑むような作品となっています。
基本的に本作では、本当に最後の最後まで「びっくり箱」を使うことがないのです。むしろ、最近のホラー映画ならばここで「びっくり箱」要素を出すのがセオリーだろう、と思えるような場面でもそれを使うことがないのです。
決して本作は、大きな出来事など起こらないのです。人が死ぬときもスプラッタ的なシーン、グロテスクなシーンはほぼ存在していません。あったとしても、わずかに仄めかす程度です。
しかし、本作はそれでも、ここ数年でもかなり怖い部類のホラー映画です。
主人公一家の一人一人が発する一つ一つの言動から感じられる、彼らの異端な空気感や人間模様。ねじくれた枝葉一つとっても「これは異様な空間だ」と感じさせる、魔女たちが住まう森の様相の奇妙さ。
この映画の全ての要素が、この映画を見ている観客たちを幻惑していくのです。見ている間、ずっとこの映画の病的な雰囲気に――つまりはこの映画の呪いに――観客はどうやっても魅了され続けるのです。
話の筋書きも急激な起伏などはありません。少しずつ、些細な出来事を積み重ねるだけの筋書きです。出来事を積み重ねに積み重ね――そうして、観客たちが気が付かない間に、物語が狂った状況へと変遷していくように出来ているのです。
だからこそ、本当にこの映画は恐ろしいと言えます。
なにが恐ろしいって、冷静に考えればあまりにも狂っている、あまりにも正気を失っている一家の様相を、観客がまったく違和感なく受け入れてしまっていることが恐ろしいのです。
それどころか、見ている間中「確かにそう思ってしまうのも分かる」と、なぜだか共感を覚えてしまっている自分がいることに驚愕してしまうのです。そして、この映画で描かれた魔女を「本当に現実に存在しているのかも」などと、頭の片隅で思考してしまっている自分がいることに、愕然とさせられるのです。ゾッとしてしまうのです。
これほどまでに雰囲気や空気感、そして、些細な出来事と人間同士のやり取りのみで恐怖を演出していくホラー洋画は、大変に珍しいです。
時代設定や、キリスト教と悪魔の誘惑を強調している点など、本作は言ってしまえば古典的ホラーの再誕と言って良いのではないでしょうか。監督が、吸血鬼ノスフェラトゥのリメイクに抜擢されたのも納得です。