2月に見た映画
2月鑑賞作品
・彗星に乗って
・虐殺器官
・ナイスガイズ!
・ホンジークとマジェンカ
・前世紀探検
以上、6本となります。
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2月は、鑑賞本数も記事数もちょっと少なくなってしまいました。まあ、全ては「ニーア オートマタ - PS4」のせいです。このゲームが面白すぎたのが悪いのです。来月からは調子を……戻せるのかなぁ……ゼルダの新作が明日発売されちゃうんですけどねぇ……。とりあえず、頑張ってみます。
あと、カレル・ゼマン鑑賞月間もいよいよ大詰めです。あと残り一作を鑑賞すれば終わりとなります。
映画感想:ラ・ラ・ランド
恒例の手短な感想から
そりゃあ、作品賞取れないのは当然じゃないかと…。
といったところでしょうか。
いやー、困りましたね。こんなに、なんとも微妙な出来の映画になっているとは……。
前評判からすると相当に裏切られた気分としか言いようがないです。一般の人ならともかく、映画に詳しい人が、高い評価を下せるような一作でないことは明らかですから。こんな、”奇抜”という言葉で監督の能力の至らなさを誤魔化したようなものを、平然と評価できる、映画評論家なんてこの世にいるんでしょうか?
……残念ながら、いたわけですけれども。
ともかくとして、本作は出来として微妙です。決して傑作と呼べるような映画ではありません。実際、すったもんだがあったアカデミー賞でも、作品賞は別の作品に奪われていますし……。
なぜ、この映画が微妙だと言い切れるのか。それはもう簡単な話で、ミュージカル映画なのに、肝心のミュージカルやら、タップダンスやら、音楽やらのクオリティが完全に二束三文の代物だからです。
例えば、タップダンスの、目も当てられないクオリティの低さ。
確かに、かつてのミュージカル名画にあったタップダンスのポーズを要所要所で真似たりはしているのです。しかし、それは要所要所のみの話で、全体的には「タップダンスをバカにしてるのか?」と思いたくなるほど、チンタラした地団駄ショーが繰り広げられるだけなのです。
監督はフレッド・アステアとかのタップダンスを見たことないのでしょうか。
そして、劇中で使われる音楽も、まあクオリティが微妙なこと。とりあえず、ジャズにしておけばオシャレで高尚になるんだと言わんばかりの、雑なジャズが延々と流れてくるのです。
音楽もダンスも微妙なミュージカルって、そんなものを一体誰が作品賞にするのか、という話です。
もちろん、僕はこの監督が「セッション」を撮ったデミアン・チャゼルだということは知っています。
ですが、僕から言わせれば「セッション」を撮った人だからこそ、こんなお察しな出来のミュージカルになってしまうのは当然の話しなのです。
そもそも「セッション」自体、音楽のクオリティはびっくりするほど低いです。全編、こまっしゃくれた大学生が作ったような曲が流されているだけでしたから。ただ、セッションの場合は、題材が題材なこともあって、その「こまっしゃくれた大学生が作ったような曲」が、むしろ、相乗効果を生み出しているという状態だったはずです。
ようするにデミアン・チャゼルは、音楽の才能やセンスが皆無だったからこそ、セッションという傑作を撮れたのです。
そんな人が、ミュージカルなんか撮ったらどうなってしまうことか……。
……まあ、どうなったかは、この映画を見れば分かるのですが。
で、ミュージカル部分がダメとなると、あとは映画自体の筋書きはどうなのかという話なわけですが……これも、うーん、あまりよろしくないです。というか、自分がちょっと前に感想記事を上げた映画「ブルーに生まれついて」に半分くらい話が似ているんですよね。
そして、「ブルーに生まれついて」と比べると、本作はなんだか、妙に話が子どもじみています。どの登場人物もとてつもなく、単純というか。ラストの展開も、なんだか子どもくさいです。というか、ハッキリ言いますけど、これ、ほぼやってることは新海誠と同じなのでは……?
ようするに、この映画が言いたい感慨やら、感情やらというものは、すごく大学生の感覚だということです。精神年齢が20~24歳くらいの方だけが、喜びそうな幼稚さで満ち満ちていますし、それが「大人だ」「高尚だ」とこの映画の作り手は思い込んでいるのでしょう。
だから、この映画の全てがクオリティの低いものになってしまっているのです。
「僕、すごく頑張ったし。頑張ったから、ちゃんとやらなくてもいいじゃん」「見た目良さげな感じに仕上がったから、もういいじゃん」という"学生気分"が、作り手にあるから、
ミュージカルのバックダンスが、格好良く揃っていないことや、スローテンポの曲がどれもこれも「Fly me to the moon」のまがい物みたいな曲ばかりに偏ってしまっていることや、タップダンスの肝心のタップ音がまったく聞こえていないことなどを、まったく気にしていないのです。
ライアン・ゴズリングも「ナイスガイズ!」の輝いている演技と比べると、なんか普通ですし、本作、そんなに積極的に観に行かなくていいです。その程度の微妙な映画、なのです。
いやー、これはムーンライトが楽しみですね。
映画感想:ナイスガイズ!
恒例の手短な感想から
続編が今すぐ見たい!
といったところでしょうか。
自分としては本当に久しぶりでした。映画を見ていて「あぁ、この登場人物たち、すごく好きだなぁ」と思えたのは。この映画、ナイスガイズは基本的には非常に良く出来たハードボイルドパロディ・コメディなのですが、しかし、単なるパロディで一笑いして終わりの映画ではないのです。
まず何と言っても、登場人物たち全員がキャラクターとしてよく作り込まれています。敵役から、脇役に至るまで、様々な登場人物がインパクトに残らずをえないほどに、強烈なキャラクターばかりで、しかも、それを演じる役者たちが、まあ、このキャラクターによく似合っていること……。
特にライアン・ゴスリングの、主人公のダメダメ探偵役へのハマリっぷりは今までの彼にあったイメージを覆しかねないほどであり、風貌といい、仕草といい、情けなく裏声の悲鳴を上げるところといい、「ライアン・ゴズリングってコメディ役の方が上手いのか!」と衝撃を受けること間違いないです。
そして、そのドハマリしているライアン・ゴズリングがいるというのに、他の主演二人も負けないくらいに存在感を発揮しているのだから、なんと言っていいのか……。
行き過ぎた暴力正義漢のラッセル・クロウはもちろんのこと、アンガーリー・ライス演じる、主人公の娘もキャラクターとして素晴らしいものでした。
彼女は、例えるなら、カートゥーンの「ガジェット警部」におけるベニー的な役回りの――”ダメダメな中年を裏で支える、少しマセたしっかり者の少女”という、90年代的なキャラクターとなっているのですが――このキャラクターの作り込みが素晴らしくて、見ているコチラは、80年代~90年代によくあった、単純で面白かったサスペンスエンターテイメント映画を思い出してしまうのです。
しかし、この映画はあくまで今の映画です。70年代のアメリカを舞台にしたりしていますが、それを描く視点や、描写の仕方や、話の展開などはキッチリと現代的なエッセンスが効いており、だからこそ、ちゃんと笑える映画になっています。変に白けることがないのです。
映画自体は、主に、陰謀論系のサスペンス映画をパロディにしているのですが、このパロディの方向性が、ある種、ポール・トーマス・アンダーソンの「インヒアレントヴァイス」に近いような視点からのものなので、実は「インヒアレントヴァイス」と比較してみるのも面白い一作かもしれません。
話の筋書きもしっかりしており、コメディであるところを上手く活用しながら、巧みに話を転がしていっています。また、全体的にセリフで過剰に説明するのを避け、なるべく画面で描写するのも上手く、普通にコメディ関係なく、描写の上手さに唸ってしまうところもあります。
その上、意外なところが伏線になっていて、後々で回収されていったり、ちゃんと主人公二人が「人間的に成長したんだ」と思える描写を入れていたりと、全体的に抜け目なく話が構築されており、結構、誰もが問題なく楽しめるエンターテイメントになっています。
おそらく、鑑賞後はスッキリとした気持ちで映画館を後にすることが出来るでしょう。
ここまで曇りなくエンターテイメント然とした映画は、本当に久々です。
いや、本当に続編が作られればいいのに!
映画感想:虐殺器官
恒例の手短な感想から
原作ファンは見ても良いんじゃないかな
といったところでしょうか。
まず、断っておきたいのですが、上記のように「原作ファンは見ても良い」と書きましたが、自分自身は伊藤計劃のファンでもなければ、「虐殺器官」自体も他の人のように崇め奉るような人でもありません。
そういう人の感想ですので、伊藤計劃以後のSFがどうたらこうたらとか、そういう愚にもつかないようなことを、ネットの片隅に書き込んでいるような人たちは、この記事を読まないほうが良いです。信者の人たちが思うような褒め方や貶し方はしないからです。
ただ、そんな自分からしても、本作の「虐殺器官」はそれなりにしっかりしてると感じました。少なくとも、以前、このブログで記事を書いた、「ハーモニー」よりかは遥かにマシです。やたら説明的なセリフが映画の半分を占めるようなこともありませんでしたし、ゼロ年代半ばによくあったリアル志向のアニメ絵も、本編の内容と違和感なく溶け込んでいました。
少し、原作からすると、なんというか、テーマの説明がしつこいような気もしますが。まあ、難しいテーマですし、仕方ないような気もします。
元々、監督の村瀬修功氏自体が、「レゾンデートルがどうだの」「うんたら計画がどうだの」という話から、最終的に漫画版ナウシカみたいな展開になる、エルゴプラクシーというSFアニメを監督するような人ですし、もっと難解にすることも出来たとは思いますが、現状でも及第点ではあるでしょう。
なので、原作ファンは、とりあえず本作を一見していいのではないでしょうか。
ただ……うーん。やはり、原作をそんなにものすごく好きというわけでもない人間から言わせると、映像化したおかげで余計に「やはりこの物語には無理があるよなー」という確信が増してしまったのも事実です。
まず、一つとして、原作を読んだときにも強く感じていたのですが――そして、ハーモニーにも似たような印象を持っているのですが――この物語はなんだかんだ言って珍説披露ショーなんですよね。そして、珍説を結構、安直に会話で説明してしまうので「こんな仮説があるのよ」「そーんな馬ー鹿ーなー」というやり取りが繰り返されたりするところも、如何ともしがたいです。
文字だから許されるだけで、映像として考えると絵面が信じられないほどショボいのです。事実、今回の映画も、前半は結構絵面がショボいです。
なにより、SF畑の人たちがこぞって絶賛する、本作のテーマなのですが……うーん。
個人的には原作を読んだ時点で「世界の真実を暴いた!」とか「我々に新しいビジョンを見せてくれた!」とは、あまり思えませんでした。……これを言うと、色んな人に石を投げられそうですが、伊藤計劃の世界観ってどことなく「純粋で幼い」気がするんですよね。
例えば、ハーモニーの話になりますが、あれって「意識がどうだのこうだの」という話で、いかにも崇高なテーマであるかのように偽装していますが、実質は「”本当の自分”探し」をしているだけの内容ではないでしょうか。
自分という存在にとって、本当の自分であると言い切れるのは、自分が自分だと認識できている、この”意識”だけです。つまり、それを求めようとしただけの――本当の自分を探したかっただけの物語であり、そういう「純粋で幼い世界観」が生み出した物語ではないかと。
同じように、虐殺器官の世界観も「純粋で幼い」ように思います。まず、主役の登場人物たちが、みんな純粋で実直です。虐殺だの、暗殺だの、内戦だのと汚い話をしていますが、それは議題としてそういう問題を扱っているに過ぎず、考え方や思想は常に純粋です。混じり気もなく、素直な人間ばかりが出てくるのです。
なにより、オチ自体も……とても純粋でしょう?
「平和な世界に、一つでも暗い影を落としたくない」という願いは、とても純粋な考えではないでしょうか。そして幼稚です。なぜなら、「暗い影とも上手く付き合っていく」のが大人だからです。それを毛嫌いするだけでは子どもの態度としか言いようがありません。
しかし、登場人物たちは、その可能性を考えることすらしません。むしろ、そんな世界が許せなくなって「逆襲」してしまう始末。とても幼い考え方でしょう。
虐殺器官は図らずも「大人になることを拒絶した子ども」の物語になっているのではないでしょうか。
そして、本作でもそれは現れています。映画の最後で、二人の男は、ある願いを叶えることだけを目指そうとします。彼らはなんの迷いもなく、躊躇いもなく、純粋な気持ちのみに突き動かされていました。
だからこそ、自分にはどうしても、この物語はどこか浮世離れしているように見えるのです。
1月に見た映画
今回から、予告編やアマゾンのリンクも張ってみることにしました。文字だけだと分かりづらいので……。
・クラバート
幻想の魔術師 カレル・ゼマン 「クラバート」 短編 「クリスマスの夢」 [DVD]
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・ブルーに生まれついて
Bunkamuraル・シネマ11/26(土)よりロードショー「ブルーに生まれついて」
・悪魔の発明
・ネオン・デーモン
・砂時計
・ほら男爵の冒険
・ドント・ブリーズ
・鳥の島の財宝
幻想の魔術師カレル・ゼマン 「鳥の島の財宝」短編「王様の耳はロバの耳」 [DVD]
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以上、8本が1月に鑑賞した映画でした。今月は、見て分かる通り、カレル・ゼマン鑑賞月間でした。ちなみに、2月も鑑賞月間は続きます。
映画レビュー:砂時計
異様な雰囲気の漂う列車の中、車掌に揺り起こされてヨーゼフは目を覚ました。「到着します」と告げる車掌。列車はもうすぐ、ヨーゼフが降りる駅に近づいているという。
「駅からは?」と、ヨーゼフは駅から先の道のりを尋ねる。ヨーゼフの父、ヤコブが療養中のサナトリウムは駅を降りた先だから、である。
「道順ならご自分で見つけるはず」
そう車掌に返され、怪訝そうな表情をしながらも、席を立ってヤーコブは列車を降りていく。
雪景色を歩いて行くと、ヨーゼフはサナトリウムへと付いた。どこか殺伐とした建物には、巨大な黒い扉があるが、開けても中には入れない。仕方なく、横の窓から足を踏み入れた。
サナトリウムの中は、埃まみれで荒れ放題だった。
まるで廃墟のような建物をヨーゼフは歩き回る。と、廊下の扉から、胸をはだけた看護師が出てきた。ヨーゼフは彼女に「長旅でね。部屋を予約したものだ。誰に会えば?」と尋ねる。看護師は「睡眠の時間です。先生は後ほど」と答えた。
だが、サナトリウムはまだ夜でもないはず。不思議に思うヨーゼフに、看護師は「常に睡眠中よ。ご存じない? 夜も昼もない場所なの」と言った。
ヨーゼフは仕方なく、サナトリウムのレストランで待つことにする。
やがて、看護師がやってきた。「先生がお待ちです」
先生と対面するヨーゼフ。当然、ヨーゼフは父が生きているかどうかを尋ねるが、先生からはなんとも曖昧な返事が返ってくる。
ヨーゼフの父は、サナトリウムの外界からしたら、手の施しようのなく死んでいる状態で既に故人なのだという。しかし、サナトリウムの中では父は生きているというのだ。
ヨーゼフは、先生に案内され、父の寝ている部屋まで向かう。確かに、そこにはヤコブが生きていた。
先生曰く、このサナトリウムは時間を戻しているのだという。一定の間隔を空けて、時間を戻すことで、外からすれば、既に死んでいる彼がサナトリウムの中では生きていることになっている……と。
なんとも、レビュー冒頭のあらすじ紹介だけでも、これほどに文章を割いてしまうとは……。ですが、仕方のないことです。本作、ヴォイチェフ・イエジー・ハスの「砂時計」のあらすじを説明しようとなると、これくらいの分量は絶対に必要です。
いえ、むしろ、これでも、まったく足りないのです。本作品は、それほどになんとも説明し難い内容です。まず、冒頭の列車の様子からして異様なのです。列車のわりには、蔦が車内に蔓延っていたり、裸の人があちらこちらで寝ていたり、その美術の強烈さは、一瞬で見ている人を幻惑の世界へと叩き込んでしまいます。
原作は、一応、ブルーノ・シュルツの短編「砂時計サナトリウム」なのですが……いえ、他のブルーノ・シュルツの短編が混じり合ったりしていますし、そもそも、描写とかいろいろな面が、大胆に変えられてしまっているので原作と呼んでいいのかどうかすら分かりません。
喩えとして通じるのかは微妙ですが、本作と原作の関係性は、鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」と内田百閒の「サラサーテの盤」のようなものと理解して頂けるといいかと思います。
実際、ヴォイチェフ・イエジー・ハスの美術と鈴木清順の美術には、どこか通ずるものがあるような気もしますし……無いような気もしますが。
ともかくとして、鈴木清順を喩えに挙げたことからも分かるように、本作は、非常に前衛的な内容となっています。時系列を弄っているという、登場人物の説明にもあるように、本作は目まぐるしく時間が錯綜する構成となっています。いえ、錯綜するだけではありません。「時代そのもの」も錯綜するように作られているのです。
冒頭の展開からは、とても想像していないような、壮大な世界がこの映画には詰まっています。まるでモンティ・パイソンのスケッチかのように、トントン拍子で時代や登場人物や背景が様変わりしていくのです。しかも、その一つ一つがとても作り込まれていて、なおかつ、なんとも不気味で美しいのです。
しかも、なにが素晴らしいって、この映画は明らかに「観客の安直な解釈」を拒否しているところが素晴らしいのです。言うまでもないですが、主人公のヨーゼフとヤコブの名前を見たら、誰もがうっかりと「聖書関連」の読み解きをしてしまおうとするはずです。
しかし、実はそれを映画本編中のあるシーンで、ハッキリと否定するんです。この映画は。冗談めかしたようなやり方で。
おかげで、全然この映画を読み解くことが出来ません。ここまで何も分からない映画も珍しいです。そのわりに、これだけゴチャゴチャした構成の映画だと言うのに、「伏線」が貼ってあって、終盤で急に回収しだしたりするんですから、いや、「とんでもない」という一言しか出てこないでしょう。
そんな、ヴォイチェフ・イエジー・ハスの傑作が「砂時計」なのです。
映画感想:ドント・ブリーズ
恒例の手短な感想から
えっと、その……なにこれ…?
といった感じでしょうか。
いやー、あの……一体、サム・ライミとフェデ・アルバレスは、本作を通じて何がしたかったんでしょうか。確かに、エンターテイメントとして論理的に構築された話作りや、見るものを引き込む上手いカメラワークなど、この映画は、非常に高い技術が注ぎ込まれていることがよく分かります。
分かるんです。
しかし。
それでも、あの……なんなんでしょう。この映画の、なんとも表現し難い不快感は。
それも映画が不快な内容、というわけではないのです。まあ、ホラーなので不快なのは当たり前です。問題はそこではなく、作り手であるサム・ライミとフェデ・アルバレスの傲慢さが透けて見えるところが、非常に、なんとも不快な映画なのです。
まず、この映画は必ず問題になるところが一点あります。言うまでもないですが、視覚障害者をホラーの怪物に仕立て上げるという、とてつもなく大きな問題です。当然ですが、目が見えないだけの人を化け物扱いにするのは、かなり酷い話です。本作も、そこは気を使っていて、一応、殺人鬼役となるお爺さんには、様々な設定が凝らされています。
イラクで失明した元軍人であったり、途中で明かされる秘密などによって、「視覚障害者じゃなくて、この”お爺さんが”怖いんだぞ」ということを前面に押し出しているのです。
なるほど、確かにこうすれば、視覚障害者をホラーに持ってきても問題にはならないでしょう。……一見すると。
しかし、同時にそうやって、お爺さんに設定を足せば足すほど「……え、じゃあ、なんでお爺さんを盲目にしたの?」という疑問が出てこざるをえないのです。「元軍人で、性格がアレなお爺さんが怖い話」なら、わざわざ視覚障害者なんて設定を足す必要がないでしょう。
それも「盲目になった分、嗅覚が優れている」なんて、偏見丸出しなクソファンタジー設定までぶち込んでまで、お爺さんを盲目にした意味って……なんですか?
主人公たちが、極限まで音を出せないという、その恐怖を描きたかった、とか、そういう理由なのでしょうか……?
しかし、この映画、そのわりには主人公たちは、普通にバンバン激しく息してるんですよね。こそこそ話し合ったり、スマホのバイブ鳴らしながら通信しあったり、音出しまくりなんですよね。むしろ、息に関しては普通のホラー映画と比べてもちょっと多すぎやしないか、と疑問に思うくらいです。ハッキリ言って、酷評された、実写版「進撃の巨人」の「音を出さないで移動しろ」シーンと同じくらいか、それ以上に酷い出来です。
というわけで、「声が出せない状態を生み出すために視覚障害者を――」という言い訳をするにも、映画の内容が杜撰すぎるのです。で、話が戻りますが、わざわざ視覚障害者なんて設定を足した意味ってなんですか?
盲目で、ウロウロ動き回るお爺さんが面白いからですか?
あるいは、盲目だと、"怖さが増す"んですか?
……どちらも、自分にはまったく理解できない感覚ですが。
ハッキリ言いますが、意味は無いですよね。
ただ、見世物小屋的に「そうしたほうが、みんな興味持つから」という理由で、設定を出しただけでしょう?……いやぁ、スペルを撮ったサム・ライミが、こんなガッカリするような映画を作ってしまうなんて、本気で残念です。
こういう映画を作る場合、普通は「視覚障害者に対する、世の中が思う偏見」を上手いことを利用しながら、ホラーに仕立て上げたりするものじゃないんですか?
例えば「世の中の人たちは、視覚障害者のことを一律でまったく視覚がないと思いこんでいるけど、実はそうじゃない」ということを利用して、ある種、ゾッとする瞬間を生み出すとか。そういう作りにしないと、視覚障害者の設定を入れた意味がないでしょう。
今回は、かなり世の中の反応と違う感想になっていると思います。が、どうしても自分は「視覚障害者をどこかで、軽蔑したり、偏見で見ている視点がないと、こんな映画は撮れない」と思うのです。